崔承喜写真展開催経緯

1997年12月4日講演会「崔承喜の芸術と生涯」講師:鄭昞浩先生外苑にて
2002年8月1日~10月20日光州市立美術館開館十周年記念
河正雄コレクション特別展「舞姫崔承喜写真展」
2002年9月14日~9月28日崔承喜写真展秋田県山本町ふるさと文化館にて
2006年11月27日崔承喜故郷訪問 江原道洪川郡
2011年4月7日~8月21日崔承喜生誕100周年記念展 光州市立美術館主催
2011年10月18日~10月29日崔承喜生誕100周年記念展 東京韓国文化院主催
2011年11月18日崔承喜生誕100周年記念国際シンポジュウム ソウル芸術の家にて
2012年10月30日~12月9日淑明女子大学校歴史館開館1周年記念崔承喜特別写真展開催
2016年5月12日~8月12日崔承喜生誕100周年記念展
ソウル金熙秀記念秀林アートセンター開館記念 秀林文化財団主催

崔承喜 舞踊映像

崔承喜 舞踊映像

光州市立美術館10周年記念「伝説の人・崔承喜写真展」

秀林アートセンターで写真展開催


愛しき崔承喜

〈伝説の舞姫・崔承喜写真展」に寄せて〉

光州市立美術館創立十周年記念河正雄コレクション「伝説の舞姫・崔承喜写真展」を開催(会期2002年8月1日~10月20日)することとなった。

崔承喜の名は私の故郷である秋田でも知られており私自身幼い時から誇らしく聞いて育った。それは崔承喜が秋田出身の石井漠の門下で学んだからだ。1939年(私が生まれた年)6月24日に秋田市で渡欧告別公演、翌1940年8月16日には帰朝公演が開かれ、その記憶が秋田の人々に鮮烈に残っていたからだと思う。

崔承喜の解放(終戦)後にまつわるエピソードは東西の冷戦、韓日、朝日との歴史的な関係により運命を歪められ、悲劇に彩られている。不幸な歴史に翻弄されたその姿は在日に生きる私は共感と哀感を抱かずにはいられない、愛おしき人物の一人である。彼女の名誉のため、誇りのためにも彼女が生きた時代とその足跡を検証してみる必要があると思うのは同時代を生きた我々の名誉のため、誇りのためでもある。

崔承喜については日本の著名な文士や画家、彫刻家が記したメモリアルが数多く残されている。この写真展にこぎつけるまでの崔承喜に寄せた私の想い「在日」の心の軌跡や動機の一端を綴る。

今から四十年前(1960年代)のことになるが、私は画家になる青雲の志を抱き絵筆を握っていた。その頃埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の宮町に山水園という焼肉屋が開店し、私はその祝いに招待された。店の造りは韓国風のインテリアでとても凝っていた。店主の林清哲(故人)氏が「河さん、この店には絵が一枚もないので淋しい。何か民族的な雰囲気の絵を描いてもらえないだろうか。」と頼まれた。当時、焼肉店で油絵を飾るというのは珍しく、無名の私に依頼されたのに驚かされた。

私はその時、朝鮮画報に載っていた崔承喜の写真から「杖鼓の舞」を描くことを約束した。十号の作品を書き上げたところ、林氏はとても気に入ってくれたようで「五万円の画料を払いたいが開店したばかりなので申し訳ないが三万円で勘弁してくれ。」と言って三万円をくれた。当時の私の月の収入は一万円、まして無名の私には破格の画料であった。これでしっかり勉強して将来名のある画家になれと言う励ましだと受け取り、その心遣いを有り難く思った。それにも増して認められた喜びは私に大きな力を与えた。

私のコレクションの中には崔承喜を描いた油絵二点と版画がある。私は新大久保駅近くにある「チロル」というカラオケスナックでよく遊んだ。ママは友人であり尊敬する白玉仙さん。十数年前(1980年代後半)のことである。「チロル」店内の壁面に一枚の絵が無造作に掛けられていた。煙草の煙で燻されたのか薄汚れ、照明をを落とした店内ではその絵がよく見えなかった。別に何ら気に留めてなかったものだが、ある時近づいてよく見てみた。チョゴリを着て長鼓を持った上半身の舞姿の絵であった。その絵は十号の油絵で1960年代に私が描いた崔承喜の「杖鼓の舞」と構図(私の絵は全身画)が似通っていた。

