孫雅由「予響曲」作品集(2000年)

孫雅由特別展に寄せて

―魂の響き―

浦項市立美術館主催河正雄コレクション「Diaspora 孫雅由の抽象世界」展 (会期2013年3月15日~4月28日)が開催される。

孫雅由が生前「私の父母の故郷である浦項市に作品を寄贈し残したい」と私に語った事がある。コレクターとしてこの度、その夢と願いが実現する事を私は無上の喜びとする。

孫雅由は1966年、高山登(1944年生・「もの派」の作家・在日二世)の「地下動物園」の製作を手伝い、表現活動を試み始める。反体制的な「自分達の美術世界」を志した事で、その後の作品は郭仁植、李禹煥、文承根と受け継がれた表現様式「もの派」の作家達と相互に影響を与え、受け合った事を窺う事が出来る。

1968年、多摩美大に入学するも中退し、「自らの表現様式」を模索、有為転変の「絵画の表現」を試みた。

1975年ドイツ留学を試みるが挫折、1976年から京都に居を構え「静かな絵画」に、自らを表現する作品活動を本格的に開始した。

1977年から2年間、スコットランドに留学し、ルドルフ・シュタイナーの「人智学」を研究。団体、グループに所属せずに40余回の個展を開いた。

在日作家の限界を超える国際的な活動を展開するが、2001年に大腸癌の手術を受けるも、翌2002年に早逝した。

「記憶の奥底に蠢く痕跡。日々日常の出来事が漂泊していく。自己の体を通した作家の痕跡が、日常のフィルターを通してゆっくりと無意識の底に眠る。まだ見た事もない聞いた事もない記憶が浮上してくる。

1つ、2つ、3つと幼かった時の思い出、生まれてくる前の出来事……。この地球に私達が住み着く以前の記憶も…。」という孫雅由の文がある。

在日韓国人でありながら、母国語を知らぬまま生きた慙愧の想い。「在日作家」としてのアイデンティティに苛まれた心の痕跡が、その文には良く現れている。

「在日の作家は事物を客観的に見ることが出来る。自分を発見する適切な位置にある。芸術と言う仕事に携わって、常に韓民族の血を受けた自身を見つめさせられる。」と、孫雅由は私に語った事がある。

孫雅由にとって創作活動とは、在日韓国人としての自分の位置、自らの存在の探求であり、それは在日韓国人としての精神的な自立であったとも言える。

孫雅由の作品のテーマは身体(Body)、物質(Matter)、宇宙(Cosmos)である。孫雅由独自の精神は「身体性」「物質性」である事は、「絵画に身体性を持たせている」という、自らの命題によって良く表されている。

本展示は、1960年代から2001年代までの作品を時期、主題、形式別に、そして数多くの資料を展示して、孫雅由を回顧する遣作展である。「芸術家とは事物の内的な響きを感知し、それを芸術作品の中に具現する事が出来る、特殊な能力を持った者」だというカンディンスキーの言葉を借りるならば、孫雅由は真の芸術家であったのだと私は思う。

―依願―

2005年8月18日、韓国大田市の李在興アジア美術館長が我が家を訪れた。李承晩初代大統領が祖父に当たる方で、日本への入国は始めてであるという。今まで日本の歴史認識の問題で思うところがあり、入国の機会がなかったそうである。

用件はアジア美術館コレクション展を、光州市立美術館で開催する計画があり、私の記念室を貸して欲しいとの事であった。話が済んで在日の美術について関心を示されたので、美術誌「美庵Bien」(2004/Vol.28)に掲載されている孫雅由を紹介した。その会話中に、奥さんである桜井和子さんからの郵便が届き、孫雅由の画集が送られてきた。なんという偶然か、私は、そのことに驚きを隠せなかった。

同封されていた書簡には「お願いがあります。お知り合いの学芸員の方がおられましたらご紹介下さいませんか。私の希望としては孫雅由の作品を何点か収蔵していただければ寄付をしたいと思います。」という内容のものであった。その手紙には何か訴えかけるものがあるように思われた。

―ご縁―

孫雅由とのご縁を語りたいと思う。

1999年秋、京都太秦の孫雅由のアトリエを訪れたことがあった。第3回2000光州ビエンナーレを記念して開かれる河正雄コレクション「在日の人権展」への出品要請のためであった。

その時、私は孫雅由を「在日の人権展」に招待し、いつの日にか光州市立美術館の河正雄記念室で孫雅由展を開きたいと提案した。私の提案を孫雅由は大変喜び、「在日の人権展」オープンの時には、光州市立美術館で会いましょうと約束を交わした。

