プロフィール(在日コリアン辞典 明石書店より)

曺良奎(チョヤンギュ 1928~~没年不詳)

画家。慶尚南道晋州生れ。1946年、国立晋州教育大学の前身、晋州師範学校を卒業後、晋州市内の初等学校の教師となる。プロレタリア美術への関心かう南労党に身を投じ政治活動に参加。蛇虎島、釜山、馬山と逃亡生活を送り、1948年密航船で渡日。深川枝川町の朝鮮人部落勤に住む。1952年武蔵野美術大学中退後、日本アンデパンダン展、自由美術展などに初出品し、1953年文芸同での活動を開始する。社会性を主題とした「朝鮮に平和を」「仮面をとれ」「密閉せる倉庫」などの倉庫連作や「マンホール」の連作を発表、曹良全は「マンホール画家」と呼ばれる。 1960年、新潟から北朝鮮に渡り、チェコスロバキアに美術留学、帰国して短期間の活動の記録を残して、消息不明となった。分断国家の政治と韓日の不幸な歴史背景が生んだ社会性の強いリアリズム画家である。「70年代以後、日本の美術は社会的主題を喪失してしまった。曹良杢は戦後美術の中で韓日の交流、そして韓日美術の大きな影響を与えた。彼の作品を除くと日本の美術史は重要な一角を欠くと言えるほど、重要な位置を占める」と美術評論家・針生一郎は批評する。

光州市立美術館所蔵 河正雄コレクション4点

31番倉庫(油 65.2×53.0cm)1955年

首を切られた鶏(油 45.5×53.0cm)1955年

倉庫番(水彩 17×13cm)1956年

東京駅(油 53.0×65.2cm)1949-1951推定

「日本の友よ、さようなら」画家・曺良奎(1928~没年不詳)

光州市立美術館名誉館長
朝鮮大学校美術学名誉博士
河正雄

―日韓近代美術家のまなざし―

2015年は光復(終戦)70周年、そして日韓修交50周年という節目の年である。

しかし独島(竹島)や歴史認識、そして戦後補償(特に慰安婦問題)等が未解決の為、日韓の国民感情がギクシャクしたままである。

この節目の年に「日韓近代美術家のまなざし―『朝鮮』で描く」展が企画された。本展は2016年2月2日まで神奈川県立近代美術館、新潟県立万代島美術館、岐阜県美術館、北海道立美術館、都城市立美術館、福岡アジア美術館を巡回開催される。

20世紀前半における日本と韓国の美術、そして芸術家達の交流にスポットを当てている。日韓のわだかまりの根源と矛盾、「近代」という時代の流れを芸術の力で克服し、地平を切り拓こうとする展覧会である。

河正雄コレクションから全和凰作「ある日の夢(銃殺)」(1951年)「一燈園風景」(1946年)、「私の生家」(1957年)、松田黎光作「僧舞」(1940年)、曺良奎作「31番倉庫」(1955年)、「首を切られた鶏」(1955年)、「倉庫番」(1956年)の7点が展示されている。

この展示会に在日の作家、全和凰、曺良奎の作品が展示される意味は何か。河正雄コレクションの持つ意味は何であるのかを問う意義深い展覧会でもある。

―接点―

 今、曺良奎の仕事と人物について韓国と日本の美術界での歴史的な評価が高まっている。彼の12年程の在日中における仕事を掘り起し見直す重要な意味を探る研究過程に入っていると言える。

韓国で近代美術史学会が創立されたのは1993年、北に渡った美術家達が解禁されたのは1988年からである。不幸な過去を乗り越え、近代美術を見直そうと省察の時を迎えたのであるが分断の為、法的に今だ全面解決している訳でもない様だ。