「白さん、この絵を譲って下さい。」と申し入れたところ、「ええ、いいわよ」といとも簡単に承諾してくれた。汚れを落としサインを見たところ、ハングルで「キム・チャンドク1967」と記されていた。それは1960年代、私が所属していた文芸同(在日朝鮮文芸芸術家同盟)の美術部長金昌徳(日本名・高橋進 1910~1983)の崔承喜の「長鼓舞」を描いた作品であったのだ。偶然でなく必然とも言える御縁を強く感じる絵との出会いとなった。

もう一枚の油絵は宋英玉(1917~1999)の作品である。晩年、白内障で苦しんでいた宋英玉は娘さんに伴われて我が家をよく訪ねて来た。後年、手術が成功し元気になったと快気の礼にと持参したのが崔承喜の「長鼓舞」(1981年作)の絵であった。その絵は金昌徳の「長鼓舞」の構図に似通っていた。どちらも上半身の長鼓舞を描いたものだが、顔の向きが左右に違うなど微妙に異なる構図であった。崔承喜に想いを寄せ、憧憬の念を持って描かれた作品なのだろう。宋英玉の重く沈静した画風にしては珍しく華やいだ世界であり救われるような作品だった。

版画は松田黎光(1898~1941-本名・正雄)の1940年作、「僧舞」と「剣舞」の二図である。鮮展参与となり帝展・文展にも出展し、江西双楹塚(こうせいそうようつか)壁画の模写を成し国民総力朝鮮美術家協会理事であった、鮮展初期以来の作家である。この年代、称賛を浴びていた崔承喜を安井曽太郎、小磯良平、梅原龍三郎、東郷青児、有島生馬、鏑木清方らが競って描いた。黎光も崔承喜をモデルにしてこの作品を制作したものと判断し私はこの絵をコレクションした。

私はシケイロスと交遊のあった北川民次の絵が好きだった。1998年、私は妻とメキシコ旅行に出掛けた。古代メキシコ文明、アステカ・マヤ文明の遺跡に興味もあったが北川民次の画風に影響を与えたシケイロスの壁画を見たかったからだ。巨匠シケイロスは1913年メキシコ革命に参加した。ヨーロッパの現代美術とメキシコの土俗的な伝統を結合させ国民(民族)的芸術を主張し力強い社会的表現をしたメキシコの画家である。

メキシコシティのアラメダ公園東端にある国立芸術院を訪ねた。白大理石の建物の外観はネオクラシックとアール・ヌーボー、内部はアール・デコ様式の折衷様式であり1934年に完成したものである。二階と三階の壁面にあるシケイロスの巨大で力強い作品に出会ったときは息を呑むような感動を受けた。そこにはメキシコを代表する世界的な画家、タマヨ、リベラ、オロスコらの作品も展示されており思いもかけぬ作品との出会いを喜んだ。

案内をしてくれた同院の学芸員に、私は日本から来た韓国人だと挨拶したところ「この建物には3500人収容の劇場がある。1940年には崔承喜の公演があった。」と紹介された。そのとき時空を超え、クラシカルで絢爛たるその劇場で民族の舞を踊っている崔承喜を想い描いただけで熱いものがこみ上げてきた。異郷のメキシコ人が崔承喜を知っていた、忘れないでいてくれたというだけで感激してしまった。メキシコの旅は思いがけず崔承喜の足跡を訪ねる印象深いものとなった。

1997年文芸協講座(在日韓国人文化芸術協会主催)に崔承喜の研究者、韓国中央大学校名誉教授の鄭昞浩先生を招いて「崔承喜の芸術と生涯」の講演をして頂いた。このことが御縁となり後日、先生が収集された崔承喜に関するスライドフィルムを拝見する機会を得た。

膨大なスライドを見せていただいた後に私は「先生、このフィルムを譲って頂けませんか?私の記念室がある光州市立美術館で崔承喜の足跡をパネルにして展示したい」と申し入れた。しかし先生は関心を持たれなかったのか、そのときは承諾して下さらなかった。