2000年2月2日、大阪府立現代美術センターで開かれる「孫雅由展」の招待状が届き、再会する事となった。

その時光州での孫雅由展招待の計画(交通費、滞在費、画材費など一切を負担するから光州で滞在し新しい作品を製作、発表してもらいたいという案)を、具体的に提示し内諾を得た。

2000年3月29日、光州市立美術館にて第3回2000光州ビエンナーレ記念「在日の人権展」が開催された。

開幕式に招待した孫雅由は、美術館の展示場の図面を要求され、「3ヶ月ほど光州に滞在して製作してみよう。」と意欲を示された。

ところがその翌日のこと、体調が悪いのでホテルの部屋で休みたいと言われた。食欲がない、下痢が止まらない、体中が痛いのでお灸をすえて欲しい、そしてマッサージをして欲しいなど同室していた私の息子(河洋樹)に頼んでいた。

薬や精がつくようにと、鮑のおかゆなどを差し入れしたりしたが、数日経っても一向に回復の兆しがあらわれないので、私はやむなく国立全南大学付属病院に入院の手続きをとったところ、明日にでも京都に帰りたいという願いを聞き入れ、孫雅由は帰途に着いた。

それから2ヶ月も経った頃、元気になったという便りがあり、2001年に福岡県立美術館で開かれる孫雅由展の案内があった。翌2002年、報道で孫雅由が亡くなったことを知らされたが、それまで私は孫雅由と親密な関係を築いていたわけでもない。共に語りあい未来の展望を約束しあった思い出は、鮮明に残ってはいたが、孫雅由との御縁はここで断ち切られたものと思っていた。

だから桜井和子さんからの手紙に、少なからぬ戸惑いがあったことは事実ではあるが、台風14号の嵐の中、取り急ぎ京都に出向いた。

―桜井和子さんの述懐―

2005年9月7日、東山の智積院や泉涌寺に隣接する「今熊野」のバス停で、桜井和子さんと初めてお目にかかった。近くに大石内蔵助の腰掛石があるという滑り石街道(別名山科街道)の脇道に入った、奥まったところにある自宅に案内され、桜井さんは語り始めた。

「3歳の頃から教会に通っていて、そこで辛い事の半分、重荷の半分はキリストが背負っているという説教を聞いていました。孫が欝状態で、一日中同じ場所にじっと座っている日々が続いて悩んでいる時に、娘が体調を崩し、とてもしんどい日々が続きました。出来れば、荷の全部をキリストに持ってもらいたい思いと、コーラスで気を紛らわす為、洗礼を受ける事にしました。その時、私は立会人として京都本町ナザレン教会(2001年)に、孫を連れて行きました。

3ヶ月後に、梅宮義信牧師を信じる事が出来ると言って孫も洗礼を受けました。(プロテスタントであるため洗礼名はない。)孫は癌である事が判ってから、薬を飲んでも眠ることが出来ない辛い日々が続いておりました。洗礼を受けてからは、不思議なほど寝られるようになり、楽になったと言いました。

でも孫はクリスチャンでありながら、キリストを裏切っていたと思うのです。亡くなる少し前に、私の預金通帳から「少し使った」と他人に漏らしていたのを、伝え聞いたのは、葬式が終わって3日目のことです。アトリエの家賃の精算に使われた様でありますが、200万円ほどが下ろされておりました。そのお金で馬券でも当てて、今までの金銭上の精算をしておいてくれたら、そして、せめて一言「ごめんね」と生前に謝ってくれていればよかったのにと思うと悔しいですね。

孫は遺言で、エーゲ海に散骨してくれと言っていたので、イタリアに行き(2004年)ました。川に撒いたらエーゲ海に注ぐであろうと、流す川を探しました。運悪く、その川は干上がって水がなかったので、バチカンのサンピエトロ広場の噴水に散骨しました。ローマ法王の下で心を入れ替えて修行を積み、良きキリストの弟子になって貰いたいと言う思いから、そこに決めました。

もう一つは、隣接するバチカン美術館にはミケランジェロ、ラファエロ、ダビンチらルネッサンスの巨匠の絵があるので、これらの天才の隣にいる事が出来たら孫は幸せなのではないか、とも思ったからです。

孫が欝病であると気づいたのは結婚した時(1979年)です。孫の妹さんから「和子さんがいるからお兄さんも安心やなあ」と言われたので、おかしいなあと思ったのは、今思えばこの事だったのでしょう。