戦後、在日コリアンの美術が韓日の美術史の中で評価されず、研究も殆どされてこなかった。無関心の中忘れられ失われ、顧みられなかった。政治的、歴史的な事で制約を受け南北の分断そのものが理由であったのは不幸としか言いようがない。
 「70年代以降の日本の美術は社会的主題を喪失(例外もあるが)してしまったが曺良奎の作品を除くと日本の戦後美術史は重要な一角を欠くこととなる。社会への矛盾と軋轢を絵画を通し、自分の主張として表していったのが曺良奎であった。」針生一郎は曺良奎をそう評価している。
 韓国の美術研究家・尹凡牟(ユン・ボンモ)著「美術と共に社会と共に」(1991年美真社刊)が発刊された。その著書に「分断の時代と曺良奎の美術世界」という1章がある。「理念の葛藤と南北分断の犠牲となった“資本主義の中での疎外”を素材として日本で頭角を表した悲運の画家」と中央日報で報道され、曺良奎(チョ・ヤンギュ1928年12月15日生・慶尚南道陜川出身)は広く韓国で注目されるようになった画家である。

―美術評論家・織田達朗(1930年~2007年)―

私は1982年、銀座のセントラル美術館に於いて河正雄コレクション「全和凰画業50年展」を開いた。

その会場に宋英玉画伯と美術評論家の織田達朗氏がいらっしゃった。いずれも初対面であった。その出会いを縁に私は宋英玉画伯の作品を知りコレクションする事となった。

後日、コレクションを展示して欲しいと宋英玉画伯の友人から要請を受け、宋英玉画伯の評論を織田達朗氏に依頼した。翌年、織田達朗氏からコレクションした宋英玉画伯の作品を見せて欲しいと要請があった、間もなく宋英玉画伯と共に川口の我が家に訪れて来た。その時、著書「窓と破片 織田達朗評論集」(1972年美術出版社)を持参された。私達は宋英玉について語り合い、その後に曺良奎の話題へ移った。

織田達朗氏は「曺良奎の社会的主題に注目した。自分は針生一郎より先に評論を発表している。」と自賛され著書を開き説明された。その根拠が「戦後美術の一系譜」(1959年2月「文学」発表)という評論であった。

「私の心に浮かび上がる2つの作品がある。鶴岡政男『重い手』(1949年)と曺良奎『密閉せる倉庫』(1957年)。前者が戦後大剣の執拗な反芻と外部現実への対訳に噛み合わせて一つの典型に達した実例とすれば、後者は戦争体験の執拗な反芻を外部現実への対訳に噛み合わせて、もう一つの典型に達した実例である。」

「当時、鶴岡は有名になった『事』でなく『物』を描くという独特の言葉づかいで、この問題を自己認知していた。『事』にはシゴト、ワザという主体的な意味とコトガラ、デキゴトといった客体的な意味がある。」ともの派についても言及された。

 「曺良奎は『朝鮮に平和を』(1953年)という民族的な体臭の強い作品で朝鮮戦争期に反戦的な意思表示する事によって出発した。」

 「曺良奎もまた、この様に循環する季節への凝視によって、かつて俗流政治路線に己の営為をある時は投入しながら『密閉せる倉庫』(1957年)に達したに違いない。」

 「この作品から深いインターナショナルな本質と階級意識の実体を感じた。」と記されていた。

 また「戦後美術再構成の一視点」(1962年美術ジャーナル発表)の評論には生者と死者のたむけ(慈善)の様に出版された北朝鮮帰国記念の曺良奎画集(1960年9月)に曺良奎論を連ねた人々に対し異論を述べている。

 

―曺良奎の写真発見―

 織田達朗氏は「密閉せる倉庫」「倉庫・人足」「倉庫」(1957年~58年)の三部作、マンホール連作に至る過程を評論し健筆を奮っている。

 1959年に2月、これらの評論を発表するにあたり、29歳の曺良奎を枝川で取材し撮影した。2015年3月5日、呉日画伯(1939年~2014年)の遺品整理をした時、その写真を偶然にも発見した。

 アクリルの写真立ての中に入っていた写真は、煙草のヤニなどの汚れで中が良く見えなかった。立ち合っていた呉日画伯の妹(遺族)さんに「ここに写っているのは若い時の呉日ですか?」と問うたところ「兄ではない様だ。」と答えが返って来たので、その場では写真に私は何の関心も持たなかった。

 しかし何故か後ろ髪が引かれる思いがした。「写真の人物」はいったい誰なのか気にかかり出した。写っていた板塀の家屋、どこかで見覚えのある顔、記憶は定かではない面影。だが頭の片隅にあった記憶を手繰り寄せ、この写真が私に無関係でないという直感があった。

