経緯

1982年5月黄英雄氏より会館及び協会設立支援要請
1982年7月会館建設募金活動発起人となる
1983年7月19日社団法人韓国盲人福祉協会全南支部開館式
1983年7月19日第一次募金活動にて800万ウォン募金
(盲人200万ウォン・光州市民300万ウォン・道100万ウォン
市100万ウォン河正雄100万ウォン)
東光州青年会議所姉妹締結仲介
1985年10月30日第二次1期募金活動にて1151万457ウォン募金
1985年11月14日第二次2期募金活動にて1650万9000ウォン募金 絵画慈善展販売金
(東光州青年会議所・東京王仁ライオンズクラブ他)
1985年11月7日~14日光州盲人福祉会館建立の為の慈善展開催
1986年3月31日第二次3期募金活動にて2674万ウォン募金
1986年4月26日第二次4期募金活動にて1500万ウオン募金
福祉慈善会募金(在日全南道民会他)
1986年10月11日タイプライター5台(金龍坤氏寄贈)
1986年11月15日会館建立推進委員会結成河正雄委員長推戴
1987年7月31日第二次5期募金活動にて27万ウォン募金
1987年7月31日河正雄寄付金3527万543ウォン
1987年8月10日光州市に土地寄付
光州市西区社洞23-3同所19-4 492.6㎡購入登記
土地代金1億530万ウォン
1988年4月13日会館起工式
1988年11月15日会館着工式
1989年4月13日点字製版機1台・点字印刷機1台・点字機20台
3,450,000円+送料寄贈(在日全南道民会他)
1989年4月22日会館竣工式
光州市5000万ウォン全羅南道5000万ウォン支援受ける
1990年12月11日ソウル韓国盲人福祉中央会館開館記念ピアノ寄贈
2008年3月24日河正雄寄付金2600万ウォン
光州市西区社洞27-1 同所19-4の土地
66.2㎡購入代金中途金
2009年7月8日河正雄寄付金2400万ウォン土地代金残金
2009年12月6日新会館竣工式
2010年4月23日河正雄顕彰碑除幕式 会運営費として3000万ウォン寄附金
2017年4月26日社団法人光州広域市視覚障碍人連合会名誉会長就任
2017年12月8日闇中の光体験館建立基金 100万ウォン寄附金

初心忘れるべからず

金甲柱会長と共に (2017.4.26)

(「傘寿を迎え露堂堂と生きる」より抜粋)

私は2017年4月26日、光州広域市で「貴殿は、1982年に光州視覚障碍者の方々との御縁を結んで下さり、視覚障碍者の揺籃とも言える福祉館の敷地確保を始め、福祉全般の向上に愛情を持って多くを尽くして下さいました。
ここに光州視覚障碍者7300余名の感謝を込めて『社団法人光州広域市視覚障碍人連合会名誉会長』として推戴します。」と金甲柱光州視覚障碍人連合会会長より推戴牌を受けた。
その式典に祝賀の為に同席されていた朴容九社団法人光州広域市コムドリ奉仕会会長から「2017年10月28日に我が奉仕会の創立記念式典があるので御招待したい。」との話があった。
私は1982年光州広域市視覚障碍者からの要請で福祉協会の設立と会館建設の為の発起人となって支援する事となった。
その事業の推進にあたり、光州広域市で広報の為の新聞記者会見を開いた。
その席にいた朴容九氏が「河さんのメセナの話を聞いて感動しました。私の様な者でも役立つ事をやってみたいと思うのですが、良いのでしょうか。」
と問うて来た。
私は「良い事をするのに了解を取る事も相談する事も無い。
自分が出来る社会の為に役立つ事を心ですれば良と思う。」と答えた。
「具体的に何をすれば良いのでしょうか。」
「君は何をしている人ですか」
「タクシーの運転手をしています。今日は視覚障碍者を乗せて会場に来ました。」
「例えば年に一日でも良いから視覚障碍者のみならず身体障碍者の為に奉仕するサービスの日を作り、病院に連れて行ったり、買い物の手伝いをしたり、駅まで連れて行ったり、と障碍者の要望を無償で聞いてやるなどはどうだろうか?
但し、良い事は一人でせずに君のタクシー仲間と会を作り、みんなでやってはどうだろうか。」
「それくらいの事なら、すぐにでも出来ます。」
「すぐに出来る事なら明日からでもやってみたらどうだろう。」
という会話を交わしたのが出会いである。
朴容九氏はすぐにコムドリ奉仕会を結成して活動を始めた。
20年近く経ったある日、私に相談があるというので聞いた。
「疲れました。仲間や家庭から不協和音が出て辞めようと思う。」
「辞めるのは良いが、今まで君達の活動に希望を持っている障碍者達に失望を与える事になる。
これまでの実績に対する社会の評価を捨てるのは惜しい。
男が一度やると決めた始めた事だから、初心を貫く事は試練だと思えないだろうか。」
「河さんも光州市立美術館でいろいろな試練を潜り抜けて徹を曲げずに来られた事を知っております。
私も頑張ってみます。」
その後の朴会長の努力で奉仕会組織を発展させ、指導力を発揮されている事を聞き見守っていた。
昔植えた苗木が大木になった事に敬意を抱いていた。
しかし私は1年前程から体調が優れず病院通いをしていたところ、3月30日になって胸部大動脈瘤が見つかり、6月5日に胸部大動脈人工血管置換手術を受けた。
幸いな事に術後の経過も良く、6月20日には退院する事が出来た。
術後の回復は万全ではなかったが朴会長と交わした約束を果たす為に招待され式典に出席した。
会場は光州KBSホール。1000名もの出席者で館内は祝賀ムードに沸いていた。
光州広域市長を始めとする国会議員10数名が居並ぶメイン席に案内され、朴会長の隣席に座らされた。
式典で朴会長が挨拶された。
「日本から河正雄光州視覚障碍人連合会名誉会長御夫妻が出席されました。
1982年、光州盲人福祉協会設立と会館建立発起人となられた時に出会ったお方です。
その出会いの時、指導を受けた事でコムドリ奉仕会を結成し本日を迎える事が出来ました。
河先生は私の先生であり、この会の恩人です。」と話され、壇上で床に伏して私に三度も拝礼された。
私への敬意の深さを示す所作に驚き震え、冷や汗が吹き出した。
我慢出来ずトイレに立ち、一息入れて出た所に朴会長が待っていた。
手を繋いでそのまま壇上に案内されたものだから戸惑ってしまった。
「一言挨拶をして下さい」と言われたが、予定になかった事でまた身体が震え、冷汗が噴き出してきた。
「私は朴会長から本日の招待を受け、思いも寄らぬ功労賞を受けました。朴会長は私を先生、恩人だと敬って下さったが、これまでに私は何一つ皆さんにしてあげた事もなければ、朴会長から何かして下さいと頼まれた事もなかった。
資格のない私をこの様に讃えて下さり身に余る光栄であります。
今日まで朴会長を支え、共に奉仕会を発展させ世の為、人の為に献身された会場の皆様と朴会長の偉大なる人徳に対して感謝と敬意を表します。

羅大煥在日全南道民会長・恩師中島昭二郎先生御夫妻らと共に旧・会館竣工式参加する(1989.4.22)
生保内小・中学校同級生・恩師鈴木重憲先生らと共に訪問(2012.9.4)
 

盲人福祉会館開館式(1989年4月22日)

盲人福祉会館開館式(1989 4 22)

