経緯

1989年10月11日 「故郷の家」建設1坪資金 50万円寄付
1994年7月10日 映画「愛の黙示録―尹鶴子の生涯」を世界に送る会発起人
1995年10月15日 映画「愛の黙示録―尹鶴子の生涯」完成試写会
2001年2月1日 社会福祉法人「心の家族」神戸故郷の家新築記念版画34点寄贈
2007年2月1日 「故郷の家」建設1坪資金 50万円寄付
他に50万円寄付 計150万円
2008年9月30日 京都「故郷の家」新築記念 美術作品117点寄贈
2016年11月17日 東京「故郷の家」美術作品40点寄贈
2017年1月25日 東京「故郷の家」美術作品12点寄贈

故郷の家

河 正雄

1989年9月27日、東京王仁ライオンズ クラブ9月第2例会で、田内文枝さんの講演を聞く機会があった。わたしはその時、講師田内文枝さんの人となりを紹介した。

「田内文枝さんは1971年に同志社大学を卒業され、72年に木浦共生園の園長であられる尹基氏と御結婚され、韓国に渡って韓国孤児養護にあたられました。現在、在日韓国人老人ホームをつくる会を発足されて、11月オープン予定の「故郷の家」の園長を務められるお方です。1982年、読売女性ヒューマンドキュメンタリー大賞入選、83年にはクリスチャン文学賞を受賞されております」。

講演はお人柄そのまま淡々と穏やかに話されたが、その人生は決して平坦な道のりではなかったようだ。眼に光るものをみた時、私はそのことを強く感じた。

「木浦共生園園長尹基と出会い、そして結婚した縁は、運命的なものでした。韓国に渡ってから十年、言業や食事、慣習や価値観の違う異国、木浦共生園での生活は、語るに苦しいものがありました。

その苦節を、福祉活動によって助けられ励まされて乗り越えてきました。孤児たちに夢を与え、社会に出て自立できるよう育て、人材養成することは、真のオモニ(母)の境地にならなければできません。

食べるために生きるのではなく、心と心が通じあう信頼関係と人間関係をつくり、共生園の孤児たちの社会に出てからの自立を促し、夢と希望を与えるオモニになろうと努力致しました。 10月には、大阪府堺市に在日韓国人老人ホームが完成されます。私は尹基を信じ愛し、孤児たちのオモニとして、彼等を愛し育ててきました。そして韓国を理解し愛するようになりました。今、私は在日韓国人同胞にも福祉の光があたりますよう心砕いて、「故郷の家」を作っているのです」。

私は、隣人をも愛する温い愛情とヒューマニズムに満ちあふれた心にふれて、ともに清い涙でみずみずしく心を洗った。

戦前(1934年)の歌謡曲、孫牧人作曲「木浦の涙」は、港町木浦の別れを唄った悲しい歌で有名だ。今、天然の良港木浦周辺は西岸中国に向けた国策による大仏工業団地の大プロジェクトで沸いて、変貌著しい。その木浦に、創立六十五周年を迎えんとする韓国の福祉の原点、歴史ともいわれる共生福祉財団木浦共生園がある。園は弐基の父尹致浩が創立し、母田内千鶴子が日韓両国の多くの人々の善意と支えで守り、育ててきた孤児院である。

尹致浩は、昭和の初め、橋の下で震えていた七人の子供を引き取り、「身寄りのない孤児たちを明るく育てたい」と、共に暮しはじめた。これが共生園の仕事の始まりである。

日本基督教団木浦大和教会にボランティア活動をしてくれる人を求めていたところへ、教会でオルガンを弾いていた朝鮮総督府官史の娘田内千鶴子が現れた。この出会いが縁となって、二人は奉仕活動のなかで愛を育くみ、十年後に結婚した。そして、尹基が生まれたのだ。

田内千鶴子は、奉仕活動のなかで、孤児たちには父親だけでなく母親の愛情も必要であることを痛感した。そのことを深く理解した上での結婚であった。

日本の敗戦で、木浦の群衆が日本人である母に危害を加えようとした時、子供たちが、「日本人でも私達のオモニです。指一本触れさせはしない」と身を挺して守った話は、余りに有名なエピソードである。木浦在住の日本人の大多数は引揚げて行ったが、自分たちが生んだ子でなくても、真心と誠意をつくせば、何人でも心はかようものだといって、千鶴子は木浦に留まり尹致浩を助けた。

その後に悪夢のような朝鮮動乱が起り、そのために戦争孤児が急増して、共生園は五百人以上に膨れ上がった。戦争の混乱の中、升致浩は、孤児たちの食糧を求めて光州に行ったきり、帰らぬ人となってしまった。千鶴子は、「いつか帰ってくる」と信じ、1人金策に明けくれながら、共生園を支えきりもった。その功により、1963年の光復節(8月15日)には、韓国最高の名誉文化勲章が政府より贈られた。

