経緯

2006年7月10日 学校法人金井学園理事就任
2012年6月19日 秀林外語専門学校生を映画「道・白磁の人」観賞会に100名招待する。新宿バルト9映画館。
2017年1月20日 東喬金熙秀先生5周忌記念顕彰碑除幕・両国秀林外語専門学校設置
彫刻家・張山裕史作ブロンズ像
書家・植松永雄・石工 関戸石材
企画推進・デザインする
2017年4月10日 金井学園創立30周年記念の秀林校歌作詞
2018年3月16日 金井学園創立30周年記念の秀林校歌 梁邦彦氏作曲完成する。

新聞記事


金熙秀先生を偲ぶ

光州市美術館にて(2007.10.11)

 

光州市美術館にて(2007.10.11)

 

秀林外語専門学校卒業式記念(2007.3)

 

ソウル・秀林文化財団理事長室にて(2009.12.20)

金井学園創立30周年記念校歌

金敬得(1949年-2005年)氏は和歌山県出身の外国籍初の弁護士となった在日韓国人。指紋押捺拒否事件や慰安婦戦後補償問題など、在日韓国朝鮮人の人権に関わる裁判で活躍したが、2005年12月28日、胃癌の為に早逝した。

2006年2月25日、東京電通会館で彼を偲ぶ会を開催する事となり会で は追悼文集を刊行する事となった。以下は、その文集に寄せた追悼文である。

『金敬得さんを悼む

1999年の年の瀬にウリ法律事務所を訪問した。「民族心」と書かれた書の額が掲げられていた。その書の3文字には彼の心が表されていると思った。

1980年、軍事政権の弾圧に対して光州市民が立ち上がった5・18民衆抗争から20周年を迎える2000年に、「人〈Man〉+間〈space〉」を主題とする第3回光州ビエンナーレが開催される事になり、人権という世界的な今日の問題を芸術の地平からメッセーする試み「芸術と人権」というテーマの特別展が企画された。

私は独自に光州市立美術館主催の「在日の人権展・宋英玉と曹良奎そして在日の作家達」を企画した。光州市立美術館に寄贈した私のコレクションから在日作家21名の作品150余点の展示である。韓国での在日作家の本格的な紹介は、在日の美術家が政治の動きに先行し、南北の垣根を超えて、歴史的に重い意味を持つ絵画展である。その意義を深めるためにシンポジュウムを開催する事となり映画「在日」の監督・呉徳沫さんと金敬得さんを光州に招待したいと事務所を訪ねたのである。

「現在、南北の国籍を持っている在日同胞は60万近い。在日僑胞が日本に居住する歴史的な原因は二つである。日帝の植民地統治と南北分断、先ず在日の人権問題を解消しなければならない。南北の分断が在日韓国人の人権向上において、日本国民の意識にも大変悪い影響を与えている。南北対立により大変な被害を被っているのが在日なのである。

在日同胞にはコンプレックスがあり、それが日本での人権向上を抑制し停滞させている。伸び伸びと、人権向上の為に積極的な表現が出来るように、先ず在日僑胞の現実を知ってもらい、統一問題などを含めて考えなければならない。」

シンポジュウムにおける、社会の不条理に向けられた彼のメッセージは、目覚めない無意識の日常を、地上の陽とする表現者であった。

彼は自分の顔を見つめている、自分の顔を大事にしている人であった。在日同胞が生きている現実の深い所に入っていく、豊かにして熱い魂=精神は、自らに疑いを持たず開放されて輝いており、澄んでいた。在目同胞が共通して持っているジレンマを、行動で自己が持つ「民族心」の精神にまで高め、道を切り拓いた人であった。

そんな彼が病に倒れ、早逝した事は惜しんでも惜しみきれない。在日、いや韓国と日本の架け橋となる大きな存在がまた一人去ってしまった。

それまで美術には門外漢であると彼は言っていたが、光州が持つ人権の意義、ひいては在日の美術が持つ意義を認識した彼が残せたかもしれな仕事の大きさを思うと、哀惜の念に耐えない。

偲ぶ会終了後に1990年に設立された学校法人金井学園(理事長・金煕秀1924年-2012年)より理事を務めていた金敬得氏の死去による後継として私に理事就任要請があった。以前から金煕秀理事長と金敬得氏共に縁故があった事もあり、受諾して2006年7月10日に就任した。