そこで写真を取りだし調べたところ、その写真は1983年12月24日、呉日画伯に織田達朗氏が贈ったと記されていた。

 曺良奎の作品に1952年日本アンデパンダン展出品の「枝川町朝鮮人部落A」がある。写真はこのデッサン作品の家屋の板塀の前で撮影されている物であった。曺良奎が写っている枝川での写真は、現存する唯一の貴重な物である。

 

―出会い―

 1998年、国立徳寿宮美術館開館記念「近代を見る目・再び捜し出された近代美術展」に私のコレクションから在外同胞の作家として全和凰、宋英玉と曺良奎が選ばれ出品した。

人々の記憶から忘却されつつある朝鮮半島出身画家達の作品、海外を放浪した画家達に光が当てられた。韓国近代美術史の再評価の課題を捜し出し、新しい発掘の成果を示した展示となった。この記念展は再び徳寿宮美術館を開館したことと相まって象徴的な意味を持っている。

世界の美術界におけるコンテンポラリーアートの主流に押し流された反省を基にし、近現代作品の見直しと再評価に目を向け始めたのである。ここにその意味を加える為に、これまで公開できなかった有・無名作家達の近代期作品、個人に収蔵され一般公開されなかった146点が公開された。近代美術史の筋を正し、歴史観と美学的観点を再確立しようという意味から開催されたのだった。

また同年日本では名古屋市美術館で「戦後日本のリアリズム展」においては私のコレクションから寄贈された京都市立美術館蔵、全和凰作「ある日の夢(銃殺)」(1951年作)と曺良奎「31番倉庫」(1955年作)河正雄コレクション、宮城県美術館蔵「マンホールB」(1958年作)が展示され注目を受けた。日韓の美術界で在日の美術の存在が大きくクローズアップされたからである。

―逃亡―

 曺良奎が絵の勉強を始めたのは1945年8月15日、日本が終戦を迎えた後である。日本の敗戦を軸に開放感と同時に、虚脱感に打ちひしがれていた時である。曺良奎は解放後に絵画と政治の一致を求め、政治運動に身を挺した。しかし過酷な現実状況に耐えられず、逃亡への道を選び日本に来たのだ。追われる者の心情は侘びしく悲しいものである。

 1954年秋、曺良奎が李承晩政権下の官憲による逮捕を逃れ、日本への密航を決意するまでの経緯を語る。朝鮮半島は1946年8月に朝鮮労働党、11月には南で南労党(南朝鮮労働党)が成立した。曺良奎は1946年7月15日普州師範学校(現普州教育大学)尋常科3期生として卒業し、同年9月頃には釜山土城公立国民学校に教師として赴任した。

学校の養護室で自炊生活を送り、その頃抽象画をよく描いていたという。1947年春、南労党は非合法化され曺良奎は画学生ということで追求を逃れていた。同年8月の夏休みの時、国旗掲揚台に教え子5年在学生の申明均に命じ、朝鮮人民共和国旗を掲揚させたことで曺良奎は南労党員だと定められ、警察に追われる身となってしまった。
 1947年真冬のこと、母とオンドル部屋で寝ていたところ、10人近い武装警官に家の周囲を取り囲まれ台所の裏口から奇跡的に脱出した。山を越え普州からそう遠くない蛇虎島で母の親戚宅の牛小屋の天井裏に4ヶ月間隠れていた。後に日本で描いた牛を題材とした「牧童」(1953年)は1954年アンデパンダン展出品作品で、この時観察した牛のイメージであるという。
 しかし追求の手が廻り、船便で釜山に逃げた。師範学校時代の同僚の世話で再び土城国民学校に潜り込み教員生活に戻ったのだが、危険を知り1948年秋和船で九州の鷹島に逃げた。

そして日本にいた普州師範学校の同期生の助けを受けて、深川枝川町の朝鮮人部落に辿り着く。そこでは日本共産党の入党を拒否し、石川島造船所と近辺の倉庫に同胞人夫らと働いた。1週間に3日働いては4日美術研究所に通う生活を送る。傷だらけの心情のままに敗戦日本の社会状況の中に放り込まれ、東京の町をあてもなく彷徨う。体験により自己の肉体を確かめうる実感を求め、自己回復への渇望に喘いでいた。

