経緯

1982年5月黄英雄氏より会館及び協会設立支援要請
1982年7月会館建設募金活動発起人となる
1983年7月19日社団法人韓国盲人福祉協会全南支部開館式
1983年7月19日第一次募金活動にて800万ウォン募金
(盲人200万ウォン・光州市民300万ウォン・道100万ウォン
市100万ウォン河正雄100万ウォン)
東光州青年会議所姉妹締結仲介
1985年10月30日第二次1期募金活動にて1151万457ウォン募金
1985年11月14日第二次2期募金活動にて1650万9000ウォン募金 絵画慈善展販売金
(東光州青年会議所・東京王仁ライオンズクラブ他)
1985年11月7日~14日光州盲人福祉会館建立の為の慈善展開催
1986年3月31日第二次3期募金活動にて2674万ウォン募金
1986年4月26日第二次4期募金活動にて1500万ウオン募金
福祉慈善会募金(在日全南道民会他)
1986年10月11日タイプライター5台(金龍坤氏寄贈)
1986年11月15日会館建立推進委員会結成河正雄委員長推戴
1987年7月31日第二次5期募金活動にて27万ウォン募金
1987年7月31日河正雄寄付金3527万543ウォン
1987年8月10日光州市に土地寄付
光州市西区社洞23-3同所19-4 492.6㎡購入登記
土地代金1億530万ウォン
1988年4月13日会館起工式
1988年11月15日会館着工式
1989年4月13日点字製版機1台・点字印刷機1台・点字機20台
3,450,000円+送料寄贈(在日全南道民会他)
1989年4月22日会館竣工式
光州市5000万ウォン全羅南道5000万ウォン支援受ける
1990年12月11日ソウル韓国盲人福祉中央会館開館記念ピアノ寄贈
2008年3月24日河正雄寄付金2600万ウォン
光州市西区社洞27-1 同所19-4の土地
66.2㎡購入代金中途金
2009年7月8日河正雄寄付金2400万ウォン土地代金残金
2009年12月6日新会館竣工式
2010年4月23日河正雄顕彰碑除幕式 会運営費として3000万ウォン寄附金
2017年4月26日社団法人光州広域市視覚障碍人連合会名誉会長就任
2017年12月8日闇中の光体験館建立基金 100万ウォン寄附金

初心忘れるべからず

金甲柱会長と共に (2017.4.26)

(「傘寿を迎え露堂堂と生きる」より抜粋)

