平昌パラリンピックでの勇姿高村和人さん(2018.3.17)

(「傘寿を迎え露堂堂と生きる」より抜粋)

2018年4月27日、板門店の平和の家で世界注視の南北首脳会談が開催された。解放後(終戦後)から3回目、10年6か月ぶりの会談であった。
北の金正恩委員長が38度線の分離線を簡単に越えられたとの所感を述べた。会って話し合う事がこんなにハードルが高く、統一の夢を遠ざけて来た歳月の虚しさが胸を掠めるが、希望ある再会である。
きっかけは平昌オリンピック南北合同チームによる参加であった。
これこそ本来のオリンピックの意義と役割が果たされたスポーツの祭典になったと喜んだ。
成功裡に終わり平昌オリンピックは平和の祭典となった。
誇らしさと未来への自信と希望が湧き上がって来るのを抑える事出来なかった。
その後に開催された平昌パラリンピックに日本初の視覚障碍者1名が参加した。
私の母校、秋田県仙北市立生保内中学校の後輩である、バイアスロン選手高村和人君(35歳)である。
2017年12月の母校創立70周年記念講演の際、佐川校長より高村君は私の教え子で母校の誇りであると知らされた。
平昌パラリンピックの期間中は彼の出る競技のテレビ中継を全て観戦し熱い声援を送った。
そして激励の書簡を送った。
「高村和人様
バイアスロン選手として2018平昌オリンピック(パラリンピック)に出場され優秀なる成績を上げられた事、敬意を表します。
平昌での貴君の青春は記念すべき記録として残ると思います。
私は在日韓国人です。縁あって小・中・高時代を生保内で過ごしました。
生保内中学9期生(1956年卒)で貴君と同窓です。
私の後輩が母国韓国でのパラリンピックに出場し、花を添えて下さった事が嬉しくてお便り致しました。
私は1982年、韓国光州広域市視覚障碍人連合会設立、そして会館設立発起人となり、1988年竣工し光州広域市に寄贈、今はその連合会名誉会長を務めております。
生保内中学校3年の時(1955年)、ヘレン・ケラー女史が日本訪問された時、その偉大さを知り憧憬を抱いた事、20歳の時に栄養失調で失明の試練を受けた体験などが、この様な人生を歩む事になったと思われます。
『生保内公園で基礎体力をつけたと思っている』と新聞記事で読みました。
私も良く遊んでいた公園、懐かしい故郷です。
貴君は『自分が活躍する姿を通じて障碍者達の社会参加を後押ししたい』と述べられ、教育者として後進を指導される事は公益に奉仕する事であると思います。崇高なものです。
これから押し寄せて来る試練を努力と研鑽を積まれ、世界の人々に夢と希望を分けて下さいます様エールを贈ります。
前途を祝し輝く事、幸せと御健康を祈念します。
2018年3月10日 河正雄」
パラリンピックが終り4月21日に高村君と会った。
白い杖を持って一人で私を待っていた。
スポーツ選手らしい機敏さと感覚を持って、盛岡駅構内は我が家の庭だと言って、昼食を摂る食堂へと自ら案内してくれたのだから恐れ入った。
偶然にも「盛岡冷麺」を食べようという事になった。
「平壌冷麺」が元祖であると教えたら、彼は「盛岡冷麺」が元祖であると答えたのには参った。
