新しい故郷を創生した人・陳昌鉉
文:河正雄

―人生の岐路―

ヴァイオリン作りの名工、陳昌鉉氏は植民地下の1929年、韓国慶尚北道金泉郡梨川里で生まれた。13歳の時に父を亡くし家族は困窮していたため、中学進学を諦め14歳の時に生まれ故郷を離れ母と別離した。腹違いの兄がいる福岡に渡り、旧制中学の夜間部に転入した。博多では進学するために天秤棒で石炭を担いで船に運ぶ港湾労働。中学を出てからは神奈川、小田原の架橋工事現場や軍需工場で日雇い労働に従事した。横浜に出て輪タク(人力車)を始め学資を貯めた。そして教員を目指し、明治大学二部(夜学)の英文科で学んだ。しかし教員資格を取ったにも関わらず、当時日本国籍を持たないものは教員にはなれないという壁が卒業間際になって立ち塞がった。進路を見失っていた時に、日本ロケット開発の礎を築いた科学者・糸川英夫博士(1912~1998)の「ヴァイオリンの神秘」という講演を聞いた。その事が人生の岐路となった。

「音響物理学を駆使してストラディヴァリウスの音を分析し、同じ音色を再現できるであろうかと研究を重ねたが、現代科学の粋を集めても、その技術は解明出来ず謎であり神秘である。ヴァイオリンの名器を再現することは永遠に不可能である。」と名器ストラディヴァリウスの製作研究論文の糸川博士の講演を聞いた瞬間、陳昌鉉氏は雷に打たれたような衝撃を受けたという。

形の美しさにおいても、作りの完璧さにおいても他に比類のない逸品を残した天才。

ヴァイオリン製作の「王の中の王」。世界最高の価値を持つ弦楽器を作り出したイタリアのクレモナ、アントニオ・ストラディヴァリ(1644~1737)。名匠ストラディヴァリの卓越した腕は頭部の彫りやf字孔の美しさ、そしてニスの美しさにあると言われる。その音色は力強く、透明感があり、明るく輝きがあって、まさに芸術品であると言われている。

「僕の進むべき道はこれだ。糸川博士をして匙を投げざるを得ない、不可能と言われた事を僕が成し遂げてみせよう。凡人の私が挑戦しても悔いる事はない。」と心に決めたという。人生を賭けた運命の始まりである。
小学生の時、陳昌鉉氏の家に下宿していた相川喜久衛先生が良くヴァイオリンで「荒城の月」「桜」を弾いて下さったという。大学に入り教員になろうとしたのも相川先生のような先生になりたいという憧れがあったのかもしれない。その音色に見せられ、弾き方を教えてもらったことが、そう決心する伏線にあったのであろう。ヴァイオリンは「fidlle」とも呼ばれ、人に魔力をかける、人を誑かすという語感を持つという。陳昌鉉氏は、その時魔力にかかったのである。

人間によって作られた物だから、必ず再現してみせると運命を決めた初心は非凡である。しかし、その野心は必ず名器を作るという信念でその道を選んだ訳ではなく、面白いと思ったことを好奇心でやる以上は、人生を棒に振って元々であるという楽天的なものであったのかもしれない。クラシック音楽の楽器作りという閉ざされた世界に全くの徒手空拳で挑み「前人未踏のヒマラヤの山々にも、そこに登ることの出来ない、厳しい氷壁があるからこそ敢えて人は挑戦する。執拗に挑戦し続ければ必ず、その壁を克服できるものと信じる。」という青春の情熱そのものが価値なのだ。

―道を拓く―

それから陳昌鉉氏はヴァイオリン製作のための弟子入り先を捜す行脚が始まった。しかし日本の製作者に当たったが決まって門前払いを喰らって、どこも受け入れてはくれなかった。アルバイトで食いつなぎながら28歳になった時に弟子入りを諦めた。朝鮮半島出身であるという辛酸を舐め、独学で学ぶしかなかったので失敗や挫折の連続であった。ストラディヴァリウスを越える夢に向かって執念と努力するところに可能性が広がっていった。

