《出典》SMART K

http://www.koreanart21.com/review/antiques/
原文はハングル。2018.04.04掲載。インタビュー形式になっています。

展示名河正雄COLLECTION 「張順玉作家招待展:お母さん、何してる?」
場所秀林アートセンター
期間2018.4.2-2018.6.29

-韓国の国公立美術館に12,000点を寄贈した河正雄
-80の敷居から聞こえる、帰去来の辞「心が先です」

河正雄について

1939年、日本東大阪生まれ。 貧しい農家の三男であった父・河憲植は、全羅南道霊岩から1927年に日本に渡り、肉体労働をした。母・金潤金も1938年に日本に渡り結婚した。河正雄は絵が上手い少年だったが、彼が育った秋田の冬が寒いように「非常に貧しい」 家庭で高校をかろうじて卒業して社会に出たが、貧困と在日という二重苦を潜り抜けた。 1964年の東京オリンピックを前後に、 日本に家電ブームが起こり、電気製品販売代理店を運営していた彼はチャンスを掴んだ。金を稼ぎ、果たせなかった美術家の夢の代わりに、実業家として成功したお金で在日同胞の画家の絵を一点一点買っていくうちにコレクターになった。
34歳になった1973年に、河正雄は父母と一緒に初めて韓国の地、初めて「故郷の地」を踏んだ。故郷のいくらかの土地を買って帰郷するという父の頼みを聞こうと思ったが、翌年、他界してしまった。その後、「故郷」との縁は、1982年に在日韓国人作家である「全和凰画業50年展」を企画して、東京、京都、ソウル、大邸、光州を巡回して展示をし続け、1993年に作品がなくて悩んでいた光州市立美術館から作品寄贈を乞われることによって結ばれた。

それ以降、河正雄は韓国10か所あまりの国公立美術館に美術作品1万2000余点を寄贈した。光州市立美術館から 「名誉館長」という肩書きを与えられたことに感謝を表し、父母の故郷である霊岩では、彼が寄贈した作品で霊岩郡立河正雄美術館を開いた。2012年には、その年に他界した在日韓国人金熙秀、秀林文化財団理事長の後任として秀林文化財団理事長に就任した。河正雄は今年初めに理事長を退任した。
六月初めには取締役の席さえも辞任する予定だ。「もうやめる時が来た」という理由からだ。
生涯をかけて集めた作品を祖国韓国の国公立美術館に種のように撤いて、80歳に入って職を辞して身の回りを整理している彼に「帰去来の辞」 をお願いした。

秀林文化財団の理事辞任の話から始めて下さい

理事の席も6月11日までで降りることにしました。年も取ったし、体力も問題です。この仕事は、病気を持っている者がするものじゃありません。若い人が指導をしなければならないし、 私のような昔の者は去るべきでしょう。 文化を育成するためには、新しい風、新しい力が必要なんです。 私は今まで頑張って来ましたが、自分の足りなさに反省することもたくさんありました。

いろいろな仕事を沢山してきた

体力や健康にはなんの関心も持たずに前進してきた。昨年ノーベル文学賞を受賞したイギリス日系作家のカズオ·イシグロ氏がインタビューで「私は62歳ですが、人生がこんなに短かったことを今やっと学びました」 ということを語っていました。その話を聞いて人生が短いということに気づきました。 仕事と共に生きてきて80歳になってようやく人生が短いということに気づき、残った時間も余り無いんだな、と感じました。私は彼より20年も遅れて気づいたのです。私が62歳の時にそのことに気づいていたなら、体ももっと健康で、いろいろな面で良かっただろうな、と反省しています。
でも、後悔はしてません。(笑)
私は他の人よりも10倍以上働きました。だから、他の人よりも10倍以上生きたのだと思います。幸せに生きてきました。二倍三倍どころじゃなく、十倍以上も働いたということは苦労じゃありません。天から与えられた幸せだと思って感謝しています。

身体の具合は?

心臓のほうがちょっと。 下手をすると破裂する病気です。 自宅で家族や傍で見守ってくれる人がいれば大丈夫ですが、今日のように外にいる時は周りの人に迷惑をかけるでしょう。そんなことになりたくないし、できれば私の体は自分で守って、自分の力で最後までやり遂げたいんです。

今まで何点ぐらい寄贈を?

1万2000余点程度ですね。光州市が1992年に見事な美術館施設を作りましたが肝心の作品がなかったのです。ちょうどそのとき、姜英奇・光州市長と車鐘甲・美術館長から「館内を埋めてほしい」と河正雄コレクションの寄贈を依頼されました。 「育て、助け、愛してくださると嬉しいです」 と、三つの願いを聞きながら「私のような者でも助けてほしいと依頼されるのだから、育てる能力があるんだな」 と思いました。「私に期待をかけてくれる人もいるんだな」と誇りに感じて、期待される人になってみたかったのです。

お金を儲けて、どうして美術品の収集を?