2009年、新たに金煕秀理事長が韓国ソウル市に秀林文化財団を設立された。その財団理事就任要請を受け2009年6月12日就任(2018年6月12日理事職勇退)した。2012年1月19日、金煕秀理事長死去により2012年6月12日、秀林文化財団の理事長職を引き継ぐ事となった。(2017年2月8日理事長職勇退)

2015年1月19日の金煕秀理事長満3周忌に秀林文化財団では「民族愛・大きな光・金煕秀」故東喬金煕先生追慕文集を発行した。その文集に「金煕秀先生を偲ぶ」という追悼文を書いた。

また2017年1月20日には両国の秀林日本語学校敷地に東喬金煕先生ブロンズレリーフ顕彰碑を建立し除幕した。以下は、その日の挨拶文である。

東喬金熙秀先生顕彰碑除幕式

『本日は早朝より都営八王子霊園金煕秀先生の墓前に参拝、そして只今より開幕される式典行事に公私御多用の所、多数御列席下さり皆々様に御礼申し上げます。

この度、八王子霊園での墓前祭は第3回目でありますが特別に意義あるものでした。2013年1月19日の第1回墓前祭で私は金煕秀先生に「心配しないで安らかにお眠り下さい。」と述べました

2016年6月25日の第2回墓前祭では経過報告を述べましたが、本日は心新たに墓前で、その後の活動報告を出来ました事は大きな喜びであります。

本日は数年前から準備して参りました念願の金煕秀先生のブロンズレリーフ顕彰碑建立除幕式、劉勝濬(ユ・スンジュン)先生著作の「学びこそ宝」の発刊披露、そして金煕秀先生を追憶する写真展を開催出来ます事は財団法人秀林文化財団及び学校法人金井学園の役職員御一同様の誠心誠意と努力の賜物と存じます。

そして見守り支えて下さった遺族の皆様や、世の多くの人々の温かい心の賜物と存じ、感謝に堪えません。

本日は金煕秀先生の人となりを心静かに回顧し、尊敬と感謝の心を新たに深めて下さり、世の人々とこの喜びを分け合う事を祈念します。

東喬金煕秀先生が遺された文化的、教育的遺産が世の人々の平和と幸福に寄与する共有の遺産となりますよう、私達は心をーつにして和を尊び、誇り高く前進せねばならないと思います。
再度、皆々様に感謝を申し上げ、私の挨拶と致します。

2017年1月20日財団法人秀林文化財団理事長河正雄』

顕彰碑制作工房にて

ブロンズレリーフの作品作家は張山裕史氏(1969年生)である。石膏試作中、作家とは名古屋駅で待ち合わせ駅構内の喫茶店で共同試作にあたった。また顕彰碑の題字は山梨県甲府市居住の書家、峡山・植松永雄先生(1940年生)の名筆をいただき、それらを纏めて川口市の石工、関戸石材の工房で調整と協議を重ね仕上げた。

企画してデザインを纏め建立に至るまでの推進は容易なる作業ではなかった。関係者の熱意と助力により念願の顕彰碑建立が叶って胸を撫で下ろした。

追って2017年4月10日、金井学園30周年を記念する為の秀林校歌を作詞した。私が理事になって出席した卒業式や入学式において、校歌斉唱が無かった事で寂しさを感じた事が動機である。

私のオリジナルの作詞について秀林職員の想いも入れるのが良いと考え教職員に補作を依頼した。下記の通り、纏まるまでには紅余曲折があったが校歌としての威格が整った。

『金井学園創立30周年記念・秀林校歌』

作詞・・河正雄
補作詞・・秀林教職員一同
作曲・・梁邦彦

  1. 白梅の香り豊かな亀戸の
    学びの園秀林
    あなたの努力 私の努力 みなここに
    明日への希望実らせて
    心をつないで未来を描く
    ああ秀林 我が母校
  2. 隅田の流れ 穏やかな両国の
    学びの園秀林
    あなたの思い 私の希望 みなここに
    未来の夢を紡ぐため
    心を繋いで平和を描く
    ああ秀林 我が母校
  3. 世界を繋ぐ言葉を日本の
    学びの園秀林
    母国の未来 世界の未来 みなここに
    愛と想いを倶にして
    心をつないで平和を描く
    ああ秀林 我が母校

