映画「在日」戦後50年史
文:河正雄

光復(解放)50年を記念して、戦後在日50年の歴史を記録、過去と未来を繋ぐ在日の想いを、呉徳珠監督が映像化したものである。製作費は全て有志によるカンパで賄われ、製作に2年余りを費やし、1997年完成上映された。

映画は「やがて時が来ればどうしてどうしてこんな事があるのか。何のために、こんな苦しみがあるのか、みんな分かる気がするわ。」とチェーホフ「三姉妹」より参照された字幕で始まる。

第1部は戦後50年の歴史編。映像と証言で綴る解放50年の在日同胞の苦難の歩みである。戦後の冷戦構造と南北「祖国」によって翻弄される在日像と戦後の朝鮮人運動と日本の「超国家主義」をあぶり戦後史の欺瞞性をえぐる。

第2部は在日を象徴する人間編ドキュメント。戦後の闇市、パチンコの景品買いに生きる1世の女性。先祖の地韓国と、生まれ育った秋田県田沢湖町の、二つの故郷を愛する2世の河正雄。在日ブルース、「清河への道」を歌う2世の新井英一。そして3世のテレビカメラマン、陸上競技選手、名作「にあんちゃん」の作者の娘らが、それぞれの半ば日本人になりながらの居場所を捜す4時間に及ぶ長編である。

草の根で行われた上映会は、全国各地で開かれ動員数は8万人に及んだ。作品は日本映画ペングラフノンシアトリカル部門1位、同年キネマ旬報ベストテン文化映画部門2位入賞、99年度朝日ベストテン入選を果たした。そして山形国際ドキュメンタリー映画祭2005の特別招待作品となった。

日本人から見た「在日」は、歴史の重みを切々と感じ、真の国際化の意味を問われ、学び省察を促されたようだ。この映画を見るか見ないかで、日本人の「在日」の見方が左右されると、身近な在日を知らなかったことを率直に認め、新しい視点が開かれたという。

在日からは、感傷や回顧では収まらず、世界を見る目を養い、在日の問題に新しい視点から客観的に振り返り、在日社会を形成していこう。個人を捉え直し、そして自らの歴史を自らの視点で見つめ直そうという省察が促されたようだ。そして「余りにもいろいろなもつれが多過ぎて、何故このような状況になったのか一度整理してみる必要がある」と朝鮮近現代史家の朴慶植さんの重い言葉に思いを一つにしたようだ。

若い世代にはこの映画は、これからの生き方を考える契機になったと思う。映画「在日」は在日同胞理解の教材である。在日を知ることは日本を知ることにも繋がる。「在日」は歴史理解を深めようとしなかった日本人に、そしてこれからの在日同胞にとっても学ぶところの多い、必見の映画である。

私は光復50年を記念する1995年8月15日、光化門前での旧朝鮮総督府尖塔取り壊しセレモニーの歴史的瞬間に立ち会ったこと、その映像を映画「在日」に記録されたこと、そして映像を通して多くの人々との出会いが出来たことを、在日に生きる者の1人として光栄に思う。

それと共に鹿角市出身の呉徳珠監督の作品として『記録映画戦後50年史「在日」』が上映される事を嬉しく思う。秋田は私の故郷でありこの映画には人物編において私も登場するからだ。戦前戦後縁あって18年間私を育んでくれた地である。田沢湖町で生活を営み、秋田工業高校に進学した時は、生保内から三年間、SLで秋田市へ通学した。

青春期、春には角館武家屋敷の枝垂桜を愛で、夏は駒ヶ岳乳頭山八幡平の山脈を縦走し、その山懐の名湯に浸った。田沢湖や十和田湖、八郎潟や男鹿半島での水遊びなど、夏の生気が懐かしい。

夏の終わりの竿灯祭と大曲の花火、西馬音内の盆踊りには哀愁があった。秋の本荘の新山公園やニツ井のきみまち坂での写生会での紅葉の鮮やかさが忘れられない。旧正月には沢山の雪の贈り物で作った「かまくら」遊びは童話の世界のようだった。

秋田の四季は日本の情緒を見事に演出し彩り豊かな時間の流れがある。私の人格形成にはこの秋田の自然と人々との交流の中で学び育まれたと言える。

父母の故郷は小金剛山と呼ぶ月出山と、4世紀に千文字と論語を携え来日した百済の文化の使者王仁の生誕地韓国全羅南道霊巌である。私は2歳の時、母と共に霊巌で暮らし2年後再び秋田に戻ったことがある。母は霊巌から麗水、釜山、下関、大阪、秋田そして生保内に辿り着くのに一週間以上もかかったと老いた今もその苦程を語る。

