朴炳煕 (1948年-2020年)

祈願の形象

秀林文化財団理事長
光州市立美術館名誉館長 河正雄

―朴炳熙彫刻展―

 1984年1月、尹鐸韓国文化院長の紹介であると朴炳熙先生より次の様な要請があった。

 「これまで人体を通じ写実彫刻作品を制作して来た。日本の古代仏像彫刻から現代写実彫刻に至るまで、日本彫刻の造形的な繊細性を、より広く観察したい。

 人類学的な面で、東洋人の人体構造が韓国と日本の人体彫刻には、どの様な特徴で現れているのか。その造形的特性を学び、これからの制作活動に生かしたい。

 特に材料と技法と鑑賞を通じて、日本にある本来からの作品を分析したい。日本彫刻教育の組織的な基礎実技力訓練を、体質に合う様に受け入れ、得られた理論と表現能力を以て、韓国と日本の人体彫刻が持っている同質性と異質性を理解しながら、制作及び彫刻教育に役立てたく日本留学を志願したい。」

 当時、身元引受保証人として韓国人留学生を受け入れる事は、法的にも経済的にも条件が厳しく容易い事ではなかったが、我が家にはアトリエも単独住宅もあった。故郷の出身者でもあり、前途有望なる若い学徒を育成、助成する事は私の夢にも繋がる事から、引き受ける事とした。

1985年11月、留学の成果を発表する朴炳熙彫刻展を韓国文化院で開催した。開催にあたり朴炳熙先生は次の様に語っている。

「大田の韓南大学美術科の講師だが、一年間休み、日本の筑波大学大学院彫刻科で学ぶ事になった。河正雄さんからは「日本の自然と日本人の心を学べ」と教えられた。

留学にあたって妻子の反対はあったが、日本の作品を見ると、自分の作品と共通点があり、美観も似ていると決心した。

今回の個展では、来日して制作した具象作品二十点を展示した。モデルは身の周りの人が殆ど。作品は全て「祈願」がテーマになっている。それは円空の作品に感銘を受けたからだ。 “祈願”の姿は量とか空間の調和を離れた“真実”がある。

この夏休みには韓南大学校内に飾る抽象彫刻を制作し、力量が認められた。筑波はいい環境で素晴らしい。人との出会いもプラスになった。

展示作品は来日後一年半近くの間に制作したものだがテーマを「祈願の形象」と名づけました。私自身の彫刻に対する姿勢は、人生への挑戦を通した人間の苦悩を表現することにあり、形面的な造形物の形象を追求することより、内奥的に突きあげてくる祈願―真実を表現することにあるのです。

造形物の秩序、形象化された私の祈願、現実的破壊がもたらした創作への意欲、それは事実が屈折されたものからは生産されない、最も人間の純枠を意味すると思います。

コンセプトテーマでもある「祈願の形象」についてです。私の眼に写る日本美術には次の二通りがあった。一方は、するどい線表現された作品であり、他方は遊行造像僧円空の作品にみられる、祈願よりなる作品である。前者の鋭利で単純なる線を追って行けば、爽快、清潔さを感ずる事はできるかもしれないが、その感情は長く留まることなく流れさってしまう。しかし、後者の祈願から生み出された作品からは.全く別な感銘を抱くようになった。

国や民族性を越えて、同様の結果であるかもしれないが、日本の自然条件は日本人にとって、より切実な祈願を持たらしめているようだ。このような例は、材質や表現方法が全く違う韓国の国宝83号半跏思惟像等にも表されている。これらの作品には、Michelangeloの彫刻にみられる、比例や理想美等や、Rodinの彫刻のように呼吸する皮膚に触れるような実感あふれる表現もない。そこには比例や実感あふれる表現を、一段と高く乗越えた美しさと強烈に地から生動しているのを感じる。それは造形秩序や理論によって計算されたものではなく、祈願そのものの真実が現れているためである。

大学時代、私は、古代Mathuraの佛像の柔い量と線を好み、芝の上に置かれたHenry-Mooreの作品に存在する量と空間の美しい対話を見出した。しかし、いつの頃からか、私には、Ganges河畔に立っている子供達の眼の光から、より切実な祈願を見出した。芝の上のHenry-Mooreの彫刻よりも、アフリカの砂漠の中で出会ったある母親の姿から、量とか空間の調和というものから離れた真実を見出したのである。