 

 

2018年冬季平昌オリンピック開閉幕式で音楽監督を務めた、在日音楽家の梁邦彦氏に作曲を依頼した。彼とは上野公園の王仁博士碑の前で会った。実に爽やかでしなやかなセンスを感じた。彼を秀林亀戸校、両国日本語学校を案内し金井学園の現況と歴史を説明した。

そして彼との御縁に感謝し、作曲完成の祈願の為に亀戸天神を参拝した。その時、「天神さまにお参り出来て幸せだ。」と彼は言った。

1年近くかかった作曲は現代性溢れるリズムとテンポが心動かす新しいエネルギーを享受する校歌が生まれた。2018年11月2日、学校法人金井学園秀林外語専門学校創立30周年を祝うシンポジウムを記念行事として開き、校歌の披露が行われた。出席者全員で歌詞とリズムを追い合唱した。

在校生や卒業生に教職員一同が共に校歌を歌って母校への誇りを持つ絆が生まれた。感性に訴える情緒、音楽の価値の必要性の願いが30周年記念して実った。校歌で心をーつに結ぶ喜びは例えようがない。

金煕秀先生を偲ぶ

無所有という生き方を教義し、実践した法頂和尚は予測が不可能である事を楽しめと教えた。新しい事を実践しようとすれば、旧態依然を貫こうとするものからの風当たりが強くなる事は、今も昔も変わりない。

古い習慣を模倣するのが一番無難であるという「事なかれ主義」を貫いたのである。人間を駄目にしたいなら誉めて誉めて堕落させる事だ。これとは反対に敵対する人に悪ロを言うのは恩恵を与えることと同じであり、人生を消費しない方法について説かれた。

2012年2月1日付の統一日報の記事である。

「人材養成に生涯を捧げた金煕秀・秀林財団理事長が1月19日午後3時、東京・千代田区の介護施設で持病により享年88歳で死去した。

金理事長は在日韓国人として生涯に渡り祖国の人材養成に身を捧げた人物である。1987年累積債務と学生デモで破綻直前であった中央大学を引き受けて、1000億ウォン以上(当時の金額で300億円相当)の私財を投じた。

2008年に斗山グループに経営権を渡すまで21年間、理事長職に就き、同大学を韓国有数の私立大学に成長させた。

退任後、故人は奨学財団である秀林財団と韓国文化の継承発展及びグローバル化に貢献する目的で秀林文化財団を設立し、人材育成と韓国文化の発展に貢献した。

1924年慶南昌原義昌(旧馬山)生まれ、13歳の時に渡日。東京電気大学卒業後、金井グループを設立して洋品店、貸しビル業などを経営。叙勲は体育勲章青竜章、国民勲章牡丹章。遺族は李在林夫人、長男洋浩、長女恭子、次女昌子の1男2女。

金煕秀先生は無知により国を失った歴史から亡国の恨、貧困の恨、無学の恨を抱いたという。虐げられ、差別され、人権侵害を受けた国と民の行く末を憂い、学んで生きるのだと志を抱いた人物である。

金煕秀先生は「この世の中を照らす輝かしい灯りになれなくとも、暗い片隅を照らす人になれ。最善を尽くして努力すれば、その様な火種が集まり我ら民族の輝きになる」教育には平和が必要である。平和を作り出すことの大切さと教育の重要さを説いた。

「ノーベル賞を受賞する人材を輩出したい」という夢を見て、教育にこそ未来があると教育事業への道を歩まれた。意図的な目的の無い魂を持って事業を展開し、私の生き方とも共鳴する至論を残された。

家族にも多くを語る人ではなく、時に無言の怖さを感じる事もあった。だが厳しさだけが、金煕秀先生の本質ではない。権威を振りかざすのを嫌った。身も心も傷つき何度も心折られた事もあったという。

様々な障壁があったが圧力に屈せず、己の務持と向かい合い、茨の道を進んだ。その程度において敵が出来る事も当然であり、疲れると語られた事もある。

柔らかな人柄と辛抱強さが際立つ。「世界は広く大きい。子供を育てる中、子供からも学ぶのだ。子供達を楽しませよう。一緒に良い夢を見よう」と仰られた。

「人」を作るのが第一の道理である。楽しむ心を持って教育の力により韓国の再生を果たす夢を描いた。未来を背負う若者達の役に立てばという、その意志はどこまでも自分の為ではない誰かの為にといった想いで貫かれている。