盲人福祉会館建立の為の事前展 1985年11月7日-14日

盲人福祉会館起工式 1988年4月23日

盲人福祉会館竣工記念印刷機寄贈 1989年4月13日

盲人福祉会館竣工式 1989年4月22日

盲人福祉会館開館報告書 1989年4月22日

盲人福祉会館新館竣工記念功労碑建立 
2009年8月12日

河正雄先生と視覚障害者たちとの縁

光州広域市視覚障碍人連合会長(2013年~2017年) 金甲柱
1. 河正雄先生にお会いして

私は大学3年生だった1982年に網膜色素変性症によって失明しました。失明による苦しみもありましたが、まだ若い青年の時分だったこともあり、先の人生が真っ暗になってしまった気分でした。そのような中で運命的に、当時の全南盲人協会、現在の光州視覚障害者連合会のことを知人の紹介で知りました。失明という、そして視覚障害者という重荷を年若い身で背負いながら、すでに鬼籍に入られた黄永雄、ハン・ギョンス、金寿慶、ホ・ジェス先輩、崔三基、尹在松、張永喆、朴贊圭らに会い、視覚障害者としての新しい道を探すことになったのです。協会に足しげく通いながら、協会での仕事をいろいろと手伝うようになりました。旅行に出かけた時や、デモや各種のイベントに参加した時も、友人たちと共に力を合わせてきました。そのような中で、在日韓国人である河正雄先生にお会いすることになりました。私の記憶によると、1984年頃だったと思います。あるイベント会場で先生と挨拶を交わす機会があり、「大学在学中に失明した者です」と自己紹介をすると、「まだ若いのに大変な目にあわれましたね」とおっしゃいつつ「自分の道を探していくことが重要です」と語って下さり、私の境遇に関心を寄せて下さいました。これは後になってからわかったことですが、河先生は協会とは何の関係もなく、たまたま身体の不調で協会の黄秀雄会長から按摩の施術を受けていた時に、会長から「視覚障害者協会に協力して下さい」とお願いされ、それで関係を持つようになられたそうです。以後も、イベントの際や先生が韓国にいらっしゃった際などに時々お目にかかることがありましたが、ひときわ私に目をかけて下さり、温かい関心を寄せて下さいました。そんな中で「視覚障害者協会の会館が必要だ」と当時の会長を中心に要求の声を上げていた時、河先生が「それなら、あなた方はあなた方の『巣』である会館を作るために、どのような努力をするつもりなのですか?」とお尋ねになりました。「あなた方が会館設立のために自ら努力をなさるのであれば、私も協力を惜しみません」と。私は、言うなれば縁もゆかりもない、道でたまたま出会ったような視覚障害者に自立の大切さを教えて下さり、更には「努力をするなら協力を惜しまない」という河先生のその言葉が深く胸に刺さりました。今でも、先生のそのお言葉と精神が、私の人生を照らす灯明となっています。

※8-9-20 하선생님과 내가 찍힌 사진 또는 합동으로 찍힌 사진 첨부하면 좋아요.

2. 全国初となる光州広域市視覚障害者会館を設立

1980年代に韓国は目覚ましく発展しましたが、社会福祉の面における発展には厳しいものがありました。そんな頃、障害者全体ではなく、視覚障害者のためだけの会館を造るなどということは、まったく想像もできない、夢のような話でした。それにもかかわらず、黄秀雄会長をはじめとして、全ての会員が自分たちのための会館を造ることを望みました。そのために一日限定の喫茶店やタオル販売、按摩施術による収入から一定の金額を貯めながら夢を追い続けました。これは河先生の「あなた方は会館を造るために、どのような努力をするつもりなのですか?」という問いかけに対する答えとして、視覚障害者たち一人ひとりが最善の努力を尽くした結果でした。そのようにして200万ウォンほどの資金を集めて河先生にお伝えしたところ、先生はいたく感動され、会館を造るために協力をして下さることになりました。河先生は日本でスポンサーを募り、光州地域の美術関係者たちと共にチャリティ目的の展示会を行って1986年に6,800万ウォンを集めました。河先生自身が35270543ウォンを寄付されて現在の視覚連合会が位置している南区社洞の19-4番地に168坪の土地を購入しました。そして光州市と東光州JC、河先生が募って下さった日本のスポンサーたちと力を合わせる形で、1989年に地上2階、地下1階の延床面積130坪余りの韓国初となる視覚障害者会館が建立されるに至りました。会員全員が喜び、河先生をはじめ、光州市や東光州JC、日本のスポンサーたちに感謝の気持ちを伝えました。ところで、このように韓国の視覚障害者の奇跡を成し遂げた歴史には良い面だけではありませんでした。最初に敷地を用意してから会館が建てられるまで、視覚障害者たちをはじめ、さまざまな方の尽力がありましたが、中でも一番大きな役割を果たして下さったのは河先生です。それなのに会館の入口に河先生の功労について顕彰されているものは何一つなく、代わりにすべてが終わりかけた頃に手を出してきた東光州JCの顕彰碑が建てられることになりました。顔を立てることが得意なボランティア団体の特性を理解していないわけではありませんが、これでは主客転倒もいいところではないか、と心が痛みました。河先生は「力を尽くして下さった皆々様に感謝の気持ちを表現しなくてはなりません。これは未来の歴史になります」と、記録の意味と公正について語って下さいました。このようにして、光州視覚障害者の会館を建立するという宿願の事業が、河先生の尽力で成し遂げられたのです。

※89년 개관식 사진이나 당시 회관 사진 그리고 행사현장 등 최초 회관의 근거 등을 첨주해 주세요.

3. 訪韓の度に私を励まして下さった先生

河先生は光州を頻繁に訪れていらっしゃいました。作品を寄贈するためにいらっしゃったり、画家の方を訪ねるためにいらっしゃったり、視覚障害者協会のイベントのために訪れて下さったこともありました。河先生は光州にいらっしゃる度に私を訪ねて下さり、「事業はうまくいっているか! 気持ちが入っていなければいかんぞ! いずれは障害者たちの指導者になるんだぞ!」とおっしゃり、また「明歴歴、露堂堂」と禅の言葉を口癖のようにおっしゃっては「どんな仕事でも正しく堂々とやらなければならない」と、どのように生きることが人生の正しい道であるかを折に触れて教えて下さいました。「個人であれ、国家であれ、どのような関係性であっても歴史を忘れてはだめだ」ともおっしゃっていました。これに対する決定的な論拠であるのが、光州市立美術館の前庭に植えられた原爆を受けた長崎の柿の木の二世の木です。日本から運ばれてきて、光州に植えられた木が、歳月を経て果実を実らせている様子をご覧になって非常に感動され、嬉しそうに眺めていらっしゃいました。そして、人々がその被爆した柿の木に実る果実の意味を理解していないことに対して残念がっていらっしゃいました。訪韓の度にいつも私を訪ね励まして下さったことが、河先生の精神を理解し、私の人生の新たな道しるべとなるきっかけになりました。