―枝川朝鮮人部落-

 私は2008年、KBSテレビドキュメント「在日の花・コレクター河正雄」撮影の為、曺良奎の生を追っていたフリーライター西中誠一郎氏の案内で枝川を歩いた。

 バラック建ての家屋は既に壊され、面影は無くなっていた。だが当時を偲ぶ雰囲気が漂い、込み入っている周囲の家並みに気配は残っていた。曺良奎の「枝川朝鮮人部落」デッサン画のイメージが強烈に焼き付いた先入観からと思われる。

 枝川町は東京大空襲の際、焼失を逃れた。だからバラック建ての住まいが枝川町にはそのまま残っていた。

 曺良奎が住んでいた枝川の住民は都合3回入れ替わっている。戦後まもなく朝鮮人は故郷に帰り、二回目に戦災者と地方からの朝鮮人、シベリアから引き揚げて来た抑留者が入り、3回目は北朝鮮への帰国が実現して多数が帰国した。その後に多くの日本人が移り住むようになった。

 東京大空襲で豊洲から門前仲町辺りは綺麗に焼け、東陽町辺りは海の方に逃げようと人が重なって死んでいた。門前仲町辺りから、この惨状であったという。川には死体が流れ、戦後の枝川町辺りではいくつかの事件が起きている。

 当時は日本共産党全協の指導下、いわゆる極左冒険主義の時代であり、全協の指導で作られた失業者同盟の殆どが朝鮮人であった。

 東京の最大拠点で先鋭的な争議や行動は朝鮮人によって担われていた。徴用から逃れて来た人など、その日暮しに追われる生活者が戦後の枝川に住むようになり、在日朝鮮人運動の中心となった枝川は解放区とも呼ばれていた。

 1952年のメーデー事件容疑で、枝川町の朝鮮人部落を急襲し、枝川の中心的メンバー15人が検挙された。朝鮮戦争の頃は反戦ビラ等を撒き、労働組合の連携を以て争議や各種カンパニア行動の多くは朝鮮人によって担われていた。

―出発―

 曺良奎は1950年に起きた朝鮮戦争により皮膚感覚で民族の危機を受け止めた。1952年武蔵野美術学校を中退して、「朝鮮に平和を」(1953年作)油絵30号と、枝川町朝鮮人部落のデッサン20枚を出品した。日本アンデパンダン展と自由美術展に発表したのが日本で美術家としての出発点となる。
 1953年、朝鮮戦争が休戦となり自らを育んでくれた祖国の山河を強く浮かべ、夢想しながら「牧童」を描いた。滝口修造の紹介により神田タケミヤ画廊にて第1回個展、そして具象展や43人展、46人展に参加した。倉庫シリーズに入る変革に至るまでには様々な屈折を経た。

「凶作」(1953年)、「目立て」(1953年)、「花を持つ男」(1953年)、「土地を奪われる」(1955年)などは状況の混乱に耐えていこうとする曺良奎自身の意志を容体化してみたものである。

―倉庫・マンホール―

 「倉庫」は曺良奎が住んでいた身近な情景と生活体験から誕生した。生産の現場ではなく集積過程の機構を描くことで人間との不条理な分離を試みたのである。「31番倉庫」(1953年作・河正雄コレクション)「首を切られたにわとり」(1953年作・河正雄コレクション)「L倉庫」(1957年作)「密閉せる倉庫」(1957年作・東京国立近代美術館蔵)と製作が進む中、次第にその対立葛藤を明確にし始める。何ヶ月か後には「人足と倉庫」(1957年作)アンデパンダン展出品、「倉庫」(1957年作)と制作を進め一連の「倉庫」シリーズ製作を終える。

曺良奎はその過程を整理する中で、資本主義社会の暗黒面の象徴としてのモチーフに〈マンホール〉を選んだ。毎日私達がその上を歩き、誰もがその「もの」を知っていながら、そこに人間的意味を感じ取れない「もの」に製作的興味を移行した。倉庫の立面からマンホールの平面へ、状況の中で息づいている下層労働階級の暗黒面と生への渇望を暗示的に画面に盛り込んでいった。状況に落ち込んでいる客観的人物像と、その状況下からの脱出のエネルギーをダブらせ、状況を乗り越えうる典型的な人物を表現する。「もの派」の源流は曺良奎の「マンホール」から派生したと言っても過言ではないと思われるが。