私は2017年4月26日、光州広域市で「貴殿は、1982年に光州視覚障碍者の方々との御縁を結んで下さり、視覚障碍者の揺籃とも言える福祉館の敷地確保を始め、福祉全般の向上に愛情を持って多くを尽くして下さいました。
ここに光州視覚障碍者7300余名の感謝を込めて『社団法人光州広域市視覚障碍人連合会名誉会長』として推戴します。」と金甲柱光州視覚障碍人連合会会長より推戴牌を受けた。
その式典に祝賀の為に同席されていた朴容九社団法人光州広域市コムドリ奉仕会会長から「2017年10月28日に我が奉仕会の創立記念式典があるので御招待したい。」との話があった。
私は1982年光州広域市視覚障碍者からの要請で福祉協会の設立と会館建設の為の発起人となって支援する事となった。
その事業の推進にあたり、光州広域市で広報の為の新聞記者会見を開いた。
その席にいた朴容九氏が「河さんのメセナの話を聞いて感動しました。私の様な者でも役立つ事をやってみたいと思うのですが、良いのでしょうか。」
と問うて来た。
私は「良い事をするのに了解を取る事も相談する事も無い。
自分が出来る社会の為に役立つ事を心ですれば良と思う。」と答えた。
「具体的に何をすれば良いのでしょうか。」
「君は何をしている人ですか」
「タクシーの運転手をしています。今日は視覚障碍者を乗せて会場に来ました。」
「例えば年に一日でも良いから視覚障碍者のみならず身体障碍者の為に奉仕するサービスの日を作り、病院に連れて行ったり、買い物の手伝いをしたり、駅まで連れて行ったり、と障碍者の要望を無償で聞いてやるなどはどうだろうか?
但し、良い事は一人でせずに君のタクシー仲間と会を作り、みんなでやってはどうだろうか。」
「それくらいの事なら、すぐにでも出来ます。」
「すぐに出来る事なら明日からでもやってみたらどうだろう。」
という会話を交わしたのが出会いである。
朴容九氏はすぐにコムドリ奉仕会を結成して活動を始めた。
20年近く経ったある日、私に相談があるというので聞いた。
「疲れました。仲間や家庭から不協和音が出て辞めようと思う。」
「辞めるのは良いが、今まで君達の活動に希望を持っている障碍者達に失望を与える事になる。
これまでの実績に対する社会の評価を捨てるのは惜しい。
男が一度やると決めた始めた事だから、初心を貫く事は試練だと思えないだろうか。」
「河さんも光州市立美術館でいろいろな試練を潜り抜けて徹を曲げずに来られた事を知っております。
私も頑張ってみます。」
その後の朴会長の努力で奉仕会組織を発展させ、指導力を発揮されている事を聞き見守っていた。
昔植えた苗木が大木になった事に敬意を抱いていた。
しかし私は1年前程から体調が優れず病院通いをしていたところ、3月30日になって胸部大動脈瘤が見つかり、6月5日に胸部大動脈人工血管置換手術を受けた。
幸いな事に術後の経過も良く、6月20日には退院する事が出来た。
術後の回復は万全ではなかったが朴会長と交わした約束を果たす為に招待され式典に出席した。
会場は光州KBSホール。1000名もの出席者で館内は祝賀ムードに沸いていた。
光州広域市長を始めとする国会議員10数名が居並ぶメイン席に案内され、朴会長の隣席に座らされた。
式典で朴会長が挨拶された。
「日本から河正雄光州視覚障碍人連合会名誉会長御夫妻が出席されました。
1982年、光州盲人福祉協会設立と会館建立発起人となられた時に出会ったお方です。
その出会いの時、指導を受けた事でコムドリ奉仕会を結成し本日を迎える事が出来ました。
河先生は私の先生であり、この会の恩人です。」と話され、壇上で床に伏して私に三度も拝礼された。
私への敬意の深さを示す所作に驚き震え、冷や汗が吹き出した。
我慢出来ずトイレに立ち、一息入れて出た所に朴会長が待っていた。
手を繋いでそのまま壇上に案内されたものだから戸惑ってしまった。
「一言挨拶をして下さい」と言われたが、予定になかった事でまた身体が震え、冷汗が噴き出してきた。
「私は朴会長から本日の招待を受け、思いも寄らぬ功労賞を受けました。朴会長は私を先生、恩人だと敬って下さったが、これまでに私は何一つ皆さんにしてあげた事もなければ、朴会長から何かして下さいと頼まれた事もなかった。
資格のない私をこの様に讃えて下さり身に余る光栄であります。
今日まで朴会長を支え、共に奉仕会を発展させ世の為、人の為に献身された会場の皆様と朴会長の偉大なる人徳に対して感謝と敬意を表します。

羅大煥在日全南道民会長・恩師中島昭二郎先生御夫妻らと共に旧・会館竣工式参加する(1989.4.22)
生保内小・中学校同級生・恩師鈴木重憲先生らと共に訪問(2012.9.4)
 

光州市視覚障害人福祉会館開館式(1989年4月22日)

光州市視覚障害人福祉会館開館式(1989 4 22)

盲人福祉会館建立の為の事前展 1985年11月7日-14日

盲人福祉会館起工式 1988年4月23日

盲人福祉会館竣工記念印刷機寄贈 1989年4月13日

盲人福祉会館竣工式 1989年4月22日

盲人福祉会館開館報告書 1989年4月22日

盲人福祉会館新館竣工記念功労碑建立 
2009年8月12日

光州広域市視覚障碍人連合会40年史

記録写真

新聞記事(1985-1986年)

盲人福祉会館建設に向けての募金活動時、建設費用2億ウォンを募る。

全羅南道1500人の目の不自由な人たちの自立の拠点
ついに建設!

全南盲人福祉会館完成

光州盲人福祉協会設立のきっかけ

1982年5月、全和凰展を光州の南道芸術会館で開催した。その巡回展(東京・京都・ソウル・大邱)の疲労のため、私は光州でダウンしてしまい、視覚障害者の黄英雄氏のマッサージを受けた。その時、黄英雄氏が私に頼み事があると言った。

「全羅道にいる2500人の視覚障害者のために、盲人協会と会館を作りたいと数年前より道庁や市庁の福祉課を尋ねて数年間要請してきました。市や道から何の返事もなく、助けてくれないのです。」と訴えた。

