東国大学校日本学研究所オンラインシンポジウム

2021年6月5日
講演 河正雄

講演要旨

絵を描くことは生きることなのだ。

考えている事、言いたい事を絵を通し、また描くことで自分を表現したい。

民族性、在日が築いた歴史を通して自分の内面にある生き様を何か一つでも世に残し、その証が欲しい。

これまでは二つの国に分断された民衆の恨みを祈祷する為という想いが強かったが、世界と祖国の問題だけでなく、国家、思想、世代を問わず、そういった障害を乗り越えていく自己へと変革されねばならないという気持ちがある。

自身に対し、闘いを挑む。人生を生きていく中で我々が常に持っていなければならない気概と信念である。

日本では韓国人作家、韓国では日本人作家と紹介されるが、それは本来重要ではない。同じ時代を生き、同じ星の中を行き交う「地球人」作家であると大きく認識を改めるべきである。

講演を以下の4節で話を進めたいと思う

  1. 河正雄の生
  2. 河正雄コレクションの成果
  3. 在日の美術とは
  4. 芸術は永遠である

美術は人なり、美術コレクションも人なり

―河正雄の生―

私は1939年に生まれ82年の歳月を日本で生きている。生まれた年に第2次世界大戦が勃発し、朝鮮人に対する創氏改名令と徴用法が施行されました。

その時、日本は中国との戦時下にあり2年後には太平洋戦争となりました。戦争の時代に生まれた悪夢が心の深層に刻まれ、平和への希求が一生のこだわりとなったのです。

日本の敗戦後、私は朝鮮人となったのです。2年後、祖国は南北に分断される戦争となり、韓日国交正常化以降に韓国人となったのです。

その後、在日社会は南北分断によるイデオロギー闘争で深刻な亀裂を生みました。その後遺症は後生に続く傷となりました。

祖国では全羅道、慶尚道であるとかの出身地で、日本では朝鮮人、祖国ではパンチョッパリと差別されて四重五重の精神的苦痛の中を生きて来ました。

我が家は父母の代から数えて4世代96年に至る在日の歴史を刻んで来ました。生前、父母が「生きていれば良い事も悪い事もあるものだ」と良く語っていましたが、在日の喜怒哀楽は何事もなかったかのように夢幻が如く流れ去りました。

父母や私の生涯の願いである祖国の平和統一の夢はいつも淡雪の様に降っては消え去り、無常感が募るばかりの虚しい82年でありました。

在日には故郷があるようでない。日本で生きるには日本人以上に日本人であることを求められ、韓国では韓国人以上に韓国人になることを求められる。それは、そのどちらにも存在を認められていない現実を突きつけているのです。

韓国人としての誇りを持つ一方で、日本で生まれ育ち、ここでなくては暮らすことができないという思いと葛藤が常にあります。両国の狭間に生きる在日には、その長所と短所を学び人間としての品格と人格を備えて生きていく独自の視点と哲学、処世術を学んで生きて来ました。

日本には60万人の在日同胞が住んでいます。今や在日は6世代となり日本を我が故郷、祖国とも思っているのです。在日は祖国発展への寄与と日本社会への貢献など定住、定着志向を鮮明にして日本社会で尊敬される模範的市民となるよう努力しております。

韓日の友好親善に積極的に寄与し「共生・共栄」の精神で「懸け橋」としての役割を担う衿持を抱いているのです。

その狭間で生き抜く在日の試練は、コリアン・ディアスポラとして分断国家の国民としての宿命であり、運命でもあるのです。

秋田県仙北市田沢湖町で学んだ小学生の頃から私は絵を描くのが好きでした。秋田工業高校時代は美術部をつくって思う存分絵を描いていました。

当時県展に出品して高校生として初めて入賞しましたし、他の公募展なども出品したら賞が取れました。

しかし絵描きになろうとは思いませんでした。高校を卒業する時に、差別のせいかどこの企業にも採用されませんでした。そこで実力だけでやっていける絵描きになろうと思いました。

しかし母が猛烈に反対しました。絵描きでは飯は食えない、長男が絵描きでは河家の未来はないと母は描いた絵を破き、 画材を川に投げ捨ててしまいました。それでやむを得ず、画家の道も途絶され挫折したのです。

日本での展望を失い、一時は北朝鮮行きも考えましたが、なんとか在日同胞組織の仕事などをして踏み止まりました。転機になったのが1963年に結婚した時のことです。 町の電気店から家電製品を買ったところ、店主から「資金繰りの関係で月賦で買ったことにしてくれないか」と言われ印鑑を貸しました。 数か月後、月賦会社から私に請求書が来ました。店主に問い詰めると、「実は経営が行き詰まり月賦会社に支払えなかった。再建するので社長になってほしい。自分たちはあなたの下で働き迷惑はかけない。」と言うんです。 仮の社長になったところ、今度は集金したお金を着服し出したんです。そこで全員をクビにして、止む無く本腰を入れ電気屋をやることになりました。