そして行き着いた木曽福島に電柱などを利用した丸太小屋を建てアトリエ(ヴァイオリン工房)とした。ヴァイオリン関係者が多く住む木曽福島は職人の町。伝統的な木工芸の町に居を定めたことが後に繋がる。生活費は川底から掬った砂利を売って稼いだ。その地域では変人扱いされながら、教えてくれる師匠もいないままに独学研究の日々を送った。人から学べない為に、自然から学ぶしかなかった。風で揺れる枝の曲がり具合をヴァイオリンの曲線に生かす、創意工夫は木曽の自然の中から多くのものを学んだといえる。

ヴァイオリンの価値は音とニスの色にある。1人で本を読み漁り、素材となる木を熟知し、独自の色つやの出し方を修得し、新品でも100年以上も使ったような艶を出すためにニスの素材を突き詰める実験を、未知の領域を手探りで試行錯誤しながら繰り返した。寿司屋の墨イカ、干したミミズの粉末や蝉の抜け殻、長男の便等、およそ考えつくもの全てをニスの原料にと試してみた。ミミズの鳴き声がストラディヴァリウスの最弱音に酷似していることを発見したのも偶然ではない。アフリカ大陸、インド、東南アジア、中南米等を放浪し、染料、樹脂を捜す旅から貴重な情報や資料を得ているのである。

近年になっても、染料を求めてアマゾン上流のジャングルを1週間彷徨った。ヴァイオリン製作は勘や経験に頼る所が多く、論理的に出来るものではない。ヴァイオリン製作には公式が存在しない。自然を感じるままに感性を鍛え、研ぎ澄ます。感性を磨かなければ失われるものであり、努力なしでは維持向上を望むことは出来ないからだ。1%の可能性を求め、確信を持って1つのことを貫く。好奇心は可能性の出発点であり、能力を研ぎ澄ますことで道を拓くことが出来るのである。

―東洋のストラヴァリウス―

陳昌鉉氏のヴァイオリンは音がクリアで鮮明にして柔らかく甘美である。フォルムも自然と一体感があり、温かみがあると定評を得ている。木曽の自然が陳昌鉉氏の感性を育んだ出発点であることが、作風に自然と表れている。

1961年になって完成させた40挺のヴァイオリンの中から10挺を東京に売りに出掛けた。そして、そのヴァイオリンを全部買ってくれたヴァイオリニスト篠崎弘嗣氏に出会ったことで大きく運命が動き始めた。人との出会いが、人生を動かすエッセンスとなるのは生きることの妙であろう。

薦められて出品した作品が1976年フィラデルフィアでの「国際ヴァイオリン・ビオラ・セロ製作者コンクール」において全6部門中、5部門において金賞を受賞。1984年にはヴァイオリン製作者協会から全世界に5人しかいない「無鑑査マスターメーカー」の称号を授与される栄冠に輝いた。苦境の運命を弛まざる努力で克服したのである。

「名器と呼ばれる楽器には絶妙な部分があり、それは自然の摂理の妙にかなっている。だから私の作品を名器だとは思わない。名器とされる楽器は自然の摂理に合致しているもので、法則で示すことが出来ないなら、思い切った発想と努力で暗中模索するしかないのだ。ヴァイオリンは神秘に満ち、永遠に謎の楽器である。私にとってストラディヴァリウスこそが虹、天上の弦である。自分は山で例えるならば7合目、ストラディヴァリウス等の名器は作者が80歳を過ぎた晩年に作られた物が多い。私はまだ75歳、これからです。何とか頂点を極めたい。」陳昌鉉氏は自らをそう評している。

―海峡を渡るヴァイオリン―

陳昌鉉氏の人間愛と波乱の人生をSMAPの草彅剛主演でドラマ化したフジテレビ開局45周年記念企画・文化芸術祭参加作品「海峡を渡るヴァイオリン」が放送された。真摯に己の道を貫いた陳昌鉉氏の人生が草彅剛の熱演によって見事に演じられていた。作品中、心に特に残った場面がある。オダギリジョー演じる相川先生が滝廉太郎(1879~1903)の「荒城の月」について陳昌鉉少年に語る場面である。