その後、1999年白香珠の舞踊公演の際に奥様と共に来日したとの連絡があり東京で会うこととなった。そこで「崔承喜の存在と足跡を知らしめたいという河さんの申し入れの意図と主旨がわかった。フィルムのコレクションをあなたに譲りましょう。」と言われた。私は諦め忘れていた事柄が思いもよらず叶ったことに先生の理解に感謝し喜んだ。

こうして山口卓治氏紹介によるサカタラボステーション株式会社の協賛でそのフィルム資料をパネル作品として製作することが出来た。古い時代の35ミリフィルム(原版からコピ-されたと思われる)からパネル化は困難を極めた。費用も嵩んだが一点一点修正しながらの手作業で最善を尽くしていただいたパネルは良い作品になったと思う。ソウルの演出家鄭秀雄氏は写真を、鄭昞浩先生は写真解説と年譜、そして写真フィルムを寄贈するにあたり、その動機を記した文を寄せて下さった。鄭先生は韓国が1987年に越北芸術家の復権措置が執られる以前から、韓国を代表する崔承喜研究の第一人者である。1995年には秀作「踊る崔承喜」を出版された。長年かかって集められた崔承喜の史料や資料、記事、写真などのコレクションは貴重なもので、その業績が評価されている。崔承喜写真展開催が成されることとなったのは、鄭先生の寛大なるご理解とご指導のおかげである。この紙面を借りて敬意と感謝の意を表する。

また資料収集にあたり国会図書館総務部長・大滝則忠、アジア資料課の富窪高志、文化センターアリランの幸野保典、秋田さきがけ新報社の佐川博之、舞台芸術プロデューサーの羽月雅人、舞踊家の白洪天ら各氏の御協力ご尽力を頂いた。また友人であるわらび座の茶谷十六氏は愛蔵のプロマイドを多数寄贈して下さった。心から感謝申し上げたい。

2003年2月9日、朝鮮中央通信が「祖国の光復と富強繁栄のための聖なる偉業に尽くした22人の烈士の遺骸が愛国烈士陵に新たに安置された」としてそれまで粛正説が流れ生死不明であった崔承喜の名を伝えた。崔承喜が北朝鮮で34年ぶりに名誉回復されたのである。最近、一緒に失脚した崔承喜の娘、安聖姫の墓の所在も近い内にはっきりするだろうとの話も出ているようだ。

崔承喜を知らない若者達に未来に誇りと夢を育む写真展になることを祈念してやまない。

〈火花の如く風のように・崔承喜誕生100周年記念展に寄せて〉

世界の文化芸術人から賛美賞讃され「半島の舞姫」と称された舞踊家崔承喜女史の生涯は、朝鮮と日本の歴史に翻弄された悲劇の、そして伝説の舞姫である。崔承喜(1911年11月24日―1968年8月8日)は朝鮮が生んだ世界舞踊史上に咲いた唯一無二の華であり、東洋の心を舞踊で表現した革新的にしてユニークな天才舞踊家であった。

今年は崔承喜生誕100年を記念して女史縁りの様々なイベントが国際各都市で計画されている。光州市立美術館所蔵河正雄コレクション特別企画「火花の如く風のように・崔承喜誕生100周年記念展」(会期2011年4月7日~6月19日)を開催する事となった。過酷であった韓日の歴史の狭間をどの様にして世界に認識されるまで芸術の境地を開拓したか、新しい芸術とは何か追及していった女史の足跡はドラマティックであり、多くの謎に包まれている。伝統的、民族的舞踊とモダンダンスをミックスした創作舞踊を発表した世紀の

舞踊家の記録写真(35mmのポジとネガ)を、崔承喜研究家鄭炳皓先生が収集したものを1999年、私はコレクションした。

これらの記録写真は70~80年前のもので当時の女史を記録した数少ない貴重なものである。このフィルムを印画紙にプリントして作品化、光州市立美術館に寄贈した。そして「舞姫・崔承喜写真展(会期2002年8月1日~10月20日)を開催した。

