期日1990年5月25日(金)
場所宮内庁楽部
主催国際交流基金 駐日大韓民国大使館
後援外務省 大韓民国文化部
協力日本放送協会
協賛日韓文化交流基金

流れのままに

1990年5月25日、盧秦愚韓国大統領の来日を記念して、韓国国立国楽院と宮内庁楽部は、両国の雅楽の交流演奏会を宮内庁の舞台で開いた。

両雅楽が宮中で演じられたのは、両国の歴史上初めてのことで、21世紀に向けた日韓文化交流を象徴する文化行事であった。

第1部は日本の雅楽の演奏。朝鮮系の曲「高麗楽(こまがく) 」 が流れる中、慶賀の行事に演じられる「延喜楽(えんぎらく)」を舞った。

第2部の韓国の雅楽(国楽)は、平成天皇、皇后両陛下をお迎えして、華やかに厳素に演じられた。私は在日に生きる韓国人2世として出席したが、両陛下と共に鑑賞出来た事に感慨無量だった。

韓国宮中音楽の「寿斉天(スジェチョン) 」の名曲に続き、宮中舞踊の「春鶯囀 (チョンエンジョン)」が披露され、民族衣装のカラフルな色彩が印象的であった。さらに新羅時代の説話に起源した宮中で悪鬼を追い払う儀式の舞「處容舞 (チョヨンム) 」 はどこかユーモラス。コミカルな舞にも感じられたのは、仮面の土俗性によるものだろう。

しかし連続して回舞する舞は、不幸な今世紀の日韓の忌まわしき悪鬼を払うように思え、象徴的な因縁を感じた。

韓国の国楽、日本の雅楽は同じルーツを持つと言われる。韓半島や中国から伝わった雅楽は、その伝統を1300年近く連綿と忠実に継承、保存された歴史の重みを感じさせる古典芸能である。

夢の中に誘うような緩やかなテンポの伴奏と、気を充足するような伸びやかなゆっくりとした動作の舞は優雅の極みである。

一般人には馴染みの薄い雅楽。 日本国有の歌舞伎舞 (神楽歌、 久米舞、 東遊 《あずまあそび》)と7世紀頃唐や高句麗などから伝来した管弦舞曲の総称である。雅楽は管 (笙、 篳篥、 横笛)、弦(琵琶、等)と三鼓(鞨鼓、 太鼓、 鉦鼓) と舞楽の編成で語 (うたい)も交えて演奏される。

舞楽は左舞(インドや中国から伝わったもので唐楽で舞う)と右舞 (韓半島から伝わったもので通常は笙を用いず横笛に代わって高麗笛を、鞨鼓に代わって三つの鼓を用いる)が雅楽の概要である。

この文化遺産を共有していることが、在日に生きる私の誇り、 喜びでもある。日本の植民地支配時代、李王家の財政難から滅びそうになった韓国の雅楽を救ったのは、音楽評論家の故田辺尚雄氏だった。先人の労苦を忘れることは出来ない。

招待を受けたその日は珍事に見舞われた。妻は民族衣装のチョゴリ、 私は礼服と身を整え皇居へ向かった。ところが荒川大橋を渡り、 明治通りに入ったところから地下鉄南北線の工事渋滞となり、車が一向に進まない。王子の駅前まで、 普通ならば20分のところが、2時間もかかってしまった。仕方なく、 車を止めてJRに乗り換え、 地下鉄で経由し皇居前についた頃には、 指定されていた時間に10分の余裕もなかった。

そこでタクシーを乗り宮内庁楽部に行こうとしたが、 悉く乗車拒否をされてしまった。理由は、盧秦愚大統領の訪日による都内の厳戒交通規制の為である。 半ば諦めていたところに、「東急ベーカリー」と書かれたライトバンが止まってくれ、送ってもらえる事となった。 妻が民族衣装を着ていたので目に留まったからだと言う。チョゴリの効力は大であることを確認させられた。

皇居内は案内の警視(守衛)が辻々に立っていた。招待状に印刷されている菊の御紋を示したところ、敬礼を以て車の誘導をしてくれた。 その時の若い警視が美男なのに妻は、 さすが皇居には役者が揃っているなどと感心していたのだから、 この窮地にも妻には余裕があったようだ。私は車寄せの10メートル手前で止めてもらい歩いて入場した。

礼服でライトバンに乗り皇居に入った事が、何とも恥ずかしく滑稽極まりない風体であるし、照れ隠しの為でもある。冷や汗がどっと吹き出た事は言うまでもない。式場に入り、 着席と同時に演奏が開始されたのは奇跡としか言いようがなかった。

行事を無事に終えて、王子駅前に放置した車に戻ったところ、 前後に大きな石が置かれ動かす事が出来なくなっていた。敷地の主人に謝ろうと事情を説明したところ、 怒りの為に凄い形相だった態度が一変した。その主人は「私も天皇様にお会いしたかった、もっと皇居であった話を開かせてくれ」とお茶まで勧めてくれた。一難を逃れることが出来たのは天皇陛下のおかげであり、日本の民衆から心から尊敬されていることを改めて認識させられた。

初めて祖国を訪問したのは 1974 年の春で、その際に今は亡き李方子元王妃(1901~1989)を訪ねた事があった。王妃は李王朝最後の皇太子、 英親王李垠殿下が急逝された後、私財を投げ打って身体障害者施設明暉園を運営。奉仕活動に御苦労していることを知り、 楽善斉に慰間に伺った。