「荒れた城に美しい月が出ている情景を思い浮かべなさい。」「何故城が荒れたのですか。」「勝っても負けても戦争をすれば城は荒れる。」というくだりである。まさしく戦争と、それを起こす人間の愚行の悲しさを描いていると思う。それは我々の「恨」の原風景でもあり、拭い去ることの出来ない歴史である。

―木曽福島町を訪ねて―

憧れの木曽福島の町を訪問(2005年8月25日~28日)致しました。第31回木曽音楽祭のご案内を陳昌鉉先生から頂いたのがご縁です。実は20数年前から木曽福島が陳先生の第2の故郷と聞いて、ぜひ訪れてみたいと思っていました。中仙道の宿場町のこと、木曽義仲の故郷、島崎藤村の生誕地、歴史と文化に溢れる土地に憧れを抱いていました。

三大美林の1つに数えられる私の故郷、秋田の杉林も自慢でありますが、木曽の檜林も見事なものでありました。八幡平、秋田駒も秀麗ですが御岳山、木曽駒の神々しい美しさは言葉にしがたいもの感じ、自然に両手を合わせました。

生保内節も秋田の情緒を調べておりますが「木曽のナァー、なかのりさん」と歌い始める木曽節の調べは余りにも有名で懐かしいものでありました。

興禅寺の石碑に山頭火の句「たまたまに まいりし木曽は 花まつり」に触発されて、しばし詩人の気分に浸りました。

代官の 清水をのみし 蝉時雨(山村代官屋敷の門前にて)

あきのいろ 恋の調べか 虫の声(陳先生縁りの初恋の小径にて)

また長福寺山門前の掲示板にあった「ぼうふらや 蚊になるまでの 浮きしずみ」を読んで、木曽福島での陳先生の境涯から

“讃「天上(てん)の弦 故郷ありて 人とあり 艱難越えた 山のかずかず」”

と無常の境地を讃えました。

木曽川の中央橋前にある文化ギャラリーに陳先生の業績を顕彰する展示物があります。町の歴史と共にあって、町の人々に愛され尊敬されている在日一世の姿を見ることにより生まれた短歌です。

4日間にわたる音楽祭でのストラディヴァリウス(陳先生が目標とされた楽器作りの究極の逸品)の調べは陳先生と木曽福島の町を誇らかに祝福しているように思えました。

“小さな町の小さな音楽祭”と銘打たれていましたが、どうしてどうして小さいどころか日本を代表する音楽祭と銘打つべきものではないかと思いました。

馬籠宿の藤村の記念館で見つけた藤村の言葉

「血につながる、心につながる、ことばにつながる、ふるさとがある」

は陳先生と木曽福島の町が因縁薄からぬものであることを教えてくれるようでした。

私の境涯や、在日の同胞の全てにも繋がる言葉でふるさとのありがたさをしみじみと感じた旅でありました。

―木曽町名誉町民章受章を祝う―

2005年9月の中頃、陳昌鉉先生の奥様、李南伊さんより「木曽福島町より名誉町民推戴のお話がありましたが、名誉町民になるとどんな責任と義務があるのでしょう。」とお電話を頂きました。

「責任や義務などはありません。陳先生を愛し、尊敬し、誇りに思っています、という木曽福島町民の純粋なる民意であると思います。世界で5人だけのアメリカ製作者協会からの『無鑑査製作家の特別認定とマスターメーカー』称号に対する業績と、人格を認めて下さったのですからありがたくお受けになるのが自然かと思います。」と私は答えました。

私の知るところでは、これまで日本社会において在日一世の韓国人が、特に芸術文化関係では初めての名誉であり快挙であります。

木曽福島町が在日の存在を認められ、知らしめ、陳先生を顕彰して下さることは在日の我々だけでなく祖国韓国の人々にも光栄なことであり、誇り高く励みになるありがたいものであります。