「マンホールA」(1958年)、「マンホールB」(1958年第2回安井賞候補新人展出品・宮城県美術館蔵)、「マンホールC」(1959年村松画廊第2回個人展)へと至る。「マンホールD」(1958年第3回安井賞候補新人展出品)、「マンホールE」(1958年アンデパンダン展出品)では具体的状況を見つめる作家の内的表現の可能性を探った。「マンホールC」は1959年には読売ベストスリーに選出された。1960年には、みづえ賞選抜展に「仮面をとれ」を出品する。

―平和獲得の戦い―

 曺良奎は一連の「マンホール」作品を描きながら、自分が日本の現実の中に入り込んでいく程に資本主義体制の諸矛盾に悩みを抱く。日本で得た創作の経験を通し、創作の意味を形作る自信を得ていった。しかし曺良奎の中では南北分断に対する思いが日増しに強くなって行く。

「南北が分裂しては、朝鮮に平和は有り得ない。その平和獲得の戦いこそ創作に関わり合う表現者としての任務である。日本での貴重な体験こそが私の中で強く生き続ける。リアリティがある限りリアリズム絵画に囚われなくても良いのだ。」

曺良奎は関根正二を愛し、フォートリエに共感を寄せたというが、観念の絵を描いて日常的に関わり合った日本との関係はこれで切れた。

「日本を去るに至り、少年時代の記憶に戻る。日本の友よさようなら。」日本で実力を認められ、仲間からも一目置かれる存在となり、自由美術出品者らの憧れの人、曺良奎はそう言い残して北朝鮮へと渡る。いろいろと解決しなければならない問題をはらんだままに。

―憧れ―

 私が曺良奎の作品と足跡に興味を持った経緯を語りたい。私は1959年3月7日、秋田工業高校の卒業式を終えたその日の上野行きの夜行列車に乗って上京した。卒業証書と身の回りの物を入れた通学鞄1つが私の所持品だった。画家になる夢を抱えて、秋田での18年間の生活に別れを告げた。

目黒の柿の木坂に下宿し、武蔵小山にある明工社という配線機器製造メーカーに務めた。昼は配線機器の設計の仕事をして、夜は代々木にある日本デザイ

ンスクールに通い商業デザインの勉強をした。数ヶ月後に川口市領家の芝川沿いにマッチ箱のような家を購入して、そこから明工社に通った。朝5時半には家を出て帰宅は夜の10時半過ぎであった。

その頃に曺良奎が北朝鮮に帰国する。1960年10月7日に新潟から北朝鮮に渡ったと報道で知った。その年の12月になって私は目を痛め、3ヶ月ほど入院し盲目での生活を余儀なくされた。過労と栄養失調から来る障害であったのだが運良く回復することが出来た。その事で会社も学校も辞めざるを得なくなってしまう。

1959年9月には伊勢湾台風の水害により我が家は水没した。その時川口にある朝鮮総連の人達がボートに乗って慰問に訪れ、お米を配給してくれた。その人達から北朝鮮は天国のような所であるという事を聞き、行き場を無くし悶々としていた時だったので、1961年に私も曺良奎のように北朝鮮に行き絵の勉強をしようと総連事務所を尋ねたのだった。

しかし「君は少し北に行くのは保留して、この総連事務所の仕事をしてもらいたい。」と慰留され、そこへ務めることとなった。今考えるとこのことが私の人生の大きな分岐点になるのだが、その頃の私に判ろう筈もない。

しばらくして戸田市に住んでいた画家の許勲氏が総連事務所に私を訪ねて来て、在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)美術部に入らないかと誘った。私は文芸同に入部したことで在日同胞作家と自由美術界を知る接点が出来た。そこで文芸同の美術部員であった曺良奎についての情報も多く得ることが出来た。曺良奎との直接の出会いこそなかったものの、こんな時代背景と境涯が曺良奎を気に留める存在にし、憧憬の人として今なお心に生き続けているのである。

