李方子妃殿下について

李方子さまは日本の皇族のご出身、皇后陛下の従姉に当られます。
梨本宮守正、伊都子夫妻の第一王女として明治34年11月4日にご誕生されました。
大正9年4月28日、19歳の方子さまは李王朝王世子垠殿下とご結婚され、赤坂紀尾井町に新居を構えられました。
昭和20年の日本の終戦と共に夫君の国は分裂、臣籍降下、無国籍、そして一韓国人と、波乱の日々が続きました。
昭和34年、垠殿下が脳血栓で倒れ、意識不明のまま韓国にご帰国され、昭和45年5月ご逝去なされました。
方子さまは垠殿下のご遺志を継いで、ソウル市郊外に精薄施設「慈恵学校」、翌年には身体障害児補導施設「明暉園」を設立なさいました。
晩年は、私財をなげうって精力的な奉仕活動に半生を捧げていらっしゃいました。

「流れのままに」悲運の王妃

光州市立美術館名誉館長 河正雄

ソウル景福宮内の国立古宮博物館にて「純宗皇帝の西北巡幸と英親王 王妃の人生・河正雄寄贈展」(会期2011年11月22日~2012年1月31日)が開かれている。

2008年、私が駐日韓国大使館韓国文化院に寄贈した李方子王妃の遺品685点が、韓国文化財庁の所管となり3年の調査研究の成果を一部公開したものである。「朝鮮末期の悲運の歴史が手のひらに捕らえられている様だ。」との評で今、韓国で話題となっている。

寄贈品は韓日併合(1910年)前後の埋もれていた日韓の近代史を埋める記憶遺産であり、その時代を証言する貴重な歴史文化遺産である。この寄贈展が開かれるまでの王妃との御縁を語ろう。

―出会い―

初めて祖国を訪問したのは1974年の春で、今は亡き李方子元王妃(1901~1989)を訪ねたことがあった。李王朝最後の皇太子、英親王李垠殿下が急逝された後、私財を投げ打ってソウルで恵まれない子供達の身体障害者施設明暉園を運営されていた。福祉活動でご苦労していることを知り、楽善斉に慰問に伺ったのである。

日本の皇族であった梨本宮方子妃は、激動の李王朝末期第28代李垠英親王の王妃となられた。皇太子(裕仁昭和天皇)の妃候補に挙がった方子妃は、日鮮融和という日本帝国の政治的陰謀により人質になった、大韓民国の李堤王世子と政略結婚をさせられたと言われる。生涯韓日友好のために尽くされ、韓国の土となった悲運の王妃である。

朴正熙大統領が韓国に王妃を迎えられ、社会福祉活動をしていらした王妃を私は景福宮楽善斉に訪問し初めてお会いした。

その日、運良く、私は七宝や陶磁器のバザーを開催していた方子妃に謁見出来た。私は王妃様という事で気後れしてしまい、近づく事が出来ないでいた。温かく迎えて下さった優しさに心洗われると同時に、大衆の中で献身されている姿に尊敬の念を抱いた。この縁が元になり、1982年の秋に方子妃が、日本橋三越でチャリティー作品展を開催した際、王妃の慈善事業をコーディネイトしていらした山口卓治氏からの依頼で私は通訳、接待のお手伝いをする光栄を頂き、身近くお人柄に接する事が出来た。

作品展会場に皇室から明仁皇太子(平成天皇)と美智子妃殿下、三笠宮、秩父宮両妃殿下、高円宮様がお越し下さった。そして福田赴夫首相も激励に見えられた。美智子妃殿下が方子妃の書画、申相浩氏の壷、郭桂晶氏の工芸作品をそれぞれお買い求められた。その時、私が写した多くのスナップ写真が記憶を鮮明に残している。

同展終了後、私は旧宅であった赤坂プリンスホテルに招待され、方子妃よりねぎらいの言葉をいただいた。そして、そのホテルの敷地内にある日本でのお住まいに案内された。グランドプリンスホテル赤坂の旧館で英国風の洋館であった。そのお住まいは現在、文化財、歴史的建造物として東京都史跡になっている。