これは木曽福島町の皆様にとっても等しく大きな喜びで新生木曽町の門出を飾る歴史的な慶事であるはずです。

お隣の山梨県北杜市高根町五町田出身の方で、戦前に韓国に渡り韓国の土になった人がいます。植民地政策化の朝鮮で、民芸の中に朝鮮民族文化の美を見つけ出し、朝鮮の人々から愛された浅川伯教、巧兄弟です。

弟の巧さんは、林業技手として朝鮮の緑化に尽くし、お兄さんの伯教さんと共に朝鮮民族の誇りである、失われた白磁や青磁、工芸を研究し著書を残されました。

朝鮮語を学び朝鮮文化を理解し、伝統文化である韓国民芸に捧げた生涯を送られた方です。

朝鮮人は日本人を理解しなくても、浅川兄弟を愛し、韓国人の尊敬を受け、評価を高めております。

今、巧さんはソウル郊外の忘憂里の墓地に眠っておりますが、そのお墓は韓国の人々によって敬愛の情を持って守り続けられております。

墓の碑文に“韓国が好きで韓国を愛し韓国の山と民芸に捧げた日本人、ここに韓国の土になれり”と記されております。

私は在日二世でありますが、在日で生きるための哲学を学んだのが、浅川巧の生き方からでした。正常でなかった時代に、稀有なる人類愛に生きた、私が憧れ尊敬する日本人です。

浅川巧は韓国の山河を愛し、歴史と文化を大きく深いところで理解し、国や民族を乗り越えた共生を考えていた、国際理解の視野を持った、国際親善の先駆者であったからです。

私はこの度の慶事が、浅川兄弟の活躍と重り思えて、時空を超えた感慨深い熱いものがあります。

温故知新、「故きを温ねて新しきを知る」の例えにもあるように、先駆者の教えが木曽福島の人々の心に生きているようで、心が温まります。

陳先生の名誉町民の受章は共生のモデルとして模範的で誇り得るものであります。

普遍的な人間の価値にこそ、人生の指標があるということを、確認させて下さいました木曽福島町の英知と見識に、敬意を表します。

陳先生の「東洋のストラディヴァリウス」が生まれたルーツが、木曽福島の町にあったこと、陳先生の青春を育んだ自然の偉大さ、そこで営まれた人生の波瀾と至高を追及する気高い精神は天と地、そして人知る厳粛なるものであります。

第二の故郷木曽福島の町で李南伊さんと契りを結ばれ内助を得たことが、陳先生にとっての幸運の原点であったのだと、私は心から祝福致します。

木曽を賛辞する「血につながる、人につながる、ことばにつながるふるさとがある」という島崎藤村の言葉が陳先生の感懐そのものであると私は喜びを共にしております。

「この世の中に無駄なものはない。あるものは全て必要なものばかり。試練も困難も無駄ではない。」と言う陳先生が到達した頂きには悟りがあります。

「天上(てん)の弦ふるさとありて人とあり難難越えた山のかずかず」

後に続く私達は陳先生の偉業に対し喜びを共にし、希望をもって、この慶事を讃え歌います。

陳先生の「東洋のストラディヴァリウス」の音色が、日本と韓国を架け橋して、平安と永遠なる友情と親善を奏で、陳先生の名声と新生木曽町の無窮なる発展を世界に鳴り響きますよう、祈りたいと思います。

(2005年10月23日 木曽福島会館大ホールにて祝辞)

―顕彰碑建立の経緯―

2012年5月13日、陳昌鉉先生は亡くなられた。車椅子に座りニコニコと微笑まれながら、私の訪問を喜んで下さった1週間後の事である。陳先生と面談2日後の5月8日、顕彰碑建立の為に田中勝巳木曽町長と会った。