日本の皇族であった梨本宮方子妃は、激動の李王朝末期第28代李垠英親王の王妃となられた。皇太子裕仁天皇の妃候補にも挙がった王妃は、日鮮一体という日本帝国の政治的陰謀により人質になった大韓民国の李垠王世子と政略結婚をされた。生涯、韓日友好の為に尽くされ、韓国の土となった悲運の王妃である。

その日運良く、私は七宝や陶磁器のバザーを開催していた方子妃に謁見出来た。人柄の良さと優しさに心洗われると同時に、大衆の中で献身されている姿に尊敬の念を抱いた。この日の出会いが元になり、1982年の秋に方子妃が東京高島屋でチャリティー作品展を開催した際には、私は通訳と接待のお手伝いをする光栄を頂いた。

作品会場に皇室から明仁皇太子(平成天皇)と美智子妃殿下、三笠官、秩父宮両妃殿下、高円宮様がお越し下さった。美智子妃殿下が李方子王妃殿下の書画、申相浩の壷、郭桂晶の工芸作品をそれぞれお買い求められた。その時に私が写したスナップ写真が何よりも記憶を鮮明に残している。

私は同展終了後、プリンスホテルに招待され、方子妃より労いの言葉をいただいた。そして、そのホテルの敷地内にある王妃のお住まいに案内された。(そのお住まいは現在、 歴史的建造物東京都史跡になっている)

王妃は西欧、アジア各国の王室から李垠殿下との結婚のお祝いでいただいたという絨毯やシャンデリア、寝室の家具やダイニングルームの食器棚にある食器など、新婚時代の懐かしい思い出話を交えながら、頬を紅潮させて一点一点、 説明し案内して下さった。そして浴室にも案内されて貼られていたタイルまで見せて下さった。それらは一級の芸術品ばかりであり、それまで私が目にしたことのない美しい世界であった。方子妃が過ごされた歴史の日々、その思い出がそこには定着していた。この日の事は一生忘れることが出来ない。

私には夢とロマンがあった。田沢湖町は私の少年、青春期の夢を育んでくれた所だ。戦前、戦後の苦難の時代、縁あって暮らした秋田の自然、人々との触れ合いは、私の人生にかけがえのない滋養を与えてくれた、有り難い故郷である。

食うか食わずの時、恩師の田口資生先生は「自然と人々の生活を素直に見つめ、感動を描け。」と絵の指導をしてくれた。その教えが、いつしか私のライフワークとなり、故郷の田沢湖畔に美術館を建てようという夢に膨れ上がった。私はその夢を王妃に語ったものだ。

その数年後、王妃が御病気と開いて、楽善斉にお見舞いに伺った。その時、やつれられた主妃は、「美術館の方はどうなっていますか」と私に尋ねられた。よく御記憶なさっている事に驚きながら、「まだ正夢になっていません」と答えた。「叶うように私が名前をつけてあげましょう」とおっしゃり 「田沢湖 祈りの美術館 李方子」と書いて下さった。全身の力を絞って書かれた、愛情溢れる名筆で思い出深い作品である。

1987年ライオンズクラブ国際協会330A地区年次大会に於いて王妃が御臨席され、お目にかかった。その時、御挨拶に立たれた方子妃は一回りも体が小さくなられ、力無く弱々しかった。

「長年皆さんには慈行会や明暉園の事では大変お世話になりました。息子の李玖の事では皆さんに大変ご心配をお掛けしました。これからは韓国で李垠殿下の意志を継いで福祉事業に身を捧げます。今日は皆さんに、感謝を述べる為に参りました。」

歴史の悲運の中にあった王妃の、何とも寂しく、辛い、今生の別れの挨拶であった。その時の王妃の心情を思うと私は涙が潤んでくる。

韓国国立中央博物館に日本の近代美術品約460余点が朝鮮戦争の戦火を免れて秘蔵されていて事が話題となった。日本が朝鮮半島を支配していた時代、 旧朝鮮王朝「李王家」が蒐集、或いは寄贈を受けた横山大観、 川合玉堂、 前田青邨、 土田麦僊、鏑木清方等の日本画の大家を含むコレクションであった。

98年度から日本の文化開放がなされた。その政策の一つとして広く日本文化を韓国国民に触れてもらう目的で、W杯成功を祈念した国民交流年の 2002年秋、 韓国国立中央博物館で半世紀を超え初めて日本近代美術品を公開した。

それまでタブーであった日本近代美術に触れた韓国国民は、 日本に関心と新たな認識をしたと思う。過去は過去、 芸術は芸術として再評価し合う両国の文化交流が相互理解を深めたからだ。

2003年春には東京、 京都と日本にも巡回され私は東京芸大の美術館でその作品展を見た。これらの逸品を見て改めて王妃との出会いを懐かしみ、 感謝の念を深くした。そして田沢湖祈りの美術館の夢は叶わなかったが河正雄コレクションが光州市立美術館で、 その夢を叶えている事をご報告し追憶した。王妃は私の夢が韓国で花開いた事を喜んでくれているのではないかと思っている。

今、私は子々孫々と続く在日の生活を考える。基本的人権を認め、差別と偏見のない社会。決して欺かず争わず、 誠意を持って交際出来る社会。 20世紀、韓日の不幸な歴史の狭間で、 歴史の流れるままに生きた李方子元王妃の御生誕100周年を追慕しながら、そんな社会を具現させる為の努力する事を念じた。それが在日として生きていく意味であると思っているからだ。