―対話―

 マンホールの作品に至るまでの曺良奎の言葉である。「人間が自己の労働に誇りと尊厳を持ち得ず、ただ最低に生きるためにのみ働かざるを得ない社会機構。自己が経験し、周りの労働者から受けた偽りのない実感である。具体的対象物の認識を具体的生活感情による理念の論理構造に基づいて、それを感情構造に高めうる時、現実認識としてのリアリズムが確立すると思う。

芸術家が政治的、社会的状況に無関心な状態で芸術の意味がよりよく成立するという意識の破壊こそ、新しい芸術への道であり、それを具体的交感に基づいて積み重ねていかねばならないのだ。」

 マンホールや人物の表情と画面の緊張感から何が美しく見えるのか。優しく微笑みかけてくるものよりは激しい敵意と反撥を感じさせるものの中に対話を求めた、重くて力強いリアリズム。「対話」これこそ作品から受ける曺良奎の芸術の本質ではないだろうか。
 激動する解放後の朝鮮半島と日本の社会状況の中、日帝後期時代に青春を過ごした在日朝鮮人の知識人は全ての既成的な価値観が崩壊しつつある中で共通した模索をし続けた。それぞれの画家が生きてきた時間や民族の記憶に根を下ろした。「時代の証言」とは、現在そして未来に語り継がれていくのはどの様な記憶なのか。等しく真摯な絵画製作に情熱を燃やしたのがこの時代なのである。

―コレクション―

 曺良奎作品をコレクションする事となった経緯を語る。曺良奎の作品をコレクションすることを早くから熱心に薦めてくれたのは李禹煥、宋英玉であった。その助言を頼りに数年間、捜してみたのだが情報はなかなか入らなかった。1985年になって洲之内徹(1913年~1987年)のコレクションの中に「マンホール作品B」(1958年作)があるという李禹煥からの情報を得て、洲之内が経営する銀座6丁目の「現代画廊」を訪ねた。

 マンホールの穴とパイプ、太いホースという「もの」だけを描いた執拗に塗り込んだエネルギッシュな作品であった。

私はすぐさま交渉したところ「300万円なら売りましょう」と答えたので家に帰り次第送金すると約束してわかれた。しかし家に着いた所、洲之内から「申し訳ないが売るのは辞めます。その作品はいずれ美術館に寄贈しようと思っているのです。」と断りの電話が入った。私は「美術館に入れるということなら曺良奎も喜ぶでしょう。」と諦め了承した。洲之内の死後、この作品は宮城県美術館へ洲之内徹コレクションとして寄贈された。

洲之内は一度売却を約束した後にキャンセルしたという事案が他にもあったと後年、複数耳にした。自己のコレクションに対する愛着と美術館に寄贈する事に対する情熱からと、コレクターの私には理解出来た。

 それから数年経った頃、銀座の画廊「77ギャラリー」から「倉庫31番」(1955年作)が売りに出たと報せを受けて即購入した。間もなく「首を切られたにわとり」(1955年作)があるというので価格の交渉に入った。しかし、余りにも高額だったために交渉は行き詰まり、そうこうしている内に作品所有者が売るのを辞めてしまった。その絵との縁が切れ数年後、忘れてしまった頃に遺族が再びその作品を売りに出したのでどうかという打診があり、即購入を決めコレクションした。

曺良奎のデッサン作品に「うさぎ」(1953年)がある。料理する為、まな板の上に置かれ目を見開いている。うさぎの死体が描かれている。

これから捌かれる運命のうさぎの見開いた目は、祖国と朝鮮民族の運命を訴えて描かれている様だ。

私のコレクション「首を切られたにわとり」(1955年日本アンデパンダン展出品作品)にも連なる作品である。血生臭い画面は北に帰った曺良奎の運命をも暗示しているかの様に思え、不気味さを感じる。私は、この絵には朝鮮半島と朝鮮民族の姿が描かれていると思うのである
 水彩画「倉庫番」(1956年作)の作品は針生一郎のコレクションであった。ある講演会で針生一郎が、曺良奎が北朝鮮に渡った後に手紙を送って来たという話をした。私はその手紙の原本を見たいと針生氏に頼んだ。針生氏は書斉や本棚を捜してくれたのだが、その手紙は出て来なかったという。しかし、その代わりに曺良奎が北に帰る際に出版した画集に、針生氏が文を寄稿したお礼に贈られた水彩画「倉庫番」が出てきたと言った。

