白磁の人

浅川巧

1996年の秋のことである。わらび座の茶谷君が、歴史の研究会の帰りということで我が家を訪れた。

「すばらしい本だよ。プレゼント。」と、1冊の本を手渡された。江宮隆之著『白磁の人』(河出書房新社刊)であった。表紙の帯に「朝鮮に愛された日本人」「朝鮮の、ことばを芸術をくらしをそして友を愛した人」とある。それは浅川巧の生涯を描いた小説であった。

浅川巧は、明治24(1891)年、山梨県北巨摩郡甲村(現、高根町)に生まれた。県立農林学校を卒業して、5年間秋田県大館の営林署で造林技師として務めた後、兄伯教と相前後して朝鮮に移り、農林技手として植林技術の普及に努めるかたわら、失われようとする朝鮮の美の発掘に献身した。日本の植民地支配下にあった朝鮮に生きて、朝鮮の人々から愛された希有の日本人である。

私は貪るように読み、込み上げてくる熱いものを抑えることが出来なかった。文中の次の一節が特に心に沁みた。

「植民地政策下の朝鮮で、民芸の中に朝鮮民族文化の美を見つけ出し、朝鮮の人々を愛し朝鮮の人々から愛された一人の日本人林業技手がいた。日本では浅川巧、という名前さえ知られることがなく、今もソウル郊外の共同墓地に眠る。その墓は韓国の人々によって守られ続けてきた。墓の傍らに建てられた碑文は、ハングルでこう記す。〝韓国が好きで、韓国を愛し、韓国の山と民芸に身を捧げた日本人、ここに韓国の土となれり〟と。」

浅川巧との出会いは、偶然と言おうか必然と言おうか。どちらにしても深い縁で結ばれていたのだと、その時しみじみ思った。

清里紀行

忘れもせぬ1960年5月5日のこと。ちょうど20歳の時である。汗ばむほどの初夏の新宿御苑で楽しんだ後、あてもなく新宿駅から中央線に乗った。小渕沢駅でSLを見つけた。急に乗りたくなってホームに降りた。そこから小梅線で小諸まで行く列車だという。

急勾配を、シュッシュッポッポ、シュッシュッポッポとあえぐように山麓を進んで行く。後にした山塊、前に現れる山容、実にみごとな風格をそなえた三千メートル級の峰々に、私の胸は高鳴った。

「清里」という駅に着いた。「清き里」、なんとロマンチックな駅名であろう。私は急いで列車から降りた。その時の空気のうまさは、今も忘れがたい。降りたとたん身を刺すような冷気に震えあがった。下界の暑さからは想像も出来ないような別世界である。そこは標高1275メートルの高原の駅。目の前に黒々とした山岳が迫っていた。

八ケ岳であった。私は八ケ岳も南アルプスも知らず、何の目的も知識もなくただ汽車に乗って清里の地に降りたったのだ。 駅舎は朽ち果てたみすぼらしい小さな木造、降りたったのは私1人、何ともいえぬ寂寥感のただよう旅情を噛み締めた。
 山の夕暮は早い。夕日に染まった八ケ岳のキリリとした凛々しさ、遠く南に富士山が望め、周囲の雄大な山岳美に息をのんだ。なぜか武者ぶるいをしたのだから、その時まちがいなく若さと青春があったのだ。駅の近くの旅館に泊まって、翌朝、駅前を散歩した。いやに「浅川」「あさかわ」という看板が目立つ。ここが山梨県の高根村であることがわかった。

ちょっと待てよ、私の知っている「浅川巧」、もしかしたらここは浅川巧の故郷ではなかろうかと直感して、私の胸は躍った。私は小躍りするような気持ちで、「浅川巧のこと知りませんか」一軒一軒尋ね歩いた。浅川巧が生まれ暮らした家があるかもしれないと思ったからだ。

だが、誰一人こたえてくれる人はいなかった。「さあ、そんな人のことは聞いたこともありません」というつれない返事がかえってくるばかりであった。

「浅川」の看板をかけた家の主人が浅川巧のことを知らないのだから、これは自分の方の記憶違い、土地ちがいなのだと早合点した。その時に深く思わなかったことが、これまで浅川巧との接点、糸口を見い出せなかった理由になる。

浅川兄弟生誕の地

「人は生まれながらにして自由・平等である。(『世界人権宣言』より)

人権モデル地区高根町」という立看板を高根町役場の入口で目にした。そこから1キロメートルほど隔たった所、甲川(かぶとかわ)を前にした公園入口に「史蹟、浅川伯教・巧兄弟生誕の地」の石碑が建っている。