この展示を見た東京都庭園美術館学芸課長横江文憲(Yokoe Fuminori)氏はこう評論した。

「展覧会の会場に足を踏み入れて圧倒された。崔承喜の肉体が宙を舞い、その表現力の容易でない事を瞬間に感得する事が出来た。彼女の均整のとれた肉体、そこから溢れ出る躍動的なリズムは、見る者を彼女の舞踏の世界へと誘う。

1935年頃、崔承喜の人気は絶頂にあり、恩師石井漠は「彼女の一挙手一投足は、通常の人間の2倍の効果を上げる事が出来る。」と言い、川端康成は「他の誰を日本一というよりも崔承喜を日本一といいやすい。第一に立派な身体である。彼女の踊りの大きさである。力である。それに踊り盛りの年齢である。また彼女一人に著しい民族の匂いである。

文字だけでは、想像する事は出来ても実感として伝わってこない。真実は、それを映像として如実に提示する事が出来る。崔承喜の存在の重要さは、その事よりも遥かに高い次元にあり、正に波乱万丈なる人生を歩んだ事を教えてくれた。」と書いている

2003年、北朝鮮で名誉回復した女史は東アジアで再評価が進み、内外に反響を呼んだ事は周知の事である。

崔承喜著「朝鮮民族舞踊基本」(1958年平壌朝鮮芸術出版社刊)に記された文から女史の人格を窺う事が出来る。

「我が朝鮮舞踊芸術も今日、世界舞踊芸術の最高峰に立っ事の出来る栄光を持つ事になったと私は思います。我々の先祖が残してくれた美しい舞踊芸術を

受け継ぎ、世界舞踊芸術で価値あるものを広く受け入れ、新しいものを創造する事で我々は朝鮮舞踊芸術の新時代を開く事が出来ると私は見ています。

ここで発表する舞踊基本は、私が三十余年の間、舞踊生活をしながら我々の舞踊で失われたものを探し出し、弱いものは強くし、ないものは想像することで我が朝鮮舞踊芸術の復興をもたらして見ようと念願し、創作したものです。

誇り高い我が人民は、私がこの基本を作るにあたっても、立派な教師であり、また世界人民は立派な幇助者でありました。

私は我が国の津々浦々と、全世界数十力国を回り、広大な人民達の中で無尽蔵な舞踊の宝箱を見、私はそれを思い切り学ぶ事が出来たからです。

この本で発表される舞踊基本が、我が国舞踊芸術のより輝かしい未来のため、さらには世界舞踊芸術の大きな発展と多様性の為に少しでも寄与するなら我々にとって大きな幸せとなるでしょう。」

両班的高貴なる自尊心、天才的な文学、音楽の天恵が光る。芸術至上主義者、政治との芸術分離論者、東洋舞踊論者としての強固な思想が根底にある。韓国舞踊の基本動作を作定し、韓国の近代舞踊と現代舞踊を繋ぎ朝鮮の伝統にこだわらない、理想と方法によって新しい舞踊芸術を創造確立した根拠が、この書に良く表されている。

艶麗なる舞踊の影には血の滲む練成と精進がある。崔承喜の舞踊には喜びの中にも一抹の哀愁が漂っている。そこには朝鮮民族の匂いと生活感情が表れている。古きものを新しくして弱まったものを強め、滅びたものを甦らせ、東洋の大きな民族性を一層誇らしく生き生きとした息吹を誇示している。

芸術はイデオロギーを超える。崔承喜は世界的な芸術家である事を再認識す事が我々にとって有意義なことである。崔承喜の世界同胞主義を理解し、植民地時代の苦しい時代を生きた朝鮮人の自尊心を高めてくれた女史を今日的に再評価すべきである。

崔承喜の芸術活動の足跡と女史が生きた時代と民族史を知る事は我々にとって重要な事である。

崔承喜の芸術には未来に継承して行かねばならない民族的な精神と指標がある。在日に生きる私の指標は歳月に風化せずに超える女史の自尊心と衿持が憧憬としてあったからだ。

韓日併合から101年、省察と内省、回顧するこの記念展が女史の足跡の研

究と顕彰を促進させて、福音をもたらす事を祈念して止まない。

〈自尊心と誇りの為に〉

―出逢い―

1997年12月4日在日韓国人文化芸術協会(会長・河正雄〉主催で第4回文芸協講座を開いた。崔承喜研究者である鄭昞浩先生をソウルからお招きし「崔承喜の芸術と生涯」の講演をして頂いた。その講演会で白洪天氏と始めて出逢った。