「医者は今年いっぱいの余命と話されたといいます。私の目では、この夏を越せるかどうかでしょう。町当局が企画された顕彰碑建立の話を急ぎましょう。」と促した。

「町には名誉町民が3人いるが、未だ誰も顕彰碑を建立した経緯が無い。これから議会に提案し、費用の事もあるので寄金を町民から募らなければならない。急ぎ企画を進めても来年以降の事になるでしょう。」と田中町長は答えられた。

「町の顕彰碑建立企画を陳先生はとても喜んでおられた。出来れば生前に叶えてあげられれば最高の喜びでしょう。費用の件や町当局が話を進めるに当たって障害になる件は、私が根回しや費用の負担など、一切の責任を持ちますから7月までには建立、陳先生を迎えて除幕式を致しましょう。」と進言した。

私は田中町長の即断を受け、町の石材店に飛んで行った。その石材店には、私のイメージする基礎の自然石が無かったので探して貰う事になった。

数日後、石を見つけたので見て欲しいと連絡があった。それは絶妙な姿のイメージに合う自然石であった。

次は設置場所である。田中町長と三ヶ所ほど候補地を廻り、最終的に長福寺山門前と決めた。しかし、後日に本町親水公園に決めましょうと連絡が入ったので了承した。

申珏秀駐日韓国大使と面談し、建立名を大使名で記したい、建立式には参席、除幕をして頂きたいと要請した所、快諾を受けた。

加えて、陳先生が住まわれた居宅の場所に肖像レリーフを設置したいと李南伊さんから要請があったので、急ぎ韓国大田の韓南大学の彫刻家・朴炳熙教授にブロンズ制作をお願いした。

そして友人のヴァイオリニスト・丁讃宇氏に追悼の演奏を依頼して、全てがまとまっていった。その間、町当局とは数々の折衝と打ち合わせを重ねた。これが顕彰碑除幕式と追悼式が7月21日、木曽町で行われた事の経緯である。

私は生前、約束した事を実現出来た事の報告を陳先生にする事が出来、肩の荷を下ろした。

碑には「陳昌鉉ヴァイオリン製作立志の地・懐かしき木曽福島 我が青春の夢のあと 朝な夕なに仰ぎし木曽駒 八沢川のせせらぎに夢を見る 玉石の輝く日々」と友人・丸山芒水の書で陳昌鉉先生の詩が刻まれた。

7月23日、山田勝木曽町役場総務課行政担当係長より書信が届いた。

「この度は、除幕式並び追悼式典他色々と企画段階からご協力を賜りありがとうございました。色々な事に対して河先生がその場で即決される姿を拝見し、公務員として学ぶべきところが多くありました。ご一緒にお仕事をさせていただき、感謝と御礼を申し上げます。

当日の夜の反省会では、職員研修の一環で陳先生の故郷を訪問したり、光州市の先生の美術館などを巡る企画も検討したいとの声もありました。実現できればいいかと思っております。

秋にはヴァイオリン処女作も町に戻ってきますが、機会があればその時にでも正澤総務課長と私くらいは韓国へお邪魔できればいいかと思っております。

河先生には、今後もお世話になることが多いと思いますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。」

―追悼―

慎んで陳昌鉉先生の御霊に追悼の言葉を述べます。

2012年5月13日夜、ソウルにいた私の携帯電話が鳴りました。李南伊さんからの陳昌鉱先生の訃報でした。1つの時代の終わりを告げる様に静かに息を引き取ったと言われました。

葬儀は15日、家族葬で営むと気丈に話されました。取り急ぎソウルで、 麗水世界博訪問中であった、 村山富市元総理との午餐会に出席した後、日本に帰国しました。
15日朝、安らかなお顔でお眠りになられている陳先生とお会いし、人生にはお別れが必ず来るという定めがある事を痛感しました。

2012年5月6日の事、木曽町で陳先生の顕彰碑を建立する企画があるので、相談に乗って欲しいと李南伊さんから言われ、お見舞い方々訪問しました。

陳先生は「自分のしたい事は全てした。思い残す事は無い。幸せで感動的な人生であった。感謝している。」と振り絞る様に、繰り返し笑顔で述べられました。足跡に大輪の花を咲かせ、豊かな人生を送られた先人の境地を見た気がしました。