その時の私の記憶は玄界灘での船酔いと下関の町の風景である。大阪から日本海を北上し一昼夜かかって着いた秋田は目にも眩しい緑深く瑞々しい豊かな田園が広がる美しい自然の宝庫であった。食も豊かで人情も熱いのが霊巌と変わらなかった。一衣帯水、私は今二つの故郷を愛し文化

交流を通して友好親善のために往来している。

1995年国際美術展光州ビエンナーレでは田沢湖町の「わらび座」公演を招待できたことを誇りにしている。光州市立美術館には私のコレクション常設展示室があり美術文化振興と交流発展を願っている。秋田も光州も地方都市の個性豊かな光を発する時代が来た

ことを心から喜んでいる。

私は今昔の想いで韓日の架け橋となるこの度の上映を心より祝している。

新聞記事

撮影時の写真

呉徳洙監督の「在日」
文:河正雄

2012年10月29日、私の文化勲章受勲記念講演会に出席された呉徳沫監督と韓国文化院でお会いした事がある。その時、戦後70年の映画『在日』続編を作りたい、海外からも資料を集めなければならないと意欲的に話された。

「戦後50年史の映画『在日』の登場人物では、河さんは今現在でも第一線で活躍している方である。続編を作る際には、また出演して下さいね。」と嬉しい話をして下さった。

2015年6月30日、市民の手による花岡事件70年慰霊祭が秋田県大館市花岡の信正寺で開かれた。その席で呉監督とお会いした。癌を患い痩せ細った姿を見て、余りの変わり様に慰める言葉が見つからなかった。呉監督は「元気になって在日70年史の映画を撮るよ。」と意気込んではいたが、その声に力は無かった。

数日後の7月7日、私は韓国文化院ギャラリーにて河正雄コレクション呉日画伯追慕「きらら展」を開催した。呉監督が、そのオープニング式にお見えになられた。

「相変わらず、あなたは在日の為に良い仕事をするね。河さんは在日にとって大事な人だから身体だけは大事 にして下さいよ。」と励まされ、私は申し訳なく思う程に恐縮した。

年末になって私が秀林文化財団「金煕秀記念秀林アートセンター」建設の為にソウルに滞在していた時、妻から「呉徳沫監督が亡くなられた。」と電話を受けた。やはり持ち堪えなかったか、とうとう逝ってしまったのかと痛く落胆した。弔問に急ぎ行けない事を心で詫びた。呉監督とは共に秋田を故郷とする御縁がある。出会うと会話は必ずや秋田の彼の故郷鹿角や私の故郷仙北での学生時代の話となる。

2000年8月23日付朝日新聞掲載の「一語一会・憂しと見し世ぞ今は恋しき」という呉監督が書かれた文を送って下さった。

「永らへばまたこのごろや偲ばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき」という藤原清輔朝臣の百人一首の歌から紐解いて昔日を壊かしみ、故郷を偲んだエッセイであった。呉監督が還暦を前に人生回顧した郷愁の文を思い出し、哀悼した。

社会派の在日二世映画監督・呉徳沫氏が、戦後五〇年の在日の歩みを映画にするという新聞の記事を読んだのは、1995年3月2日の事だった。

80年代に呉監督が制作された『指紋押捺拒否Ⅰ』の完成試写会に伺った。受付にいらした呉監督と初めて挨拶を交わした。その間数十秒、眼の優しい方だという印象を得た。その時、社会性が強い、重いテーマの映画を撮って採算が合うのだろうかと身勝手な心配をした。

1995年7月下旬の事、呉監督から電話があった。数日後に呉監督は我が家を訪れた。用件は呉監督がその時に撮影している映画『在日』の事であった。戦後50年史制作の意図を語る呉監督の優しい眼には、厳しい光が宿っていた。

「1945年、解放された多くの朝鮮人は、祖国・郷里に向け帰っていった。そんな中、様々な理由で断念した『在日』は戦後五〇年、日本社会で生き続け、現在もその中にある。

当然世代交代は進み、祖国体験を持つ一世は10パーセントを切ったと聞く。その長い歴史の中で『在日』は政治的・運動的・民生的に様々な出来事や事件を体験してきた。

この戦後史の流れを"縦軸"にして、その歴史を懸命に生きて来た『在日』の庶民・家族の生き様を、’縦軸"にして映像ドキュメントする事により、過去から現在、そして『在日』の未来を指向し、と同時に次世代にも継承し得る作品を目指したい。」