このような経験は、今までずっと探し求めていながらも、一度として見出せなかった形象ではなかったか。私の祈願を形象化してみようとして、幾度も造形の枠にあてはめてみた。しかしその都度、造形の秩序、形象化された私の祈願は、みごとに破壊されてしまうのである。このような私の行為は、本質の状態へ戻ろうとする、祈願の形象化を目指す苦しいひとつの作業でもあろう。

自作品を端的に説明すると「人間苦悩の表現を、祈願を通して形象化するとでもいいますか、作られた作品に入魂させるのではなく、作品制作の過程に情感的な祈願を込めていくという事でしょうか…

不馴れな日本での生活中にも、個展がもてる運びとなったことは、私にとってこの上ない喜びです。小さなことにも有難さを感じる日本人の美しい心を教えて下さった河正雄さんとご家族、筑波大学彫塑専攻教授、学生諸氏の親切な御指導と物心両面の御援助に深謝いたします。」

私は朴炳熙彫刻展開催にあたってメッセージを送った。

「1985年11月25日から30日までの会期で、韓国文化院ギャラリーで開かれた同展の展示作品は、筑波大の大学院彫刻科研究生として勉学のかたわら制作されたものである。

日本の各地を旅行し、日本の自然と風土に育てられ開花した日本の芸術に深い感銘を受けながら、多くの作品にも接してきた。しかし韓国民が世界に誇りうる民族的な美的意識は、この国に優るとも劣るものではない。経済的発展の土壌と文化芸術発展の風土は異質なものである事を学んだ。

彼は韓国具象彫刻界の中堅作家で、今年は大田の韓南大学キャンパスに、象徴彫刻のモニュメントを製作する栄誉を担い注目されている。作品は情感豊かで、祈りとヒューマニズムが溢れ、温厚な人柄が伝わってくる。

朴炳熙という彫刻家と私が初めて出会ったのは、彼が渡日する少し前のことであったが、彼の作品から、彼が、苦悩と思索を表現しようと努力していることを感じた。

この一年間の制作活動による作品からは、多くの変化が見受けられる。反抗へ向かった苦悩の表現から、いつとはなく思索と祈祷をもって、解脱にまで辿り着くという意味を表現したいのではないか。彼の在日中の作品は、その表現方法から察して幾種類かに区別出来る。それは今だに探し出せない美に向かっての彷徨でもある。その彷徨は、もうひとつの新しい意味を探す基礎的な表現修行である。長くはない日本での制作生活であったけれども、彼の今後の制作活動に大事な基肥となる事であろう。」

―憧憬の像―

 朴炳熙先生は日本留学中に制作し韓国文化院で発表した作品群の全てを、河正雄コレクションとして寄贈された。

私はその徳を生かす為に、それらの作品をこれまで光州市立美術館、霊岩郡立河美術館、朝鮮人無縁仏を慰霊する田沢寺(秋田県仙北市)と聖天院勝楽寺(埼玉県日高市)、そして母校である生保内小学校、生保内中学校(秋田県仙北市)に寄贈設置して来た。

生保内中学校に寄贈された「憧憬の像」について語る。

『母校生保内中学校の校舎が改築される。28年前私達が3年間学んだあの懐かしい校舎が取り壊されるとの報せを受けたのは、1986年2月の末の事であった。

私は矢も盾もたまらず、長男・河智樹を連れて卒業以来初めて母校を訪問したのである。一日たりともこの瞼から消し去る事の出来ない母校に寄せる感慨を、息子と共有したい一念からであった。

旧校舎は深い雪のなかに埋っていた。「強く」「正しく」の標語が眩しく凛々しい。当時そのままの佇まい。思わず背筋がシャンと伸びたのは何故だろうか。

通された校長室には、律義で温和な栗林新一郎先生がいらっしゃるような錯覚を覚え、その慈愛の眼差しが甦る思いであった。職員室は昔のままで、当時教えをいただいた桑野、草彅両先生が今も在任されていた。その若さと美しさは変りなく、過ごした年月を忘れ、懐かしさだけが一杯にこみあげてきた。