私は尼崎の生まれ(父・桜井正身、母・シズエの一人娘、京都祇園町が本籍)ですが、京都市立芸術大学造形科を出て豊中の中学で美術を教えている1979年頃、西宮の版画工房で孫と知り合いました。その時、孫は水中生物の印象を受けるドライポイントの小作品を製作しており、私も同じような抽象的な作品を作っていました。

結婚してから鉛筆で描く作品を始めましたが、全然売れませんでした。半年に1枚売れる程度で、2万円ほどの収入しかありませんでした。その時、孫は精力的に作品を製作し売り歩いておりましたが、私の年収は200万円ほどでしたので、孫を支える事が出来ました。

結婚の際、神戸の先の三木で大衆食堂を経営していた孫の父が、家財道具でも買うようにと200万円をくれました。孫はそのお金を、半分ずつ分けようと言っていましたが、結局全部酒代として使い果たしてしまいました。孫は酒を飲んで家には帰らなかった事が多く、そんな酒飲みとは最初は気づきませんでした。

結婚してから孫の行動が、飲んでいない時も攻撃的でダラダラと生活するようになり、アルコール依存症であることがはっきり判ったのは、10年も経ってからのことです。アルコールを飲まなくなると欝病、自立神経失調症を繰り返しておりました。

ドア一枚、中に入った途端に性格が変わるという具合で、外で機嫌良くやっているのが辛いようでした。そんな私達の状況を見かねてか、孫の父母や通産省の研究所に勤めていた私の父が、間接的に支えてくれるようになりました。この家も父が買ってくれたものです。

孫は自分から一度だけ病院に行った事(1996年)がありました。その時はアルコール依存症のグループカウンセラーを受けたのですが、自分は絵描きだから、もう行かないと言ってそれきり、病院には行きませんでした。その時の検査の結果、肝臓が悪くなかったからだと理由付けていました。

その頃、中島らもさんがTVで「女の人のろくろ首が見える」という幻覚の話をしているのを聞いて「自分もそういう幻覚を良く見る。」と言ったことがあります。

孫は自分以外の人間は判らないし、信じられない、付き合わないといった全く融通性のない世間を知らない人でした。自分の作品だけに執着する精神構造で、人格と行動においては作品と別であるかの様に振る舞った人でした。芸術家にはよくある性質なのでしょうかね。

イギリスに滞在(1997年~1998年)している時に体調(1998年)を悪くしました。大腸癌が見つかり、腸閉塞の診断で、すぐにでも手術を受ければよかったものを、病院に行くのが怖かったのでしょうか、2001年になって京都の日赤で手術をした時には既に肺、肝臓、リンパ腺、腹膜などに癌が転移しており、余命6ヶ月との宣告を受けました。事実お医者さんの言う通り6ヵ月後に亡くなりました。宣告された時は本人も相当に堪えたようで、かなり落ち込んでいました。

体力が落ちるからと言って、抗癌剤や放射線治療は一切せず、近所の病院で栄養剤の点滴を受ける事しかしませんでした。

作品は完成しているから、作品のサインや美術館に収蔵する為に、整理することだけだと言って亡くなる直前まで、その作業に没頭しておりました。

亡くなる前目、風呂に入りたいと風呂場に入ったところ、右腕が利かないと言ってから意識を無くし、救急車で京都第二医療生協病院に入院しましたが、翌日(2002年2月21日)亡くなりました。葬式後は孫の家族の方々とは交際はなく、連絡は取っておりませんし、取らない事にしておりますので、分骨された孫のお墓については、孫の家族側でどの様に祀られているのか一切判りません。」

淡々と忌憚なく語る内容に、私は相槌を繰り返し、孫雅由の実生活の生々しい実情と、彼の作品世界とのギャップに、ただ驚くばかりであった。

―闘病の日々―

正岡子規(1867年~1902年)の晩年、脊椎カリエスの闘病生活は壮絶であったという。

「絶叫。号泣。その苦、その痛、何とも形容することは出来ない。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。」(『病状六尺』岩波文庫)

桜井和子さんの話は、そんな声が聞こえて来る様なものであった。それは病と闘う本人だけでなく、飽くなき芸術への欲求のために、孫雅由の家族も背負った地獄なのではないかと思った。

しかし極限状況の中で生み出された作品からは、6ヶ月の余命と宣告されてから死の直前まで作品に向き合い、整理をしていった孫雅由の死と向き合った境地に、私は無限の慈愛を感じる。