その時の光州市は光州民衆抗争の後始末で社会的弱者に目を向ける余裕などない状況であった。福祉など名のみの時代あった。

私は彼に言った。「為政者を頼らず、障害者だから助けてほしいと言わずに、自分たちの力と努力で運命を切り開かねばならない。」と。

「力のない、私達に何が出来るのですか。」と彼は私に尋ねた。「あなたのマッサージ代は6000ウォンですね。私が1000ウォンプラスして支払いましょう。あなたも1000ウォン出しなさい。あなたの同僚達とお客さん達の協力を得て募金活動をしなさい。マッサージをする毎に2000ウォンずつのお金を積み立てて基金を作るのです。200万ウォンの基金が出来たら連絡を下さい。あなた達の自立しようとする姿勢と意志が見えたら協力しましょう。」と約束した。

彼らは1年後に私との約束である200万ウォンの基金を作った。それを元にして協会事務所を借り、引き続いて募金活動をして土地を買った。

1988年、市や道から各々5千万ウォン、計1億ウォンの助けを受けて会館を建てた。「土地は30坪、会館は30坪あれば良いから頼む。」と彼は当初、遠慮して言った。私は土地を162坪購入し、会館は131坪のものを建てた。彼らや市と道、光州市民や在日同胞と日本人達の力の結集により官民一体となって作り上げた韓国で初めての盲人福祉会館である。

「これでも少ないと思うが、私の力で出来るのはここまでです。」と私は彼に謝った。今、盲人福祉会館は会員が増えて手狭で動きがとれないほどの発展規模になっている。そのため幾度も、黄英雄氏から再度助けてほしいとの要請があったが、これからは市民等と市や道の官と共に、地域の問題は地域で考え、解決していくようにと私は指導してる。

当時、福祉があってない時代だった韓国が、困難な時代でありながら助け合いの精神と英知、希望と展望を持つことの意味を、この盲人会館建立事業は教えている。会館建立後、「たかだか2、3億ウォンで建てた会館」という金銭的評価のみで、事業を評価する人が多かったことに寂しい思いをした。

出発時には市も道も100万ウォンを出すのが精一杯の時代があったことを忘れてはいけない。ちなみに私は会館完成まで7年間に50回も光州と日本を往来、指導をして来たのは、その社会的事業の価値に、金銭では計れない付加価値があったからである。

私は多額の経費と時間とエネルギーを投資、全てボランティア精神で行なってきた。こうして生まれた盲人福祉会館の原点は哲学的精神を礎としている。福祉行政の先進として市がこの魂を受け継いでほしいと思っている。

光州市立美術館河正雄COLLECTION図録2003(2003.7.21)

〈祝辞〉使命を果たそう

朝鮮大学校美術学名誉博士
光州市立美術館名誉館長
朝鮮大学校招聰客員教授
河正雄

社団法人光州広域市視覚障碍人協会は、1981年韓国盲人福祉協会全南支部の結成から歴史が始まる。1989年に念願の会館を建築し開館した。

20年の月日を送り2009年、再び新たなる光州広域市視覚障碍人福祉会館を再建し、開館した。この喜びはひとしおである。

私は、その過程を組織誌2010年創刊号「明るい光の世の中」に「共生一の道」という略文で報難辛苦の歩みを記した。生むは易し、とは言うが実際に事業を育てるのには言葉に尽くせない道であった。

1989年、会館竣工の際に記した「愛と自立・そして絆」という私の文章が、その歴史を語っている。幾多の苦しみはあったが、今は懐かしく回顧する事が出来る。

振り返れば1985年、私が全南盲人福祉会館建立基金発起人となった事が運命であり、使命であったように思える。その時のスローガンは「共に生きる」「共に仕事をしよう」である。この想いは今だ色槌せる事無い。

それは「障碍者も社会活動や奉仕活動に参加し、健常者と同じ隊列に並ぼう」という精神である。

福利厚生を享受する福祉社会の具現と発展、そして人権の尊さを守り、自主自立の精神を確立しようという普遍の精神がそこにある。「豊かなる福祉社会」「人間勝利の社会」の具現の為、献身出来る事は大きな喜びで、幸せな事である。