方子妃は西欧、アジア各国の王室から李堤殿下との結婚のお祝いでいただいたという絨毯やシャンデリア、寝室の家具やダイニングルームの食器棚にある食器など、新婚時代の懐かしい思い出話を交えながら、頬を紅潮させてインテリアを一点一点、説明して下さった。そして浴室にも案内されて貼られていたタイルまで見せて下さった。

それらの美しさは一級の芸術品であり、それまで私が目にした事のない美の世界であった。方子妃が過ごされた青春の日々が、幸せだった思い出がそこには定着し息づいていた。付き人が私生活の内部まで、この様にお話なさるのは稀であると話され、恐縮した。

幸せだった頃の懐かしい思い出話を聞かせていただき、温もりある人柄に触れた事により、私は王妃に対して母の様な親近感を抱いた。

「河さんは今、何をされていますか。」と王妃が尋ねられた。「在日韓国、朝鮮人の絵をコレクションしております。終戦末期に徴用で犠牲になられた同胞を慰霊する為に、美術館を秋田県田沢湖畔に建てようと準備しております。」と答えた。この日の事は一生忘れる事が出来ない。

―東江の祈り―

私には夢とロマンがあった。秋田県仙北市田沢湖町は私の少年、青春期の夢を育んでくれた。戦前、戦後の苦難の時代、縁あって暮らした秋田の自然、人々との触れ合いは、私の人生にかけがえのない滋養を与えてくれた有り難い故郷である。

食うか食わずの時、生保内中学校時代の恩師の故田口資生先生は「自然と人々の生活を素直に見つめ、感動を描け。」と絵の指導をしてくれた。その教えが、美術の世界への開花となり、いつしか私のライフワークとなって、故郷の田沢湖畔に美術館を建てようという夢に膨れ上がった。私はその夢を方子妃に熱く語った

第二次世界大戦が勃発し、朝鮮人に対する徴用が法制化、創氏改名令が施行された1939年、日中戦争の戦時下、私は布施(現東大阪市)で生を受けた。

振り返ると民族的な恨(ハン)、そして不条理な戦争への恐れが、この当時にインプットされた事で、平和と幸福を希求する人生観と哲学が形成されたといえる。日本と朝鮮半島との歴史が在日二世の運命に大きく影響したのも必然であろう。

私の祈りは私の雅号「東江」に表れている。秋田工業高校を卒業する時、級友達と別れの寄せ書きをした。その時、河の流れの様に滔々と人生を生きるのだと「大河の如く」と記した。社会に出るにあたっての青春の決意であり、宣言であった。

父母のルーツである祖国韓国の泉からの流れは小川から川、そして大河となって流れていく。そしてその流れは江となり東海に注ぐ。人生の到着点を私は太洋への流れとし、自己の存在を一衣帯水とイメージしたのだ。

東洋の日の本に生を受けた在日韓国人二世としての宿命を身に感じた人生の出発点が秋田である。韓国と日本、二つの祖国の故郷を愛し、そして信頼し合える兄弟にならねばならない、そして韓国と日本の架け橋になろうと私は祈念した。「東江」には宇宙の摂理に従い、自然に逆らわない生き方をしようという人生観と初心が使命として刻まれている。

―新しい芸術(Art)―

河正雄コレクションはコレクター自身の、在日の生き様から日韓の歴史的な背景と境涯から生まれたものである。世界には有数の美術コレクションが存在するが、それらとは根本的に性格と質、内容が異なるのはコレクションを始め

た動機とコンセプトが違うからである。

世界には数億のデアスポーラ(民族)が、諸々の事情や問題をかかえて故郷や祖国を離れ生きている。多国籍民族の人権と望郷への想いが、普遍的な念願「祈り」と「平和」への祈念を、象徴的に芸術(Art)として表現されている。

よって河正雄のコレクションは類例がない。文は人なりという格言は芸術も人なり、とも言えるのである。河正雄コレクションは平和や愛、相互理解が実現すると河正雄が創造した新しい芸術(Art)の表現なのである。 河正雄の芸術(Art)には韓国と日本・二つの祖国と故郷があり、母校と恩師、学友達との友情で塗り込められ、青春の華で彩られた人生の途中が描かれている。艱難を潜り抜けて幸福をいただいた感謝の心で収集した作品(河正雄コレクション)を見てもらいたい。