4. 「ドゥメ」を訪れて下さる

私は失明後、もどかしい生活を送ってから事業を始めることになりました。障害を持たない人にとっても事業をするのは難しいことですが、視覚障害を持つ私にとっては尚更でした。特に視覚障害者が食べ物を作るということには、より難しいものがありました。メインであるメニューはお弁当でしたので、主にイベント会場に納品しました。そうすると、自然の成り行きとして河先生も我が社のお弁当を召し上がって下さることになり、その度に視覚障害がありながらも按摩ではなく新しい道を行くことは素晴らしい、と称賛して下さいました。そしていつも、「正直な姿勢で頑張れば、成功はついてくる」と励まして下さったものです。そのようにイベント会場などで時折お会いする度に、河先生は私の事業について関心を寄せ、ある時、光州で一緒に食事をしていた時に「先生、私の会社『ドゥメ』が成長して、より大きな場所に移転しました。キムチ工場も、物流センターも、お弁当工場も一緒にあります」とお伝えすると、河先生はとても喜び、食事の後でそこに行ってみたい、とおっしゃいました。私はいつも関心を寄せて下さり、心配をして下さっていた河先生に恩返しをするつもりで会社にご案内させていただきました。私の人生と「ドゥメ」の成功のシンボルとして植えた松の木、1,030坪の敷地、1,200坪余の社屋をご紹介してお茶を一杯お出ししようとしたところ、滞在中の予定が詰まっていて「ドゥメ」を訪問することも難しかったのだが、目が見えない状態であるにもかかわらず会社をここまで成長させられたことが嬉しくて特別に時間を作ったとおっしゃり、これからも頑張って、という激励のお言葉を頂き、短い訪問を終えられました。私は河先生がお忙しい日程であるにもかかわらず、視覚障害者の成功を喜んで下さり、わざわざいらして下さったそのお心遣いを今でも覚えております。私自身もやはり、河先生のこのような生き方を見習いたいと思いました。

※회사사진 소나무 사진 회사에서 하정웅선생과 찍은 사진 첨부.

5. 「日々一歩」出版記念会を開催

安明錫国会議員(河正雄の右)、元光州市長(その右隣)、程巳柱(河正雄の後ろ)、金甲柱会長(河正雄の左)、画家兎済吉氏(その左斜め後ろ)、黄英雄初代会長(その左斜め前)

私は2013年8月に紆余曲折の末に光州広域市視覚連合会長に就任しました。河先生はとても喜んで下さり、若くて経験豊富な金会長のさらなる発展を願う、とおっしゃって更なる力を与えて下さいました。2014年に河先生が「日々一歩」という著書を出版されました。私はその本に接して祝賀の気持ちを抱くと同時に、先生の精神を世の中に広く知ってもらうために2014年11月5日、5・18記念文化センターで「河正雄エッセイ出版記念会」を開催しました。尹壮鉉光州市長(当時)、金宗才院長、姜連均画家をはじめとする美術関係者、そして視覚障害者たちと共に祝いました。河先生は挨拶の言葉の中で、誰もこのような祝いの席を設けてくれなかった中で、身体の不自由な視覚障害者たちが祝ってくれたことに感動したと述べて下さり、涙まで流して下さったことを私はよく覚えています。

6. 光州市立美術館分館河正雄美術館の開館

私は視覚障害者関連で河先生とお目にかかりましたが、その流れで地域社会の美術関係の方々との出会いがあり、先生が韓国に1万2千点余りの絵画を寄贈し、その中の2,600点余りを光州市立美術館に寄贈されたことを自然と知るに至りました。それだけではなく、光州市立美術館が青年作家を発掘する「河正雄青年作家招待展『光』展」を毎年開催するための基盤をお作りになられました。河先生は私に、ドイツのフランクフルト聖堂の壁画を撮った写真を下さいました。その画はイエス・キリストが十字架を背負わされてゴルゴダの丘を歩かされているもので、ローマ兵士がイエス・キリストを鞭打ちながら連れて行く様子を、見て見ぬふりをする元老たち、そして泣きながら悲しんでいる人々の姿を表している壁画です。河先生はその壁画を見ただけで日本に帰国されたのですが、壁画のことが頭から離れず、写真を撮るためにまたドイツへ行き、撮影してこられたとのことです。河先生は、今の世の中はこの壁画と同じであり、今後どのようなことが起きてもこれと同じような状況が起こり得るので失望してはいけない、とお話しされ、この壁画の写真を下さったのです。河先生は1枚の絵画が人の心と世の中を変えることができると信じていらっしゃり、絵は人生であり歴史である、と考えていらっしゃいました。

このように我々の社会で大きな役割を果たして下さった方ですから、河先生の精神を称えて受け継いでいかなくてはならないと考えて、河正雄美術館の建立を強く主張いたしました。光州市長や美術関係者の方々にお会いした時はもちろん、一般の方にお会いした時でも「河正雄美術館を作らなければならない」と広報して回りました。そんな気持ちが天に届いたのか、旧全羅南道の道知事公館を河正雄美術館として改装して開館することになりました。寄贈された絵画を展示し、河先生の精神を多様に発揮させるには少し狭い空間かもしれない、という気持ちもありましたが、河先生の精神を活かすことができる根拠地ができたということに大きな意味があり、私も限りない喜びと共に河先生にお祝いを申し上げました。その時に開館の準備をしながら河正雄美術館ができるまでの意味と希望を込めた映像を制作したのですが、美術関係者でもなく、大きな力もない私が映像制作に携わったのです。その河正雄美術館の広報映像には私の希望のメッセージが込められたインタビューが収録されています。

河正雄美術館の開館式は2017年3月3日に行われました。河正雄美術館の存在が世の中の灯明となる期待をしていた私に、ここでまた別の奇跡が起きました。それは何の力もない私に開館式の祝辞の依頼がきたことです。常識ではちょっと考えられないことですが、河先生は何も問題はないと話されました。市長や議長、関係公務員たち、数多くの美術関係者、韓国や日本の知人たちなど、数百名の祝賀客すべてがそれなりに有力な方々であったにもかかわらず、この私に祝辞を述べる機会を与えて下さったのです。祝辞は市長と議長、主役である河正雄先生、美術関係者である黄栄性前館長、そして私が述べることになりました。私は祝辞の中で、この私に機会を与えて下さったことに感謝を述べると同時に、「河正雄美術館の規模は小さくとも、多様な展示を通して世に残る世界的な美術館にならなくてはなりません」と述べました。

