経緯

2008年2月26日孫雅由美術作品寄贈100点
2008年12月20日~2009年2月22日河正雄コレクション孫雅由展開催
2009年2月11日孫雅由 小林孔 河合勝三郎 関根伸夫 120点寄贈
2009年3月21日申璋湜 9点寄贈
2009年4月30日ヘンリー・ミラー 187点寄贈
2010年2月16日郭仁植 5点寄贈
2010年4月20日関根伸夫 彫刻 9点寄贈
2010年5月14日孫雅由 11点寄贈・寄贈総計441点
2020年10月31日HA JUNG WOONG COLLECTION 画集発行
 その他 美術図書寄贈

カタログ資料集

 天使に見守られている芸術家 ヘンリー・ミラー

文:河正雄

ヘンリー・ミラーの文学作品「南回帰線」が出版された翌年、1939年11月3日に私は布施(現東大阪市)で生まれた。

1939年、ヒトラーのポーランド侵攻が発端で第二次世界大戦が勃発、日本は日中戦争の最中にロシア(旧ソビエト)に侵攻しノモンハン事件が起きる。朝鮮人には創氏改名が法制化され、強制労働を強いる徴用(強制連行)法が施行された。2年後には第2次世界大戦(太平洋戦争)に突入した戦時下である。

1939年、田沢湖畔には姫観音像が、上野公園には王仁博士顕彰碑が建立された。日本で生を受けた前途に希望や夢、展望のない世界が戦争一色に染まった時代であった。20世紀の戦争と植民地政策の歴史に翻弄された流転と流浪の境涯、辛苦の「旅」から学んだ人生哲学とは一体なんであったろうか。

私は長野県大町市温泉郷のヘンリー・ミラー絵画の世界最大コレクションとして有名なヘンリー・ミラー美術館所蔵の全作品を2009年4月18日にコレクションし、2009年7月10日に韓国の釜山市立美術館へ、ヘンリー・ミラー作品187点を寄贈した。

私は日本と韓国、二つの祖国を生きる在日韓国人二世である。韓日間の境界を越え、美術を通して韓日の架け橋を渡す使命を果たして来た。20歳まで過ごした秋田県仙北市の角館や田沢湖の故郷の事、35歳の時に父母の故郷全羅南道霊岩を初めて訪れた時の事などを通して、祖国とは、故郷とは、熱い望郷の思いを生き温めて来た。

日韓の文化交流史で、忘れてはならない王仁博士のことなど、故郷に寄せる熱い想いで、在日の作品だけに留まらない美の花を韓国内七つの公立美術館と国立古宮博物館に咲かせ新たな美術の歴史を刻んだ。

ヘンリー・ミラー文学については世界的評価が定着している。ヘンリー・ミラーの絵画については理解者やファンは多い。しかし美術界での評価は少し定まらぬものがあるのは何故であろうか。その領域には文学者の趣味的絵画という固定観念と偏見があるようだ。その境界を乗り越え見直すべき美の世界があると私はコレクションしたのである。

異邦人、国籍喪失者としての時代を共有した、ディアスポラである在日の宿命からの共感なのだろうか。ヘンリー・ミラーの絵画に惹かれ、自己を投影した私の美意識とは何であるのか。私の境涯から興味深いものであろうと思われる。

アメリカにおける一種の異邦人、国籍喪失者としてフランスでも暮らしたヘンリー・ミラー(1891年—1980年)は「北回帰線」(1934年パリ版)「南回帰線」(1939年パリ版)に代表される世界的な文豪である。

奔放に生きる自己の生のドキュメントが彼の小説の核をなしてる。小説を書くかたわら、「描くことは再び愛すること」と明言しながら水彩画を描いた。彼の水彩画は子供たちにも負けなぃ透き通った純粋性に満ちたものである。

私は、これまでヘンリー・ミラーの作品を多く見て来た。彼の心の赴くままのフォルムや色彩に大きな感動を覚え、これからの時代に評価を受ける作家であり、大町市温泉郷のヘンリー・ミラー美術館が閉館した為に作品が散逸してしまうには、余りにも惜しいコレクションだとぃう強い思いから収集した。

このコレクションの核をなすのは、ヘンリー・ミラーを日本に紹介した久保貞次郎 (1909年―1996年 町田市立版画美術館館長 跡見学園短大学長)のコレクションであった。