「今日は盛岡大学で講義をして来た。」と話されたので「スポーツの選手生活は短いけれど、教師は聖職で息が長いしごとだ。
君が体験し、身体で覚えたものは貴重である。
惜しみなく後輩達に教え伝え、勇気と希望を与えるメッセンジャーになれ。」
そして「今の社会は健常者が障碍者よりモラルや生き方の精神力が劣る様な気がする。
君が模範的なモデルになって健常者をもスポーツマンシップをもって教育力を発揮してリーダーになるよう。」と励ました。
「私が中学3年生の時(1955年)ヘレン・ケラー女史が日本に二度目の訪問したニュースを見た。
三重苦を克服して社会福祉に貢献した世界的聖者に私は憧れ、尊敬した。
私は戦前は日本人、終戦と同時に朝鮮人となった。
国交が無かった為に無国籍となり、民族的差別の対象者になってしまった。
国交が正常化し韓国人になったものの、国は南北に分断され同族争いを始めた。
以降、南だ、北だと同胞内で争い、差別し合う世界で生きて来た。
そして韓国内では全羅南道とか慶尚道だとか地域差別する。
日本では朝鮮人、韓国では親日派チョッパリ(在日に対する差別用語)と罵られ、四重五重の精神的苦痛の中、差別を乗り越えて在日を生きて来た。
母校秋田工業高校の4期上に、オリンピックに3回出場し金メダル5個を獲った体操選手の遠藤幸雄先輩がいる。
中学時代に秋田市内の福祉施設で過ごした過去があった。
最後に残した言葉は「感謝する事を忘れちゃならない」であった。
秋田で青春時代を過ごしたが、秋田をかけがえのない故郷だと思っている。
生保内中学校は今の私を育んでくれた母校であると誇りを持って生きて来た。」と語った。
すると「私が教職にある岩手県立盲学校(現盛岡視覚支援学校)は創立120年になります。
ヘレン・ケラーが慰問に来た資料が最近見つかりました。
きっと河さんが話された1955年だと思います。
資料が整理出来ましたら公開しますので是非見に来て下さい。」と言った
そして「河さんも目が見えなくなった時があると聞きましたが、その時の気持ちはどんなものでしたか?」と聞かれた。
「何もかも真黒で希望も夢も真黒でした。
運良く光が戻った時は世の中が明るい事、幸せの意味を知り、感謝の中で生きようと思いました。」と答えた。
「私は小学校5年の時に網膜色素変性症の難病で視力を失い、絶望も味わいましたが今は国の代表となってパラリンピックにも出場出来、妻の理解もあり子供も男の子二人に恵まれ生活も
安定して今は幸せです。
学校で若い人達に教える事が生き甲斐で楽しいです。
河さんのおっしゃる通り、機会があれば私の得たもの全てを分け与えたいと思います。」と同意してくれた。
「君は生保内、秋田県、いや日本を越えた世界の視覚障碍者の光になる人材である。
視野を世界に人類に貢献する人材である事を自覚し、活躍して欲しい。」と激励したところ、「そのように自覚しており憧れられる人になりたいと思います。」と即答され、その自覚と決意に触れ、頼もしさから高揚して私にも青春が戻って来るようだった。
ヘレン・ケラー訪問の記録が彼の務める学校にあった事は、私の人生にとっての出発点となる記憶の遺産であり共有する喜びでもある。