7. 河先生の喜寿記念講演会と「日々一歩」を読んでの金甲柱の献詩と洪銅義の書による屏風の贈呈

1999年に河先生の還暦に合わせて光州市立美術館主催で雲岩洞のプリンスホテルで祝賀会を開きました。数多くの絵画の寄贈と人々の精神を救済する運動による労苦のおかげか、数百名もの祝賀客が集まりました。私も気持ちばかりの贈り物を手に、河先生へのお祝いのために末席で食事をしていました。河先生は私を見つけて下さって、幸福な事業を行っていますか、とお訊ねになり、成功を祈る言葉を贈って下さいました。私は今でも、幸福な事業家になる、というお言葉を大切にしています。時が流れ、私が光州視覚障害者連合会長の在任中に河先生が喜寿を迎えることになりました。私は美術関係者と市庁関係者、そして河先生を尊敬する知人たちと先生の喜寿を記念する祝賀の席を設け、喜寿をきっかけに先生の精神を受け継いでいくための河正雄財団を設立しようと提案しました。しかし、全員が快い反応を示してくれるだろうと思っていたものの実際には賛否両論で、もっとも賛同してくれると考えていた美術関係者による反対の声が大きくてショックを受けました。大規模な会を開催する意味を見出せなくなったために、視覚連合会のレベルで祝賀会を開くことに決定したのです。まず、「日々一歩」を読んで河先生の出版記念会の時に書いた私の詩を屏風にして贈ろうと考え、日頃から河先生と親しくされていた書家の鶴亭先生を前もって訪ね、字を書いていただくことを快諾していただきました。しかし、いざその時になって鶴亭先生の元に書を受け取りに伺いましたところ、先生はガンの闘病中で字を書くことが出来なくなってしまっていました。時間が過ぎ、代わりの人を探しましたが、窮すれば通ず、とはよく言ったもので、光州市庁の都市再生課の姜権先輩が自身も河先生を尊敬しているとし、鶴亭先生の弟子である洪銅義書芸家を紹介して下さり、洪先生はむしろ光栄だと喜んで文字を書いて下さいました。そして2015年12月17日、光州市庁の大会議室で視覚障害者たちの文芸発表会である第1回「ナレヤ(나래夜)」のイベントで視覚障害者たちと後援者600人余りが集まった席で河先生の喜寿講演を拝聴した後、私が書いた詩を紆余曲折の末に洪銅義先生が書き写して下さった屏風をお贈りすることができました。喜寿講演は、ご自身の生きてきた人生の話と、禅の言葉である「明歴歴、露堂堂」、すなわち世の中のあらゆることは歴々と明らかで堂々と露わになっている、という内容でした。河先生の大きな業績にもかかわらず、誰も関心を持っていなかった先生の喜寿祝賀会を開き、贈り物までして、何かをやったぞ、という考えで嬉しく思っていました。そして5年の歳月が過ぎたある日、河先生とお電話で話をしていた時に先生の評伝を書くというお話をしたので、屏風の話を持ち出してみたところ、先生はまったく覚えていらっしゃいませんでした。私はとても驚いて、喜寿記念講演のこと、鶴亭先生に字を書いていただけなかったので弟子であるホン先生の字でお贈りしたこと、贈呈式の写真もあることをお話ししましたが、河先生は何も記憶していらっしゃいませんでした。それだったら、あれほど苦労して制作した意味は、そしてあの大きな屏風はどこに行ったのでしょう? 残念なことに、関係者すべてが屏風の行方を記憶しておらず、喜寿祝賀会での贈り物の屏風は跡形もなく消えてなくなってしまったのです。もどかしかったものの、これといった名案もなく、契約書を2部作成し、お互いが1部ずつ保管するような感覚で、私が書いた詩を先生にお贈りする際に私も1部を持っていなければならないと考えて、表具をするのではなく、私自身も別に1部を保有していたのです。それを先生に差し上げる形で収まりました。残念ではありましたが、幸いでした。

※병품에 담았던 김갑주 회장 헌시, 하정웅 -희수연을 맞으며-(※金甲柱会長の献詩の屏風、河正雄先生の喜寿祝賀会に寄せて。)

題目:「日々一歩」を読んで

貴方はここに立っていらっしゃいます。

陽の光のように眩しく輝いています。

以前も今もこれからも、永遠にそこに、その姿で立っていらっしゃいます。

ある知らない汽車に乗って東京に向かう足取りが、そのように描きたかった貴方の身悶えが、光の村を超えて終わりなく照らしていきます。

青く青いその遠い国に向かって広がりを飛ぶ力強い翼にしたがってオモニの国、希望の世界に飛んで行きます。

ある画家の筆端に、ある盲人の指先にしたがって、ある野次馬の口を通して遠く遠く広がります。手足を束ねられて言葉にさえ別れを告げなければならなかった時代にも、その恨多き朝鮮人という束縛の中でも、厳しい冬の寒さの中で隠れていた花の芽のように、貴方は生命を育ててきました。

皆が自分のことだけを描いている時でも、隣人の泪が川の水になって流れる時でも、貴方は家を出た我が子を探すように、新しい生命を宿してやってきました。イエスが道に迷った一匹の羊を探すようにその足取りは終わりがありません。

道が道に沿って続くように貴方の温かい助けの手に沿って世界が一つ一つ開かれていきます。

日々一歩ずつ日記帳に書き残すように、中川伊作が盲人の群れを率いて架け橋を渡るように、中島昭二郎が花の村を作ったように、貴方の愛で花を咲かせていきます。

日々一歩ずつ、また一歩ずつ、夜空の星のように

貴方も、我らも、世の中も、積み上げていきます。

ある老農夫がまいた種のように

小さな子供たちの童話のように

握りあった恋人の温かい手のように

貴方がそのようにして下さったことのように、皆々が共に交わる幸せの国を作っていきます。

日々一歩ずつ

そしてまた一歩ずつ

日々一歩ずつ、歩いていきます。

-2014年10月22日(水)光州視覚障害者連合会にて「日々一歩」を読んで-

8. KBS光州放送が河先生を非難

世の中はさまざまなことがあります。イエス・キリストがガリラヤで捨てられたように、世の中は義理堅い恩人を裏切ることが多いのです。私が視覚障害者連合会の会長としての任期を終え、光州広域市の障害者総合支援センターの常任理事を務めていた2018年のあの日、KBS光州放送のニュースが河先生による絵画寄贈の光州広域市との協約は個人の私欲であるのに、光州広域市が過度な厚遇をしたことは間違いであり、原点から見直さなければならない、と報道しました。崇高な先生の意志に反するニュース報道が連日のように流されていました。悪意と作為を持った一部の人々の間違った判断と無知なる軽薄さ、そして記者たちの傲慢な英雄気取りの行為が善なる偉人を埋葬していたのです。恩人に対し光州がこんなことをしてもいいのだろうか? 怒りがこみあげてきました。美術関係者をはじめ、心ある人々が蜂の群れのように蜂起して戦うと思っていましたが、数人を除き、全員が沈黙を貫きました。これは先生をもう一度殺す沈黙だと私は思い、辛く感じました。

私は視覚障害者たちと一緒にKBS光州放送局の前で抗議集会を行うつもりでした。しかし河先生の相手の策略にはまってはならないとの引き留めと、視覚障害者連合会の会員たちの同意を取りまとめることができなかったために実行には至りませんでした。できたことは、李庸燮光州広域市長、田東平霊岩郡郡守、そして関係する方々に対して呼びかけを行い、光州MBCのコラムとKBSの視聴者ご意見箱に意見を投稿することだけでした。正義と真実が潰された現場で、苦しんでいる河先生と凱旋将軍のように意気揚々のKBS記者と加害者たちがオーバーラップし、私の姿は限りなく小さく見えました。もしかすると、先生が何年か前に私に下さった写真の壁画、イエス・キリストがゴルゴダへ引きずられていくあの壁画の主人公に、私たちはなっていたのかもしれません。

※光州MBCコラム ―称賛する社会を作りましょう―

イソップ寓話で旅人の服を脱がせたのは荒い風ではなく暖かい光でした。

称賛は鯨をも踊らせると言います。

皆さんは日常の中でどれだけ褒めることを探し,褒めることを実行していますか? 