実は甲川の向う岸、目と鼻の先が生誕の地であるが、人手に渡っているために、この地に建てたものである。碑面には次の碑文が刻まれている。

史蹟  碑 陰 記

秋雨のもりのかなしき庵なれど

空も我もの 海もわがもの

浅川伯教(1884-1964年)・巧(1891-1931)は、旧甲 村五町田、浅川如作・けいの子として生まれた。父方蕪庵六世小尾四友・母 方国学者千野真道の孫なり。父早生し、母と祖父等の慈愛に育まれ、長ずるや相前後して朝鮮に渡る。彼の地における兄弟の活動は人道主義的で一貫共に朝鮮の美の研究に没頭す。民芸運動の先駆者としても人々に深い感銘を与えた。

伯教は、朝鮮陶磁器の調査研究に生涯を捧げる。就中、高麗・李朝期の研 究は今も燦然と輝き、優れた業績を朝鮮に残す。朝鮮陶磁の神様と称されている。巧は、人間愛の故をもって、彼の地の人から、朝鮮が好きで朝鮮の人を愛し、朝鮮の山と民芸に生涯を捧げた人として敬愛されている。

平成三年三月吉日建之          高根町

史跡から数百メートルのところに浅川巧の墓碑があった。1977(昭和52)年春彼岸に、浅川家親族一同によって建立されたものである。

浅川巧、文徳院天巧道智居禅士 糺 輯 昭和六年四月二日 行年四十一歳

蕪庵六世四友翁の孫、祖父亡きあとの慈母一手の愛育により成人、朝鮮林 業試験場技師、半島緑化に尽痒、朝鮮美術工芸の研究にも没頭、遂に兄伯教 と協力して李王宮の輯敬宮に朝鮮民芸美術館創設、著書「朝鮮陶磁器名考」 「朝鮮の膳」など、また私費を投じ多数の朝鮮子弟を愛育、その人となりは 国定中等国語教科書の中の「人間の価値」と題する一文に尽き、全く知と愛 そのものである。一家をあげて民芸に捧ぐ。合掌

菩提寺 曹洞宗泉龍寺

墓石には十字の印が刻まれ、日本流の戒名がつけられているが、お骨は入っていないのである。せめて親族が身近く呼び寄せたい心情が伝わってくる墓石である。先祖代々が寄りそっている墓域を見ると、自然の姿に見え心温まる思いがするが、なぜか悲しみも感じられるのはどうしたことか。

「人間の価値」

カント学者でリベラリストであった安倍能成は、その著『青丘雑記』(1932年、岩波書店)の中に「浅川巧さんを惜しむ」を書いたが、これが1934年、中等学校教科書に「国語 六」に「人間の価値」と題して収録され、世の人々に知られることとなった。

高校時代になんでふれたのか、今は思い出す術もないが、記憶に止めたことが、浅川巧との出会いとなり、清里ライフの基になったと言っても過言ではない。

「巧さんのやうな正しい、義務を重んずる、人を畏れずして神のみを畏れた独立自由な、官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間だけの力によって露堂堂(禅語、何一つかくすことなく堂々とあらわれるさま)と生きぬいていった。かういう人はよい人といふばかりでなくえらい人である。人間の生活を頼もしくする。人類にとって人間の道を正しく勇敢に踏んだ人の損失ぐらい、本当の損失はない。」

安倍能成をしてかく言わしめた浅川巧は、今も私の心に普遍の価値として生きている。

「〝俺は神様に金はためませんと誓った。〟といはれたそうである。一種の宗教的安心を得て其自身の為になされてその他の目的の為に、報酬の為になされることを極度に忌まれた様に思ふ。道徳的純潔から来たものであろう。」

弱者を見過ごせない清貧の人、右手で行った善行を左手に知らしめない行事は常に朝鮮の人々の心にとけこもうとする彼の人格がさせたことだ。

「奸悪な者、無能な者、怠惰な者、下劣な者の多くははるかに高禄を食み、長を享楽しているが、巧さんのごときは微禄でも卑官でもその人によってその職を尊くする力ある人である。巧さんがこの位置にあってその人間力の尊さと強さとを存分に発揮し得たといふことは、人間の価値の商品化される当世に於て、如何に心強いことであろう。私は巧さんの為にも世の為にも寧ろこの事を喜びたい。」

「巧さんの仕事が、種を蒔いて朝鮮の山を青くする仕事で、一粒の種を蒔き一本の木を生ひ立てた方がどんなに有益な仕事か知れない。巧さんは『種蒔く人』であった。」

「朝鮮人の生活に親しみ、文化を研究し、大正12年来、柳宗悦君や伯教(のりたか)君と協力して朝鮮民芸美術館を設けた巧さんの態度は実に無私であった。内地人が朝鮮人を愛することは、内地人を愛するより一層困難である。感傷的な人道主義者も抽象的な自由主義者も、この実際問題の前には直ぐに落第してしまふ。」