―田沢湖祈りの美術館―

1985年、方子妃がご病気と聞き、楽善斉にお見舞いに伺った。やつれた方子妃ではあったが、私に「美術館の方はどうなっていますか」と尋ねられた。

よく御記憶なさっていると思いつつも、「まだ正夢になっていません」と答えたところ、「叶うように私が名前をつけてあげましょう」とおっしゃって下さった。

そして私に「田沢湖祈りの美術館 李方子」と揮毫して下さった。全身の力を絞って書かれた、愛情溢れる作品であった。

その時、「私の祖国は二つあります。一つは生まれ育った国、そしてもう一つは私が骨を埋める国です。私の悩みは朝鮮人に対する差別と偏見でした。息子の玖が『世界は一つです。韓国人とか日本人とかに拘らず世界の中の一人の人間と考え、全力を尽くして下さい。』と励ましてくれた。」と語られた。在日である私へのエールを込められている共感の言葉であり胸が熱くなった。

戦前、田沢湖をダムとみなし周辺の山々に導水路を作り四箇所に水力発電所を作った。富国強兵の旗の元に国策工事で行われた。その工事に携わったのが徴用で動員された我が同胞である。山深い寒冷の雪国、寒さと飢餓の中での重労働、事故や病死などで犠牲者が出た。田沢湖周辺の東源寺や田沢寺などに無縁の墓がある事を突き止めた。

そこで私は25歳の時から在日の画家達の絵を収集し始めた。その動機は犠牲者の魂を慰霊する為であり、その作品を集めた美術館を田沢湖畔に建立する計画を建てた。土地を購入し、設計を依頼し、地元田沢湖町の内諾を受けて計画を推進した。

ところが、韓日条約戦後処理問題の不備が韓日の外交問題となり、両国の国民感情が険悪となってしまった。この問題が直接の原因となり田沢湖での計画は頓挫となり、夢は砕かれてしまった。田沢湖町は財政上の事情であるというが、それも理由ではあろう。

―霊岩郡立河美術館―

2006年になって私の故郷、全羅南道霊岩郡で美術館の計画が起こった。そして群守より河正雄コレクションの寄贈要請があった。

父母は生まれし故郷霊岩を十代の時に離れ、植民地時代に大阪で私は誕生した。父母は霊岩に橋を架けた事も道を作った事も無く、故郷の為に寄与した事は何も無かった。故に私は父母の故郷で生まれる事も、生活する事も無かったのではあるが、霊岩が私の美術コレクションを迎え美術館を作るなどという事は、在日として生きた私にとっては奇跡の様な出来事である。

私は美術館設計のコンセプトを作成、設計原案を掲示した。霊岩郡は着工し、2012年春、王仁文化祭の時期に開館する運びとなった。日本文化の開祖王仁博士、儒教文化の先達、道読国師生誕の地、日本文化との交流史に於いて歴史的由緒のある霊岩郡郡西面鳩林里に「霊岩郡立河美術館」が誕生する。

韓日の歴史に翻弄されてきた在日二世河正雄の望郷の想いを象徴したともいえる方子姫の揮毫を、霊岩郡立河美術館に飾り安着させたいと念じている。方子妃の祈りと河正雄の祈りが響き合う事を念じている。

―別れの言葉―

1987年、東京でのライオンズクラブ国際協会330A地区年次大会に於いて方子妃が子息の李玖氏と臨席された。その時ご挨拶に立たれた方子妃は一回りも体が小さくなられ、力無く弱々しく見えた。

「長年皆さんには慈行会や明暉園の事では大変お世話になりました。息子の李玖の事では皆さんに大変ご心配をお掛けしました。これからは韓国で李垠殿下の意志を継いで、余生を韓国の福祉事業に身を捧げます。今日は皆さんに、感謝を述べ、親としての不明を詫びるために参りました。」

歴史の悲運の中にあった方子妃の、何とも寂しく、辛い、今生の別れの挨拶であった。その時の方子妃の心情を思うと今も涙が潤んでくる。

お目にかかったのは、これが最後となり1989年、王妃は逝去された。韓国の新聞は「自らの不幸な人生を社会活動への献身で美しい人生に変えた」と論評した。今は王妃はユネスコ世界遺産朝鮮王陵洪陵裕陵の英園に英親王と合葬され、眠られている。