未来を見定め前を向いて歩く。時代を先取りして進むべき大局を示す大志を持っており、それを嘯く人ではなかった。

闘争と忍耐の人であったが、融和の精神はネルソン・マンデラにも通じるものがあった。「困難により挫折することもあれば、困難により成長する人もいる。挑戦を続け、最後の瞬間まで希望という武器を振りかざして差別と闘う魂は、どんな鋭い刃でも切り裂く事は出来ない。

正義とは格好良い物ではない。正義は自分が傷つく事を覚悟しなければ貫く事は出来ない」と仰った。

また正木ひろしの言葉も心に置いていた。「分かち合う事によって物惜しみに打ち勝て。善い事によって悪い事に打ち勝て。怒らない事によって怒りに打ち勝て」

小柄な体で私利私欲でない無償の心で、教育の地平を切り拓き人生を捧げた人としての器は、とてつもなく大きい。孤独と哀切ある子供の様なあの笑顔をもう見られないのはとても寂しい。今も憧れ、まだまだ学びたかった人であった。

その一言が人の心を温める。その一言が人の心を傷つける。第9代中央大学総長である。金玟河が故金煕秀理事長2周忌に追悼文を寄せている。

「人生無償、会者定離!」。この瞬間にも新しい命が生まれ、また、ある命は人生を終えている。この地に生まれ、「成功した」という言葉の意味も様々な視点から判断され、解釈されるものである。

ある者は経済的に、ある者は高い地位、ある者は模範生の帰結として得た名誉により…。果たして、「成功した人生を送った」という基準とは、一体、どこに置かれ、何をもって計る事が出来るのだろうか!

なんであれ、故人は既にいない。「今こそ故人の名誉回復と彼が残した遺業の再評価が必要である」という切実な想いで、生前の故人との縁と、共にした苦楽を思うと血沸く青春時代に戻り、意欲的に動きたい気持ちもあるのだが、私のこの老体では、心のみが逸るだけという現実が残念でならない。

「故人を想うと涙が流れる程だ!」、「ケチな守銭奴!」。物言えぬ故人への批評と言い争いは多く有ったが、結局は、彼は大韓民国を愛し、教育と文化芸術分野の人材育成を通じた民族の未来に対し、格別の情熱を持って大韓民国の教育に専念した唯一無二の在日同胞愛国者だ、そのような故人のしっかりとした評価が足りなかったことも、我々の在日同胞に対する認識不足と浅はかな考えに起因したと言えなくもないと思う。

モリエールの「守銭奴」に登場するアルパゴン。出す事においては舌を出す事すら嫌い、掴むなら地蔵のむなぐらも掴む。「与える」を知らない徹底した流儀を通した「ケチ」の代名詞として余りにも有名である。

私は日本でも韓国でも、金煕秀先生は無類のケチであったという誇張されたうわさを周辺の方々から多く聞かされ、洗脳されそうになる程であった。アルパゴンが脳裏をよぎる事もある程で、うんざりしていた。実に質の悪い人物評価である。

「一文惜しみの百損をも知り一文惜しみの手前なし」である事を悟っての上である。一文を割って二文にして使い、倹徳で一家を富ませ、その一文は無文の師である事を教えてくれている。一両御前(一両の金を使えば、どんな身分でも殿様扱いされる事)も意に介せず一寸先の闇も地獄も味わい命を削った尊い苦労人が到達した「一文を笑う者は一銭に泣く」の哲学は今なお生きている教訓である。

犬も喰わぬ様な品位の無い通俗的なうわさには正直、失望を通り越して憤りを感じる程である。祖国に尽くし良い行為をする在日に対する嫉妬の感情もあるのかもしれないが、その様な評価は余りにも悲しい。

金煕秀先生は自慢することも無く、節約し、困難な問題の始末に取り組み、孤独の中で誠実に闘い続けた。

始末とは事の始めと終わりの事である。浪費せぬ事、倹約する事、質素である事を徳として生きた金照秀先生は「ケチ」という言葉で呼ばれる人では決してなく「始末の人」と呼ばれるべきであろう。