周辺では称賛に値することが絶え間なく起きているのに、日に一度でも褒めることをしなければ、「知れば知るほど物事をよく見ることができる」ということわざのように、生活の中にある良い点を見ることができないということになります。

残念なことに、間違えたことを先に見てしまう否定的な心が先行してしまい、良いことが見えなくなってしまったのです。

アレクサンダー大王の肖像画を描くために大王の元を訪れた当代の有名な画家は、大王の顔にある大きな切り傷を見てどうしたらいいのか苦心した末に、大王を机の上に腰掛けさせて頬杖をつかせてその傷を隠した後、名作を完成させたと言われています。

私は35年前に在日韓国人である河正雄先生にお会いしました。

絵の収集で光州にいらっしゃった際に身体の調子が悪くなり、視覚障害者の黄英雄氏から按摩の施術を受けることになりました。そして、初対面だった黄英雄氏と施術中に話をしたことをきっかけに、光州の視覚障害者たちの宿願であった会館の敷地を用意して下さいました。そのようにして始まった縁で毎年お会いすることになり、先生の精神を知ることになりました。先生は何事もまず自らやらなければならないこと、健康な精神と正しい歴史認識、そして共に協力し合う社会を作らなければならない、と常におっしゃっていました。

先生は画家になることが夢でしたが叶えることができず、勉強がよくできましたが韓国人の名前を変えなかったという理由で就職もできなかったそうです。それで、日雇い労働者から始め、いろいろな仕事を通してお金を貯めて夢であった画家になる代わりに絵の収集を始めたそうです。絵の中には歴史と精神、そして人生が詰まっていて、絵を通じて世の中の幸せを作っていくことができると考えていらっしゃいました。

そのようにしてお金を貯め絵を収集して恋しい故国に1万2千余点もの絵を寄贈し、その中の2,600余点を光州市立美術館に寄贈して下さいました。1992年の開館初期の光州市立美術館は所蔵品がなく、一部の展示室を閉鎖しているという空虚な状況でしたが、先生の25年間で7回続いた寄贈のおかげで今では全国の市立美術館の中でもっとも水準の高い美術館になりました。それだけではなく、先生は日本による占領期に日本に徴用されて名もなく死んでいった5千人余りの韓国人の名簿を探し、毎年慰霊祭を行っていて、本来であれば国がしなければならないことを奇跡のように行ってきたのです。

しかし、一部の否定的な人々と某放送局は光州広域市は協約を間違えていた、過度な待遇をしている、偶像化しているなど、先生の高貴なメセナ精神を称賛して広く伝えるどころか、魔女狩りのごとく先生を傷つけることに熱を上げています。本当に情けない限りです。

光州ができてから今まで、河正雄先生ほど多くの寄付を行った人を私は見たことも聞いたこともありません。視覚障害者たちの基盤を作って下さり、名もなく死んでいった魂を慰霊し、青年画家たちを支援し、1万余点の絵を寄贈する方を、どのようにより優遇して称賛する社会を、互いに協力し合う共同体を作っていくのかを考えなければならない時です。桁違いに寛大な寄付者の名誉をこのように毀損し、その胸に釘を打ち付けるのであれば、一体誰が寄付などをしようとするでしょうか。

水原には朴智星の道路が、大邱には歌手の金光石の通りがあります。彼らはそれぞれの特技を通して世の中に利益を与え、それによって優遇されたのです。光州の金大中コンベンションセンターについても同様です。

社会に対して記念すべき業績があるなら、誰であれ相応の待遇を受け、後世の手本となるようにするべきです。憎しみは憎しみしか生み出しません。善行を絶えず見つけ、好循環による温かいコミュニティを作らなくてはなりません。今日もまた、称賛することを見つけられる1日になりますことを願っております。

―2018年10月17日 光州MBCラジオコラム放送

9. 河正雄先生、光州広域市視覚障害者連合会名誉会長に推戴

私は連合会長に在任している間、河正雄先生の哲学と実践に多くのアイデアを与えられました。普段から先生は歴史意識と自立と記録、そして未来に対する変化を作っていらっしゃいました。あるいは、絶えることのない革新の連続、という考えすら頭をよぎります。その中の一つが光州視覚連合会の40年史を作ったことでした。職員たちに、その間の資料を集めるように言い、黄

英雄会長や魯柄淑会長といった歴代の会長など、連合会に関係のあった方々に手持ちの資料や口述、そして連合会の歴史に記す価値のある素材等を探すように要求しました。視覚障害者の特性上、写真を撮ったり、記録することへの関心が少ないために、資料収集は困難を極めました。私は河正雄先生にも視覚障害者の歴史を編纂することをお伝えし、視覚連合会と関連する資料の提供をお願いしました。河先生は本当に重要な仕事だとおっしゃって喜んで下さり、数十年に渡って集めていらっしゃった視覚障害者連合会と共に活動された際の資料などを整理して送って下さいました。私はあらためて長い時間の流れの中で、河先生が当事者よりさらに正確な記録を持っていらっしゃったことを恥ずかしく思うと同時にそのありがたさを痛感いたしました。このように河先生が精神的、物質的そして歴史的にも光州の視覚障害者たちとの間に深い縁と熱情をお持ち下さったこと、これをどのように永久的な形でとどめることができるか苦心した結果、河先生を光州広域市視覚障害者連合会の名誉会長に推戴することに意を共にしました。虎は皮を残して、人は名前を残すように、誰でも意味があることを成し遂げれば、それに適した名誉と待遇を与えられるというのはもっとも基本的なことだと思っています。すべての会員が満場一致で同意し、2017年10月、第38回白杖の日に合わせて河正雄先生を名誉会長に推戴いたしました。河先生は名誉会長に推戴されたことを非常に喜んで下さり、私もやはり、意味のある仕事を成し遂げたことを嬉しく思いました。

10. 「『暗闇の中の光』社会的協同組合」組合員として参加

私は常日頃から障害者の社会参加と職業の開発に多くの関心を抱いていました。私自身もやはり按摩の資格を取得しましたが、按摩よりも新しい道を探して事業をすることになりました。そうしながら、視覚障害者たちに合った新しい職業とは何であるかを考えてきましたところ、偶然に「暗闇の中の対話」に接することになりました。暗闇の中の対話とは、光を遮断して何も見えない暗黒の環境を作り、その空間で視覚障害者たちが参加者を案内し、暗闇の中でさまざまな体験を提供するものです。私は、まさにこれだ、視覚障害者が自ら誰の助けをも受けずに暗闇の中で案内者になることができ、体験者たちは視覚を奪われた状態でさまざまな経験をしながら、視覚に対する理解と人生を振り返ることができる良い事業になると思いました。最初は私が稼いだお金でやろうと思ったのですが、思う通りにいかず、志を同じくする方々と協力し合わなければならないと思い直し、2017年に非営利法人「『暗闇の中の光』社会的協同組合」を設立して組合員を募集する一方、光州共同募金会と連合募金をもすることにしました。河先生が光州にいらっしゃったある日、私に電話を下さって会って下さいました。そしてどのようにしてご存じになったのか、体験館の建立後援金を下さって「必ず意志を成し遂げて下さい」と呼び掛け、励まして下さいました。先生もまた組合員の中の一人、という立場でいらっしゃいましたが、私にとっては意味のある大きな力でした。先生はいつもこのように、必要なことに関心をお持ちになって下さり、参加を実践して下さいました。後に暗闇の体験館を作ることができましたら、体験館の中に河正雄記念室を作り、目で見ることができない暗闇の空間の中に先生の音声と彫刻など、聴覚と触覚のみを使う美術鑑賞室を作らなければ、とも考えています。

여기까지는 김갑주의 글입니다.(ここまでは金甲柱による文です。)

다음은 황선권 희장의 글입니다.(次は黄ソングォン会長の文です。)

11. 黄ソングォン会長、河正雄先生の功労碑を建てる。
            高潔なる意志を称え!