「巧さんの生涯はカントのいった様に、人間の価値が実に人間にあり、それより多くでも少なくでもないことを実証した。私は心から人間浅川巧の前に頭を下げる。」

私は人を惜しむ文でこれほど痛切に真情を吐露した言葉を他に知らない。

戦前の教科書にのせられていた安倍能成のこの文章が、戦後になってなぜ教科書から消えてしまったのか。政治や経済が変われば、「人間の価値」そのものまで変わっていくとでもいうのだろうか。お金の価値のように人間の価値も変わる安価なものだろうか。価値は変わらないのだが人間が変わり、世の中の都合で変わっただけではないかと思われるがどうであろうか。

私は、どんな時代でも人間の価値は変わるものではないと思い、今日まで浅川巧を思いつづけて在日を生きてきた。

(1997年7月20日 私と清里「そして浅川兄弟」講演録より)


映画化「道・白磁の人」

ソウル特別市が管理する京畿道九里市忘憂里公園墓地には、南北分断による不遇の画家大郷・李仲燮(1916年~1956年)が眠っている。李仲燮は韓国美術史で評価が高い現代洋画家である。墓地には張徳秀、韓龍雲、文一平、呉世昌等独立の韓国近現代史を刻む著名な人士の墓がある。その近隣に韓国人に愛慕され守られている日本人・浅川巧の墓がある。

浅川巧(1891年~1931年)は、山梨県北杜市高根町に生まれた。県立農林学校卒業後、四年余り秋田県大館営林署で農林技師として務めたが、兄伯教と前後して朝鮮に渡る。農林技手として植林緑化の普及に努める傍ら、失われようとする朝鮮の美の発掘に貢献した。植民地化にあった朝鮮に生き愛された稀有の日本人である。20年前までは浅川巧の生地北杜市すら彼の事は知られていなかった。

秋田の高校時代に知った事から、浅川巧は私が在日として生きる為の人生哲学を学んだ敬愛する日本人の一人である。人間誰でも自分だけの隠し田を持ちたがるものだが、韓国人と向き合った浅川巧は隠し田など一切持たなかった。

自分のルーツが高句麗人だと思っていた浅川巧は高句麗人の血が故郷の韓国へと、私を呼んでいると告白した事でも愛の深さがわかる。歴史的に難しい時代に、故郷でも受ける苦難を自分の生涯と代わる愛の対象としたが、時代は違えども在日二世の私には、理解共感する世界である。

浅川巧の名著「朝鮮陶磁器名考」(1931年刊)の末尾に「民衆が目覚めて、自ら生み、自ら育ててゆくところに全ての幸福があると信じる」の文は、その愛の証である。朝鮮松の露天理蔵法による種子の発芽、養苗開発など、その業績は光る。朝鮮民族美術館建設の推進、朝鮮陶磁器や工芸の研究、朝鮮の膳などの工芸美を考察、韓民族の美意識と魂を民芸と植林の領域で我々の自尊心を高めてくれた。

日本民芸館の創立者柳宗悦(1889年~1961年)は「朝鮮陶磁器名考」の序に「どんな著書も多かれ少なかれ先人の著書に負うものである。だが此著書ぐらい、自分に於いて企てられ、又成された物は少ない」と記した。「柳宗悦の民芸運動は朝鮮の日常雑器によってひらかれた眼を、日本に転じる所から生まれた。日本の民芸運動の誕生の機縁となったこの結びつきを作った人に柳の友人としての浅川伯教、巧兄弟があった」と哲学者鶴見俊輔が述べている。

 江宮隆之著「白磁の人」(1994年刊)の映画化が話題となって数年となる。紆余曲折はあったが、浅川巧生誕120年・没後80年の記念年にあたる2011年完成上映を目指し計画されている。韓日両国の若人達や、浅川巧が勤務していた林業研究院の職員達も関心が薄く、知られていない存在を憂える人々がいる。この映画上映を通して、青少年達に韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人浅川巧の時代を振り返り、我々の未来に福音をもたらす果実は何であるのか、省察を込め、期待を寄せている。

善き追憶を辿り、先人の徳を慕い回顧する事は、国際親善の糧となる意味が深い。

「露堂堂」と生きた浅川巧

光州市立美術館名誉館長 河正雄

―ふるさとはありがたきかな―

私を育み、血と肉を作った故郷は生誕地の布施森河内(現東大阪市)、生後移住した秋田県の生保内(現仙北市)。2歳から4歳まで一時住んだ父母の故郷、韓国全羅南道霊岩。秋田工業高校卒業後に定着した埼玉県川口市である。