この時ちょうど東京オリンピックが開催される年に運良く重なり、カラーテレビブームでテレビが売れまくったんです。それで経済的に余裕が出来、美術品を集めるようになったんです。果たせなかった画家の夢を在日同胞作家に託し、支援しようという男気でした。

もうひとつは全和凰の作品との出会いです。最初は向井潤吉の作品を買おうと新宿伊勢丹のギャラリーに行ったのですが、全和凰の作品『弥勒菩薩』をみた時に釘付けになってしまい、その場で買い求めました。それがコレクターになったきっかけです。

また働きながらも絵を描き日本アンデパンダン展に出品していました。そこには曺良奎や全和凰、宋英玉といった在日の主な作家達も一緒に出品しておりました。在日作家を知る事で、彼らの作品を集めるようになったのです。

在日作家の絵には、 在日同胞の祈りが満ちていました。根の部分に苦難の時代を経きた在日の“恨”がありました。朝鮮人の心を表現する言葉の“恨”は一般的な恨みの意味でなく、「遂げられない心の嘆き、やるせなさ」といった意味なのです。 絵を集めたところ、在日の苦痛、苦悩の生を表現した内面世界を描いたものが多かったのです。

全さんは拳を上げて銃を持って闘え、というような絵を後半生は描きませんでした。仏様の絵をよく描き、平安を祈るような静かな祈りに満ちた世界でした。

宋英玉の『闘牛』は、韓国と日本が戦っている絵でもあれば、北と南が戦っている絵でもあります。ここには戦いの本質への問いかけがあります。彼の故郷は済州島ですが、風物である闘牛を描いて故郷を偲んでいるのです。

私の故郷の田沢湖周辺では、戦争中水力発電所建設などのために中国や朝鮮から徴用で多くの人が働かされました。私の父も自由労働者として徴用の人達と一緒に働きました。

子供の頃、そこで事故や寒さ、栄養失調や 病気などでたくさんの方が亡くなったと聞きました。 集めたコレクションを生かして、犠牲に遭われた方達、無縁の仏様を祀る祈りの美術館を作ろうと思い立ちました。

田沢湖町は「河さんの計画はヒューマニズムに溢れ、感動する。町の観光にも役立つので美術館を作りましょう。」と行政のほうも乗り気でしたが、いつしか消極的になりました。

表向きは町の財政上の理由でしたが、韓国内で日本の戦後補償問題が起こり歴史教科書、強制連行や従軍慰安婦、朝鮮人被波爆者の賠償問題などの諸問題が噴き出して来ました。韓日の政争に巻き込まれる事を恐れた町当局は在日の美術を扱うのに怖じ気づいたのではないかと私は思います。

民族の統一と和合を祈り、韓日の平和と安寧の祈りたいだけの動機であった「祈りの美術館」設立の夢は理解されなかったのです。計画は韓日の政治問題の為に御破算となったのです。

1993年に父の故郷だった光州へたまたま訪れました。地方で初めて出来た光州市立美術館に収蔵品がなくて運営出来ないことを聞かされました。市の懇請から作品を寄贈することになったのです。なによりも祖国が困ったときに助けてあげるのは、人間として最高の名誉でした。

光州では80年に民主化を要求した市民が軍に虐殺された光州事件が起きています。 そして闘いの末に光州市民は民主主義を勝ち取りました。 在日も差別のない人権を獲得する為、戦い生きてきたのです。

光州は戦いを象徴する場所で痛みを分け合ったという共通の絆を感じたのです。その意味で、田沢湖で祈りの美術館を作れなかったが、光州で役立てるのも良い事だと思ったからです。

河正雄コレクションのコンセプトは「祈り」。平和への祈り、心の平安への祈り、愛と慈悲心に溢れた祈り、犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者や歴史の中で名もなく受難を受けた人間の痛みへの祈りです。

韓日の痛みの歴史の中で在日に生まれ、在日に生きた私の心の事柄、持ち方、精神の有り様が私のコレクションなのです。

日本では「金にもならない、名もない在日の画家の作品を集めても、末は公害か廃棄物にしかならないだろう」と見下げられ叩かれました。

1993年に寄贈した光州では「ゴミのような在日の作品を寄贈した」と罵られ、「ゴミもここまで集めれば立派な宝物だ」とも椰楡、卑下されました。

種を蒔き、木を植える事は容易いが、これを育み花を咲かせて、実がなるまでには忍耐と弛まぬ努力、愛情と精神力が必要です。試練を乗り越えてこそ実るのです。特に文化芸術界においては言を待つまでもありません。