学び舎で受けた数々の教えは、私の血であり肉であり、今も熱く息づいて、恩師達の声が響いてくる。思い出の校舎は、匂いを嗅いでも、柱を撫でても、廊下の軋む音すらが、私の五感を瑞々しく震わせた。そのなかには、若き日の苦悩と挫折、夢と希望、青春の渡りが充ち充ちて、生きた喜び生かされた喜びがあった。

「憧憬の像」は在校生一同の命名によるものだ。

「どうけい」または「しょうけい」と読みます。「あこがれ」という意味です。この名にふさわしく、像は遠くはるかに駒ヶ岳を望んで立っています。

ふるさとの秀峰駒ヶ岳の様に、より気高く、より美しく、より清らかなものにあこがれを持ち、未来に大きな夢を抱きながら、今この時を明るく生きぬいて欲しいと念願する心が、この名には込められております。

緑に潤う、山美しく、水清きふるさと、田沢湖町で、多感な少年の日を過ごすことのできる幸せを改めて噛み締めましょう.

万物の心に報いる事が出来る様に、一人ひとりが、それぞれの目指す所に向かって、ひたむきに頑張る事を、この像に誓いましょう。

ドイツの詩人、ゲーテの詩「ミニヨン」の一節に、次のような言葉があります。

「あこがれを知る人だけが、知ってくれます。わたしの胸の悲しみを。」

実に深い言葉であります。

自分の胸の中の悩み、悲しみは、同じようにあこがれをもつ者だけにしか通じないのです.あこがれがあるからこそ、人は心を悩ませ悲しませます。しかもそのあこがれが、人を生きさせ、生きていく勇気を与え、若人をより高い所に引き上げる力となるのです。

 としたら、そのなやみ、悲しみをさけようとすることはひきょうな生き方であるに違いありません。

万物のお心に深く感謝するとともに、心が広く量かな人間、正しく、賢く、逞しく生きる人間を目指して、今日この日を精一杯頑張る事が、私達の務めではないでしょうか。あこがれを、心にもちたいものです。

 「憧憬の像」に寄せた私の詩を紹介する。

『「憧憬の像」が、新校舎と秀峰駒ケ岳を仰いで立っている。

遠い道、厳しい風雪や境涯に耐え抜く強靱な意志で未来をしっかりと見据えている。

理想と希望を宇宙の遥か彼方に抱いて健気である。

ロマンを胸に、ポエムを口ずさみ、和やかに奏でているようだ。

思いやりと労わり、慈悲と勇猛の心で、

弱いものにきつと力を貸すことを惜しまないだろう。

平和で豊かで幸せな社会、歴史をつくるために

堅い決意を秘めているかのようだ。

神に、自然に、大地に、永遠に感謝を忘れないだろう。

すべての人々から、兄弟、仲間のように愛され理解されるだろう。

私は、この目から消え去った旧校舎が、「憧憬の像」に化身して

新校舎を見守っているように思えてならない。』

寄贈贈呈式が終わり、生保内中学校生徒代表より1986年11月29日付の礼状が届いた。

 『冬になって寒さが厳しくなって来ましたが、河さんお元気ですか?秋田の方はもう雪が降っていますが、そちらの方は如何でしょうか。風邪などひかずに元気にお過ごしでしょうか。

 この間は「憧憬の像」の除幕式に御出席いただき、ありがとうございました。生保内中学校の後輩達に、あのブロンズ像を残していく事が出来て大変嬉しいです。

 除幕式の時は流石、芸術家らしい印象に残る話を私達にしてくれましたね。ブロンズ像に話しかけるなどという事を私達は想像もしていませんでしたが、あれから私達はあの「憧憬の像」に“さようなら” “バイバイ”などと言って帰ったりしています。これからも、あの「憧憬の像」が苦しい時や悲しい時、話しかける相手になってくれそうです。

 それから河さんの奥さんにも初めてお目にかかりましたが、あのブロンズ像を製作出来たのは奥さんの協力もあったからでしょう。私達は奥さんにもお礼を言わなければいけません。