美術品を集めたらお金が儲かると人々は言いますが、私が最初に始めたのは、 在日同胞の作品を集めることでした。当時、在日同胞の作品を日本社会では高く評価しませんでしたが集めました。
そうこうしているうちに、1960年代から日本社会にコレクションブームが沸き起こりました。主に、絵画作品を収集するというブームでした。その当時日本社会からは「ゴミのようなものを集めている」と馬鹿にされました。ところが、 絵画ブームが起こると、同胞社会では「貧しい在日同胞の絵を安く買った」と非難する人が出て来ました。以前は馬鹿呼ばわりし非難したのです。私は、絵をお金儲けのために集めたことは一度もありません。
私が高校を卒業した時は、日本社会で韓国人への差別が一番酷(ヒド)かった時で、思うように就職が出来ませんでした。秋田工業高校卒業生の内、私一人だけが就職出来なかったのです。しかたなく絵を描いてみようかと考えていると、 両親から 「絵を描くだけでは暮らせないぞ」 と絵を描くことに反対されました。高校も母の支援でやっとのことで卒業出来た程で、お金がなくて大学も行けませんでした。
運よく東京オリンピックの年に家電販売店を開いたのですが、カラーTVや洗濯機などがよく売れて、事業が上手くいき、お金もたくさん儲けました。そのとき思いついたのは「在日同胞社会では絵を描く人は貧しいから、 私が彼らを助けてあげるべきだ」と絵画の収集を始めたのです。これがコレクションの動機だといえます。
二番目の動機は、 私の故郷・秋田には韓国人が徴用でたくさん来ていて、ダム建設や鉱山で働いていました。秋田には彼らの無縁仏の墓がたくさんありました。小学校の頃、私が住んでいる家の後に寺がありました。窓を開けると墓だらけでした。そのうちの一つが徴用者の無縁の墓だと母に教えられ、私は小学校四年生の時から家でお祝いにごちそうを作ると必ずその墓に持って行ってお供えしました。 母は怖いと言って私にお供えを持って行かせました。私は怖がりませんからね。そこに行くたびに「何のためにこんな名もない墓があるのか」 そしてかわいそうだと思いました。寺には同じような無名の墓がいくつかありました。
無縁の墓を私は発見しました。徴用された犠牲者名簿も捜しました。そして遺骨があるお寺に慰霊碑も立て、慰霊祭を行っています。 それから20年が過ぎました。
二十世紀という戦争の時代に日本の地で亡くなった先祖の方々を慰めなければならないという思いで「祈りを捧げるお寺のような美術館を作ろう」と決心しました。それで、在日の作品から集め始めたのです。「祈りの美術館」を作るために土地を買って、設計して、官庁と協議も終えましたが、韓日国交正常化協定文の中にある徴用者や慰安婦問題の戦後補償は全ての処理した、という協定のため、最終的に官庁側では承諾しかねるということで、美術館計画は失敗に終わりました。 これは1980年から1992年までの出来事です。

その作品は1993年に光州市立美術館に寄贈されたものなのか

1992年に光州市立美術館がオープンした。しかし、作品がないからと寄贈を頼まれました。戦争で犠牲になった人々のための祈りは、 秋田でなくてもよいと思うようになったのです。朝鮮戦争で200万名以上が死んだので、それを祈ってもよいし、光州事件の時に死んだ人のために祈ってもよく、二十世紀に太平洋戦争のために東南アジアで死んだ人のために祈ってもよいと思ったのです。
二十世紀という戦争の時期に犠牲になった人々、また世界人類のために祈る美術館を光州に作れたらと思ったのです。故に、光州市立美術館の河正雄美術館は、祈りの美術館であるといえるのです。その後、地方にも美術館ができるたびに寄贈してほしい、光州のように愛してほしいという求めがあり、10ヵ所ほどの国公立美術館に寄贈したのです。
最初は国立現代美術館やソウル市立美術館からも寄贈してほしいと家に訪ねてきました。 国立現代美術館とソウル市立美術館は運営が順調で予算もあり、私の助けがなくても自分たちの力で十分やっていけるし、私は光州からスタートして地方都市を少しでも助け、育てたいという思いで断りました。人々は、「河正雄はバカな奴だ。 国立現代美術館やソウル市立美術館に寄贈すれば、今よりも知られるようになるし、立派なコレクションとして世界的に有名になれるのに、地方都市に寄贈してコレクションを価値のないものにした」 と言うのです。
私はそんなことは気にしなかった。 私は有名になるために寄贈するのではなく、 寄贈により地方文化を育てるのだと。私がまいた種が花を咲かせるために、少しでも役立つのなら、 それが私の役割であるし、私のプライドでありました。