―遺品寄贈―

方子妃が福祉施設を作り維持していく為に日本と韓国を往復して寄附を集めた。日本側の付き人、そしてプロデューサーとして面倒を見られた方が山口卓治氏である。

2008年、「歳も歳なのでプロダクションの会社も止めた。今身辺にあるものを片付けて身を軽くしている。方子妃の和歌や書、七宝の絵などの作品があるが見て貰えないだろうか。」と山口氏から電話があった。急ぎ訪ね作品の全てをコレクションした。

その荷を積んでいたところ「河さん、この様な遺品もあるので見てみるかい?」と言われ、押入れにしまってあった段ボール箱を取り出された。その品は湿っぽくカビ臭かった。

中には古いアルバム、ガラス写真の原版、手紙、葉書類、そして方子姫の日記、英親王の手帳などが入っていた。私は方子妃の遺品で緊張し、震えた。山口さんは「河さんの仕事に役立ててもらいたい。これらの品を託したい。」と言われた。

これらの品は方子妃が私の事務所に持参された物で、60年代後半から70年代中頃に十数回に渡って赤坂プリンスホテル旧宅でも「これは散逸させずに記録としてまとめて欲しい」といわれ預けられた物だ。自分は今まで持っていただけで何も出来なかった。方子姫には今でも申し訳なかったと思っている。」と山口氏は述べた。

「これは韓日の歴史的な資料であり、また韓日の王家と皇族の家族史でもあると思う。研究してみたい。」と言って寄贈を受けた。

さて家に持ち帰ったものの、どう扱うべきなのか迷いに迷った。御縁ある方子妃の遺品という事で責任を感じ、恐ろしくもなり眠れぬ夜が続いた。三ヶ月間、資料を繰り返し整理している内に、2010年は韓日併合100年の年であるから、この資料は韓日の李王家縁りの古宮博物館に寄贈し、国で研究保存して貰う事が一番良い事だと結論を出した。2008年末、駐日韓国大使館韓国文化院姜基洪院長に寄贈の打診をした。

遺品は韓日近現代史に抜けている部分を埋める重要な記録、資料であり歴史的価値が認められた事で寄贈する事となった。

―寄贈にあたり―

韓日併合(1910年)の前後、日本と朝鮮半島との関係は人の交流や文化面に於いて研究が手薄で近現代史の空白部分となっている。両国民が過去の歴史を正視し、未来的志向で平和友好関係を築く為にも韓日で共同研究し、歴史観の新視点を共有、省察して欲しい。

両国の現代語訳による翻訳や図録の出版、展示による公開、シンポジウムなどを開催して共同研究の成果を韓日両国民に広報、未来的志向の歴史観の共有に繋げて欲しい。特に日記については優れた日記文学として高く評価出来るものであるから出版して欲しい。報道については国内報道関係のみならず、駐韓の日本特派員合同で記者会見し公開、情報を共有して欲しいと寄贈にあたり要請した。

―日記について―

日記は李垠殿下との結婚予定だった1919年の136日分。期待と不安で新年を迎えた事、結婚予定日4日前の1月21日、李堤殿下の父君高宗が重体となり死去との報告を知り悲嘆に暮れる心情、結婚が延期になる中、殿下への愛を育み人間としての信頼を深め人生を共にする覚悟、併合で国を失い人質の様な境遇となった殿下を思いやる気持ちなど、18歳で学習院女子中等科在学中に殿下と婚約し、喜びとどん底の悲しみの気持ちの中、韓日の狭間の中で両国の懸け橋となる覚悟が綴られていた。人を愛する心は国や歴史をも越える事を再確認させてくれる日記であった。