 これからは「憧憬の像」の様に素晴らしいものに憧れを持ち、そして憧れるだけでなく、そんな人間になれる様に努力していきます。

 あのブロンズ像のおかげで生保内中学校の前庭は前にも増して明るくなりました。河さん、そして河さんの奥さん、本当にありがとうございました。

 これから、また一段と寒さが増して来ますがお身体に気をつけてお仕事頑張って下さい。』

―陽だまりの像―

 1991年、同期生であった安部哲男君(現仙北市教育委員会委員長)が母校、生保内小学校教頭として在職されていた事を知り、母校に「陽だまりの像」を贈る事となった。「陽だまりの像」という名前は間もなく卒業する6年生の皆が命名してくれたものである。

除幕式での私の挨拶を紹介する。

『本日は、生保内小学校創立117周年記念、「陽だまりの像」除幕式おめでとうございます。本日の式典にあたり、準備のためご奔走下さいました先生方やPTAの皆様方、そして「陽だまりの像」の書を揮毫下さいました、稲葉通誠校長先生ありがとうございました。

なんといっても、「陽だまりの像」の名前をつけて下さった生徒さんには、最大の敬意を払いたいと思います。感性、情感、ロマン豊かなこの像にふさわしい名前です。優しさと思いやりのこもった、素晴らしい名前であります。後輩達の叡知に、誇りを感じております。

像の由来を申しますと、1984年から85年にかけて、作者の朴炳熙先生は、筑波大学大学院彫刻科研究生として、勉学されました。その2年間、先生は、川口市にある我が家のアトリエを使って勉学・製作されました。

先生は滞在中ホームシックにかられて、韓国においてこられたかわいいお嬢さん二人の事をしきりに心配されておりました。その時の淋しさや、子を想う親の愛情を表現されたのが「陽だまりの像」なのであります。

先生は韓国の大学に戻られるとき、二年間お世話になった御礼にといって、「陽だまりの像」を私に置いてゆかれたのであります。

先生は大田の韓南大学彫刻科助教授となられ、今春よりインドのニューデリ大学客員教授となって、仏教芸術の追求、製作に努力しておられる韓国中堅彫刻作家であります。

私は戦後まもない1948年、大阪から生保内小学校に転校して参りました。当時、家は貧しく食べるものもなく、着るものもない、ほんとうに何もない真暗い生活でした。

私には、妹二人、弟二人があります。みんな生保内小学校で学びお世話になりました。当時生活のため、父母は朝早くから仕事に出掛け、妹弟の面倒は、私がみなければなりませんでした。やむをえず末弟をおぶい、両手にはもう一人の弟と妹3人を連れて、学校に通いました。

教室は、保育園なのか、幼稚園なのか判りませんでした。その時、先生方や同級生たちは嫌な顔ひとつせず、私の妹弟たちの面倒をみて遊んでくれたものです。ずいぶん迷惑をかけたものですが、みんな優しくしてくれ、ほんとうに助かりました。

その時の同級生の一人が安部哲男先生です。安部先生との友情が現在までとぎれる事なく続いたことが、この度の「陽だまりの像」寄贈の大きな御縁になっております。

友情は人生の宝、大きな糧であります。先ほど申しましたが、何もなかった時代ではありましたが、先生方や友達、町の方々の愛情が一杯溢れてたのが、懐かしい思い出となっております。

私はその大事な思い出を、社会にでてから今日まで、一日たりとも忘れたことがありませんでした。物質的には何一つ恵まれなかった、辛く切ない時代の小学校生活でありましたが、精神的には豊かに恵まれ、愛情をたくさんいただいたことに感謝して、生きて参りました。

「陽だまりの像」には、作者朴炳熙先生の子供を想う心、私を育てくれた父母の心、私を教え導いて下さった先生方の心、そして友情を育くんでくれた多くの友人達の心、私の母校や田沢湖町に対する報恩と感謝の心、故郷の誇りと発展を祈念する心が満ち満ちているのです。