「河正雄美術館」は先に霊岩につくられた

光州市立美術館に寄贈してから7~8年後に霊岩郡守が私を訪ねてきて、「他の地域には寄贈したのに、両親の故郷には寄贈しないのか」と、寄贈すれば美術館も作り、河正雄コレクションを守っていくと言われた。私は「これまで、そう言ってくれるのを、私は待っていた。良い作品がなくて申し訳ないが、残っている作品3500点の内、恥ずかしくない作品を寄贈する」と約束したのです。私が寄贈することによって作られる美術館を望むのではない。自治体自らが美術館を必要とするところにのみ、作品を寄贈したのである。「私の作品を受け取ってください」とお願いしたことはない。彼ら自らが美術館を作りたいから作品が必要だというところに寄贈した。
光州市立美術館には、 私の美術コレクションのノウハウを伝え育ててきた。光州市立美術館が現在韓国内では一番であると、私は思う。彼らが意欲的にやったので、そのような美術館になったと思う。美術館の体制を十分に整えてから、彼らは「名誉館長」という名誉を私にくれた。私が求めたことではないのに、彼らが私に与えたのである。彼らがよく運営し成果を出したので、私の名誉が花咲き、 私の寄贈に対して彼らが恩返ししたのである。

秀林文化財団の金熙秀創立者とはどんな縁なのか

40年前に在日同胞の文化人が集まり、在日韓国人芸術協会を設立した。金熙秀理事長がその協会を財政的に後援していることを知るようになった。後に、私が在日韓国人芸術協会の三代目の会長になった時に、金熙秀理事長に何度か会い、助けてもらった。金熙秀理事長は日本に建てた金井学園の理事長もしていた。そんな縁で、金熙秀理事長が中央大(韓国・中央大学校)理事辞任後に設立した秀林文化財団の理事に私をスカウトした。金熙秀理事長は中央大辞任の時に、売却した資金1300憶ウォンのうち、1000憶ウォンを秀林文化財団に、300億ウォンは息子の奨学教育財団のために使った。秀林文化財団は、社会に還元するために設立したものと思わなければならない。

6年間の理事長の仕事はどうだったか

責任が重く難しかった。私が大切な老年の時間を使い、 金熙秀理事長の痕跡を称えることに奉仕したのは、金熙秀理事長が中央大で20年以上学校に尽し再建したのに、中央大には業績の痕跡がなく、資料室も記念室もない。学校運営に一生を掲げた方なのに、そのような待遇しか受けられないのかと思った。中央大の総長に三度も会いに行き、金熙秀理事長の名誉を守ってくれと願ったが、総長はそうすると答えたものの今日まで何もしないでいる。
私は光州から名誉を受け、よい人生を送ったと思う。光州市立美術館が新美術館をオープンする時、金熙秀理事長がお祝いに来た。その時、彼が「河正雄さんは光州でヒーローになって愛され、美術館で大きな役割をした」と、私を労(ねぎら)った。その言葉が私には孤独に聞こえた。その時、彼が中央大で認められていないということを知ったからだ。その翌年、金熙秀理事長が亡くなった。どうしてでも、この方の痕跡を顕彰しなければならない。 私は在日同胞2世として、在日同胞一世の名誉を守らなければならないと思ったことから、後継理事長に就いたのである。
父は44年前(1975年)に亡くなった。親の祭忌を50年間行えば、人として最高の親孝行だという言葉がある。私には50回忌の祭忌を行うごとができるのかはわからないが、今年まで44回行った。植民地時代に亡くなった在日同胞の慰霊祭を20年以上ずっとしているように、金熙秀理事長も私がそのようにしなければならないと思った。今日まで無事に理事長の役割を果たすことが出来た。私を受け入れてくれた社会、人格を認めてくれる人のために仕事をした。皆さんが日差し(ご厚意)をくれるので、その日差しを受けて皆さんに返すのである。

