《出典》私塾清里銀河塾2019.05.01発行:令和を迎えて「仏光普照」

花火

 秋田県仙北市田沢湖生保内に住んでいた家の向かい側に「佐藤新聞店」があった。佐藤新聞店は副業として、ところてんや蒟蒻(こんにゃく)の製造もしており、町内の八百屋や肉屋、魚屋に卸していた。
中学1年(1953年)の時、新聞配達のアルバイト募集広告が店際に貼られていたので、日曜や農繁期の休日、そして夏休み、冬休みなどで中学3年生まで働いた。家には机が無く、リンゴ箱が机替わりであった。
机が欲しかった事と、学費の支払いや友人の西木正明氏(直木賞作家)との駒ヶ岳、乳頭山、八幡平登山の旅費などを稼ぐ為でもあった。
秋に入り、アルバイトの御褒美だと言って店主が大曲の花火を見に行こうと案内してくれた。その際、大曲駅前で五目中華そばを御馳走してくれた。それまで外食などした事が無く、五目中華そばなど口にした事も無かったのでぺろりと平らげてしまった。
その様子を見た店主は「もう一杯どうだ?」と言ってくれたので遠慮せず、好意に甘えた。お腹はパンパンに膨れ上がり、その美味さと満腹感は生涯忘れられるものではない。
そして月岡劇場で月岡劇団の芝居を観劇し、続けて映画「喜びも悲しみも幾歳月」を観た。暗くなって雄物川の川辺に陣取り、初めて見る花火に感動した。その日は夢の様な一日であった。
その後、大曲の花火は日本を代表する花火大会として有名になったが、花火といえば空腹を満たしてくれた五目中華そばが先に思い浮かんでしまうのは、切ないながらも懐かしい思い出である。
2018年8月15日、第70回諏訪湖まつり湖上花火大会を観る為にJR上諏訪駅に降りた。これまで二度、花火大会には来た事はあったが、暗くなってからの到着だった。真昼に訪れたのは初めてである。
諏訪高島城を見学してみようと欅並木を通り、衣之渡(えのと)川にかかる衣之渡橋に来た所で突然、街頭スピーカーの放送があった。
「まもなく正午になります。今年は73回目の終戦記念日です。一分間の黙祷をお願いします。」
私は橋のたもとで73年前に大阪で迎えた終戦の日を思い出し、大戦中の犠牲者や戦没者に対し哀悼の意を表し、黙祷した。
冠木橋を渡って高島城に入り、天守閣を見学した。1970年に復興された天守閣で高島公園として諏訪市民に開放され愛されている城であった。
城見学が終り欅並木を再度見てみようと、川下の衣之渡川橋で息を飲んだ。可憐なピンクの蓮が咲き、蕾(つぼみ)が多数膨らんでいる。衣之渡川の一面が睡蓮畑になって絵の様であった。仏の花園かと思うほどの美しい光景にしばし見惚れてしまった。
橋の上で川上を望み、そして諏訪湖を望む川下に目をやった。その50m先に睡蓮の花と見間違えるようなピンクのシャツを着た人影が見えた。
その人は川面の蓮の花を見ており、地蔵の様に動かなかった。あなたは何を見ていたのか、何を考えていたのか、私はその人に話しかけたいという好奇心が湧いた。
その人の傍に寄って見たところ、かなりの高齢で派手なピンクのアロハシャツ、金縁の眼鏡に金のロレックスをはめていた為に怖気づいてしまい、声をかけるのを躊躇ってしまった。
所詮なく川辺の民家に目をやると、その建物は立派な造りではあったが、草木は生い茂り、敷地内はゴミ等が散在しており荒れていた。睡蓮の花畑の景観にはマッチしていないなあ、と思っていたところへ、老人が話しかけて来たので驚いた。
「何を見ているのか。この家の知り合いの方ですか?その家の方はこの地の資産家であるが老齢で身寄りもなく、荒れるに任せている様ですよ」と話された。
その口調や風貌に、この方は同胞ではないかと直感した。こうして諏訪在住の在日一世・呉鳳煥氏(93歳 1925年8月26日生)と知り合う事となった。
全羅南道長城出身の方で義理の父(父が亡くなり母が後妻に入った)から12歳の時に食べていけないから家を出るように言われ、平壌の飛行場工事に携わる人の小間使いとして子守りをしたり御飯を炊いたりしていた。
そして、その人に追随して中国の奉天から1時間程の鉄道支線最終駅の村まで移り、中国人の家で百姓をした。水道も無く、汚水で腹を壊すと死を待つような、食べ物も無い劣悪な環境だったという。14、5歳の時、奉天で列車が引っ繰り返り、大勢の方が亡くなった事を鮮烈に覚えている。
16歳の時に身体を壊し、故郷の順天に帰った。また義父に家を出るように言われ、年齢を18歳だと偽り、木曽福島の御嶽山7合目での発電所隧道トンネル工事の募集に応じた。それまで白米は食べた事が無かったが、白米が食べられ給料も貰え、日本は有り難いと思った。しかし寒さには耐えられず、更に良い条件の松本飛行場の工事現場に移った。
18歳の時に日光に移り、飛行機の頭部を作る工場で働き、防空壕の工事もさせられた。そして会津若松の発電所導水路工事にも従事し、また日光に舞い戻って堰堤工事に関わっている時に終戦を迎えた。20歳の時であった。
戦後、多摩川にいる親方を頼り東京に出たが、寄る辺なく上野の地下道で過ごしていた。その時に知り合った身寄りのない女の子が諏訪出身であり、諏訪で共に暮らす事となった。
戦後、諏訪でつくった麹(こうじ)を6時間も列車に乗り上野の闇市で売った。20~30円で仕入れた物が150円から200円程で面白いように売れた。池袋にいる濁酒や焼酎を作る者がお得意様であった。
こうしてお金を貯め、焼き肉店を開き、不動産ブームに乗って不動産賃貸業、そして金融業も営んで、この諏訪でこれまで73年暮らしている。日本は有り難い国である。
一生懸命働けば生きて来られた。
韓国では徴用工の問題で給料を貰えなかったと言って裁判をしているが、そういう訴えをする韓国人が嘘を言っていて嫌いだと言った。
戦後処理問題や領土問題、教科書問題などを韓日間で政治利用し、問題を起こし困った事だ。いつも在日の我々の生活は平穏でない。そのとばっちりは我々、在日に来る。末の孫達が可哀想だ、と呉さんは言った。
「当時、自由募集労働者として日本に渡り定着した永住者は呉さんの様に思う事だろう。しかし、官斡旋の徴用工や徴用法(強制連行)により日本で働かせられた人達は、劣悪な条件で給料も貰えず、国からも見放された犠牲者達である。73年経って、その不条理のマグマが爆発しているのだ」
そして「私の故郷:秋田県仙北市田沢湖先達発電所工事における徴用労働者として全羅南道霊岩郡三湖面出身の曺四鉉氏、同所神代の夏瀬発電所工事に従事した京畿道始興郡出身の徴用労働者である李用鎮氏は食事がおからばかりで一日12時間労働、給金は国防預金に回されて貰えなかった。両者共、国家賠償して欲しいと私に切実に訴えながら亡くなった」と説明したが、呉さんは合点がいかぬと収まらなかった。
 不幸な時代における各々の労働環境、境涯やその立ち位置による歴史認識の違いは、同胞ですら埋めようがない程の断層が存在すると再認識させられた。
 その夜の花火は湖上に華麗に大きく花開き、天空と地を轟かせて虚しさだけを残して一瞬にして儚く消えた。