ヒューマンと愛のこもった「陽だまりの像」は、私達に夢と希望、生きる勇気と出会いの素晴らしさを、永遠に語りかけてくれる象徴となるでしょう。

私は生徒さんにお願いがあります。「陽だまりの像」を妹や弟のように可愛がって下さい、朝にはおはよう、帰りにはさようならと、毎日元気よく声をかけて下さい。そして仲よしになっていただきたいのです。

楽しいとき、悲しいとき、辛いとき、そして誰にもいえない願いや祈りがあるとき、そのときそっと「陽だまりの像」に語りかけ祈ってみて下さい。必ずや心が通い、皆さんの願いや祈りがかなえられることと思います。

進学される生保内中学校の正門脇には「憧憬の像」が、皆様を迎えてくれます。この像は、生保内中学校改築記念に5年前に贈ったものです。作者は、同じく朴炳熙先生であります。

「憧憬の像」と「陽だまりの像」は、兄弟なのです。血が通っているのです。心が通っているのです。在学中同じように語りかけ、愛して下さるようお願いします。

時代は、間もなく21世紀になります。20世紀は戦争にあけくれた時代でした。日本は、第二次世界大戦後世界にもまれな経済的発展をなしとげました。

しかしこの世紀は、物質的に多くのものが失われただけでなく、精神的なものが余りにも多く失われた時代でもありました。判り易くいえば、思いやりや労わり、優しさがなくなったということです。

私は「陽だまりの像」のなかに、21世紀を見据えた精神性と希望と夢を託しております。健やかなる子供達の成長に、未来をみるからです。友愛と友好、親善の絆りが、この「陽だまりの像」のなかには生きているのです。

時代がどのように変わろうとも、人間の住む社会はヒューマンでありたい。人道でありたい、倫理でありたい、道徳でありたいと、私はこのように祈って、「陽だまり像」を、母校生保内小学校に贈らせていただきました。

「陽だまりの像」が、私の人生や皆様の人生にとって、すばらしい縁と契りを結んでくれたことに、感謝いたします。』

除幕式の後日、児童代表から礼状が届いた。

『すすきの穂が銀色にゆれる今日、私たちの学校で、うれしいニュースがありました。

38年前に、この生保内小学校を卒業されたハ・ジョンウンさんから、すてきな贈物をいただいたことです。

「陽だまり像」が中庭に置かれると聞いた日から、「どんな像がたつのだろう」という期待で、いつも中庭の方に目がいきました。

今日は、待ちに待った公開の日です。よりそって、陽ざしをあおぎ見る二人の優しさや温かさが、私たちにほのぼのと伝わってきて、一人一人の心を優しさでいっぱいにしてくれます。そして、像は、私たちにすこやかに優しい子に育ってほしいと語りかけてきます。

私は、こんなにすばらしい像を贈ってくださったハ・ジョンウンさんが生保内小学校の卒業生であることを誇りに思います。

今日からこの像にたくされたハ・ジョンウンさんのお心を、私たちの心のみちしるべにして、先生方のお教えを守って、みんなで仲よく明るくがんばっていきます。どうぞ、いつまでも見守っていてください。』

 1999年、生保内小学校の校長に昇進した安部哲男君から手紙が届いた。

 『昨日までの荒れた天気が回復し、今はときおり柔らかい春の日ざしが中庭の「陽だまりの像」に注いでいます。

あなたが「陽だまりの像」を本校に寄贈してくれてから早や十年の年月が経とうとしています。

あなたがどんな思いで母校にこの彫像を贈ってくれたのか、母校の後輩にどんな期待を込めておられるのか、今改めて考えてみました。

「陽だまりの像」はその時々の学校の様子を敏感に感じ取りながら様々な表情を見せてくれているような気がします。

子供達はその時々の自分の気持ちと対比させながら「陽だまりの像」へ様々な思いを寄せているような気がします。ただ「陽だまりの像」そのものは私たちの思いとは関係なく、一方ではいつでも自らが生きたいという生き方を妥協することなく、しっかり生きようとする子供の姿であり、一方ではそれを支え、励まし、暖かく見つめる優しい母の姿であり、母娘の情愛はかくあるべしと語っているにちがいないと私は思っています。