―収蔵―

孫雅由の作品は多くの美術館に収蔵されている事を、桜井さんから知らされた。

記録によると

①2001年 福岡アジア美術館 13点

②2001年 伊丹市立美術館 287点

③2002年 宇都宮美術館 4点

④2002年 福岡県立美術館 79点

⑤2002年 国立国際美術館 4点

⑥2002年 京都国立近代美術館 3点

⑦2003年 兵庫県立美術館 2点

⑧2004年 和歌山県立美術館 47点

⑨2004年 東京都現代美術館 1点

⑩2004年 徳島県立近代美術館 14点

である。

死の宣告を受けて孫雅由自身が身辺の整理をし、作品を美術館に収蔵するために生前に手続きを取ったのは、福岡アジア美術館、伊丹市立美術館、宇都宮美術館であった。

寄付理由を「朝鮮半島に古くから流れる美の源流が我々、在日のアーティストが持っていること、そして、その美に触れて頂きたく寄付をします。」と本人自ら記したものを見て、朝鮮半島と在日の狭間に生きる血を、意識していた孫を愛しく思った。

―出自―

孫雅由の略歴によると、1949年9月16日大阪曽根崎にて在日韓国人2世として生まれたとある。

本籍簿によると慶尚北道迎日郡〈現・浦項市南区〉東海面イムゴッ里592番地にて父・孫洙翼〈本貫・慶州〉、母・張乙俊との間に、兄と弟3人と妹2人の7人兄弟の次男として生まれたと記載されていた。

私も布施市〈現東大阪市〉の生まれだが本籍地は全羅南道霊岩郡出生となっているように、在目韓国人は父母の本籍地を出生地として載せている。孫雅由も同様であった。

二つの祖国、二つの故郷の出自を誇り高く胸に抱いて、孫雅由もまた在目を生きた記録が戸籍簿にはあった。

作品「色の位置」には、唐辛子の赤色を連想させる民族的な色彩を使っている。そこから出自〈族譜〉が根幹にある事は、孫雅由の行動や作品に投影されていることを感じ取ることが出来る。

孫雅由の作品からは、色々なジャンルの音楽がグローバルに協奏しているイメージがある。厳粛なクラシックもあれば、陽気で軽快なラテンやジャズ、洒落たシャンソンや哀惜漂うパンソリもあるというように複雑に色と線が音楽のように響き合っている。リズミカルで伸びやかな線の動きが自由を歌い、豊潤な色彩がハーモニーとなり平安を奏でている。

孫雅由には音楽のセンスを、感じる事はなかったと桜井和子さんは語ったが、閉ざされた心の中で孤独を紛らわす為に、孫雅由は作品による「協奏曲」を作曲し奏でていたのかもしれない。

残された作品は、桜井和子さんが孫雅由の遺志を継いで各美術館に寄附収蔵したものである。この作業は孫雅由の生の証であり死して尚、美術活動の終着点を目指す執念であったと思う。

この努力により、次の世代に孫雅由の存在を記憶される事は間違いないことで、必ずや孫雅由は作家として祝福を受けるものであると思う。それは遺志を継いで、収蔵に尽力された遺族に対してもそうだと私は思う。

―画論―

以下は私が読んだ孫雅由の主なる画論である。

「絵画の根源から出る、視覚的実験福岡市美術館学芸員・山口洋三」

「関係する線―孫雅由作品集に寄せて手塚山学院大学美術史教授・島本浣」

「立ち現れる線と色孫雅由の世界・師子堂恵信」

「“孫の絵画の身体性”・“精神の〈場〉としての風景一孫雅由の絵画について”国立国際美術館主任研究官・中井康之」

「光と大気大阪府立現代美術センター学芸員・小口斉子」

どの画論も、孫雅由の美術世界を理解するのに助けになっている。「光と大気」の文末に”予響曲・コバルトブルー&イエロー”の作品について「孫はこれらの作品を自己の癒しの為に描いたと語ったが、その作品によって我々もまた自己の存在を確認し、癒されるのである。」という文が私には身近に感じられた。これらは生の終局を燃やし、死の旅立ちの世界を見続けていたような作品である。

孫雅由が到達した美術世界の終着を暗示させ、生の感動をもって表現をしている。「泥中に一蓮華」と言える静謐な作品を残された事は幸いである。

―もの派―

今、石や木、紙や綿、鉄版やパラブィンといった〈もの〉を素材に物質や物体を直接的に提示した表現を作品としていた「もの派」が韓日を越え世界の美術界で再考されている。ニューヨークのグッゲンハイム美術館で「もの派展」が開かれるのは意味深い。

