経緯

2015年9月5日館山NPO法人安房文化遺産フォーラム主催「韓国と日本・二つの祖国を生きる」講演
2015年10月29日青木繁「刻画・海の幸」ブロンズレリーフ寄贈除幕式 韓国全羅南道霊岩郡立河正雄美術館
2015年12月25日「刻画・海の幸」ブロンズレリーフ台座製作費100万円 NPO法人安房文化遺産フォーラムに寄付支援
2016年3月13日青木繁「海の幸」記念館(小谷家住宅・千葉県館山市布良1256)に「刻画・海の幸」ブロンズレリーフ寄贈除幕式 布良崎神社内集会所にて記念講演
2016年4月24日「海の幸」記念館小谷家住宅オープン式 ノーベル医学生理学賞大村智先生と共に
2016年5月12日青木繁「刻画・海の幸」ブロンズレリーフ寄贈除幕式 ソウルの金熙秀記念秀林アートセンター
2016年7月29日青木繁旧居(福岡県久留米市荘島町431)に「刻画・海の幸」ブロンズレリーフ寄贈除幕式
2017年3月3日青木繁「刻画・海の幸」ブロンズレリーフ寄贈除幕式 光州市立美術館分館河正雄美術館(韓国光州広域市 062-613-5391)

船田正廣略歴

1938年2月18日長野県上田市生まれ
1964年3月東京芸術大学彫刻専攻科修了
1964年4月千葉県立安房高等学校美術科教論着任
1981年4月千葉県立安房南高等学校美術科教諭着任
2001年4月私立安房西高等学校美術科教論着任
2008年9月青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会設立
2011年3月私立安房西高等学校美術科教論退任

除幕式など

霊岩郡立河正雄美術館(2016.4.6)
秀林文化財団・金熙秀記念秀林アートセンター(2016.5.12)


20016年5月13日設置 愛沢信雄御夫妻(左)と共に
久留米市・青木繁 旧居保存会「刻画・海の幸」除幕式(2016.7.29)

↓小谷家住宅の映像です(▶をクリックで再生します)

千葉県館山市布良青木繁「海の幸」記念館(小谷家住宅)

河正雄コレクション 『刻画・海の幸』

元財団法人秀林文化財団理事長・韓国光州市立美術館名誉館長 河正雄

2015年9月5日、第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム千葉県館山大会が開かれることになった。私はその大会で、館山の戦跡、里見氏の城跡や、青木繁「海の幸」誕生の小谷家住宅など様々な文化遺産を後世にのこすという、ダイナミックな地域づくりに取り組んでいるNPO法人安房文化遺産フォーラムの依頼で、記念講演を行なうことになった。

もうかれこれ10年にはなろうかと思う。秋田での高校時代の友人・富樫研二君が館山に住んでいたことで、彼の誘いから館山を訪問したことが、NPOとのご縁の始まりである。富樫君の紹介で、NPO代表の愛沢伸雄氏、事務局長の池田恵美子氏、彫刻家の船田正廣氏(1938‐)を知るようになった。

そのとき、NPOの方から布良に案内され、青木繁『海の幸』ゆかりの地・小谷家を訪問したことで、青木繁(1882-1911)の足跡と存在を見ることになった。

70年代後半から、私のコレクションである在日一世画家・全和凰の画業50周年を記念した画集の制作に当たっていた。その画集に、美術評論を書いていただく願いのため、東京駅八重洲口にあるブリヂストン美術館の嘉門安雄館長を訪ねたことがある。そのとき、嘉門先生の案内で美術館を観覧した。展示されていたルノアールやセザンヌ、ピカソやモネの作品にも目を見張ったが、青木繁の『海の幸』作品に心動かされたのである。ロマンに満ち、生命力あふれた躍動感と、汗と海のにおいが充満している。労働の喜びが表現され、痛く感動したものだ。

それ以前に、埼玉県出身の画家・森田恒友(1881-1933)の房総風景の作品を見たことがある。森田は坂本繁二郎(1882-1969)らと布良に滞在し、青木繁との交友があったことなどを思い出した。その感動が再びよみがえったのが、布良の小谷家訪問であった。

船田先生が、「私は、青木繁の『海の幸』を原寸大で彫刻し、塑像レリーフ作品を3年の歳月をかけて制作した。できあがって気がついたら、青木が『海の幸』を描いてからちょうど100年目(2004年)だった。青木繁ゆかりの小谷家を文化財にして残し、小谷家に展示するのが夢だ」と述べられた。