今どこの学校も、いじめ、不登校、学級崩壊をはじめ様々な問題を抱え、その解決に大変な思いで対応しております。

私たち大人は、今こそ原点に立ち返り、子供の夢や希望が実現出来る様にするために大人が出来る事は何なのかということをしっかり考え、実行するときだと思います。

先程から、「陽だまりの像」に春の雪が降りかかっています。にもかかわらず娘の視線はしっかりと上を向き、母は娘を優しく支えています。

河君の思いに近づき実践出来る様になりたいと念じています。』

―終わりに―

 2014年、秀林文化財団より彫刻家・朴炳熙作品集が刊行される事となった。有り難い事である。

30年の歳月が走馬灯の様に過ぎ去り、感慨深い。朴炳熙先生にとっても私にとっても、因縁深い美術人生であった。数多くのエピソードの中から感動的な出会いの一端を語ったが、奇跡的であり、夢の様でもあり人生の名利である。蒔いた種が見事に実った事、共に生きて来た事を喜ぶと共に、これまで陰に陽に支え、激励して下さった全ての皆様方に感謝を申し上げます。

張順玉(1956年-)

人形の世界は平和の象徴

人形作家張順玉を語るには、彫刻家朴柄照先生との出会いから語らねばならない。1984年1月、朴先生より次の様な要請があった。

「私は、これまで人体を通じ写実彫刻作品を制作して来た。日本の古代仏像彫刻から現代写実彫刻に至るまで、日本彫刻の造形的な繊細性を、より広く観察したい。

人類学的な面で、東洋人の人体構造が韓国と日本の人体彫刻には、どの様な特徴で現れているのか。その造形的特性を学び、これからの制作活動に生かしたい。

特に材料と技法と鑑賞を通じて、日本にある本来からの作品を分析したい。韓国と日本の人体彫刻が持っている同質性と異質性を理解しながら、制作及び彫刻教育に役立てたく日本留学を志願したい。」

当時、身元引受保証人として韓国人留学生を受け入れる事は、法的にも経済的にも条件が厳しく容易い事ではなかったが、我が家にはアトリエも単独住宅もあった。故郷の出身者でもあり、前途有望なる若い学徒を育成、助成する事は私の夢にも繋がる。朴柄照という彫刻家と私が初めて出会ったのは、彼が渡日する少し前の事であったが、彼の人柄から苦悩と思索を表現しようと努力している事を感じていたので、日本留学を引き受ける事とした。

「私はその時、大田の韓南大学美術科の講師だった。一年間休み、日本の筑波大学大学院彫刻科で学ぶ事になった。河先生から「日本の自然と日本人の心を学べ」と教えられた。

留学にあたっては妻の反対もあったが、日本の作品を見ると、自分の作品と共通点があり、美観も似ていると留学を決心したのだ。

日本の各地を旅行し、日本の自然と風土に育てられ開花した日本の芸術に深い感銘を受けながら、多くの作品にも接してきた。しかし韓国民が世界に誇りうる民族的な美意識は、この国に優るとも劣るものではない。経済的発展の土壌と文化芸術発展の風土は異質なものである事を学んだ。」

日本での留学を終えた彼は韓国具象彫刻界の中堅作家として活躍し、大田の母校韓南大学キャンパスに、象徴彫刻のモニュメントを製作する栄誉を担い韓国を代表する彫刻家として活躍する事となった。その夫の活躍を陰で支えた人こそ張順玉であった。

2005年になって、それまで疎遠であったが大田にある朴先生のアトリエを訪ねた。

豊富なる作品群が制作されており、それらが陳列台に整然と並べられていた。その時、テラコッタで制作された子供達が土いじりをして遊んでいる人形の余りの可愛さに心奪われ、コレクションを申し出た。

すると朴先生は「これまで河先生にはお世話になったので、お気に入りならプレゼントします。」と言われ、その後、我が家のマスコットとなった。

2010年になって霊岩郡立河正雄美術館開館準備の為、足繁く朴先生のアトリエを訪問する事となった。

その時、それらのテラコッタ作品が奥様である張順玉の作品である事を知った。彼女が人形作家である事を、それまでつゆとも知らず、朴先生の作品と思い込んだのは作品の世界や作風、そしてフォルムが似通っていたからだ。夫婦というものは作品まで、こうも似るものかと感嘆し改めて見直した。