美術を志した出発点において「もの派」の高山登〈1944~〉に師事したことで、孫が求めた美術世界は形成されたように思われる。

高山登は2000光州ビエンナーレで光州市立美術館の前庭に枕木を使った作品を出品し、孫雅由は同美術館において「在日の人権展」に“空間の間合い”の作品を展示し師弟が奇しくも出会う事となった。

高山登の父は戦前に朝鮮から目本に渡って来た治金技術者であった。近代化、国家、アジア、民族、戦争とは、民族的な出自から反時代的に問う「枕木」の立体作品には力強く訴えるものがあった。

孫雅由の作品は郭仁植、李禺換、文承根と受け継がれた表現様式「もの派」の源流から、自己の表現を試みた作家である事を確認させるものであった。

何故か高山も孫雅由も、生とも死とも直結している、異界への入口を連想させる痕跡の対比をもって、過去をも連想させる作品があるのは、死生観を共有しているのではないかと、恨(ハン)深い世界を私は感じるのである。

孫雅由の絶作“予響曲・コバルトブル―&イエロー”は、メッセージとして、それらのことを語っているように思えてならない。

―コレクション―

私は孫雅由に対する色々な想いから、京都に数度出向き桜井和子さんと会った。作品を整理し話を進める内に、孫雅由はなんと幸運な作家であったのかと思うようになった。

彼は桜井和子さんの話によれば、決して品行方正ではないし、善人とはいえない。普通の人が眉をひそめるような、一般人とは違う価値観でものを見て行動しているが、全霊を幾重にも重ねられた芸術の創造に捧げて生きたからだ。

肉体は滅びても、作家には作品が残る。それは、その作家の肉体と精神の分身ともいえるものであり、死してなお生き続ける。作家にとって生の存在、それは祝福であるのではないか。

孫雅由は父母に恵まれ、妻に恵まれ、子は二女に恵まれた。俗な言い方ではあるが周囲の愛すべき人材に支えられた恵まれた人であると思う。

そして自らの血肉である作品が、日本の著名なる美術館、そして河正雄コレクションとして韓国内の美術館に収蔵された事は、在日作家としては稀な事であり、評価を受けている事は恵まれた人だと思う。

作家として自分は一番であると、周囲を気にもせずに芸術一筋に駆け抜けていった。周囲に苦労や恨(ハン)も振り撒くのも構わず芸術家として誇り高く一人良く生きたと言えるのではないか。

李在興アジア美術館館長は「早逝は何も作家にとって損失ではない。ボロが出ないうちに去ったことがラッキーな作家もいる。」と語った。なんと皮肉で、しかし含蓄のある言葉ではないだろうか。そして李館長は「これからは日本を知るため、在日を知るため、年に一度は必ず河さんを訪ねる」と付け加えた。

高山登氏からのメールには『孫さんが水道橋美術予備校夜間部に来ていたのは1968年、69年頃だと思います。東京塾術大学油画科を受験してました。非常に繊細なデッサン、大胆な油絵を描いておりました。

当時、始め大山と日本名を使っておりましたが途中本名に変え1960年後半から70年戸塚スペース展の前後まで私の横浜市戸塚のアトリエに良く来ていました。

出会いは水道端美術予備校の学生として私のクラスに入って来た時からです。何年か浪人生活を私のクラスで受験勉強していましたが、良く私のアトリエに来て酒を飲みながら美術論談義に華を咲かせておりました。

その後故郷に戻り銅版画を始めたというニュースを聞きました。私が1981年仙台宮城教育大学に赴任してからですが、仙台の青城ギャラリーで彼の展覧会があり久々に彼の作品に出会い、受験時代のデッサンのタッチと変わらない細かいタッチの銅版画に彼の存在を感じました。

阪神震災後なかなか連絡が取れず心配しておりましたが、後でいろいろ大変であった事を伺いました。

癌については多くを語らず良く知りませんでしたが、この本(私の著書―ひびきあう心―余響曲)で少し事情が解りました。しかし、彼の孤独感は良く理解できます。』と記されていた。

孫雅由作品収蔵にあたり桜井和子さん、そして資料を提供、アドバイスして下さった「アートスペース虹」のオーナー熊谷寿美子さん、メールで深い絆を教えて下さった孫雅由の恩師である高山登氏に心から感謝する。

こうして残された作品は全て河正雄コレクションとしても収蔵される事となった。そして祖国の光州・浦項・釜山・大田の各市立美術館、全羅北道立美術館・朝鮮大学美術館・秋田県仙北市立角館町平福美術館・仙北市立田沢湖図書館に寄贈された。在日作家孫雅由の作品が、永遠に記憶され、愛される事になるであろう。