愛沢氏からは、「これから小谷家住宅の保存のために、全国の画家の皆さんに呼びかけて募金活動に取り組みます。青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会を立ち上げるので、ぜひ河さんも発起人になって協力をお願いします」と言われた。私は発起人を引き受け、「小谷家住宅が公開になるときに、船田先生の作品をブロンズにするなら、ぜひ韓国の光州市立美術館分館河正雄美術館にも設置したいから、一緒に作りましょう」と提案した。

数年たったとき、船田先生の勤務している高校で『刻画・海の幸』のブロンズを鋳造したと聞いた。そうこうしているうちに10年がたち、このたびのシンポジウムの講演依頼があったことで、新たに火がついた。久しぶりに会った船田先生が大病を患い、闘病されている姿を見たからである。

一人の作家が情熱と想いを実現されずに時間だけが経過して、このまま埋もれてしまうには余りにも惜しいことだ。美術を愛し、美術を通して、幸福と平和を願う想いは、多くの人々にも共有する世界である。ましてこの世に生まれ、共に生きた美術人としてのよしみ、友情といっても良いだろう。何事も生あるとき、生ある喜びを共有することが一番幸せであるという教えがふつふつと湧いてきた。

2015年は戦後70年、日韓国交正常化50周年を記念する年。この記念すべき節目に、出会いのご縁をかなえ、絆を結ぶことが共に生きる最良の道だと心が決まった。

最初の出発点は、小谷家から始まった話であったが、青木繁の生まれ故郷の福岡県久留米市にも寄贈することになった。日韓にまたがり広がった事業となったことは、この日がくることを熟し、待っていたかのように思われてならないのは、私の感傷だろうか。『刻画・海の幸』が設置される韓日の5ヶ所には、以下の同一文章のキャプションが、日韓英の3ヶ国語表記で紹介された。

『河正雄コレクション「刻画・海の幸」

この作品は1904年、千葉県館山市で制作された青木繁(1882年‐1911年)の代表作『海の幸』を2004年原寸大の彫刻にしたブロンズレリーフである。作者は、長野県上田市出身の船田正廣(1938年生)。

この作品は、韓国の光州市立美術館分館河正雄館、霊岩郡立河正雄美術館、ソウル秀林文化財団金熙秀記念アートセンター、そして、日本の千葉県館山市「小谷家住宅」、福岡県久留米市の青木繁旧居に、日韓の美術友好交流の架け橋として、韓国財団法人秀林文化財団の寄贈により、戦後70年日韓国交正常化50周年記念として各施設に設置されている。

2016年』

普遍の価値である『海の幸』作品が、連帯の意味、友情の意味、生きる意味、幸せの意味を、永遠にメッセージを放つことであろう。共にこの慶事を祝し守りたい。


記念講演・韓国と日本、ニつの祖国を生きる

韓国光州市立美術館名誉館長
河 正雄(ハジョンウン)

戦後70年・日韓韓国交正常化50周年の節目に、第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム千葉県館山大会で記念講演の機会を得たことは、在日韓国人二世として生まれ、喜寿を迎える私の人生を回顧するという意味に於いてとても意義深いことと感謝しています。
韓国には「恨(ハン)」という感情があります。日本語の「恨み」とは意味が違います。 骨や髄、歯茎まで染み込んでいる感情です。歴史的な不運や災難、人間の意思では思うようにならない運命に振り回され、力が及ばない感情です。日本でも戦前に苦労した体験を持つ方と同じ感情です。

渡日し苦労した母は生前、「お前が偉くなったら母の苦しみ悲しみをみんなに伝えてほしい」 と言いました。私は、母の願い「恨 (ハン)」を語って人びとの魂を慰安するとともに、平和と幸福を求めて 20世紀を回顧し、21世紀を生きる希望への祈願を皆様と共有したいと念じています。

第二次世界大戦が勃発し、朝鮮人に対する徴用が法制化、創氏改名令が施行された1939年、日中戦争の戦時下、私は東大阪市で生まれました。振り返ると、民族的な「恨(ハン)」、そして不条理な戦争への恐れがこの当時にインプットされ、平和と幸福を希求する人生観と哲学が形成されました。日本と朝鮮半島との歴史が在日二世の運命に大きく影響したのです。

生後まもなく秋田県仙北市に移り、 18歳まで育ちました。 貧困のなか秋田市内高校絵画連盟会長となり、画家を志しましたが、「男が絵描きになってどうする。飯が食えるはずがない」と猛反対され、断念しました。教師や新聞記者、 弁護上にもなりたいとも思いましたが、国籍条項や貧困のために諦めざるを得ませんでした。