1999年白洪天演出白香珠舞踊公演があった。父と娘が崔承喜舞踊の基本を継いで芸術の域に昇華している舞台であった。特に白香珠の「菩薩の舞」に感激、白洪天氏を近しく感じた。

2008年の事である。「北朝鮮に行って来た。崔承喜の写真や資料などを収集してきたので河さんに見て貰いたい。」と電話があった。しかし忙しさに紛れ、会う機会がなかなか見つからなかった。

2011年2月になって、光州市立美術館主催河正雄コレクション「火花の如く風のように一崔承喜誕生100周年記念展」開催にあたり、白洪天氏に案内の電話を入れたが通じなかった。

数日後、「今、ソウルで崔承喜誕生100周年記念舞踊公演の振付指導を2ヶ所で行っている。日本に帰ったらお会いしましょう。その時、収集した崔承喜の写真や資料をお見せしましょう。」と連絡があった.2011年4月26日、病院の帰り道だと言って白洪天氏が我が家を訪問した。

以前、お会いした時とは違い、足の運びが不自由であった。伺った所、御無沙汰している間に大病された。痛みを和らげる為、麻酔の注射を打って貰っているという今は、3つの病院を通院治療中との事だった。

―母の夢―

持参した旅行バッグの中から取り出した写真や資料を見せてくれながら、ご自身の生い立ちや、これまでの境涯を語ってくれた。

「母が20歳の頃、福島市で崔承喜の公演を見て、その舞台に感動した。その翌日、母は福島駅で偶然、崔承喜と出会った。当時はモンペや袴が普通の服装であった。タイトスカート、幅の広い大きなつばの白い帽子、崔承喜のモダンでハイカラな洋装が目を引いた。母も大柄な人であったが、人ごみのホームの中、際立って大きく見えた崔承喜が印象深かったという。」

母は白洪天に「お前が女だったら崔承喜みたいな踊り子になれば良いね」と一言した事が崔承喜に憧れて舞踊の世界に入る動機となったという。

―略歴―

白洪天1947年9月26日群馬県高崎市生まれ。父・白丁植(慶州出身

7歳の時に来日)、母・金福善の長男(一人息子)

現在、在日崔承喜舞踊研究院代表元白香珠舞踊企画代表

高崎市立東小学校、栃木朝鮮初中学校、東京十条朝鮮高校卒業

5歳の時から西川流日本舞踊の弟子となり(後に師範格水準となる)同時に西洋バレエを習う。

13歳の時から東京自由ヶ丘の石井漠門下、石井みどりに付いてモダンバレエを本格的に習う。

また10歳の時から朝鮮舞踊、崔承喜の踊りを教えていた趙鳳姫(1965年~66年ごろ帰国)先生から習った。

1958年12月から新潟に寄港した北への帰国船であったクリリヨン号(ソ連船)の中で、北朝鮮の舞踊の先生から3日間の停泊中、朝9時頃から夜11時位まで、崔承喜朝鮮民族舞踊を習得する為に何回も通った。

1962年北朝鮮の科学映画撮影所は崔承喜を総責任者として、「崔承喜朝鮮舞踊基本動作」を16mmフィルムで映画第1~4編を製作した。

そのフィルムが小平の在日朝鮮中央芸術団(朝芸)にあったので毎日、朝早くから夜遅くまで、そのフィルムを見ながら練習をした。

当時、そのフィルムの存在には誰も関心が無く、倉庫でフィルムはカビ付き痛みが進んでいた。持ち出して再生補修をしようと考えたが朝芸の所有物である為、断念した。

1968年には朝芸舞踊養成所で任秋子(在日の人民俳優)先生から崔承喜の踊りを3ヶ月間指導を受けた。

1983年、金剛山歌舞団を退団した。その年の秋、東京で崔承喜舞踊の基本を教える白洪天舞踊研究所を設立後、崔承喜民族舞踊基本動作の体系及び作品を中心に指導を積極的に行った。その後、フィルムは廃棄されたのか、誰かが持ち出したのか倉庫から消えていた。