韓国大法院判決

2018年10月31日、韓国大法院(最高裁)が新日鉄住金に元徴用工韓国人4人への損害賠償を命じ確定した。強制動員被害者の原告が求めた「慰謝料請求権」が認められた判決であった。
「歴史的正義を確認した当然の判決」とする韓国メディアの論調に対して、日本政府は「元徴用工の補償問題は、1965年の日韓請求権協定で完全且つ最終的に解決済み」と受け入れない立場を表明した。国際法上、韓国政府の対応が不十分な場合は国際司法裁判所(ICJ)への提訴も視野にと反発している。
韓国政府が認定した元徴用工は約22万6千人もおり、現在同様の訴訟は約80社を相手に計14件が係争中で、この判決により更に訴訟は増す可能性があるから、今後の事を思えば頭が痛い。
韓国には国際法上考えられない「法の上に国民情緒法がある」と言われる。自国民の声を重んじる世論の支持をバックに「政治ゲームに徴用工問題を巻き込んだ。協定も順守。判決も尊重」という難しい事案を、韓国は国内問題として処すべきという内外の意見に、どう処し、解決するのだろうか。韓国の民主主義が問われている。
このジレンマの落としどころを捜し、ボールの投げ合いが続く事であろうが、平穏に収まる事を祈る。出口が見えない韓日関係のデリケートな問題に気は重く、心が晴れない日々は続く。