王妃は14歳の時、自分も知らない所で英親王との結婚候補者になった。結婚が決まったが1919年英親王の父君・高宗の死去や三・一独立運動が重なり、結婚が1年延期となった。王妃はこの時、18歳で喜びとどん底の気分を味あわれたが、英親王への愛情を育み、人間としての信頼を深め人生を共にして苦難に立ち向かう覚悟を醸成した。激動の1919年に書かれた日記は遺品の中でも優れた日記文学として認められる。
 英親王は10歳の時、伊藤博文に留学と称し日本に連れて来られた。王妃は日韓の歴史に翻弄された御方との結婚を決意、日韓の狭間で生き抜く精神的な骨格を固めた核心のメッセージが記録されており、この時点で全人格が形成されていた。人を愛する事は国や歴史をも超える人生の意味と、幸せの意味を教えている。

―和歌と色紙の絵―

歴史を紐解く遺品の中で私の心を離さない一品を紹介したい。1919年4月7日の方子姫の日記の中に挿入されていた和歌の短冊、色紙の絵(スケッチ風の鉛筆画)である。

和歌についてはわらび座民族芸術研究所所長を歴任された茶谷十六先生の解説と考察の文を引用し紹介する。

〔李方子姫和歌一首〕

こゝろより なつかしかりき 君のゐます

ふしのかなたを とほくみやれは 方子

心より 懐かしかりき 君の居ます

富士の彼方を 遠く見やれば 方子

貴方様のおいでになる富士山の彼方の空を遠く眺めておりますと、心から懐かしい気持ちがこみ上げてまいります。英親王李垠殿下との婚約中の一首。

〔解説〕

1918(大正7)年12月8日、李垠殿下と梨本宮方子姫との「納采の儀」が執り行われ、婚約が成立した。挙式は翌1919(大正8)年1月25日と定められたが、1月21日に李太王(高宗)が急死された。李垠殿下は急遽帰国し、婚儀は延期された。

李太王の葬儀が行なわれる3月3日の2日前の3月1日、日本の植民地支配に反対し朝鮮の独立を求める全国一斉蜂起が行なわれた。「3・1独立運動」である。李太王の国葬の後、李堤殿下が東京へ帰られたのは3月末であった。

そして、お二人の結婚の儀が執り行われたのは、それから1年後の1920(大正9)年4月28日のことであった。

婚約中、李垠殿下は日曜日ごとに梨本宮邸を訪問され、お二人は結婚後の将来について語り合われたといわれるが、この歌が詠まれた1919(大正8)年4月7日の前後の状況を考えると、込められた想いの深さが察せられる。

【参考】

李方子『過ぎた歳月』より「この方と運命を共にしよう」

(前略)

ただならぬ母国の情勢の渦中にあって、どのようなご心境の日々をおすごしかと、ご案じ申しあげていた殿下は、三月末、東京へお帰りになりました。

さっそく母とご挨拶にうかがって、お悔やみ申し上げたものの、それ以上はことばもありません。

でも、殿下はこ帰鮮の前と少しもお変わりもないおだやかな微笑で、衝撃を受けているにちがいない私を、かえっておいたわりくださっているのでした。

そのあたたかいお心を感じたとき、ここ三ヵ月近い日々のうつうつした思いがはれて、この方とならば、激動するどのような運命にも耐えていこう…という勇気が、心に満ちてくるのをおぼえました。

殿下にも、私にも、試練の時期がすぎると、また日曜日ごとにお会いできるのを楽しみに待つ婚約者たちの生活と、幸せが、静かに、少しずつもどってきました。

ほんの一度か二度でしたが、和歌を書いて、そっとお手渡ししたことも…いつも、お馬車が遠く松林の横をめぐって坂道へ去っていくのを、

「このつぎの日曜日は、お目にかかれるかしら…」

と、胸をしめつけられるような寂しさで、お見送りしたものでした。夏のころ、富士の裾野の野営演習があって、東京から東海道を、藤沢、大磯、小田原と行軍されるのを、折から滞在中の大磯の別荘でおむかえした思い出もあります。小休止の三十分を、庭先でしばしお休みになってから、また隊と共にご出発、箱根を越えて、御殿場の営舎へと行軍をおつづけになりました。