この事業の始まりは、たった一人の想いからの出発であった。その想いが人が手に手を取る事で輪になり、広がる事で組織という形を成すに至った。

我々は20数年を超える歳月を重ね、多くのものを学び体験した。そして社会的な存在と意義、そして我々の使命が何であるか新たな任務を確認する事となった。

一歩一歩、ぶれず、迷わず、信念を持って社会の一員として使命を果たしていこうではないか。今再び、我々の信念と献身が問われる新たなる出発であると思う。

新会館竣工に寄せて―共に生きる

河正雄
光州市立美術館名誉館長
朝鮮大学校美術学名誉博士
朝鮮大学校招聘客員教授

2008年1月、黄英雄教授から「今の会館が古くなり手狭な為に取り壊し、発展の為に新しい会館を建て直したい。協力してほしい。」と電話があった。

2月に会館を訪問した所、設計図が出来上がっていた。その図面を見ると駐車スペースが確保されていなかった為、「市民や、サポートする人達の為の駐車場が必要である。」と指摘し、その計画に反対した。

3月に入り「隣接する66.2㎡の土地を買う契約をしたい。その土地を見てほしい。」という電話が入った。十分ではなかったが、すぐにその土地を買い求め設計をやり直した。光州市の支援を受け建築に入るまでには日数を要した。

こうして新しい光州視覚障害人福祉会館が開館した。この喜びを胸に初心の為と、未来を望むにあたり協会と開館の歩みを回顧する事は意義ある事と思う。

私は1982年正月、東京銀座で「祈りの芸術・全和凰画業50年展」を開催した。続いて京都、ソウル、大邱、光州と巡回展を開いた。

その4月、最後の光州展準備の為に光州を訪れた。企画、運営、交渉を1人でこなしていた疲れが出たのか、過労の為にホテルで寝込んでしまった。

その時に治療を受けたのが黄英雄氏であった。1週間後には体調も良くなり、別れの日になって黄氏は「河さん、1つ相談があるのですが聞いて貰えないでしょうか」と遠慮深く切り出した。

「光州市には数百名、全羅南道には二千数百名の盲人がおります。今、私の周りで自立し生計を立てられる盲人は2、3名しかおりません。私は仲間が集って親睦、交流し、相互扶助をする場、自立する為の教育・訓練・研修が出来る会館、協会が欲しいのです。数年前から市や道庁の保険社会局を訪ねては私達の願いを訴え陳情してきたのですが、現在まで何の進展もないのです。」

悪夢のような忌まわしい光州事件が起きて間もない頃、光州市民を震撼させた事件の傷は癒えておらず、社会の混乱が心の奥深くまで食い込み、鬱積した空気が重苦しく社会に充満していた時代であった。

「為政者といえども社会の公僕ではないか。市民も今、あなた方と同じく苦しみの中にいる。必ずや、あなた方の心を汲んでくれる人々がいると思うから、希望を持ってほしい。」と励ました。

雪深い秋田での高校時代、片道3時間の汽車通学をした。車中、秋田市の聾唖学校に通う学生達と親しくなった。不自由な彼らではあったが、お互いに手を取り合って助け合う姿は頼もしかった。貧困の中での高校時代、何度も挫けそうになる私を、彼らは無言の内に励まし、勇気づけていた。

高校卒業後、東京に出て会社勤めをした。夜学に通いながらの職場生活は破綻し、過労と栄養失調が原因で一時的に視力を失った。3ヶ月ほど治療を受け、その苦悶から救われ、光明を見た時の世界の輝かしさと、その喜びは今でも表現出来る言葉が見当たらない。

私は過去の経験から黄氏の相談が他人事の様に思えなかった。

「為政者や市民に頼る前に、自らの意志と行動が先決ではないだろうか。自立出来る2、3名だけでも団結し、基金を少しずつ積み立ててはどうか。行動を自らが示しさえすれば、社会や市民にあなた方の志士を伝える手伝いをしましょう。」と約束した。

それから一年がたった頃、黄氏から便りが届いた。200面ウォンの積み立てが出来たという知らせであった。

彼らの自立への意思と真情を光州市民にアピールした。そして市や道庁を訪ね支援をお願いして廻った。市や道はもとより、多数の市民からも基金が寄せられた。1983年7月19日、その基金で湖南に25坪程の事務所を借り、協会を立ち上げた。

1985年の事。会員も増えて自立する盲人達も30名に達し、運営もつつがない事を喜んでいた。しかし、不幸な事に女性会員が2階から転落、20針も縫う痛ましい事故が起きてしまった。資金不足の為とはいえ、協会の事務所を2階に設置した事は思慮が足りなかった。起きて然るべき事が起き、心配していた事が現実となってしまった事に対し、慙愧の念に耐えなかった。