高校卒業の寄せ書きに「大河の如く」 と記しました。河の流れのように滔々と人生を生きようという青春の決意と宣言でありました。 韓国と日本、二つの祖国の故郷を愛し、信頼し合える兄弟になるための架け橋になろうと祈念してきました。

埼玉県川口市で同胞のために働きながら、ふとしたことから電気店を経営することになり、 事業に成功しました。 私は画家になれなかったけれど、それまで顧みられることなく苦労してきた同胞(在日韓国人)の美術作品に出合って心揺さぶられ、その収集を始めることとなりました。全和凰、李禹煥、曺良奎、呉林俊、金昌徳など多くの在日作家の作品は、その後、両国の美術界で歴史的評価が高まっていきました。

日本と韓国の間には歴史認識問題の構があり、それらを乗り越えようと努力している人びとがいます。歴史を知らない、無知ということは、 未来への展望が拓けないのです。平和を培っていくためには、しっかり歴史を学ばなければなりません。その事例を一つ紹介しましょう。

私が生まれた 1939年、辰子姫伝説の伝わる田沢湖畔に姫観音像が建立されました。これは、国策でダムと発電所が建設された時に絶滅したクニマスという魚類と展子姫の霊を慰めるために建立した像であると、1981年に町当局は掲示板を立てました。私はこの解説文に納得がいかず、意義を申し立てました。何かを秘めた「秘め観音」ではないかと思い調査を始め、10数年かけて建立趣意書を探し出しました。すると、やはりダムと発電所建設のために徴用され、過酷な労働で亡くなった朝鮮人を慰霊する観音像であったことが明らかになったのです。私が朝鮮人無縁仏追悼慰霊碑を建立した翌1991年のことでした。

私は在日韓国人画家の作品を収め、戦前の朝鮮人犠牲者を慰霊する 「田沢湖 祈りの美術館」を建設したいと発起しましたが、その願いは叶いませんでした。けれどもその代わりに、1992年、韓国光州市立美術館に在日韓国人画家の作品を寄贈する縁に恵まれました。その後、 日韓両国の美術館に約1万余点を寄贈し、2012年には私の名を冠した霊巌郡立河正雄美術館が開かれました。霊厳郡は両親の故郷であり、日本に古代文化を伝えた王仁博士ゆかりの地でもあります。

私のコレクションのコンセプトは「祈り」です。平和への祈り、心の平安への祈りです。 犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者、 歴史の中で名もなく受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈りです。 芸術の力は、韓日のわだかまりの根源と矛盾を克服し、地平を切り拓くことになりました。文化こそが、平和をつくる上で大きな鍵となります。

私が尊敬する、浅川巧という日本人を紹介します。1914年、農林技師として日本の統治下にあった韓国へ渡り、禿山に植林して山を蘇らせるのです。朝鮮服を着て、朝鮮の食事をし。朝鮮の言葉を話して、朝鮮人を友とし、朝鮮の風習を身につけて暮らしました。それだけでなく、朝鮮の陶芸や民具の価値を認め、研究し発掘して光を当て、 韓国の文化を広く知らしめたのです。

朝鮮人からも愛され、非常に感謝されています。 戦後、 韓国では多くの日本人の墓が取りつぶされたなか、浅川巧の墓は韓国の人びとによって守られてきました。

私は日本で生まれた以上、日本の国で日本を愛し、日本人にも愛されて、日本に貢献し、日本人と一緒に力を合わせて地域社会をよくする生き方をしようと、浅川巧から学びました。異国人を見下すことなく、その文化を認めながら、両国の魂を結びつけて交流した先人の精神を忘れないようにと、私は山梨県北杜市の浅川伯教 巧兄弟資料館で「清里銀河塾」を開催しています。

館山市は、高校時代秋田で美術部の友人であった富樫研二君が住むまちです。その縁で、戦争遺跡やハングルが刻まれた四面石塔などの文化遺産を大切にして、平和祈念活動をする皆さんと親交を温めてきました。 「館山まるごと博物館」という活動の理念に共鳴し、敬意を表しています。

なかでも、館山で指です。苦労して私たちを育ててくれた在日一世の姿にも重なります。 青木繁 『海の幸』の誕生を支えた小谷家住宅を保存するために、全国の画家の皆さんと 緒に募金活動をしていることも素れた青木繁『海の幸』は私が大好きな作品です。 この絵は労働者の象徴晴らしいですね。小谷家住宅が公開され、船田正腐さんが制作した刻画『海の幸』のブロンズ像が設置されるときには、 私も韓国の光州市立美術館に常設し、日韓の友情の証にしたいと願っています。

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