はからざりき波うちよする磯の家に

たちより給うきみを見むとは

あすはまた箱根の山をこえまさむ

降るなむらさめ照るな夏の日

思いもかけぬお立ち寄りだっただけに、お別れしたあとも、まだときめきが胸にのこって、箱根の方をなつかしくながめやったことも、ついきのうのことのような気がします。

考えてみれば、ここまで愛情が成長し、理解しあったのちに結婚できたことは(李太王さま不慮のこ最期という禍を福と転じて)、なにぶん国際結婚などまれな時代で、しかも国家的な背景と特別な意味をもった結婚であっただけに、非常に幸運だと、つくづく思わずに入られません。

もとよりそこにたどりつくまでには、世の中のあらゆる面にうとく、感情の面でも未熟な年齢でしたから、私なりには苦しい山坂も越えたつもりですけれど。

(後略)

【考察】

方子妃が大磯の別荘に滞在中、李垠殿下が富士の裾野での野営演習に向かう藤沢・大磯・小田原という行軍の途上に立ち寄られ、その後、箱根を越えて御殿場の営舎まで行軍を続けられたという。この歌は、大磯滞在中の方子妃が、御殿場で野営中の殿下に思いを寄せて読んだものと考えられないだろうか。

〔色紙の絵〕

和歌からは英親王に恋する乙女の清らかな感情と心情が伝わって来る。色紙の絵には英親王の象像と美しい花器にチューリップを活けて描いている。

遠く離れていらっしゃる英親王をお慕いしている情感がほのぼのとして美しい。国や民族を超えた愛とロマンが、この絵には描かれていると私は評する。

―祖国は二つ―

 「私の祖国は二つあります。一つは生まれ育った国。もう一つは私が骨を埋める国です。」
 「私は朝鮮人に対する悪口を聞く事が一番辛かった。関東大震災の時は地獄を味わいました。」「お母様、世界は一つです。韓国人とか日本人という考えは捨てて、世界の中の一人の人間として全力を尽くして生きて下さいと玖が私を励ましてくれました。」と王妃は生前、私に語って下さった。デアスポーラである在日の我々が王妃の言葉の重みに共感するのは時代を共に生きた自尊心と誇りがあるからだ。

―文化交流―

韓国国立中央博物館に日本の近代美術品約460余点が朝鮮戦争の戦火を免れて秘蔵されていて事が話題となった。日本が朝鮮半島を支配していた時代、旧朝鮮王朝「李王家」が蒐集、或いは寄贈を受けた横山大観、川合玉堂、前田青邨、土田麦偲、鏑木清方等の日本画の大家を含むコレクションであった。

98年度から日本の文化開放がなされ、その政策の一つとして広く日本文化を韓国国民に触れてもらう目的でW杯成功を祈念した国民交流年の2002年秋、韓国国立中央博物館で半世紀を超えて日本近代美術品を公開した。

それまでタブーであった日本近代美術に触れた韓国国民は日本に関心と新たな認識をしたと思う。過去は過去、芸術は芸術として再評価し合う両国の文化交流が相互理解を深めた。2003年春には東京、京都と日本にも巡回され私は東京芸大の美術館でその作品展を見た。これらの逸品を見て改めて李方子王妃との出会いを懐かしみ、感謝の念で一杯であった。

そして田沢湖祈りの美術館の夢は叶わなかったが、河正雄コレクションが光州市立美術館を含む韓国内の七美術館と日本の美術館(秋田県仙北市立角館町平福記念美術館)で、その夢を叶えている事をご報告し追憶した。方子妃は私の夢が韓国と日本の二つの祖国で花開いたことを喜んでくれているのではないかと思う。

私は今、子々孫々と続く在日の生活を考える。基本的人権を認め、差別と偏見のない社会。決して欺かず争わず、誠意を持って交際できる社会。20世紀韓日の不幸な歴史の狭間で歴史の流れるままに生きた李方子元王妃を追慕する中、そんな社会を具現させる為の努力を行っていきたい。それが私が在日として生きていく意味であると思っている。

2012年、私の父母の故郷である王仁博士生誕の地、全羅南道霊岩に河正雄コレクション「霊岩郡立河美術館」が建立された。王妃が揮毫された「田沢湖祈りの美術館」の看板を玄関に並べ掛け、オープンする。 英親王・李方子王妃の人生を追憶、省察、内省し過去の歴史認識を共有する寄贈展となる様に祈念する。