「寄稿」 継続は力なり

ー平昌パラリンピックを戦い終えてー

岩手県立盛岡視覚支援学校教諭  高村和人タカムラカズト

 今年3月に韓国で開催された平昌パラリンピックで、クロスカントリースキーとバイアスロンの2競技で計4種目に初出場しました。短いレースはクロカンの「スプリント・クラシカル」で1・5キロ、長いレースはバイアスロンの15キロです。

 中でもクロカンの10キロが一番印象に残っています。レースは3・3キロのコースを3周するものでした。最後の1周の急な登り坂で、頂上までもう少しというところ。動きが止まりそうになりました。疲れが貯まり、全身が思うように動かなくなっていたのです。そんな自分に「これまで何をやってきた」、「たくさんの方が応援してくれている」と檄を飛ばし、最後まで滑り抜きました。結果は大会の中で最も良かった11位。「全てを出し切れた」と思いました。

 最大7500人を収容するというスタジアムからの声援は、これまでの大会では味わったことのない大きさでした。スタートからゴールする瞬間まで、選手の姿が見える度に観客から「ワー」と歓声が上がります。大舞台に立っているという実感がものすごくありました。

 日本選手団の視覚障害選手は私1人でした。しかし、海外にはたくさんの視覚障害選手がいます。クロカンで今回、金メダルを3つ獲得した弱視のカナダのブライアン・マッキーバー選手はプロアスリートです。2010年のバンクーバー冬季五輪とパラでは両大会に代表として出場しました。また、全盲クラスで世界トップのスウェーデンの銀メダリスト、セバスチャン・モディン選手は経済大学に通いながらスキーをしています。

 実は、あるメダリストにお願いをして、金メダルを触らせてもらいました。とても重く大きかったです。点字で「ピョンチャン2018」と書かれていました。後から聞いた話ですが、リオのパラのメダルは振ると音が鳴ったそうです。

 私は今回、パラリンピックに選手として出場するという経験を通して、改めて継続することの大切さを知りました。

 元々私は野球などのスポーツが大好きでした。しかし、網膜色素変性症で徐々に視力と視野が落ちていき、中学2年生以降はスポーツから離れていました。職場の同僚に勧められて2011年にクロカンを始めました。最初は数メートル進んでは転んでの繰り返しでした。ゼロからのスタートでしたが、やめてしまおうとは思いませんでした。むしろ、「続けたい」と思ったのを覚えています。久しぶりに思い切りできるスポーツにめぐり合えてうれしかったのです。

 私は童話「うさぎとかめ」の「かめさん」が好きです。1歩1歩確実に進んでいく、そして最後にゴールに到達する姿がとてもいい。つらい時はこの童話を胸に、練習に取り組んできました。

 これまでに「高村先生だからできるんでしょ」と言われて、悲しくなったことがあります。でも、誰でも「できない」と線を引いた時点で可能性はなくなり、成長は止まると私は思っているからです。世界は想像しているよりも広く、また新たな発見がたくさんあります。活躍できる場所もたくさんあります。目が不自由だからこそ実際にその世界を体験して、感じてほしいのです。そのためには、勇気を出して1歩前へ。皆さんの心の中に挑戦する、あきらめない気持ちがあれば、必ず目標は達成できます。次世代を担う挑戦者たちが出てくるよう、心から願っています。

いくつもの山を越え

2020年1月14日

先日、私の母校・仙北市立生保内中学校の後輩である高村和人君から、早くも春が訪れた気持ちにさせられる電話をもらった。学校教育で優れた成果を挙げた教職員を対象とする「文部科学大臣優秀教職員表彰」を受けたというのだ。
岩手県立盛岡視覚支援学校教員の高村君は2018年、韓国・平昌で開催されたパラリンピックのノルディックスキー距離とバイアスロンの男子視覚障害に出場した。私は当時、彼が出る競技の全てをテレビで観戦し、次のような激励の書簡を送った。
「私は在日韓国人です。生保内中学9期生(1956年卒)で貴君と同窓です。母校の後輩が私の祖国韓国でのパラリンピックに出場した事を誇らしく思います。
生保内公園で基礎体力をつけたと新聞記事で読みました。私もよく遊んでいた公園です。また、自分が活躍する姿を通じて障碍者達の社会参加を後押ししたいとの言葉に感銘を受けました。
努力と研鎖を積まれ、これから押し寄せて来る人生の試練を糧に世界の人々に夢と希望を分けて下さい」
パラリンピックが終わり、高村君と初めて会うことになった。盛岡駅で白杖を手に待っていた彼は「駅構内は我が家の庭のようなものです」と言い、食堂へと案内してくれた。
盛岡大学で講義をした帰りだという彼に、私は「スポーツの選手生命は短いけれど、教職は聖職で息が長い仕事だ。君が身体で覚えたものは貴重だ。惜しみなく後輩たちに教え、勇気と希望を与えるメッセンジャーになってほしい」と励ました。