「顕彰碑建立を年末までとは言わずに、7月末日までには完成させましょう。除幕式には先生をお迎えしたいのです。それまで心安らかにいらして下さい。」先生は頷かれ、とても喜んで下さいました。しかし、それから数日後に旅立たれてしまわれ、余りの儚さに無念という言葉でしか言い表せません。

1978年、在日韓国人文化芸術協会設立の為の、実行委員会の席で陳先生と初めてお目にかかりました。会合終了後、引き合う様に二人で喫茶店に入り、時間を忘れて、在日について語り合い、井の中の蛙が大海を知るかの様に視野が広がり深まりました。

その時「ストラディヴァリウスを追い越す、バイオリンを作りたい。」と芽生え、目指した大望の言葉一つ一つに、深遠な意味を込め、夢を語りました。青年の魂を持った情熱、私の理解を超える発想の豊かさ、私自身の情熱と強く響き合い、魅了されました。

その日からお別れの日まで、熱が冷める事無く、修練と探求を積み重ねた人生、共に同じ時代を生きる事が出来た事の幸運を、天に向かって感謝します。

「在日というマイノリティーの環境にいたこと。マイノリティーであることをハンディとするのではなく、逆に弾みにして不可能を可能にするカに変えて生きる道を捜す。試練というハードルを乗り越えようと努力し続ければ、天はカを貸してくれる。「貧すれば鈍するという生き方は、私の哲学に反する。在日だからこそ、日本や韓国にない、独自の研ぎ澄まされた感性がある。真似の出来ないものが、認められていくことで、差別という壁を打ち崩していくことが、出来るのではないだろうか。在日をマイナスの遺産と見るのは、余りに一面的すぎる。

我々が変わらなければ、日本も韓国も変わらない。在日を取り巻く諸条件こそ、逆に在日の強みであり源泉である。日本で韓国、朝鮮人として生きるのにも意味があり、日本や韓国を豊かにする、無限の可能性さえ持っていると思う。

私は日本に来たからこそ、平坦ではなかったが、好きな道を歩くことが出来た。運命が厳しかったからこそ、生きるために執念を燃やし、後ろ向きにならず真剣に生きてきた。在日で生きるには、自分が日本社会に必要な人間であると、思われるようにならなければならない。それには裏付けが必要であり、日本人、韓国人の何倍も努力して、それ以上の資質を備えねばならない。在日の存在を知らせ、見直してもらった事は、幸せである。」

陳先生の人生には「在日だから」という訳でなく、個人的な響きを持って私の心の奥底に突き刺さる前向きの在日感でありました。そこに志と夢を貫き通した在日一世の艱難辛苦の人生から学ぶべき人間性「人間の価値」があります。

私は1993年より今年に至るまで、5次に渡り光州市立美術館に在日同胞作家などの美術作品を寄贈し、メセナ精神で、美術館の育成支援を続けて来ました。

そのニュースを知った陳先生は「在日の快挙だ、誇りである。」と祝意を表してくれました。私は寄贈に当たり光州市に対し、何の条件も付けていなかったのです。そこで市側から、何か条件、要望はないかと問い合わせがありました。

「それならば、無名ではあるが将来有望なる青年作家を育てる青年作家招待展の事業を行ってはどうか。」と提案しましたところ、光州市立美術館の主要行事として、開催する事になりました。

私は陳先生に、その経緯を伝えた所、「私は在日2世としての河正雄の勇志と、祖国に対する奉仕精神に共感している。私もあなたと同じ夢と希望を持って、前途ある青年作家達を育ててみたい。私は慶尚北道出身であるが、木曽福島が第2の故郷なら光州は私の第3の故郷となる。在日のイメージとして光州に永遠に残るでしょう。私のヴァイオリンを作品として、河正雄コレクションに寄贈しましょう。」と申し入れをされました。コレクションの内容と質の向上という意味で、非常にありがたいエール、サポートでありました。