河正雄博士の立派な精神を心に刻み、末永く記憶に残したいと思います。

社団法人 光州広域市視覚障害者連合会

黄ソングォン会長(第15~16代 2009~2013年)

視覚障害者たちにも空に浮かぶ澄んだ雲を見たいという夢があります。

しかしながら、夢を広げるまでの険しい過程については筆舌に尽くしがたいものがあります。

黄ソングォン光州広域市視覚障害者連合会長は第15代、第16代会長として連合会を率いてきながら、河正雄博士の大きな助けを得て視覚障害者たちの巣である光州視覚障害者連合会福祉館をついに建立するに至り、その崇高な志を岩に刻み永遠に称賛したいと思います。黄ソングォン会長は2009年1月1日に第15代会長として就任すると「光州広域市視覚障害者たちと共に行う福祉、見つけていく福祉!」をスローガンに揚げました。このような夢を実現させるべく光州広域市視覚障害者福祉館建設用地を工面して下さった在日韓国人河正雄博士の崇高な志を込めた功労碑を建てる意志を明らかにしました。このプロセスは専任会長と光州広域市視覚障害者連合会の会員たちの積極的な協力と参加があったからこそ可能でした。霊岩が故郷である河正雄博士は以前から光州を訪れ、光州の視覚障害者たちが適切なオフィスもなく困難を極めているという話を聞き、1982年より「巣作り」ために寄付を始めて下さいました。

時には日本で作品展を開いて用意した私財を寄付し、時には日本の青年作家たちと共に展示会を開いて募金運動をして、2008年まで光州広域市南区社洞19-4番地に視覚障害者たちの施設用地として貴重な土地650.7平米を購入できるよう、あらゆる後援を惜しみませんでした。

在日韓国人が韓国人に代わって堂々と成功したことも特筆すべきことであるのに、故郷を忘れず、故郷の視覚障害者たちが一つの建物に集まり一団となってその膨らんだ夢を耕す基盤を用意して下さった、その崇高な志を忘れることができません。

黄ソングォン会長は、光州視覚障害者たちの宿願であった事業を成し遂げることができるように物心両面で支援して下さった河正雄博士の立派な心に報いて功労碑を建立しました。

建立諮問委員には黄英雄、黄ソンジュン前任会長を迎え、推進委員は黄ソングォン会長、パク・ジス理事、ユン・グァンヒョン事務局長、キム・サンソプ課長、張永喆チーム長、パン・ソンギョン室長で構成され、功労碑建立のための1次~3次推進委員会を開催し、具体的な実行に着手しました。

功労碑建立に伴う予算計画や日程等は黄英雄、キム・ソンジュン両前任会長に諮問を受け、功労碑製作は河正雄博士の業績をもっともよく知っている鄭允台朝鮮大学美術大学長の素晴らしい作品で遂に建立するに至りました。

功労碑建立にかかった予算の3千万ウォンを集めることは、黄ソングォン会長をはじめとする視覚障害者連合会の会員たちの涙なしでは語れない募金運動と協力があったからこそ可能であったことをここに明らかにいたします。

特に、光州広域市東区錦南路近隣公園で2009年6月24日午前10時から午後10時までバザーを開き、光州市民の参加と協力による収益金8百万ウォンを確保した会員たちの誠意を忘れることはできません。

河正雄博士の崇高なる故郷を愛する精神と視覚障害者連合会の会員たちの切なる真心が込められた功労碑がついに完成し、2009年8月12日、社団法人光州視覚障害者連合会(光州広域市南区社洞19-4番地)に建立され、その志を末永く称えたいと思います。

光州視覚障害者連合会は真っ暗な世の中を愛の光で明るく照らす河正雄博士のありがたい魂を忘れることはありません。

2009年8月12日

社団法人 光州広域市視覚障害者連合会

ファン・ソングォン会長他会員一同

光州広域市視覚障碍人連合会40年史

記録写真

新聞記事(1985-1986年)

盲人福祉会館建設に向けての募金活動時、建設費用2億ウォンを募る。

全羅南道1500人の目の不自由な人たちの自立の拠点についに建設!

全南盲人福祉会館完成

光州盲人福祉協会設立のきっかけ

1982年5月、全和凰展を光州の南道芸術会館で開催した。その巡回展(東京・京都・ソウル・大邱)の疲労のため、私は光州でダウンしてしまい、視覚障害者の黄英雄氏のマッサージを受けた。その時、黄英雄氏が私に頼み事があると言った。

「全羅道にいる2500人の視覚障害者のために、盲人協会と会館を作りたいと数年前より道庁や市庁の福祉課を尋ねて数年間要請してきました。市や道から何の返事もなく、助けてくれないのです。」と訴えた。

その時の光州市は光州民衆抗争の後始末で社会的弱者に目を向ける余裕などない状況であった。福祉など名のみの時代あった。

私は彼に言った。「為政者を頼らず、障害者だから助けてほしいと言わずに、自分たちの力と努力で運命を切り開かねばならない。」と。

「力のない、私達に何が出来るのですか。」と彼は私に尋ねた。「あなたのマッサージ代は6000ウォンですね。私が1000ウォンプラスして支払いましょう。あなたも1000ウォン出しなさい。あなたの同僚達とお客さん達の協力を得て募金活動をしなさい。マッサージをする毎に2000ウォンずつのお金を積み立てて基金を作るのです。200万ウォンの基金が出来たら連絡を下さい。あなた達の自立しようとする姿勢と意志が見えたら協力しましょう。」と約束した。

彼らは1年後に私との約束である200万ウォンの基金を作った。それを元にして協会事務所を借り、引き続いて募金活動をして土地を買った。

1988年、市や道から各々5千万ウォン、計1億ウォンの助けを受けて会館を建てた。「土地は30坪、会館は30坪あれば良いから頼む。」と彼は当初、遠慮して言った。私は土地を162坪購入し、会館は131坪のものを建てた。彼らや市と道、光州市民や在日同胞と日本人達の力の結集により官民一体となって作り上げた韓国で初めての盲人福祉会館である。

「これでも少ないと思うが、私の力で出来るのはここまでです。」と私は彼に謝った。今、盲人福祉会館は会員が増えて手狭で動きがとれないほどの発展規模になっている。そのため幾度も、黄英雄氏から再度助けてほしいとの要請があったが、これからは市民等と市や道の官と共に、地域の問題は地域で考え、解決していくようにと私は指導してる。

当時、福祉があってない時代だった韓国が、困難な時代でありながら助け合いの精神と英知、希望と展望を持つことの意味を、この盲人会館建立事業は教えている。会館建立後、「たかだか2、3億ウォンで建てた会館」という金銭的評価のみで、事業を評価する人が多かったことに寂しい思いをした。

出発時には市も道も100万ウォンを出すのが精一杯の時代があったことを忘れてはいけない。ちなみに私は会館完成まで7年間に50回も光州と日本を往来、指導をして来たのは、その社会的事業の価値に、金銭では計れない付加価値があったからである。

私は多額の経費と時間とエネルギーを投資、全てボランティア精神で行なってきた。こうして生まれた盲人福祉会館の原点は哲学的精神を礎としている。福祉行政の先進として市がこの魂を受け継いでほしいと思っている。

光州市立美術館河正雄COLLECTION図録2003(2003.7.21)