「在日の既成概念は、強制連行や差別問題で権利獲得の戦いという暗いイメージがある。私はそれらの政治状況を乗り越えた、未来志向の生き方をする同胞のありのままの姿に、視点を当てた映画を作りたい」

〈在日〉〈戦後50年史〉という大きなテーマに真正面から立ち向かう呉監督の情熱が側々と伝わって来た。

呉監督は〈在日〉のーつの生き方として、河正雄のありのままの姿を撮影したいと切り出された。余りにも唐突な申し出に私は面喰ってしまった。

こうして人物編『河正雄の在日』というテーマでの撮影が、慌しく始まった。真夏の韓国と中秋の日本。私の二つの祖国、二つのふるさとで、ロケーションが行われた。

旧朝鮮総督府の尖塔撤去セレモニー 1995.8.15

8月15日はソウルでの光復50周年記念中央式典、旧朝鮮総督府の尖塔撤去セレモニー。そして光州市立美術館『河正雄コレクション記念室』での撮影、『光州盲人福祉会館』での盲人達とのインタビュー。そして私の父母の故郷霊巌の先祖の墓や王仁廟など、5日間に渡る過密スケジュールで韓国ロケが行われた。

私は光化門前での旧朝鮮総督府尖塔取壊しセレモニーの歴史的瞬間に立ち会った。その映像が映画『在日』のクライマックスに記録された事、その映像を通して、多くの人々との出会いが出来た事は光栄であった。

「月出山の山並みがとても美しい。河さんの祖先が眠る九龍峯の山容が印象的であった」と感想を述べられ、自分が誉められているような気持ちになった。

10月20日からの3日間は、日本の故郷、秋田県田沢湖町(現仙北市)での撮影となった。ロケにあたり呉監督は『河正雄の在日』撮影の意図について、次の様なコメントを示された。

「在日二世河正雄にとって『祖国』・『故郷』とは何か?その一端を探る目的で今回、田沢湖町でのロケを組む。河正雄は、自らの多感な少年時代を過ごした田沢湖町をこよなく愛し、そして両親の故郷である韓国の光州と霊巌を愛し続ける。河正雄の郷土愛は抽象的・観念的なものではなく、実に具体的である。例えば、霊巌には先祖の霊碑を建立し、光州市立美術館に絵画を寄贈し、光州市の盲人福祉施設の建立に尽力し、それらの功績で光州広域市名誉市民章を贈られるほどである。一方、河正雄は田沢湖畔に立つ『姫観音』の真実の由来、つまり1940年に完成した生保内発電所建設に関わる田沢湖導水路工事で犠牲になった、多くの朝鮮人労働者を慰霊する像であったことを突き止めた。

田沢寺に『朝鮮人無縁仏慰霊碑』を建立し、毎年秋には地域の人々と共に慰霊祭を催している。更に、田沢湖町立図書館に河正雄文庫を開設し、母校である生保内小・中学校には『ブロンズ像』を寄贈している。そして、民族歌舞団わらび座の光州ビエンナーレ公演の実現と、その成功に力を注ぎ、『在日』の画家達の作品を中心とした『田沢湖祈りの美術館』建設の夢を抱き続ける。河正雄の『故郷』に対する情熱はとどまることを知らない。それほどまでに具体的実践を通して思いを込める『故郷』とは何であろうか?『在日韓国人二世・河正雄』を通して、戦後五〇年を生きてきた『在日』のーつの姿を描きたい」

映画『在日』は光復(解放)50年を記念して、戦後の在日50年の歴史を記録、過去と未来を繋ぐ在日の想いを映像化した。製作費は力ンパで賄われ、製作に2年余りを費やし、1997年完成上映された。

呉監督は在日の軌跡を、膨大な資料や映像との格闘の末、「映画在日50年史・在日」を完成させた。在日韓国朝鮮人の戦後50年に渡る歴史と生き様と、政治に翻弄された同胞100年の歩みを差別と向き合う在日韓国朝鮮人の苦闘を描いた。

日本の戦後社会の暗部を浮かび上がらせ、在日の戦後を通し日本民主主義の欺臓性を糾弾した。

50年という「時」を記録し、人間の苦しみや悲しみを癒してくれる良薬として、映画『在日』は民族史を語る永遠なる作品として遺された。その貢献を賞賛し、共に制作に関わった光栄に感謝したい。

故人が願った70年史の制作が出来なかった事は心残りであったろう。その遺志を継ぐ後輩が現れ、いつの日にか実現する事に想いを託すしかない。今は心安らかに御眠り下さいます様に祈るばかりである。