枝川町は倉庫が多く、曺良奎がアルバイトで倉庫番をしていた自画像であった。針生氏は、その作品を河正雄コレクションに寄贈してくれたのである。
 このようにして曺良奎作品3点が河正雄コレクションとなった。それらの作品は「再び捜し出した近代美術展」(国立徳寿宮美術館’1998年12月1日~1999年3月31日)、「祈りの美術展」(光州市立美術館1999年11月3日~11月30日)、「在日の人権展」(光州市立美術館2000年3月29日~6月7日)で公開され、曺良奎の存在が韓国の美術界に鮮烈に印象づけられたのである。

2016年8月8日「はじめまして。宋と申します。祖父(宋元栄・忠南出身)から譲り受けた曺良奎の絵画があります。」とのメールが届いた。

それは1950年初期の自由美術協会に出品された「東京駅風景」(F15号/65.2cm×53cm)、武蔵野美術学校時代の制作と思われる油絵であったので追加コレクションした。

―悲運の作家―

 曺良奎は「日本の戦後、特に朝鮮戦争以後の社会状況の中に生きた1人の朝鮮人が、独占資本主義的社会体制の中に生きる現代人としての対象認識を通して、思想の模索を続けた過程であります。過去の日帝時代に、植民地化の朝鮮に生まれ、その支配からの脱出と同時に新しい強暴な支配者の手元に墜ちていく南の社会政治情勢下にあって、逃亡という方法を余儀なく選び、それ故につまずきへの、深い屈辱感に苛まれながら新しい思想の論理を築こうと渇望した時期であります。」という言葉を残して北に渡った。

渡ったところで思想、政治的軋轢から解放されるかも、ましてや絵が描けるかどうかも定かでないのに、枝川で知り合った妻と2人の子供と共に祖国に新天地と幸福を求め、消息を断った悲運の画家であった。1960年10月7日、日本と別離してから今もなお、曺良奎の消息は深い闇の中にある。

日韓近代美術家のまなざし展

2015年は光復70周年、韓日国交正常化50周年という節目の年である。この節目の年に「日韓近代美術家のまなざしー『朝鮮』で描く」展が企画された。同展は来年2月まで日本各地を巡回開催される。20世紀前半における韓日の美術、そして芸術家達の交流にスポットを当てている。韓日のわだかまりの根源と 矛盾、「近代」という時代の流れを芸術の力で克服し、地平を切り拓こうとする展覧会である。河正雄コレクションから全和鳳作「ある日の夢(銃殺)」(1951年)、曺良奎作「31番倉庫」(1955年)など7点が展示されている。在日の作家、全和凰、曹良奎の作品が展示される意味は何か。河正雄コレクションの持つ意味は何であるのかを問う意義深い展覧会でもある。

北朝鮮に消えた画家を追う(毎日新聞 2019年12月9日夕刊より)

神田日勝没後50年展に寄せて

光州市立美術館名誉館長 河正雄

 新型コロナウイルス禍の中、美術界では社会派リアリズムの作家、曺良奎(1928年-没年不詳)の作品が持つ「時代の気配」を共にする作品を残し早逝した、神田日勝没後50年を記念する「神田日勝大地への筆触」展(東京展2020年4月18日~6月28日・鹿追展7月11日~9月16日・札幌展9月19日~11月8日 巡回展)が開かれ話題になっている。

 2020年6月1日、神田日勝記念美術館の川岸真由子学芸員から東京展の招待を受けた。翌日、東京ステーションギャラリーでの展示を拝見した。時代に振り回された孤独感と焦燥感が迫り、閉塞感漂う作品群の迫力に息を呑んだ。

 神田日勝(1937年-1970年)と共に生きた昭和の青春、夢と希望を抱き同時代を生きた共感が熱く疼いたからだ。愛しくて涙が溢れ人間的な温もりを感じ、より気持ちが近づいた。