この事件が契機となり、私は土地を買って会館を建てる決心をして募金活動の発起人となった。日本では在日全南道民会・東京王仁ライオンズクラブ・日本の友人達、韓国では木友会の画家達・東光州青年会議所会員・光州市民達に支援協力を求めた。1983年から1986年までに寄せられた募金6975万9457ウォンは道庁に寄託した。私は1億ウォンの基金を集めたい、市内の土地を買って視覚障害人達の願いである会館を建てて上げてほしいと要請した。

1年近く経ったある日、協会から便りが届いた。借りている会館の立ち退き要求の内容証明郵便が同封されており、期限が来た為、会館を明け渡すように、という内容であった。

彼らの居場所がなくなる。基金を寄託して1年近くにもなるので、施策がなされ進展があっただろうかと淡い期待を抱きながら道庁を訪問し、視覚障害人達の窮状を訴えた。

しかし、その返事は「残り3000万ウォンを持って来るという事だったので、そのまま手をつけずにいる。」という無責任な返事であった。私は全身から力が抜け、気力を失ってしまった。孤立無援の状況に胸が張り裂けそうであった。

日本に帰り3ヵ月後、お金を用意して私は光州に半月滞在した。東光州JCの会員達と友人達が会館敷地を探す為に連日市内を駈け回った。

あれこれ物色し10日も過ぎた頃、史蹟公園の麓、不動橋のたもとに162坪の土地があるという。1億530万ウォンの物件である。会員達も市内に近く、願ってもない土地であると希望した。

基金は7000万ウォンしか手元になかった為、不足の資金は私が寄付する形で補った。土地は1987年8月26日、社会法人韓国盲人福祉協会に寄贈した。明け渡しを請求された会館を引き払い、購入した土地上にあった古家に移転し活動を続けた。

以後、数度会館建立の為に道と市に交渉を行った。それぞれから5000万ウォンの支援を得て着工に漕ぎ着け、1989年4月22日、開館した。当初、黄英雄氏が要請した物は土地30坪、建物30坪であったが、結果的に土地162坪、建物154坪の規模になり、会員3人から始めた事業は、現在6000名もの視覚障害人を網羅する組織に成長する事になった。

私のスローガンは「共に生きる」「共に仕事をしよう」である。我々と共に障害者も社会奉仕に参加し、その喜びと幸せを分かち合わねばならない。

この事業は多くの人々の真心を結び合わせる事によって進められた。遠回りも、試行錯誤もした。しかし、この世の善意、友情、思いやりを「信じる」事が出来た事は何よりの救いである。

そこには同胞達との出会いがあった。そして強い絆で結ばれた祖国があった。生きて生かされて今日この道を歩く喜び。この喜びを与えてくれた視覚障害人達の福祉が向上し,自立の精神が燃え続ける事を、全ての人々と共に祈りたい。

新会館の会館を契機にして「豊かな福祉社会」「人間勝利の社会」が具現される事を祈る。私を見守り、愛し励まし、ご支援、ご協力下さった全ての方々に熱く感謝を申し上げる。

第37回障碍人の日に寄せて

光州市立美術館名誉館長 河正雄

第37回障碍人の日を迎えるにあたり人生を立ち止まり、振り返る事は意味がある。私が関わった光州市での福祉の歩みと、その原点を回顧する事は今後の福祉発展の為にも価値あるものと思う。

社団法人光州広域市視覚障碍人協会は、1981年韓国盲人福祉協会全南支部の結成から歴史が始まる。1989年に念願の会館を建築し開館した。

20年の年月を送り2009年、新たに光州広域市視覚障碍人福祉会館を再建し、開館した。この喜びはまた、ひとしおであった。

私は、その過程を組織誌2010年創刊号「明るい光の世の中」に「共生への道」という文で艱難辛苦の歩みを記した。「生むは易し」とは言うが実際に事業を育てるのには言葉に尽くせない道のりであった。

1989年、会館竣工の際に記した「愛と自立・そして絆」という私の報告書が、その歴史を全て語っている。幾多の苦難はあったが、今は懐かしく回顧する事が出来るのは幸いである。

振り返れば1985年、私が全南盲人福祉会館建立基金発起人となった事が運命であり、使命であったように思える。その時のスローガンは「共に生きる」「共に仕事をしよう」である。この想いは今だ色槌せる事の無い精神である。