版画美術の名プロデューサーでもあった久保はヘンリー・ミラーのセリグラフの版下を池田満寿夫、オノサト・トシノブ、吉原英雄、小田襄等に作らせている。

そのような関係もあり、ヘンリー・ミラーから最も影響を受けた日本の作家は池田満寿夫と言われている。ヘンリー・ミラーには師匠はいなかったが、彼の水彩画や版画にはピカソ、シャガール、クレー、ミロなどの親しい交流からか、それらの作風の色が所々に息づいている。

ヘンリー・ミラーは文明評論家であり神秘的な哲学者でもある。素人ではあるが、彼の水彩画には魅力があり愉しさがある。毎日描くことが大事であると、無償の行為とも見える、一種の感覚の体操のようにも思える作業である。

そこには気張ったところや背伸びをしたところはない。これは「天使に見守られている芸術家の作品である」と小説・詩人・フランス文学者の福永武彦(1918年―1979年)は「芸術の慰め」に評している。

直木賞作家候補にもなった梁石日(ヤン・ソギル 1936年―)はヘンリー・ミラーの自伝的小説「南回帰線」との出会いから、その世界観にショックを受けて自分を重ねる作品を発表し小説家となった。

梁石日はヘンリー・ミラーの足跡を辿る旅から「ボヘミアン」の血を感じ、神の啓示を受けたという。ヘンリー・ミラーの愛読者であり、コレクターでもある彼は21世紀においても尚、前衛的な文学、芸術であり続けるだろうと熱く語っている。

―美術史的に重要な作家・関根伸夫―

2019年5月13日、上海から2012年制作拠点を移し活動していたが、アメリカ・ロサンゼルスの病院で関根伸夫(さいたま市大宮区出身1942年生)は逝去した。

多摩美術大学で学び、斉藤義重、高松次郎に師事、彼の作品は箱根彫刻の森美術館(1969年)他に設置され、多く遺されている。

1968年第5回長岡現代美術館賞で大賞を受賞、現代美術の大胆な展開として話題となった。後に環境美術研究所を立ち上げて活躍した国際的作家である。

『静かに、動じなく「もの派」の作家たちをまとめてくれた』と彼の作品を高く評価したのは「もの派」の先駆的な理論の支柱となった李禹煥であった。

『作ったのか作らないのか分からない表現に衝撃を受けた。生産優先の高度成長期に、作らないことに目を向けた作品で、「もの派」のきっかけ、典型であると同時に美術史的にも極めて重要』と彼の死を惜しんでいる。

2012年4月14日までロサンゼルスのブラム&ポー画廊で「「太陽へのレクイエム:もの派の美術」展が開催され「もの派」が世界美術史の中で評価され、定着した。

1960年代後半から70年代前半にかけ「もの」そのもの、石や鉄や木材などの物質と物質、物質と空間、そして環境との関係などを問う。現代美術「もの派」と称される美術表現の流れが日本に現れた。

韓国ではモノトーンの作品表現「モノ・クロ派」の流れが現れ互いに影響し合い発展した。「もの派」「モノ・クロ派(単色派)」と称される美術の動向は、先鋭性と実験性で海外から高い評価を受ける事となり、世界的なものとなった。

始めは日本でも韓国でも難解だと評価は今一つ低く理解されなかった。それは「もの派」の作品は一回性の設置美術と認識されるものが多かったので作品その「もの」が残らなかったからだという。特に「もの派」の中心的作家であった関根伸夫は起爆的作品と評価され、「もの派」誕生の契機となった代表作「位相-大地」(1968年)は衝撃的ではあったが評価についてはその例に漏れなかった。

ロサンゼルスでの「太陽へのレクイエム・もの派の美術」展は関根伸夫らの「もの派」が国際的に評価され新たに認識された歴史的且つ再出発となる展示となった。

2009年、関根伸夫より便りが来た。

「前略

お元気のことと推察いたします。私の方はこの不景気であまり状態が良いとはいえません。韓国の友人からあなた様がまた新しい美術館を計画されていると聞き、あるいは…と思いペンを取りました。

私の願いはあなた様のコレクションの一部に加えて欲しいこと、せめて一部室分位の作品をコレクションしてもらいたいという一事であります。当然お願いすることなので可能な限り相談させていただきます。同封の資料をご覧いただき現物を見ていただければ幸に存じます。

『もの派』の中で李禹煥さんだけが突出している状況ですが、私も続かなければと焦りにも似た心境です。今後は出来るだけ日本以外のところで発表しようと考えております。

どうかよろしくご検討お願い申し上げます。『尋劔堂』のご著書、ありがたく拝読しております。

2009年2月5日 関根伸夫」

 それまで面識はなかった。彼の世界に関心を持って注目はしていたので、この便りが関根伸夫作品をコレクションする契機となった。私は2009年2月13日、返答文を送った。