彼女は朴先生よりも早くから人形作品を発表し、作家活動をしていた。しかし子育ての為に作家活動からは遠ざかり、内助を務め趣味として作品を制作し続けて来たという。それらの作品群の全容を見る事となった私は、改めて彼女の人形の魅力に引き込まれた。

人形とは木、土、石、布、紙等を用いて人間の形を小さく作ったものを言う。人形の起源は単なるモノではない。古代の人々の祈りが込められている、"ひとがた"(宗教や信仰に関連して神聖なものの姿を人間の形に象徴して表したもの)なのだ。

"ひとがた"が手遊びとなり、手遊びから芸術へと昇華して行った。物言わぬ人形達が見る人の心を鏡の様に写し、心を打つのである。私は人形そのものが平和の印であり、平和の象徴だと思っている。人形の素材、表現方法に於いて作家達の意図は様々である。

古典的手法や現代アート的なものが最近多いが、私は人間の情念を表現した作品に触れた時に、人形に「魔」を感じる時がある。「これが人形か?」と驚きを超えた世界に出会うのである。それと同時に、人間への優しさと親しみが伝わり深い愛情を感じるのである。

彼女は土製の人物像や動物像、家や船等の形を作り、火で焼いた土人形「土偶」の製作を多くした。土偶にストーリーを込め、テーマを絞って時代を盛った背景にして、人物の表情に苦心していた。

ストーリーは昔の故郷の風景を甦らせており、テーマは我が国の伝来童話からイメージしたもので、祖母が昔話を語りかけるような世界。失われてしまった、忘れ去られた我々の伝統文化の追憶を土偶に託して、真剣に子供達へ語ろうとする愛情が読み取れる。

土に触れる喜び、子供の時代に戻る喜び、土で作る人生、土と共に美しく生きたいと願望している。土に戻りたい、童心に帰りたいと心の故郷に向かっている。

それらの作品に読み取れる的確な構成力は、彫刻デッサンや土偶等の造形的な基本によって培われたものである。繊細で優美な詩情(心の隅に置き忘れた壊かしい心の詩)を素朴に、生き生きした精神が凛と輝き表現されている。

土偶の人形製作を芸術の領域までに高めたことを称えたい。女性の目と感覚で大地にしっかりと足を据え、社会を見据え、本質を見据えた生活の軌跡がある。素直に飾らず清潔で健やかな精神を前向きに人生を楽しみながら創作した「人間の妙」「人間の愛」が、それらの人形に表れている。

その時々の自分自身の熱い想い、季節の想い、社会で起こった事への想いを人形に込めている。人は皆幸せでありたいという願いから、世の中の移ろいの様や、生きる喜び、悲しみ、時の流れと共に生きていて良かったといえる世の中、人間に対する真実のために、みんなが生きていけますようにと、その祈りを人のかたち、つまり人形で表現している。

作品の対象が常に人であるという事に深い意味と使命感を持つ。人間讃歌そのものと言える。また作家の人生観が作品の全てであると言える。

幼児、少女、老人ら老若男女の自然な姿を健康な感覚で表現された群像作品が多い。

女性や子供の表情などに慈愛に満ちた温かな眼差しがあり、女性ならではの情感と哀愁がある。その端正な表情には存在感=「形」があり、その完成度が内に秘めたものを更に浮き彫りにしているように感じる。

朴先生のアトリエを幾度か通っている内に、張順玉とも親しくなり、これまでの作品が埋もれているのは惜しい、いつの日か展示公開してはと推薦したところ、大変喜ばれ快く応諾された。そして全ての作品を河正雄コレクションとして寄贈したいと表明された。

30数年の歳月が走馬灯の様に甦り感慨深い。以心伝心、張順玉の人形作品との出会いは人生の冥利といえるプレゼントであると感謝している。

朴柄照先生にとっても私にとっても、因縁深い美術人生となった。エピソードの中から出会いの一端を語った。昔、蒔いた種が見事に実った事と共に生きて来た事を喜びたい。

(本文は秀林文化財団金煕秀記念アートセンターで2018年4月2日16月29日開催された張順玉展力タログに掲載)