それは「障碍者も社会活動や奉仕活動に参加し、健常者と同じ隊列に並ぼう」というメセナの精神である。

福利厚生を享受する福祉社会の具現と発展、そして人権の尊さを守り、自主自立の精神を確立しようという公益精神が基本にある。

国家が出来なければ国民がやらねばならない。祖国が豊かになって、国民が福祉の恩恵を受けられるまでは我々が奉仕を続けねばならないのである。「豊かなる福祉社会」「人間勝利の社会」の具現の為、献身出来る事は大きな喜びで、幸せな事である。私が視覚障碍者福祉に関わる原点はヘレン・ケラーとの出会いである。

秋田県仙北市立生保内小学校2年生の時であった。1948年の秋「奇跡の人」ヘレン・ケラー(1880年―1968年)が日本訪問をして、日本国民から熱狂的歓迎を受けていた事を記憶していた。

三重苦(盲・聾・唖)のヘレン・ケラーが身体障碍者福祉の為に一生を捧げた人格に幼心にも尊敬と憧憬を抱いたからだ。

またメルビン・ジョンズの言葉である「奉仕するという事は、その人の役に立つという事だ。この偉大な世界で奉仕するという事は、この偉大な世界で何かの役に立つ事を意味するのである。」も心に響いた。

光州での仕事の始まりは、たった一人の視覚障碍者との出会いからであり、そこで触れた想いからの出発であった。その想いが人が手に手を取る事で輪になり、広がる事で組織という形を成すに至った。

私は1982年5月、全和凰展を光州の南道芸術会館で開催した。これが光州市との御縁の始まりである。

その巡回展(東京・京都・ソウル・大邱・光州)で疲労の為、ダウンしてしまい、光州の視覚障碍者の黄英雄氏のマッサージを受けた。その時、黄氏が私に頼み事があると言った。

「全羅道にいる2500人の視覚障碍者の為に、盲人協会と会館を作りたいと数年前より道庁や市庁の福祉課を尋ねて数年間要請してきました。市や道からは何の返事もなく、助けてくれないのです。」と訴えた。その時の光州市は光州民衆抗争の傷深く、社会的弱者に目を向ける余裕などない状況であった。福祉など名のみの時代であった。

私は黄氏に言った。「為政者を頼らず、障碍者だから助けて欲しいと言わずに、自分たちの力と努力で運命を切り開かねばならない。」と。「力のない、私達に何が出来るのですか。」と彼は私に反問した。「あなたのマッサージ代は6000ウォンですね。私が1000ウォンプラスして支払いましょう。あなたも1000ウォン出しなさい。あなたの同僚達とお客さん達の協力を得て募金活動をしなさい。マッサージをする毎に2000ウォンずつのお金を積み立てて基金を作るのです。200万ウォンの基金が出来たら連絡を下さい。あなた達の自立しようとする姿勢と意志が見えたら協力しましょう。」と約束した。

黄氏らは1年後に私との約束である200万ウォンの基金を作った。これが契機となって私は約束を守り、募金活動を始め協力する事となった。

そして集めた募金を元にして協会事務所を借り、引き続いて「目の不自由な人達に自立の場を」と訴え募金活動をして土地を買った。1988年、市や道から各々5千万ウォン、計1億ウォンの支援を受け会館を建てた。「土地は30坪、会館は30坪あれば良いから頼む。」と当初、黄氏は遠慮して言った。私は土地を162坪購入し、会館は131坪のものを建てた。2009年の再建時には駐車場用地22坪を自費で追加購入し施設の充実を図った。

彼らや市と道、光州市民や在日同胞と日本人達の力の結集により官民一体となって作り上げた韓国で初めての盲人福祉会館である。

私はこれらを光州市に全て寄贈した。その後、光州の障碍人達は団結し、叡智を傾け堅実に組織を発展させて来た。

我々は30数年を超える歳月を重ね、多くのものを学び体験した。そして社会的な存在と意義、そして我々の使命が何であるか新たなる任務を確認する事となった。

私は誇るべき、その歩みと栄光を心から讃える。そして前途にエールを贈りたい。

目は人を表すという言葉がある。我々には見えないものがある。目を瞑ってみて下さい。暗闇の中に何が見えたか。どんな映像が現れて来たか。

平和で幸せを念願する映像。善良なる夢や希望、未来への夢や希望の映像。それらは我々の心との対話、自らの心から芽生える映像である。それらは、その人の人格が投影される映像である。それが見える。それこそ尊く美しい。

一歩一歩、ぶれず、迷わず、信念を持って社会の一員として使命を果たしていこうではないか。今再び、我々の信念と献身が問われる新たなる出発であると思う。

(2017年4月20日 第37回障碍人の日に)

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