田内 千鶴子(たうち ちづこ、韓国名 尹鶴子=ユン・ハクチャ)

1912年、高知市生まれ。7歳で父母とともに韓国・木浦に渡る。38年、児童養護施設「共生園」 の創設者で伝道師の尹致浩(ユン·チホ)と結婚。
動乱のさなかの1951 年、夫が食糧調達に出たまま行方不明になってからは一人で共生園を担い続け、「韓国孤児 3000人を育てたオモニ」と慕われるまでになる。
63年、韓国政府より文化勲章受章。1968年、病没。木浦市初の市民葬として営まれた葬儀には3万人が参列、「この日、木浦は泣いた」と報道された。
1969年、日本国政府より勲五等宝冠章追贈。生涯をチマ・チョゴリと韓国語で通したが、最後の病床で残した言葉は「梅干しが食べたい」という日本語であった。このことが、後に長男·尹基(田内基)を多文化共生の老人ホーム「故郷の家」建設に向かわせることになる。