〈祝辞〉使命を果たそう

朝鮮大学校美術学名誉博士
光州市立美術館名誉館長
朝鮮大学校招聰客員教授
河正雄

社団法人光州広域市視覚障碍人協会は、1981年韓国盲人福祉協会全南支部の結成から歴史が始まる。1989年に念願の会館を建築し開館した。

20年の月日を送り2009年、再び新たなる光州広域市視覚障碍人福祉会館を再建し、開館した。この喜びはひとしおである。

私は、その過程を組織誌2010年創刊号「明るい光の世の中」に「共生一の道」という略文で報難辛苦の歩みを記した。生むは易し、とは言うが実際に事業を育てるのには言葉に尽くせない道であった。

1989年、会館竣工の際に記した「愛と自立・そして絆」という私の文章が、その歴史を語っている。幾多の苦しみはあったが、今は懐かしく回顧する事が出来る。

振り返れば1985年、私が全南盲人福祉会館建立基金発起人となった事が運命であり、使命であったように思える。その時のスローガンは「共に生きる」「共に仕事をしよう」である。この想いは今だ色槌せる事無い。

それは「障碍者も社会活動や奉仕活動に参加し、健常者と同じ隊列に並ぼう」という精神である。

福利厚生を享受する福祉社会の具現と発展、そして人権の尊さを守り、自主自立の精神を確立しようという普遍の精神がそこにある。「豊かなる福祉社会」「人間勝利の社会」の具現の為、献身出来る事は大きな喜びで、幸せな事である。

この事業の始まりは、たった一人の想いからの出発であった。その想いが人が手に手を取る事で輪になり、広がる事で組織という形を成すに至った。

我々は20数年を超える歳月を重ね、多くのものを学び体験した。そして社会的な存在と意義、そして我々の使命が何であるか新たな任務を確認する事となった。

一歩一歩、ぶれず、迷わず、信念を持って社会の一員として使命を果たしていこうではないか。今再び、我々の信念と献身が問われる新たなる出発であると思う。

新会館竣工に寄せて―共に生きる

河正雄
光州市立美術館名誉館長
朝鮮大学校美術学名誉博士
朝鮮大学校招聘客員教授

2008年1月、黄英雄教授から「今の会館が古くなり手狭な為に取り壊し、発展の為に新しい会館を建て直したい。協力してほしい。」と電話があった。

2月に会館を訪問した所、設計図が出来上がっていた。その図面を見ると駐車スペースが確保されていなかった為、「市民や、サポートする人達の為の駐車場が必要である。」と指摘し、その計画に反対した。

3月に入り「隣接する66.2㎡の土地を買う契約をしたい。その土地を見てほしい。」という電話が入った。十分ではなかったが、すぐにその土地を買い求め設計をやり直した。光州市の支援を受け建築に入るまでには日数を要した。

こうして新しい光州視覚障害人福祉会館が開館した。この喜びを胸に初心の為と、未来を望むにあたり協会と開館の歩みを回顧する事は意義ある事と思う。

私は1982年正月、東京銀座で「祈りの芸術・全和凰画業50年展」を開催した。続いて京都、ソウル、大邱、光州と巡回展を開いた。

その4月、最後の光州展準備の為に光州を訪れた。企画、運営、交渉を1人でこなしていた疲れが出たのか、過労の為にホテルで寝込んでしまった。

その時に治療を受けたのが黄英雄氏であった。1週間後には体調も良くなり、別れの日になって黄氏は「河さん、1つ相談があるのですが聞いて貰えないでしょうか」と遠慮深く切り出した。

「光州市には数百名、全羅南道には二千数百名の盲人がおります。今、私の周りで自立し生計を立てられる盲人は2、3名しかおりません。私は仲間が集って親睦、交流し、相互扶助をする場、自立する為の教育・訓練・研修が出来る会館、協会が欲しいのです。数年前から市や道庁の保険社会局を訪ねては私達の願いを訴え陳情してきたのですが、現在まで何の進展もないのです。」

悪夢のような忌まわしい光州事件が起きて間もない頃、光州市民を震撼させた事件の傷は癒えておらず、社会の混乱が心の奥深くまで食い込み、鬱積した空気が重苦しく社会に充満していた時代であった。

「為政者といえども社会の公僕ではないか。市民も今、あなた方と同じく苦しみの中にいる。必ずや、あなた方の心を汲んでくれる人々がいると思うから、希望を持ってほしい。」と励ました。

雪深い秋田での高校時代、片道3時間の汽車通学をした。車中、秋田市の聾唖学校に通う学生達と親しくなった。不自由な彼らではあったが、お互いに手を取り合って助け合う姿は頼もしかった。貧困の中での高校時代、何度も挫けそうになる私を、彼らは無言の内に励まし、勇気づけていた。

高校卒業後、東京に出て会社勤めをした。夜学に通いながらの職場生活は破綻し、過労と栄養失調が原因で一時的に視力を失った。3ヶ月ほど治療を受け、その苦悶から救われ、光明を見た時の世界の輝かしさと、その喜びは今でも表現出来る言葉が見当たらない。

私は過去の経験から黄氏の相談が他人事の様に思えなかった。

「為政者や市民に頼る前に、自らの意志と行動が先決ではないだろうか。自立出来る2、3名だけでも団結し、基金を少しずつ積み立ててはどうか。行動を自らが示しさえすれば、社会や市民にあなた方の志士を伝える手伝いをしましょう。」と約束した。

それから一年がたった頃、黄氏から便りが届いた。200面ウォンの積み立てが出来たという知らせであった。

彼らの自立への意思と真情を光州市民にアピールした。そして市や道庁を訪ね支援をお願いして廻った。市や道はもとより、多数の市民からも基金が寄せられた。1983年7月19日、その基金で湖南に25坪程の事務所を借り、協会を立ち上げた。

1985年の事。会員も増えて自立する盲人達も30名に達し、運営もつつがない事を喜んでいた。しかし、不幸な事に女性会員が2階から転落、20針も縫う痛ましい事故が起きてしまった。資金不足の為とはいえ、協会の事務所を2階に設置した事は思慮が足りなかった。起きて然るべき事が起き、心配していた事が現実となってしまった事に対し、慙愧の念に耐えなかった。

この事件が契機となり、私は土地を買って会館を建てる決心をして募金活動の発起人となった。日本では在日全南道民会・東京王仁ライオンズクラブ・日本の友人達、韓国では木友会の画家達・東光州青年会議所会員・光州市民達に支援協力を求めた。1983年から1986年までに寄せられた募金6975万9457ウォンは道庁に寄託した。私は1億ウォンの基金を集めたい、市内の土地を買って視覚障害人達の願いである会館を建てて上げてほしいと要請した。

1年近く経ったある日、協会から便りが届いた。借りている会館の立ち退き要求の内容証明郵便が同封されており、期限が来た為、会館を明け渡すように、という内容であった。

彼らの居場所がなくなる。基金を寄託して1年近くにもなるので、施策がなされ進展があっただろうかと淡い期待を抱きながら道庁を訪問し、視覚障害人達の窮状を訴えた。

しかし、その返事は「残り3000万ウォンを持って来るという事だったので、そのまま手をつけずにいる。」という無責任な返事であった。私は全身から力が抜け、気力を失ってしまった。孤立無援の状況に胸が張り裂けそうであった。

日本に帰り3ヵ月後、お金を用意して私は光州に半月滞在した。東光州JCの会員達と友人達が会館敷地を探す為に連日市内を駈け回った。

あれこれ物色し10日も過ぎた頃、史蹟公園の麓、不動橋のたもとに162坪の土地があるという。1億530万ウォンの物件である。会員達も市内に近く、願ってもない土地であると希望した。