私が彼を応援するようになったのは、母校の後輩ということもあるが、私自身の体験も大きく影響しているように思う。
私は戦前は日本人、終戦と同時に朝鮮人となり、日韓の国交が正常化してからは韓国人になった。在日の間では南だ北だと同胞が争い、韓国では全羅南道とか慶尚道だとか出身地で差別をする。日本では朝鮮人、韓国ではパンチョッパリ(在日に対する蔑称)と罵られ、四重五重の精神的苦痛の中で生きて来た。
高卒後、就職差別で思うように職に就けず、日雇いで働きながら夜学に通い、過労と栄養失調で目が見えなくなったことがあった。幸いにして3カ月で視力は回復し、世の中の明るさと幸せの意味を知った。感謝の中で生きようと思うようになった。
苦難の中にいた当時、私を励ましたのはヘレン・ケラーの存在だった。彼女が3度目に来日した1955(昭和30)年、中学3年だった私は、三重苦を克服して社会福祉に貢献した聖者に憧れ、尊敬の念を抱くようになった。その後、一時的に目が見えなくなる経験をし、彼女を身近に感じるようになった。三重苦を乗り越えたその姿から、どんな苦労があっても生きる強さを学んだ。

私の身の上を聞いた高村君は「私が勤める盛岡視覚支援学校は創立120年になります。ヘレン・ケラーが慰問に来た資料が最近見つかりました。ぜひ見に来て下さい」と言った。そして、小学校5年の時に網膜色素変性症の難病で視力を失い絶望を味わったこと、今は国の代表としてパラリンピックに出場し、妻と男の子2人に恵まれて幸せなことを笑顔で語った。
「学校で若い人たちに教えることが生きがいです。私の得たもの全てを分け与えたいと思います」と力強く話す姿に接し、私の心にも青春が戻ってきたような気持ちになった。
今夏、いよいよ東京パラリンピックが開催される。高村君のように障碍をものともせず躍進する若人が集い、競技を通じて成長し、巣立っていくと思うだけで未来が楽しくうれしくなる。

博愛の人 ヘレン・ケラー(1880年-1968年)

―盛岡視覚支援学校訪問―

 私は2020年11月8日、山形県最上町の瀬見温泉で開かれた秋田工業高校昭和34(1959)年機械科卒の同級会(第32回M金砂会)に出席、9日には秋田市の母校新築竣工の学校及び同窓会の表敬訪問をした。

 4年ぶりのラグビー県大会優勝を祝い、10日には故郷田沢湖畔の姫観音、田沢寺の朝鮮人無縁仏の墓地清掃及び供養をして盛岡に向かった。

 11日、生保内中学校の後輩である高村和人先生が奉職する視覚に障害を持つ人達の為の学校、岩手県立盛岡視覚支援学校を訪問した。彼と2018年4月21日に交わしたヘレン・ケラーの足跡を訪ねる学校訪問の約束を果たす為であった。

 正面の校舎脇には「しばないせんせい」の胸像が新雪輝く南部富士(岩手山)を仰ぎ見て建っていた。高村先生が迎え入れてくれた玄関ホールには創立者柴内魁三先生の教育方針である「自分のことは自分でやれ 天を仰いで歩け」との木版の刻字額が掲げられていた。

 その脇に尊敬する憧憬の人ヘレン・ケラーのポートレートが掲げられていた。気品に満ちた、爛漫の美しさは聖女の名に相応しいと感じた。

 初代校長の柴内魁三(しばないかいぞう)先生(1879年-1966年)は1904年2月から始まる日露戦争に従軍し、翌年の奉天会戦に出兵、その時に両目に銃弾を受けて20代で失明された。戦後、盲目でも何か社会の為に出来る事はないかと考え、明治44(1911)年に私費を投じて市立岩手盲唖学校を設立し、校長に就任した。