社会には「日差し(ご厚意)」 をくれる人だけではないですが

他人よりも十倍一生懸命に働き生きたので、苦労も多かった。その事でよくないこともたくさん聞いた。日本でも韓国でも傷ついた。良いことをしても傷つくことが多かった。
でも、良い人もいる。 中学三年の時の担任であった松本正典先生と中島昭二郎先生。 この二人は私を認めてくれた。
私は中学校を卒業する頃、高校の進学が出来なかった。私の担任の先生でもない中島先生に職員室へ呼ばれて「どうして進学書類を出さないの」と聞かれた。「家事の都合で進学できません。 父と馬車引きの仕事をすることにしました」と言うと、先生が涙を流しながら 「教育が重要だ。教育を受けなければ社会に出ることができない」と言った。 家へ帰って両親に高校に通わせてもらえないかと言い、できないことを無理して高校へ進学した。その中島先生は一生、私を見守ってくれた。
中島先生は引退してから病気になり暖かい横浜の方に引っ越してきた。先生に老年の社会活動、ボランティア活動について、私はアイデアを提供した。私が提案したボランティア方法に対しての反応がよくて、先生のことがニュースにもなり、地域社会の有名人になった。
そして、ある日の夜、先生から電話がかかってきた。「私を殺すという人が出てきた。私を手伝ってくれると最初に言っていたメンバー達が、私の名が通るようになったことから嫉妬が生じたらしく、寝られないほどいじめる」ということだった。私は先生に「私は絵をコレクションして集めた後、たくさんの寄贈をしたにもかかわらず、非難を浴びて人格が傷つきました。それでも、 私は後悔しなかった。先生も河正雄に学んでください」 と言った。
私は名誉を得てテレビにも出たし賞ももらったが、悪口を言われたり心が折れたりもした。それでも、私は変わらず美術館を守りながら光州盲人福祉協会や教育機関を支援した。自分が足らない人間といえどもできる役割があると話したら、先生は私を「河正雄君」と呼ばないで、「河正雄先生」と呼び始めた(笑)。

韓国と日本の活動割合はどうやって分けるか

大体半分づつだ。 日本で不動産賃貸業や美術作品収集も続けている。韓国では秀林文化財団の仕事も残っているし、光州や霊岩、釜山の河正雄コレクションの寄贈も進めながら続けている。
秀林文化財団はまだ美術館の登録前で、河正雄コレクションの寄贈作業も進行中だからだ。

80歳でも絶え間なく仕事をしている

自分がすごいと思うのは、後退をしなくて、いつも前に進んだということだ。一日に一歩だけ先に進むと一年に365歩、10年なら3650歩を、他人より先に進めるようになる。明日のことを思えば、私はいつも幸せだ。

老年の生活は

歳が迫り来るのが見える。心臓手術も受けたし、八十近くになってからようやく人生が短いというのも分かった。私は家族への愛情表現ができなかった。それを反省している。 残りの余生は私のために、そして私と近い人のために生きていきたい。妻や子どもたち、孫や友だちと共にである。人生の価値を共有した人たちと残りの人生を分かち合いたい。
体力が衰えて、後輩育成などの時間は減らしている。それで秀林文化財団の取締役も辞めようとしているのだ。後輩たちに全てを任せる時が来たのだろうと思う。

好きな作品は

幸福や平和、平安な人間関係、人情と愛情あるテーマの世界。そういう意図を込めた作品が好きだ。
 そういう思いを込めた作品を集めて、その中で幸せを見出す。私と同じ世界観を共有する作家を見つけて、そういう心を後代に伝えたい。 私は大学に行けなかったが、社会という大学で学んだ。人間が生きていく道、平和を見出す道をこれまで社会から習った。最後もこの社会で迎える。母は亡くなるまで、高校しか通わせられなかったことをすまないと言った。私を大学に通わせて教育を受けさせたら、今の活動以上に大きな役割を果たしただろうと、母は悔やみながら旅立った。
全和凰作家の半跏思惟像作品を傍に置いて見ながら初心を固める。一緒に眠り語り祈りを捧げる。 毎日、私がなさねばならない任務を行うと誓う。
他人が悪いことを言っても、それに曳かれないで、私の道を歩いていく。経験上、聞きたくない話は聞き流せばいい。見ても見なければ良い。誰か石を投げようとしたら、20メートルぐらい遠く離れれば傷つかない。私を非難する人からは少し離れていれば恐ろしいことがなくなる。自分が進む道について、こういう原則を立てると、自分がやることに何の当たり障りもない。私は他人の顔色を窺わない。

作品寄贈の代わりに本人の名前の財団を作るつもりはないか

美術館以外にそんな事業をやりたくない。韓国で、そういうことを受け入れる気も、させる気もない。
私の生きてきた痕跡は、寄贈した絵もあるし資料もある。日々の紀行文も書いている。必要であれば、私が研究するのもいいが、それは後学に任せるのが最善と考える。
金熙秀記念秀林アートセンターの河正雄アートギャラリーで、河正雄コレクション・張順玉作家招待展「お母さん、何してる?」(2018.04.02~06.29)を主催した。
開幕式で長年、土偶制作を行ってきた張順玉の作品を、「心を良くする作業」と評価しながら河正雄コレクションに含めた。張順玉は朴炳熙と夫婦だ。

以上