李方子女史ドキュメント映像フィルム

知ってるつもり 李方子
李方子映像
河正雄寄贈展 国立古宮博物館(2011年11月22日制作)

韓国のめぐまれない子供たちのための李方子元妃殿下チャリティ作品展

開催日時 1982年9月28日~10月3日
開催場所 日本橋三越

(傘寿を迎え露堂堂と生きる-河正雄より抜粋)

三越にて李方子チャリティ展での左から李玖氏・李方子妃殿下・皇太子(平成天皇)・美智子妃殿下・郭桂晶工芸作家

1982年9月28日の事である。
日本慈行会主催李方子妃殿下日本橋三越チャリティ作品展が開かれた。私はその時、通訳や案内役のお手伝いをした事で妃殿下と御縁を結ぶ事となった。
作品展には福田赴夫首相や皇太子様(平成天皇陛下)と美智子妃殿下、三笠宮妃、高円宮様など皇族の皆様がお揃いでおいで下さった。
方子妃殿下の作品を一点一点と買い求め支援下さる情の深さに心打たれた。その時に撮った写真は、私の貴重な記録となっている。
その日、広島の呉市からお見えになった舟橋素貞さんは李方子妃殿下のチャリティ作品展に賛助出品した韓国女流画家郭桂晶さんの作品をも買い上げられた。
そして郭さんを広島、宮島へと招待されたのである。
私は郭さんの通訳の為に同道して舟橋さんとの御縁を結ぶ事となった。
舟橋さんはその後、幾度となく染色の作品を送って下さった。
その作品は全てが霊岩郡立河正雄美術館に寄贈し、収蔵されている。しかし再会する機会は一度もなく36年が経過して行った。
2017年になって心臓の手術を受けて眠れぬ夜が幾晩とあった。
その夢の中に舟橋さんが現れたのである。
私は2018年3月20日、一途に会いたさが募り、その思い抑えがたくなって妻を連れ立ち呉に旅立った。
呉駅前のホテルで再会した。
30分は立ったまま抱き合い、つもる話は途切れなかった。
「会いたくて会いたくて堪らずに参りました。」と述べたところ、「これまで36年間あなた様を私の弟だと思っておりましたのよ。」と語られ、私は感極まってしまった。
今年、舟橋さんは90歳になられたが、36年前にあった時のイメージのまま、凛と威厳を持った立ち姿の美しさには見惚れるばかりであった。
人を恋しく思いあう心。例えようのない至福の気持ちを味わい尾を引いた。
「呉においでになったのだからカメラマンと車を用意しましたので記念写真を撮って下さい。」
呉の観光スポットを廻り写真を撮り終えて「お茶にしましょう。」と自宅に案内された。室内には1982年に三越で買い求められた懐かしい李方子妃殿下の「梅」の掛け軸や郭桂晶さんの版画と民芸品を飾って迎えて下さった。
室内には客をもてなす為の茶の作法に則った目録の書がしたためられ、ピンと張り詰めた空気が漂っていた。

「掛軸
梅  李方子妃殿下
鶴亀 遠外妙心寺管長
茶 盌
瑞新 楽吉左衛門
瑞松 清水六兵衛
松嶋 永楽善五郎

六瓢 中村宗哲
春草 黒田正玄
波  輪島章
平成30年3月20日 舟橋」
 

目録を見て15代楽吉左衛門の「光悦考」からの言葉、「それが未だ見ず名も知らない人の心を、わずかに温め幸せな気分をもたらすなら…この世に存在する確かな意味と資格を持つ」を思い出した。
「これ程の準備の為には、大変な時間を費やされたでしょう。」と感謝を述べると、付き人の方が「3日前から準備してお待ちしておりました。」と答えられ身が縮む思いがした。
私は完全に浦島太郎の心境となってしまった。訪問記念にと室内でも写真を撮りお暇を戴いた。
4時間程の対面ではあったが、その濃密さは36年の時間が詰まったものである、もてなしの心に変わらぬ心根があった事を確認した。
後日、余韻冷めやらぬ思いでいる所に記念写真帖が贈られて来た。
それは舟橋さんの書「夢」を染めあげた風呂敷を八重に縫製した作品で重厚に包まれていた。
そして「生きて生きて夢を夢みて天空へ」と句が添えられ「河様、御多幸を祈念いたします。
平成 戊戌 春吉日」としたためられていた。
私は「舟橋様の御心に何のお返しも出来ません。
ただこれまで一生懸命に生きて来た事のお報せだけで感謝の証と御理解いただければ幸いです。
御健勝でお幸せでありますよう祈念します。」と答えるのに精一杯であった。