―タブー―

1983年歌劇団退団までは人前で崔承喜の踊りを踊ることはタブーとされ、公的に踊る事が出来なかったが、基本動作をフィルムで学んでいて身に付いていた。そして多くの崔承喜関連の資料を集めながら、隠れて基本の踊りの研鎭を積んでいった。

1966年の高校卒業までは中央芸術団(金剛山歌劇団の前進)で崔承喜の踊りの基本を学んだ。68年頃になって、中央芸術団の演目に入っていた筈の崔承喜舞踊作品が理由もなく降ろされたが、その理由や原因を誰も口にする人はいなかった。

1974年27歳の時に結婚した。1977年、金剛山歌劇団の一員として初めて平壌公演に参加した。1977年より訪問する度毎に人民文化宮殿の練習所で100日間、舞踊のレッスンを受けた。

27歳の時に朴ヨンハック先生の指導を受けた。朴先生は1962年北朝鮮で製作された映画「崔承喜朝鮮舞踊基本動作」のモデルとして出演、当時20歳の若さであり大変恥ずかしかったと語った。朴先生も長年、崔承喜舞踊の基本をやっていなかったので、忘れてしまった物もあり、白洪天が基本を身に付け、守っていた事を認めてくれたので嬉しかった。

また平壌では崔承喜舞踊研究所直系弟子であるハン・ウナ、キム・ミラ、キム・ナギョン先生からも指導を受けた。当時、北朝鮮では崔承喜の話は一切タブーとされ、崔承喜に関する話は一切出来なかった。先生達は崔承喜の基本動作の踊りは指導してくれなかったが他の踊りを教えてくれた。しかし教えてくれた踊りは紛れもなく基本は崔承喜のものであった。

その時、崔承喜の名は出なくとも、白を赤に、赤を白にしたり政治や思想で芸術の基本や源流が変わるものではないと認識した。

1983年、毎日練習していたフィルムが劇団から無くなってしまった。ショックを受けたが、後に朝鮮総連群馬県本部の倉庫で、崔承喜の本や資料、そして捜していたフィルムが見つかった。それらを借り受けてVHSビデオで全編録画して所持している。

―名誉回復―

2003年9月朝鮮中央通信が「祖国の光復と富強繁栄の為の聖なる偉業を尽くした22人の烈士の遺骸が、愛国烈士陵へ新たに安置された」として生死不明であった崔承喜の名前を伝えた。それまで粛清説が流れていたが舞踊家同盟中央委員会委員長、そして人民俳優の肩書きと共に「1911年11月4日生・1969年8月8日逝去」と愛国烈士陵の崔承喜墓碑に刻まれていると報じた。

何故、崔承喜が表舞台から消えてしまったのか、そして突然の名誉回復は何故なのか不明である。死亡説など、そして死亡年月日の真実など未だ深い謎である。

―レポート―

在米女流画家・洪晶子が北朝鮮を訪問したレポート(1995年・女流画家の北韓訪問記)が2003年、朝鮮総連が発行する「統一評論」に掲載されている。

そのレポート取材の際、北朝鮮側のガイド役を務めたのがであった。舞踊家であり振付師として現在74歳になると思うが北の舞踊界トップの位置にいる。崔承喜の自宅に住み込み、崔承喜の足を洗ってあげたり、マッサージを施す程、身近にいた人物である。長年に渡り崔承喜の気質、風格、性質、しぐさや物腰を直接に見聞習得する事の出来た弟子である。

洪晶子記者が崔承喜についてに質問した所、「1975年頃、地方で亡くなった」と答えた事がレポートに記されている。

―ミステリー―

1966年、11月号「朝鮮芸術」という北朝鮮発行の機関誌に崔承喜の文が記載されている。1967年1月23日(アメリカ軍艦プエプロ号事件があった年)崔承喜一家が文化公演の名目でフランス文化省の招請を受け出国する際、亡命するという密告の為、順安(平壌)空港で逮捕された。