もう一つ忘れてはいけない大事なふるさとがある。青春21歳の時にふらりと降り立った浅川巧のふるさと「清里(現山梨県北杜市)」である。

巧は山梨県立農林学校を卒業して、秋田県大館営林署で造林技師として4年間務めた。後に兄伯教と相前後して朝鮮に渡り、農林技術の普及に努める。傍ら失われようとする朝鮮の美の発掘に献身し、後の柳宗悦を開花させた民芸運動の先駆者である。

植民地支配下にあった朝鮮に生きて朝鮮の人々から愛された稀有の日本人である。巧の生涯は「人間の価値」が実に人間にあり、それより多くでも少なくでもないことを生が示した国際人である。

私は在日の生を巧のように生きたいと念じた。巧のふるさと清里に住まいを持って生きた60年、故郷はありがたきものである。

―年輪を重ねた感慨―

20世紀の過半を生き抜いた者としては、2021年の年頭にあたり年輪を重ねた感慨を抱く。20世紀の我々の民族史、韓日史は苦痛と挫折、我々の希願と、理想に程遠いものであったからだ。

去りし歴史と時代に深い哀惜の念もあるが、来る21世紀の未来に新たなる希望を抱く喜びは形容し難いものがある。いつも多事多難であったが、いつも希望を失わなかった。希望を抱いて理想社会の具現の為に生きてきたという矜持を失わなかった。20世紀の歴史をしみじみと振り返り過去の不幸を乗り超える為には必須の条件である。

我々は日本に永住する市民である。日本社会で尊敬され模範的市民となり「共栄、共存」の姿勢で参与し、日本社会に寄与貢献する。日韓、日朝間の友好親善に務め、世の為、人の為に尽くしてこそ在日の存在意義がある。

我々は良き兄弟である。争わず信じ合う良きパートナーとして、人格と品格を備えた在日コリアン、世界人にならねばならない。

私達は自省して良い心、広い心、同じ心を通い合わせ心して未来の子らの為、世界の為に寄与貢献する世界の民とならなければならない。

私は初々しい心をもって自らを律し、幸せの予感に満ちている2021年を迎える。

2020年は新型コロナウイルスによる大災禍で1年が過ぎて行った。明けた新年は、どんな1年になるか誰にも推し量ることが出来ない。

―浅川巧生誕130年没後90周年―

2021年は浅川巧(1891年-1931年)の生誕130年、没後90周年記念の年である。1997年11月27日没後66年忌浅川巧公韓日(日韓)合同追慕祭が初めてソウルで開催された。韓国京畿道九里市にあるソウル市立忘憂里墓地の参拝を終えた後、ソウルのロッテホテルにて追慕祭が催された。その席で私は在日同胞を代表して追悼の辞を述べたことが昨日のことのように思われる。

「本日、浅川巧の追慕の言葉を述べるにあたり、感慨深いものがあります。私は、在日二世であります。日本での戦前戦後の生活は、父母は無論のこと多くの在日同胞は言葉では言い尽せぬ辛苦の歴史でありました。その苦痛は日本と韓国、そして北韓との狭間の中で現在も同じであります。

私は、在日で生きる為の哲学を教えられましたのが、浅川巧の生き方でありました。今から40年前のこと、秋田での高校時代に浅川巧を知ったからであります。それは 「人間の価値」の一文でありました。浅川巧の業績は多くありますが、私にとっての感銘は、その生きる姿、考え方であり、日々の行い、営みであります。浅川巧は、韓国の山河や歴史と文化を大きく深いところで見つめていたと思います。国や民族を乗り越えた「共生」を考えていた人でありました。

縁あって、私の在日生活は59年に入りました。その間、時代は物質文明のみ目覚ましく進みましたが、心の病は深く荒んで嘆かわしい限りです。私達は不幸であった時代を乗り越え、21世紀に向けて誠心を込めて友好親善を培い、兄弟であることを忘れてはならないと浅川巧は語りかけておるのです。

私達は、浅川巧の偉大さと心の深さを学び、継承するため今日集い追慕いたしました。「人間の価値」すなわち人格こそ普遍の価値あるものと教えられました。私は、韓国と日本という二つの祖国故郷を愛し寄与して、共に生きることを誓って追慕の言葉と致します。」

追慕祭以来、韓日(日韓)の人々に浅川巧の生の存在が認識されたことは、大きな喜びであった。

浅川巧の生地山梨県北杜市では彼の偉業を顕彰する為に2001年、浅川兄弟資料館を建立した。そして2005年には映画「道・白磁の人」の製作委員会が設立され2012年完成上映に至った。

私は2006年より彼の精神を学ぶ私塾・清里銀河塾を開いて啓蒙活動を行い、共に学んできた。

私は、これまで馬齢を重ね歩んで来たが、情を以って浅川巧を偲び生きた。「露堂堂」と生きた浅川巧を敬愛し感謝を込める。コロナの厄災を祓う意義ある記念の年にしたいと願っている。