1978年、東京で在日韓国人文化芸術協会が創立された時、金煕秀先生は協会の顧問となられ、私は理事となった。私は1996年、協会の第3代会長に就任し、顧問である金煕秀先生より協会の財政支援を、2001年会長を勇退するまで幾度か受けた。

そんな御縁により、故金敬得氏(在日で初めて弁護士となった方)の後任として2006年、金煕秀先生が創立された学校法人金井学園の理事として、私は迎えられ現在に至った。

また2009年、金煕秀先生がソウルに創立された財団法人秀林文化財団の理事としても請われ、2012年の金煕秀先生の御逝去により後継理事長に就任し、現在に至っている。

金煕秀先生の他界により道半ばで事業が未完成となる事が無念である。だからこそ故人の作品としての「人生」に何かしらの意味が無ければならないのではないかと切実に思う様になった。在日2世としての私の人生とも重なり合う事が余りにも多い事からもそう思う気持ちは強いからである。

浅学、馬齢を重ねただけの私が、現在後継として秀林文化財団の理事長を勤めている。天国の金煕秀先生から、あなたに依頼して良かったといつか誉めて貰える日が来るだろうかと自問自答しながら財団の事業に献身している昨今である。その重責は心身にストレスを感ずるのも正直な所である。

人は何の為に生きるのかというのは永遠の難問である、理想を追い続け、死の間際まで求めた物は何であったのか。思想家としての金煕秀先生の理想郷。

2011年1月11日、遠くに富士山を仰ぐ都営八王子霊園、半坪にも満たない墓碑銘も無い草の上に、「金家」と刻まれただけの小さな石碑の前に立って2周忌の追悼文を私は読んだ。

「今日この場に、前理事長が身を削り設立育成に努められた秀林外語専門学校と秀林文化財団、その崇高なる志を奉る者達が遺徳を称え追悼するため一同に会しました。生前に果たしえなかった故人の遺志を継ぎ続けていることをご報告しつつ、遺業の継承への覚悟と決心を新たにいたします。

今後、発展していく秀林文化財団の歴史は浅く、今、ようやく最初の一歩を踏み出したところです。『文化』とは短期間で結果が出るものではなく、継続的な投資と努力があってこそ成果を出すことができます。

過去四年間の試行錯誤の中で、蓄積されたノウハウと経験を基に今後、財団が進むべきマクロ視点の方向性と目的を定め、現在実施中のプロジェクトも徐々に補完し、名実共に創業者が目指した大韓民国の伝統文化芸術と、精神文化の創造融合のグローバル化の先頭に立ちます。創業者の魂は不滅であります。」

取り巻く状況や現実は厳しく、混乱の歴史の中で虐げられて来たが、賛沢の世界には生きられない愛や誠実を実践した。

自主性を重んじ、自由を求める正しい知識と知恵を伸ばしていく事で、子供達の未来に将来がある。人として生きる知恵を学び、教育を受ける事で幸せになるのだという、教育者としての信念が生きている。

個人は自分の為には一銭も残さない。死後に広いお墓の土地を求める事も賛沢であると言った。

名誉を求める事も自己顕示欲も持たない、ノブレス・ブリージュ(品高ければ徳高かるべし)の精神に基づく墓石であった。

これは天国の金煕秀先生が望まれた事ではない。生前、理事長職を21年間に渡って勤められた中央大学に、私は美術大学の教育支援の為に2度、訪問した事がある。その時、若い教授達や職員、廊下ですれ違った学生達に金煕秀先生の功績を知っているかと尋ねてみたが、一部の縁故ある人は知っていたが、ほぼ皆無であった。

キャンパス内の本館裏にある工学館を金煕秀先生と奥様の名から1文字ずつ取り「秀林科学館」と名付けた唯二顕彰された建物があったが、その名の建立理由、建物の存在すら知る人は少なかった。なんという事であろう。虚しさと世の無常を思い知らされる訪問となった。

空海・弘法大師の「施人慎勿念受施慎勿忘」(施しに見返りを求むべからず。受けた恩を忘れるべからず)、「雀氏玉座右銘」に教えがある。私は、この教えを学んで欲しいと切に願った

(本文は2015年1月19日秀林文化財団刊「民族愛 大きな光 人間 金煕秀」に収録)

金煕秀先生誕生 第96周年記念 参拝式

2020年6月19日 八王子霊園 主催:FPU東京連合