2001年第1回河正雄青年作家招待展は、寄贈された東洋のストラディヴァリウスの名器が奏でる、サラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」の演奏で開幕しました。

陳先生は、在日もある意味では自己の存在を捜す、ジプシーの血を持つ彷徨い人。エネルギーが湧くと、この曲を選んだのです。

陳先生は翌2002年にもヴァイオリン、ビオラ、セロの計3点を追加寄贈して下いました。第1ヴァイオリン光州号、第2ヴァイオリン大邸号、ビオラ漢拏号、セロ白頭号と命名されました。寄贈された楽器による、光州市立交響楽団の四重奏(カルテット)の演奏から始まる、河正雄青年作家招待展の開幕式は、「芸術は国を創り人を創る。国家は芸術に奉仕せよ」とのアンドレ・マルローの言葉、精神で、今年は第12回を迎えます。

「今植える苗木大きく育つ、昔植えた苗木後の大木、名木」光州市立美術館では毎年、青年作家の光ある前途を祝して歴史を刻み歩んでおります。

木曽町の皆様、申珏秀駐日大韓民国大使を迎え、陳先生縁りの貴賓の皆様方と共に、生前の約束を守り顕彰碑除幕式を終え、偲ぶ会を開催出来ました事は、何よりの供養となりました。

図らずも、この木曽福島会館は、2005年陳先生の木曽福島町名誉町民章授章を祝う、祝辞を述べました式場であり、感慨深いものがあります。

「河正雄さんの言葉の中には良く秋田の事が出ますが、私も同じく頭の中に木曽谷が居座っております。木曽は私の若かりし日の夢と惨めさ、そして悦びと感動が交錯する忘れ得ぬ土地です。

それでも、この土地を故郷と呼びたい。喜びよりも、その惨めさが懐かしく今ある原動力の様な気がします。そして、その想い出を大事にしています。」と生前、陳先生は語りました。

そして開物成務(かいぶつせいむ)、「物を開き務めを成す」と書いてくれました。中国の易経にある言葉だそうです。

「自分が与えられた運命を恨んではいけない。運命は自分から開くもの。それが自分の務めなのです、夢を持って運命を開きなさい。最善を尽くして夢を実現しなさい。」と道を示されました。

「この世には無駄な物はない。あるものは全て必要な物ばかり。試練も困難も無駄ではない。」陳先生が到達した頂きには、悟りがありました。

「生まれし故郷を愛する事の出来る人は、幸せな人である。故郷を離れ、住みし土地を愛する事が出来る人は、良く出来た人だ。世界を全て自分の故郷であると、愛する事の出来る人は、新しい故郷を創世した人である。」という故郷論があります。

また「血につながる、人につながる、ことばにつながるふるさとがある」木曽を賛辞する島崎藤村の言葉は陳先生の感懐そのもの、私にも共感、共有する世界であります。

「東洋のストラディヴァリウス」が生まれたルーツが、木曽福島の町にあったこと、陳先生の青春を育んだ自然の偉大さ、そこで営まれた人生の波瀾と志向を追及する気高い精神は、天と地がそして人知る厳粛なる、必然のご縁が成せたものであると思います。

木曽町には陳先生のみならず韓国や在日同胞の全てにも繋がる激励があり、ふるさとのありがたさと温かみを感じ優しい気持ちになります。木曽町の皆様に敬意を表し、注いで下さいました愛情に感謝致します。

真剣に、ひたすらに、ひたむきに、ストラディヴァリウスを超えるヴァイオリン製作に命を懸け、コツコツと無心に、雑念、妄念を払い、一途一心に己の務めに打ち込まれた陳先生は、天上に昇られても新たな弦の音色を作り出すべく、安寧に日々を送られている事と思います。心から御冥福をお祈りします。

合掌

(2012年7月21日木曽福島会館にて 名誉町民陳昌鉉先生顕彰碑除幕式及び追悼式典友人挨拶)