また一方、中国方面から聞いた話しでは、鴨緑江新義州の国境辺で捕らえちれ収容所送りになったという説もあるが、定かではない。

朝鮮の踊りを先生からも習った。先生は高校在学中60年代初めに大阪から北朝鮮に:渡った。先生は元山の高校在学中に崔承喜からスカウトされ、平壌に出て舞踊家になった。現在、である。「収容所の中で政治犯の暴動が起きた時に崔承喜も加担した為に銃殺されたようだ。」と平壌でその先生から聞いた。

その時代、環境的、精神的暴力に耐えながら、党であろうが政府であろうが、自己の芸術魂の主張を貫いた崔承喜の強靭な意思が伝わり、胸を刺す話である。

崔承喜が粛清された後、はそれを支持する批判会に座らされた。彼は何一つ弁明も批判もせず、じっと堪えていたという。

崔承喜粛清支持批判会で先頭に立って恩師を激しく批判した彼は2003年に崔承喜が名誉回復した後には、いち早く崔承喜を高く評価した。その転身には驚かされた。

これまでにかれこれ北朝鮮には60回ほど訪問したが、2009年からは入国許可が出なくなってしまったが、その理由は判らない。

―自己批判―

白洪天は1968年~69年の時、朝鮮総連から学習会で自己批判する様、強制を受けた。3ヶ月間、毎日、朝10時から夜10時までの12時間、総合批判の時にはグループ班を作り、生い立ちから、過去現在までの事を原稿用紙100枚に渡りある事ない事まで強制的に書かされた。そしてグループで自己批判を強要させられた。

白洪天の踊りの恩師と、また高校時代の教師まで同席させて、嘘八百を並べての批判には人倫や道徳・人権などは一切、存在しなかった。自尊心と誇り、人間の尊厳を傷っけられた事への痛恨無念の話に私は胸が詰まった。当時、私にも共有する苦い思い出があったからだ。

―収集品―

1967年迄の崔承喜創作舞踊音楽の原曲をリールテープに録音し30曲所持している。評論文筆家・久保覚(くぼさとる・1938年~1998年・在日二世・韓国名鄭京黙)から貰った「ヌードの踊り」「巫女の舞」「菩薩の舞」「明妃姫の舞」各1分ずつ、4分程のニューヨークでのフィルムを所持している。

千田是也監督、映画「半島の舞姫」の主題歌「郷愁の舞」、コロンビアから出したレコード原本からCD化した物を所持している。2005年、北朝鮮で1956年映画製作「扇の舞」の全曲5分の物と、「長鼓の舞」のフィルム5分の物を50万円で買い所持している。

また崔承喜の愛弟子李石芸(イ・ソゲ)創作主演・群舞「バラの花」約5分、鳳山仮面舞基本動作等も所持している。1946年7月越北後、1968年度までの崔承喜関連の記録、証言文、北朝鮮の有力新聞「労働新聞」「文学新聞」「民主朝鮮」「平壌新聞」「朝鮮芸術」等の雑誌、画報等に掲載された記事、写真、音声、論文等の資料を20年分収集しており、それらが段ボール箱に整理出来ずに入っている。

―国の文化財―

「白さん、あなたの収集した、それらの資料はどうなさるおつもりですか。体調も良くない様ですし、もう無理の効かない年齢にもなっている。それらの資料を、ただ持っているだけでは意味が無い。残し方を誤まればゴミとされてしまう危険性がある。私に寄託してもらえないだろうか。」と私は切り出した。

「資料類は古い物だから紙類は酸化も進み、デジタルデータとして永久保存出来るものを作り、アーカイブ化しなければならないと思う。私自身も、これまで沢山の資料を収集して来たが、これらは間違いなく歴史的資料であり記録、記憶の文化遺産である。

あなたの収集品と私の物とを併せて、私が関係する光州の朝鮮大学校か崔承喜の母校、淑明女子大学に寄贈し、学術的に研究して貰い、後世の為に崔承喜を顕彰し、活用保存して貰う様に役立てたいと思う。願わくば、国が文化財として、我々の意志を受けて貰えればと願っている。