基金は7000万ウォンしか手元になかった為、不足の資金は私が寄付する形で補った。土地は1987年8月26日、社会法人韓国盲人福祉協会に寄贈した。明け渡しを請求された会館を引き払い、購入した土地上にあった古家に移転し活動を続けた。

以後、数度会館建立の為に道と市に交渉を行った。それぞれから5000万ウォンの支援を得て着工に漕ぎ着け、1989年4月22日、開館した。当初、黄英雄氏が要請した物は土地30坪、建物30坪であったが、結果的に土地162坪、建物154坪の規模になり、会員3人から始めた事業は、現在6000名もの視覚障害人を網羅する組織に成長する事になった。

私のスローガンは「共に生きる」「共に仕事をしよう」である。我々と共に障害者も社会奉仕に参加し、その喜びと幸せを分かち合わねばならない。

この事業は多くの人々の真心を結び合わせる事によって進められた。遠回りも、試行錯誤もした。しかし、この世の善意、友情、思いやりを「信じる」事が出来た事は何よりの救いである。

そこには同胞達との出会いがあった。そして強い絆で結ばれた祖国があった。生きて生かされて今日この道を歩く喜び。この喜びを与えてくれた視覚障害人達の福祉が向上し,自立の精神が燃え続ける事を、全ての人々と共に祈りたい。

新会館の会館を契機にして「豊かな福祉社会」「人間勝利の社会」が具現される事を祈る。私を見守り、愛し励まし、ご支援、ご協力下さった全ての方々に熱く感謝を申し上げる。

第37回障碍人の日に寄せて

光州市立美術館名誉館長 河正雄

第37回障碍人の日を迎えるにあたり人生を立ち止まり、振り返る事は意味がある。私が関わった光州市での福祉の歩みと、その原点を回顧する事は今後の福祉発展の為にも価値あるものと思う。

社団法人光州広域市視覚障碍人協会は、1981年韓国盲人福祉協会全南支部の結成から歴史が始まる。1989年に念願の会館を建築し開館した。

20年の年月を送り2009年、新たに光州広域市視覚障碍人福祉会館を再建し、開館した。この喜びはまた、ひとしおであった。

私は、その過程を組織誌2010年創刊号「明るい光の世の中」に「共生への道」という文で艱難辛苦の歩みを記した。「生むは易し」とは言うが実際に事業を育てるのには言葉に尽くせない道のりであった。

1989年、会館竣工の際に記した「愛と自立・そして絆」という私の報告書が、その歴史を全て語っている。幾多の苦難はあったが、今は懐かしく回顧する事が出来るのは幸いである。

振り返れば1985年、私が全南盲人福祉会館建立基金発起人となった事が運命であり、使命であったように思える。その時のスローガンは「共に生きる」「共に仕事をしよう」である。この想いは今だ色槌せる事の無い精神である。

それは「障碍者も社会活動や奉仕活動に参加し、健常者と同じ隊列に並ぼう」というメセナの精神である。

福利厚生を享受する福祉社会の具現と発展、そして人権の尊さを守り、自主自立の精神を確立しようという公益精神が基本にある。

国家が出来なければ国民がやらねばならない。祖国が豊かになって、国民が福祉の恩恵を受けられるまでは我々が奉仕を続けねばならないのである。「豊かなる福祉社会」「人間勝利の社会」の具現の為、献身出来る事は大きな喜びで、幸せな事である。私が視覚障碍者福祉に関わる原点はヘレン・ケラーとの出会いである。

秋田県仙北市立生保内小学校2年生の時であった。1948年の秋「奇跡の人」ヘレン・ケラー(1880年―1968年)が日本訪問をして、日本国民から熱狂的歓迎を受けていた事を記憶していた。

三重苦(盲・聾・唖)のヘレン・ケラーが身体障碍者福祉の為に一生を捧げた人格に幼心にも尊敬と憧憬を抱いたからだ。

またメルビン・ジョンズの言葉である「奉仕するという事は、その人の役に立つという事だ。この偉大な世界で奉仕するという事は、この偉大な世界で何かの役に立つ事を意味するのである。」も心に響いた。

光州での仕事の始まりは、たった一人の視覚障碍者との出会いからであり、そこで触れた想いからの出発であった。その想いが人が手に手を取る事で輪になり、広がる事で組織という形を成すに至った。

私は1982年5月、全和凰展を光州の南道芸術会館で開催した。これが光州市との御縁の始まりである。

その巡回展(東京・京都・ソウル・大邱・光州)で疲労の為、ダウンしてしまい、光州の視覚障碍者の黄英雄氏のマッサージを受けた。その時、黄氏が私に頼み事があると言った。

「全羅道にいる2500人の視覚障碍者の為に、盲人協会と会館を作りたいと数年前より道庁や市庁の福祉課を尋ねて数年間要請してきました。市や道からは何の返事もなく、助けてくれないのです。」と訴えた。その時の光州市は光州民衆抗争の傷深く、社会的弱者に目を向ける余裕などない状況であった。福祉など名のみの時代であった。

私は黄氏に言った。「為政者を頼らず、障碍者だから助けて欲しいと言わずに、自分たちの力と努力で運命を切り開かねばならない。」と。「力のない、私達に何が出来るのですか。」と彼は私に反問した。「あなたのマッサージ代は6000ウォンですね。私が1000ウォンプラスして支払いましょう。あなたも1000ウォン出しなさい。あなたの同僚達とお客さん達の協力を得て募金活動をしなさい。マッサージをする毎に2000ウォンずつのお金を積み立てて基金を作るのです。200万ウォンの基金が出来たら連絡を下さい。あなた達の自立しようとする姿勢と意志が見えたら協力しましょう。」と約束した。

黄氏らは1年後に私との約束である200万ウォンの基金を作った。これが契機となって私は約束を守り、募金活動を始め協力する事となった。

そして集めた募金を元にして協会事務所を借り、引き続いて「目の不自由な人達に自立の場を」と訴え募金活動をして土地を買った。1988年、市や道から各々5千万ウォン、計1億ウォンの支援を受け会館を建てた。「土地は30坪、会館は30坪あれば良いから頼む。」と当初、黄氏は遠慮して言った。私は土地を162坪購入し、会館は131坪のものを建てた。2009年の再建時には駐車場用地22坪を自費で追加購入し施設の充実を図った。

彼らや市と道、光州市民や在日同胞と日本人達の力の結集により官民一体となって作り上げた韓国で初めての盲人福祉会館である。

私はこれらを光州市に全て寄贈した。その後、光州の障碍人達は団結し、叡智を傾け堅実に組織を発展させて来た。

我々は30数年を超える歳月を重ね、多くのものを学び体験した。そして社会的な存在と意義、そして我々の使命が何であるか新たなる任務を確認する事となった。

私は誇るべき、その歩みと栄光を心から讃える。そして前途にエールを贈りたい。

目は人を表すという言葉がある。我々には見えないものがある。目を瞑ってみて下さい。暗闇の中に何が見えたか。どんな映像が現れて来たか。

平和で幸せを念願する映像。善良なる夢や希望、未来への夢や希望の映像。それらは我々の心との対話、自らの心から芽生える映像である。それらは、その人の人格が投影される映像である。それが見える。それこそ尊く美しい。

一歩一歩、ぶれず、迷わず、信念を持って社会の一員として使命を果たしていこうではないか。今再び、我々の信念と献身が問われる新たなる出発であると思う。

(2017年4月20日 第37回障碍人の日に)

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