1968年10月、田内千鶴子は、異国韓国木浦の地で、世の奉仕者として波瀾の生涯を終えた。

その時木浦市民は、木浦開港以来の市民葬として三万人が集い、「韓国の孤児の母」としてその遺徳に対し、最大の敬意を払い偲んだ。

生前、田内千鶴子はチョゴリを着てハングルを使い、キムチを食べて孤児たちを育てたが、最俊に尹基に残した言葉は、「梅干しが食べたいよ」であったという。

母の死後、意志を継いた尹基は、26歳で、330人を抱える孤児園の園長となり、田内文枝と結婚した。木浦共生園は、二代続いて日本人の優しいオモニを持っている施設である。

尹基は1984年、愛知県で起きた在日韓国人古老2人の悲しい孤独な死に遭遇したことから、仕日韓国人のための老人ホームの建設を決意した。

かねてより、高齢化社会における老人人口の増加による在日韓国人問題に関心を寄せていた尹基は、大きなショックを受けた。それは、一人は死後十二日も経って発見され、もう一人は火災にあって病院で死亡したが、二人とも遺体の引き取り手がなかった。

戦後日本にとり残された70万同胞の一世たちは、かなり老齢化し、70歳以上の人が1万人を越えるといわれる。そのなかで、千数百名が経済的にも家庭的にも恵まれずにいる。慶州ナザレ園に収容されている孤老の日本人妻たちの老人ホームでは、日本語を語り、民謡を歌い、こけしや富士山の写真を貼り、食卓には梅干しやタクアンが並ぶという。

そこでは日本の習慣にのっとった自由な生活、余生を送るのではなく人生を全うする生活が、国家と日韓の善意ある篤志家たちの支援を受けて営まれるようになっている。だから故郷に帰るに帰れない在日韓国人のために、同胞同士が故郷の暮しに近い環境の中で安心して生活出来る老人ホームを作ろう。母の残した最後の言葉、「梅ぼしが食べたいよ」に思いをよせて、「キムチが食べたい」という望郷の思い、言葉で言い尽くせぬ想いを、オンドル部屋のある温い生活で、天寿を全う出来る老人ホームをつくろうと、尹基は決意したのだ。

拝啓 仲秋の候

このたびは小さなものを、由緒ある東京王仁ライオンズ クラブにお招き下さり、つたない話に皆様お耳をかして下さいまして、本当にありがとうございました。また、早速ご寄付金をお送りいただきまして、お札のことばもございません。

優しいお心くばりに胸うたれ、励まされ、こちらこそ栄養をいただき、心身共に力をいただきましたこと深く感謝申し上げます。

いよいよオープンを前にしまして、あとからあとから仕事があり、早々にお礼申し上げるべきところが、このように遅くなりましたことお詫び申し上げます。

10月31日竣工式、そして11月5日オープンでございますので、大阪にお越しの節は是非共、お立ち寄り下さいますように、お待ち申し上げております。ハルモニ(おばあちゃん)、ハラボジ(おじいちゃん)ともども、今後とも覚えてお祈りのうちに加えていただければ幸いでございます。幹事様をはじめ、会員の皆様方のご家族の上に神様のゆたかな恵みがありますよう、心からお祈りいたします。
敬具

10月11日
田内文枝

東京王仁ライオンズクラブ幹事河正雄 貴下

社会福祉法人「こころの家族」、特別養護老人ホーム「故郷の家」は大阪府堺市桧尾にある。

 祖国に望郷の想いを秘めながら、帰るに帰れない韓国。朝鮮のお年寄の心の拠り所、オンドル部屋にキムチとハングル、故郷祖国の潤いに満ち溢れた施設。三階建の「故郷の家」は、ムクゲの花模様の美しいガラス張り、韓国の民芸品の調度が飾られ、故郷の民家のたたずまいの雰囲気には、思いやりと労わりの真心が隅々に気配りされている。

尹基・田内文枝の献身のもと、多くの人々の善意と慈善が、「故郷の家」に集まり完成された。しかし未だに運営基盤は弱体で、関係者の心痛はとけない。私は在日韓国人と日本人との真心のふれあいの場となって、共に生きる証しのためにも、支え合い、守り育ててゆくことが先賢の人徳に応える道であると思う。不幸な一時期を早く精算して、日韓友好、親善交流促進を願ってやまない。

我が東京王仁ライオンズクラブでは、1982年8月2日に、木浦共生園へ、88年以降は継続的に毎年運営資金を贈り、1992年度には、「故郷の家」を訪問慰労している。支援者の1人、植村甲午郎前経済連会長が話された通り、「継続は力であり、励みである。」きれいなお金を、細く長く贈りたい。