これまで収集する為に費用もかかった事と思うので、必要であれば負担しましょう。」と私は寄贈する事を申し出た。

―守らなければならないもの―

「私は日本に於いて崔承喜を研究し、基本舞踊の第一人者と自認し、自尊心と誇りを持って生きて来た。1997年に河先生と初めてお会いした時から芸術、学術に深い造詣のある人であると尊敬の念を持って遠くから見つめていた。

寄贈にあたり国がお金を出してくれるならば受け取るが、基本的にお金は必要ない。生意気ではあるかもしれないが、私は人を見る目は慎重であり、物事に献身性があるか忠実であるかで判断し、自らもそういう哲学を持って行動し生きてきた。

人間とは底が見えないから、崔承喜に対する評価本質がこれまで埋もれて来たのだと思う。今まで私が収集した資料を世の前面に出す事は傲慢に当たるのではないかと思ってきた。だが河先生の考えならば出来るだろう。崔承喜の研究に対しての心意気と情熱は一致している。利害、損得関係を超越して100年先を見て、埋もれている歴史を掘り起こし、真実を守り創造する河先生の考えに共感した。全面的にお任せします。」と白洪天氏は応えた。

「2人とも、今生きている事の存在を確認出来た事は幸せな事である。私達の自尊心と誇りを守る為、あなたとの出逢いを後世の方々にも喜んで貰える様に残された人生を励みましょう。」と私は白洪天氏の手を握り締めた。

※文中、人権擁護に配慮し人名などを空欄にして非公開とした箇所があります事をご理解下さい。

(2011.4.26記述)

―崔承喜・李方子、英親王資料寄贈―

2012年5月25日、淑明女子大学校に私と白洪天氏所有の崔承喜に関する写真と記事、資料、書籍、広報物、メディア活字、ビデオテープ等、総718点を寄贈する事となった。白洪天氏の理解と英断と奉仕精神が結実した美談である。

2012年5月15日は淑明女子大学校対外協力処より「淑明女子大学校は2012年5月1日に寄贈された崔承喜関連資料を通して、今後、段階的に次の様に研究と作業を進める計画である」旨の崔承喜関連資料の活用計画書が届いた。

  • 寄贈された白洪天氏所有崔承喜資料に対しては「この資料は白洪天氏が河正雄氏に寄託されたものを河正雄氏が淑明女子大学校に寄贈したものである」という文言を表示する。
  • 淑明女子大学校アジア女性研究所に崔承喜研究の支店(分室)を作る。そして、崔承喜資料室を設ける。資料室では寄贈された資料目録を作成し、置く。又、資料の原本と複写本を配置する。
  • 寄贈された崔承喜資料に対し、理解と研究を助ける為に白洪天先生に資料解説、又は諮問を受け、崔承喜の舞の動作、伝授など多様なる活用方法を推進する。
  • 崔承喜作・朝鮮舞踊基本テープをCDに複写し、アジア女性研究所、崔承喜資料室に配置し、原本は淑明歴史館に保管する。
  • 2012年10月崔承喜研究国際学術会議を開催する。
  • 今後、崔承喜写真展を開催する。
  • 寄贈された資料を整理して“崔承喜資料集”を出版する。この為に前以て資料を検討する。崔承喜研究の小さな集まりをもつ。
  • 崔承喜研究の結果物は本として作す。この為に韓国研究財団、又は他機関の支援を受けるよう努力する。

 寄贈者としては活用計画書以外の諸条件を数々提議し、話し合った。崔承喜研究を進める為にあたりアジア女性研究所が研究の為のセンター的役割、そして主導的役割を果たされる事、この寄贈が導火線となって資料の充実が成され、研究発展する事を切に願うものである。

 私は当日合わせて李方子女史、英親王資料写真(211点、広報文類4点、メディア類1点、記事類25点、書籍類6点、原稿類3点、その他3点の計253点)を寄贈した。

 淑明女子大学校の敷地を李王家が寄贈され、李方子女史が淑明女子大学校総裁をもなされた由緒深き因縁に拠る事も理由であるが、淑明女子大学校より資料の寄贈要請が私にあったからである。