一期一会の人

 1998年2月25日の金大中大統領就任にあたり、民団新聞に掲載された私のメッセージである。
「我が国には素敵な挨拶がある。アンニョンハシムニカ(安寧でいらっしゃいましたか)。その用語には相手を想い、労わり合う心が宿っている。
 人生の目的は地位や物質を求める事だけではない筈だ。心や人格を高め、心安らかにしたいと願っている。国作りにおいても、その心は重要な精神であると思う。
 韓日関係において、有効と相互理解を求め信頼を築く為には文化交流の重要性は言を待たない。しかし、国民感情による合意という錦の為に慎重且つ警戒的で、決して安寧なる関係でない。今や欧米先進国は国益の垣根を外して、果敢なる文化戦にチャレンジしているではないか。
 我々は世界に誇る固有の伝統文化を育んできた。我々らしさの文化を世界的視野に立ち、堂々とアピールし発展させることこそ、世界に貢献出来ると信じている。文化大統領を歓迎し期待を込めたい」と国民感情(情緒)について懸念を記した。
 大統領就任後、最重要政策として、それまでの閉鎖的、前時代的な韓日間の垣根を払い、境界を越える文化交流を促進し、韓流・日流ブームとなり友好親善の互恵関係が育まれた。
 何の因果と言おうか、2018年の韓国大法院の判決は国交回復後、最悪の韓日関係の契機となった。そして悪夢のような月日は流れ、正常化には程遠く拗れ(こじ)に拗れ(こじ)てきた。
《後段は、2021年1月27日に加筆している》
 2020年、世界を襲った新型コロナウイルス禍によりストレスは積もり、沈んでいく日々を送ることとなった。
2021年1月18日に文在寅大統領の年頭会見があった。2018年10月31日の韓国大法院判決に対して「困惑している」。そして、1月8日に出された韓国の裁判所が日本政府に元慰安婦への賠償を命ずる判決で「強制執行による現金化は望ましくない」と素直に述べていた。2015年の韓日の慰安婦合意事項を公式に認める会見であった。
2019年夏の元徴用工問題や、日本政府の対韓輸出規制強化の問題で韓日は国交回復後、最悪の緊張関係が続き、動きが取れずにいる。韓国の裁判所が自国の正義の実現の為、韓日外交同意を優先させた結果である。
しかし大統領が具体的に解決方策を出していないのは、現実的に歴史上の問題が絡んで、両国には互いを嫌い合う国民感情があるからであろう。
2021年1月27日、諏訪の呉鳳煥氏から「諏訪の花火は昨年、新型コロナウイルス禍で中止になったが今年はどうなるか。開催されたら是非、遊びに来て下さい。」と電話があった。
そして「文在寅大統領の年頭会見の話だが、国際法上の根拠は不透明ではあるが、判決でなく話し合いで和解決着する事は出来ないものだろうか」と話された。
私は「国民感情が優先する正義が今の韓国の国情であるから、残念ながら国民が感情を鎮め、抑え、超える文化が醸成されていくように両国の努力が必要である。我々在日も、日本との懸け橋になるよう努力と忍耐が必要でしょう」と答えるのが精一杯であった。
「今年、誕生日が来たら96歳になる。残された孫子の事を考えると、日本で一生を生きたが、このまま逝くのは忍びない。韓日が仲良くなってもらうことが願いです。
河さん、今年の花火を一緒に見たいですね。元気でいて下さいよ」と話され、15歳も年下の私が励まされた。私も呉さんのように96歳まで生きようと意を強めた。
話を終えて走馬灯のように、これまでに見た花火が色とりどりに蘇っては淡く儚く消えて行った。そのいろどりが一期一会の出会いを大事にして、人生の色を更に重ねていきたいものである。
2021年1月27日に着任した姜昌一新駐日韓国大使が「韓日両国の友好関係の促進強化の為に最善を尽くす」と語った。待ち焦がれる春が来るのではと、期待に胸が膨らむ思いがしている。

ヘイトスピーチ

日本では常々在日韓国・朝鮮人に向け繰り返されるヘイトスピーチ。人を貶め、侮蔑する言動を憚らず(はばか)確信的差別を楽しむ一定数の言動が日常攻撃をしてくる。
差別や偏見はネットや雑誌、テレビ、SNSに広がり「言いたい放題の風潮」にも見え、憎悪の言動は広がっている日常に身が縮む思いである。
普通の人々の正義感に訴える「不当な要求をする連中(在日韓国・朝鮮人の事)である」と「誰が発言しているのか見えぬ世論の作為」を以て、悪のイメージを造成した影が迫って来る。
作為された世論は容易に敵味方の彼我を変え、「敵」という認定に転ずる事がままある。1%にも満たぬ、それらの極端な意見には、その極端さ故に存在感があるから無視出来ないのだ。その内容を考察せずにそのまま受け入れるのは甚だ危険である。過去の歴史を繰り返してはならない。
極端な主張、スキャンダル、ゴシップの記事を以てセンセーションを巻き起こし、一時的な熱狂を以て、差別し恣意的排外主義を煽るのは幼稚と言えるが、それらが多数を占める様に見えてしまうのが現実である。
正確な歴史的認識に基づかないヘイトスピーチで憎悪の言動を広げ、差別に加担する極一部の日本国民の情緒には失望を禁じ得ない。
それでは韓国にはヘイトスピーチが存在しないのかと言えば、形や情緒は違えども当然、存在している。他山の石として互いに学習せねばならない問題である。
法の上に国民情緒が優先しない国のメディアには、見識を以て良識ある報道を願ってやまない。                                        

以上