三越にて李方子チャリティ展での李方子妃殿下・郭桂晶工芸作家と共に

国立古宮博物館寄贈実績

2008年4月11日 17点 金沢市小村進氏文物寄贈代理人
2008年12月4日 684点 英親王・李方子女史資料寄贈
2009年4月23日 1点 李方子女史資料寄贈
2017年11月3日 5件6点 李方子女史資料寄贈 寄贈総計691点

韓国国立古宮博物館に所蔵されている垠殿下、李方子妃殿下のお写真(抜粋)

在日韓国人2世、英親王・李方子夫妻の遺品を寄贈

在日韓国人2世が、大韓帝国最後の皇太子である英親王(本名:李垠)と李方子妃の遺品を駐日韓国大使館に寄贈し、話題を呼んでいる。駐日大使館と韓国文化院によると、埼玉県川口市に居住する河正雄(ハ・ジョンウン)さんは4日、これまで所蔵していた英親王夫妻に関運する遺品680点を 大使館に寄贈した。英親王は初代大韓帝国皇帝高宗の7番目の息子で、同国最後の皇太子。1920年に日本の皇族の方子女王と結婚した。
美術品収集家で歴史研究家としても活動する河さんが寄贈した遺品は、英親主が初めて日本に渡ってきた時の写真から、日本植民地時代に韓国を訪間した時の写真、韓国に永久帰国した当時の写真など、さまざまな写真・写真乾板・資料だ。英親王の自筆手帳や各種書類、郵便はがき、書簡など未公開の資料も少なくないため、史料としての価値も高いと駐日大使館側は説明する。
これら遺品は、李方子妃と長年にわたり親交のあった「サンオフィス」社の山口卓治社長が李方子妃から直接受け取ったものと伝えられた。山口社長は、李方子妃のドキュメンタリー映画を制作したこともある。
韓国文化院関係者は「山口社長が高齢となり、普段から付さ合いの深かった河さんに贈呈したと聞いている。河さんはこの遺品を通じ、韓日両国が不幸だった歴史を共有し、共同で研究することを願い寄贈した」と明らかにした。駐日大使館は遺品を韓国の関運機関に送り、該当資料の研究・データベース化を進め、資料展示会を開くなど、寄贈者の意思が尊重されるよう計らう方針だ。
河さんは若いころから韓国に関する文化財と芸術品を収集しており、在日韓国人文化芸術協会の会長も歴任した。これまで光州市立美術館に3557点、全羅南道の霊岩郡立美術且官に1466点、朝鮮大学美術館に178点、全羅北道の道立美術館に122点、釜山市立美術館に100点など、各機関に多数の寄贈を行った。



李方子妃直筆の日記、手紙等公開

2010年

韓国国立古宮博物館は18日、日本の皇族、梨本宮家から朝鮮王朝へ嫁ぎ、「悲劇の王妃」と言われた同王朝最後の皇太子妃、故李方子さんの直筆の日記や手紙、写真などを公開した。
博物館側は「激動の歳月を解き明かす貴重な資料だ」と評価している。
公開されたのは、2008年12月に在日韓国人が韓国政府に寄贈した方子さんの遺品 約700点の一部。
日記は、1919年1月から12月までの期間中、計136日間にわたってつけられていた。
朝鮮王朝最後の皇太子である李堤殿下との結婚が4日後に予定されていた19年1月21日の日記では、殿下の父で、第26代王だった高宗が重体に陥った報告を受け、悲嘆に暮れた様子をつづった。結婚式の延期や殿下への愛情なども語られている。

2011年


この内容は彩流社2012年刊 新聞記者が高校生に語る「日本と朝鮮半島100年の明日」にも掲載されている。

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