今や時代の風向きが変わました。在日2世が50数年をかけ美術を愛し、美術に全人生の命をかけたコレクションは韓日国民、いや人類のコレクションとして結実したのです。ゴミなどでは決してありません。歴史遺産であり記憶遺産、人類の宝なのです。

在日二世の私が如何なる想いで在日を生きたのか。在日の生の全てに美術があった事、美術を通して両国の海峡に相互理解と美術文化交流の架け橋を架けようとして生きてきた結晶なのです。

―河正雄コレクションの成果―

これまで光州市立美術館や霊岩郡立河正雄美術館をキーとして河正雄コレクションの展覧会を企画、発表して来ました。ここでは3件の展示内容を報告します。

第3回2000年光州ビエンナーレのキュレーターであった針生一郎先生がプロデュースしたコンセプトが“芸術と人権”展です。

在日である私は、韓国や世界の人に在日の人権をテーマにしたアートを見せることは針生先生のコンセプトに合致する。ビエンナーレの精神にもかなうと考え「在日の人権展」を企画し開催しました。まさしくテーマに合致する河正雄コレクションがあったから出来たのです。

この展開にビエンナーレの観客は一様にびっくりしたでようで大変評価されました。人々はそれまで人権という視点でアートを見なかったと思いますから。それに在日の美術というものについて美術界で言及した人は少なく、在日の作家を美術史の中で余り捉えてこなかった為に新鮮な驚きであったのです。新たな美術世界を覚醒させた記念展でした。

光州市立美術館では河正雄コレクションである全和凰、宋英玉、曺良至、郭仁植、文承根、孫雅由、李禹煥、郭徳俊など在日の作家の回顧展などを順次行ってきました。在日の作品を、風化しないようにきちんと検証していきたいですね。 亡くなった作家達をきちんと記録し、次の世代にメッセージを出す作業をやって欲しいのです。

それと私個人の展覧会をやる企画もしました。 タイトルは河正雄の「旅の途中」展。私がこれまでこつこつと描いてきた絵画だけでなく記録写真や美術資料など作品にして、夢を諦めず 在日として今まで歩んできた生き様そのものをアートであることを見せようと思ったのです。

2013年から2015年にかけて韓国8都市の公立美術館をネットワークとして河正雄コレクションの「在日の花」展を開催しました。

この巡回展に於いて韓日美術界は河正雄コレクションの存在とその意味を知り、美術価値を認識されましたことは光栄でした。

これを契機に全国の美術館がネットワーク化され情報交換が密になり、美術品貸借による展覧会等が活性化されるようになりました。

こうして河正雄コレクションは在日の美術を語る際に欠かせない、美の花を韓国で咲かせました。河正雄コレクションは在日だけの枠にとどまらない、世界に向けて発信する普遍性を持っているのです。

日本の田沢湖畔に「祈りの美術館」は実現出来なかったが、25歳から始め57年間継続して集めた作品群は、光州市立美術館を始めとする韓国の国公立美術館や博物館等、10か所に1万2千余点寄贈しました。地方文化のレベルアップに寄与できれば、と考えたからです。

ありがたいことに私の父母の故郷霊岩では郡立の「河正雄美術館」が2012年開館され、その後の発展の成果として2021年には創作教育館が新築開館します。2018年には光州市立美術館分館「河正雄美術館」が独立開館されました。

2018年には国家ブランド振興院より「国家ブランド大賞」、2020年には韓国文化芸術委員会より「今年の芸術後援人大賞」、2021年には文化体育観光部が河正雄コレクションを所蔵する光州市立美術館、霊岩郡立河正雄美術館を優秀美術館として認証評価されました。実績を評価され、韓国美術文化に寄与出来た事は大きな喜びです。

受賞の意義は、在日の生き様を顕彰することだけでなく、美術が持つ意味が社会的、文化的に今価値として認められつつあるからと思います。

過去に、在日の人権は虐げられ、差別を受けて来た歴史がある為、韓国社会の民主化レベルアップを喜び、韓国文化の発展に願いを込めております。

―在日の美術とは―

解放後70余年の在日コリアンの美術を顧みる時、20世紀前半の植民地時代、日本は美術を志す朝鮮の若者にとって最大の学び場でした。多くの留学生たちが日本に渡り美術学校や研究所で学び、彼らは解放後、南北朝鮮の美術が花開く土壌となり大きな花となりました。

解放後様々な理由で日本に残った幾人かの美術家たちによって在日朝鮮人の美術は始まったのです。

私がコレクションした作家、金昌徳、全和凰、曺良奎、宋英玉、呉炳学など才能ある人たちが美術を制作の個人的な枠組みから抜け出て集団的な運動へと推し進めていきました。

初期には今も続く日本アンデパンダン展を発表の場にした彼らは統一的なテーマで大作を一挙出展しました。そこで主に描かれたテーマが在日コリアンの生活、帰国のための権利闘争、韓国の民衆闘争などでした。