「関根伸夫様

 お便りと資料ありがとうございました。昨日まで韓国での行事のため留守をしました。

申し出の件、『河正雄コレクションとして加えて欲しい』『一部室分位の作品をコレクションして欲しい』とありましたこと有難い話です。

 今、私は韓国公立の6美術館に河正雄コレクションとして収めております。みんな寄贈です。願ってもない申し出ですが仰せの価格で受け取れるか自信がありません。

 先生を顕彰するための労を惜しまず、私の寄贈精神と経済力に沿って下さるのであればお会いして話を進めてみたいと思います。

いかがでしょうか。ご連絡お待ちしております。

2009年2月13日 河正雄」

 それから話がトントンと進み、彫刻作品9点をコレクションする事となった。そして2010年4月20日、それらを釜山市立美術館に寄贈し、収蔵された。

 関根伸夫との交流は10年程で、数回の出会いと手紙のやりとりだけであったが良い縁を頂いたと感謝している。病魔と闘いながらも臨終の最後まで制作に励んでいたと聞いた。芸術への献身、魂の崇高さに感動する。

 国際舞台で花開くチャンスを目前にして大切な人が旅立ってしまったが、釜山市立美術館に遺された関根作品は河正雄コレクションとして永遠に輝き、評価を受けるものと確信している。

(釜山市立美術館発行 Ha Jung Woong Collection画集より 2020.10.31)

小林孔

小林孔(こばやしこう 1927年-2006年):洋画家。栃木県生まれ。東京都在住。東京藝術大学油画科卒業。梅原龍三郎、久保守に師事。モダンアート会員。サロン·ドートンヌ会員。元徳島大教授。

コレクション

スイス美術館/栃木県立美術館/徳島県立近代美術館/山梨県塩山信用組合/栃木県立字都宮高等学校/上河内村立公民館/茨城高エネルギーホール

個人コレクション

升田幸三(将棋) /小川真由美(女優) /森光子(女優) /渡辺浦人(音楽)/中村メイ子(女優) /清水勝(河出書房社長) /吉城肇(理博) /菊地 誠(理博)/槍よしえ(女優) /ロジャー・バレツ(スイス銀行コーポレーション東京支店副支店長) /ピエル・スノオ(前スイス大使)

小林孔さんのこと

三木多聞(徳島県立近代美術館長、国立国際美術館長を歴任)

小林孔さんは現代美術のベテランである。 東京芸術大学の梅原林教室に学んだこの画家は、昭和28(1953)年東京芸術大学を卒業した。同期には中根寛、飯田善国、伊原通夫らが名を連ねている。

在学中の昭和26(1951)年「現代フランス美術展」 と銘打って 「サロン・ド・メ東京展」が開催された。これは戦争によって中絶していた海外の現代美術の動向をはじめて紹介したものとして大きな反響を呼んだ。

次いで昭和31(1956)年の 「世界· 今日の美術」 展はいわゆるアンフォルメルの到来として、日本の美術界に絶大な影響を与えた。アンフォルメルやアグションペインティングの抽象表現主義は従来の対象の描写はもちろん、造形的な要素を構成することも拒否して、物質としてのマチエールそのものと生命感の緊張した表現行為そのものを重視し、美術における 「表現」 という概念に決定的な変革を迫るものであった。

東京芸術大学在学中から卒業後間もない時期に、美術の大きな変革を実感した小林さんら若いアーチストたちは激しい混乱のなかから制作活動をはじめなければならなかった。

この画家はモダンアート協会展や個展グループ展を中心に、読売アンデパンタダン展や国際青年美術家展などに積極的に出品した。

したがって40年以上画家としてのキャリアをもっている。この間、作風はコラージュを試みたこともあり、何度か変化しているが、大勢としてはリリカル·アブストラクション(叙情的抽象)とでもいえるものである。鮮やかな色彩を駆使し、直線的でダイナミックなブラッシングを強調したものが多いが、激しくゆれ動く現代絵画のなかで、むしろマイペースで貧欲に自己の世界を追求し続けている。

メキシコに滞在したこともあり、パリのサロン・ドートンヌに何度も出品して会員に推挙されるなど、海外での発表にも意欲的である。何年か前にパリのポンピドウ国立芸術文化センターのギャラリーで偶然再会したことがある。青年のように興奮しながらギャラリーを見て廻っていたのが印象的であった。

小林さんが自己の作風を固定化し、熟成させるというより、絶えず未知の領域を模索し続けていると思うし、そこが魅力である。

釜山市立美術館に作品181点寄贈、名誉市民に

外部による案内