 私は以前から神田日勝の作風が曺良奎の影響を強く受けているのではないかと注目していた。それは暗褐色の厚塗りのマチュエルやタッチ、人物の表現や配置構図などに見受けられたためだ。

 モチーフは高度経済成長期の社会から見捨てられた象徴という評論があるが、曺良奎もその象徴から脱皮しようと1960年「日本の友よさようなら」の言葉を残して北朝鮮に渡り消息が途絶えた悲運の画家である。

 冨田章東京ステーションギャラリー館長が「その時代の国際的美術動向に敏感に反応した作家」であると述べられたことに意を強くした。

 訪問記念として冨田館長に光州市立美術館分館河正雄美術館で開催された曺良奎「時代の凝視-断絶と緊張」曺良奎生誕90周年記念展(会期2018年10月16日-2019年1月20日)のカタログを進呈した。

 収録されていた河正雄コレクションの曺良奎作「東京駅」(1949年~1951年頃の制作)の作品を見られた際、「この時代の東京駅の油絵は少ない。曺良奎が描いていたとは思っていなかった。大変貴重な作品だ。」と喜ばれた。

 また川岸学芸員からは「神田日勝の故郷鹿追展は東京展に比べて規模は縮小されますが、画家本人が生きた土地に建つ美術館として、美術館の様子や周辺の情景、土地の空気も含めてごらんいただければ幸いです。」と案内を受けた。

 7月21日、帯広のホテルを発って鹿追町の神田日勝記念美術館に向かった。途中の道筋に韓国ドラマ「冬のソナタ」のロケ地である韓国江原道春川の南怡島の銀杏並木を彷彿とさせる、NHK連続テレビ小説「マッサン」で主人公達が永遠の愛を誓い合うシーンのロケ地である白樺並木に寄り道をした。清涼感ある美しい並木に自身の青春を重ね、若返ったような気持になった。

 観光の車が何台も通り過ぎて行き、放送終了から年数が経っても人々の心に、愛に生きる想いは残っているのだと実感した。

 小林潤館長が神田日勝住居跡に案内して下さり「私はこの地で生まれ、この地で神田日勝と共に生きたことが誇りです。」と述べられた。

 「人間は生まれた土地で生き、死ねるのが一番の幸せだという故郷論がある。大雪山と日高山脈が360度に拡がる景観、大自然の大地が雄大で美しい。寒冷地の不毛の荒れ地を開墾した先人たちの忍耐と達成感は言が尽きない喜びがある。」

過酷なこの大地で生きた日勝や館長は故郷に生きる幸せに選ばれた人である。私達朝鮮民族は今だ平和統一が出来ずにいる。故郷を離れ異国で暮らすディアスポラの境涯は、安寧の無い流浪の民であるが故にその幸せが眩しく思えた。

神田日勝はこの厳しい環境と雄大な自然に育まれ、慰められながら魂を描いた。彼は惜しくも早逝したが、道半ばといえども、その画業と想いを世に遺し切ったのだと思う。

私は画家になる青春の夢を達成出来なかったが故にその生き方は素晴らしかったと強く感じる。在日の作家、文承根(1947年-1982年)は35歳、孫雅由(1949年-2002年)は52歳で早逝されたが、画業は日韓の美術界で名を刻み輝きを増している。その生き様を心中重ねた私は、芸術にその人生を映す生き様は場所、時間を問わず輝くものであると再確認した。

冨田館長は「健全であったなら時空が重層化した新しい方向性の絵になっていたかもしれない。」と述べているが、私はこれで良いのだと思いたい。

未完成の馬の画が彼の代表作として疾走し想いを奏でているのではないか。人口6000人にも満たない北国の町が、町の出身者である神田日勝を記念する美術館を20数年前に建立したことは恵まれたる果報な画家、町であると私は祝福する。

町にはもう一つ、私設の福原記念美術館があると案内された。町は美で飾られ善行が積まれていた。地域の民度、その文化的密度の豊かさに感銘を受けた。

芸術は永遠である。文化的価値の判る鹿追町の誇りと叡智は人々に感動を与え、永遠に輝くことであろう。今後の発展を祈念したい。