負の歴史という視点を乗り越え、自らが創り出した文化を遺産として検証し、継承、発展させていくことは在日朝鮮人運動のあらゆる分野で重要なことだったのです。

在日の美術家が表現者として自己を見つめる時、そこには必然的に歴史的状況や時代が複雑に絡まっております。

イデオロギーを主張した在日コリアン美術とは、在日コリアンという自覚や意識、状況がその創作動機になんらかの契機として働いている、美術家とその作品のことだと思います。

それらの活動は社会主義リアリズムを標榜する人達と抽象や現代美術を志す人達の間には自然と距離が出来ました。政治的立場だけではなく主に具象は「総聯系」、現代美術は「民団系」という枠が自然に出来上がってしまいましたが、南北分断がもたらしたものです。

在日コリアン美術は、「在日コリアンが作った美術作品やその文化」です。在日朝鮮人史、そして人類史に残すべき在日コリアン美術家が多くおります。自らの人生とは、生活とは、在日とはなにか、戦争、民族、権利とはなにかを美術を通して問うた芸術家達です。

在日コリアンの美術は、同化政策や祖国の分断、清算されていない歴史といった在日コリアンの恨のルーツを表しております。

それでは今でも、そのような在日コリアンの美術に社会的文化価値があるのでしょうか。現代はグローバル化時代です。世界のさまざまな人に会う度に、「自分は誰で、一体どんな人間なのか」を確認する時代になりました。私たちが持つべきものの価値は、まさに確固たるアイデンティティです。

在日コリアンの生活が形で表れた作品に、それは「我々は、自分は一体どんな人間なのか」を考え確認する重要な手がかりとなります。

それだけでなく、在日コリアンが創作した多くの美術作品は在日コリアンが生きた時代の息吹を伝える、世界に類を見ない作品群であるのです。

在日コリアン自体が世界の人類史に刻まれるべき存在なのです。その存在の真実を伝える在日コリアン美術作品には、時代を超え人類に訴える共感と共有出来る普遍的な価値ある作品群であると言えます。

残念ながら、その価値ある作品が余り知られていないというのが現状です。知られていないのは、その作品に価値がないからではありません。それらの作品に出会える場所と情報が少ないからです。在日コリアンの美術作品はその価値にも関わらず、多くが残念ながら散逸しております。歴史への無理解と、保存出来る場所や施設、学芸の人材を持ちえてないからです

これらの作品を守るのは在日の末裔達の為に若い世代が鑑賞出来る機会を作り、誇りを持って学べるような学究施設を整える自覚した責任を国は担っているのです。

―芸術は永遠である―

20世紀には2度の世界大戦に象徴される戦争の世紀でした。人類受難の世紀であります。21世紀こそ平和と人権の世紀であることを人類は念願しているのです。

人間の精神を豊かにして来た美術の歴史と伝統、その創造は人権と平和の在り様を問うております。

20世紀の美術は強烈な個性やオリジナリティーが重要視されました。21世紀美術の潮流は他者との関係、そして情報と物事を繋いで発展させていく関係性、関連性を重要視しています。

個性の表現者から媒介し、移行していく関係性、関連性です。現代の美術家達は情報化と移動手段の発達から多くの情報を共有しております。国を越え垣根を越えた独自のネットワークを作り、あらゆる境界を越えた特性が突出しております。

芸術、美術は人の魂を揺り動かします。絵は何も語りませんが絵の中には、その時代に生きた作家たちのメッセージと精神が込められています。私が在日の作家の絵を集め始めた動機は、秋田県の田沢湖畔に「祈りの美術館」を作るためでした。植民地時代の歴史、その時代を生きた人達が発する祈りのメッセージを風化させないためでした。

「芸術は永遠である」という言葉があります。時代はどんなに経っても魂は生きており、精神が残っております。過酷な時代を生きた歴史を美術作品からしっかり学ぶことが出来るのは未来に繋がる幸せなことです。

山本作兵衛は筑豊の炭鉱夫として一生を炭鉱で過した方です。彼が遺した絵日記に描かれたものが、人類の世界記憶遺産になりました。河正雄がコレクションした在日の作家達の絵も、その次元のものだという認識に立つのです。

美術世界はひとつです、境界はありません、民族の違いもありません。その時代をともに生きたという証言と記録、史料などは人類が共有する文化遺産なのです。これら美術作品の文化性を示すのが河正雄コレクションであると思います。

遅くはなりましたが今こそ自覚して、在日コリアン美術家の歴史と作品を検証する。そして現在点を見つめ直して、未来を展望する地点に立つべきと思います。

在日コリアン美術の輝きは新しい時代を開拓する、明日の世界に向かうための文化発信なのです。