 失明の不幸を苦にせず盛岡水道利用組合や盛岡消費組合、盛岡病院(現岩手県立病院)を設立した社会公共事業、身体障碍者支援者教育の父である。

 北島亨(きたじまとおる)副校長と高村先生が3階の歴史資料室に案内してくれた。創立100周年(2011年)の事業としてまとめ整理されたという苦闘の歴史資料が豊富に展示されており、その歩みは茨の道程であった事を知る。

 ヘレン・ケラーが学校訪問記念に植樹したドイツトウヒが1987年強風に倒れたという。その切木と「ヘレン・ケラー女史御手植」の顕彰柱が展示されていた。その樹は、その後に意志を継ぎ2代目が同じ場所に植樹されて今や大木となって育ち、その並木は存在を証明するだけの景観になっていた。

設置された顕彰板は針金のフェンスの内側にあり道路側から埋もれて見難かった。針金のフェンスが境界となり差別を意識する閉塞感を催し存在の影が薄く淋しく思った。都市景観に生かし歴史資料を輝かす事は社会の利益になると私の美感に関する情緒を述べた。

 高村先生が校内の臨床実習室、按摩実技授業室、マッサージ室、鍼、解剖学の授業を担当しているという実習室へと案内して下さった。「昨日も岩手大学で解剖の実習をして来た。」と話されたので「不自由な目で、どのように実習をするのか」と尋ねると、「人体の器官を実際に触れる事で覚えるのです。」と答えられ、息を飲んだ。

 私は校内を一巡して校長室で「私の一生の見聞で、これほどの施設、充実した教育環境の整った学校は見た事がありません。韓国も先進に学び努力せねばならないと決意しました。皆様の努力と英知と献身で私の誇りである高村先生を育まれ、愛されている事は感謝に堪えません。世の為、人の為に働けるよう

に教え、育ちますよう助けてやって下さい。」と訪問の所感を述べた。

―国際親善・秋田犬のプレゼント―

一息入れて雑談となった。「河さんが母校の生保内中学校創立50周年記念講演(1997年10月25日)を聞いておりました。その頃から私は視力が弱り始めていたのです。」そして唐突に「私は何故か秋田が好きなのです。何故なのでしょうね」と尋ねて来た。

 「それは山や川、湖、温泉があったから。友達がいて先生がいて、母校があり、親切な人達がいたからでしょう。韓国人の私でさえ秋田が好きなのだから、そこで生まれた君なら尚更の事。

 何故なのかは、私の年代まで生きればもっともっと判る事でしょう。今夜からでもふっと思い当たる事があるでしょう。その時には判った事を電話して下さい。」と答えた。

 ヘレン・ケラーが我らの好きな故郷秋田を訪ねている記録がある。我々が生まれる以前の事である。

『1937年6月12日、奇跡の聖女が酒田から羽越線で秋田入りしている。6月13日午前9時県記念会館に聖女を迎えて、県教育会大会を開き全県1200名の教員と県民等総数2000余名の聴衆の前で「平和への愛を光無き者に注げ」と講演された。日本と米国の人を結ぶ為に語った事が秋田とケラー女史との絆となったのだ。

 県記念会館にて話された記事を原文のまま紹介する。(秋田魁新聞1937年6月17日付)

「さうですね、今朝私が目覚めた時、山から来るすがすがしい大気に触れて、秋田がどんなに美しい街であるか、それを覚ることが出来た。

 それから此の町の人々の心いく許りなる親切さを私はすぐ感得することが出来ました。こうした自然と、こうした温かい人々に取り巻かれておるところの秋田は、おそらく誰も盲聾唖者に対して善き保護、よき助けの手を差伸べて彼らの教育、彼らの社会施設に惜しみなき努力が拂われているおることを私は思ふ。

 それから秋田犬について私は非常に興味を覚えております。其の秋田犬が餘りに可愛いから一匹アメリカへ持って帰りたいと思ふ。併し出来るかどうかこれからの問題ですが…

 私は犬が好きです。アメリカの自分の家には大きな犬が四匹いますが、四匹では足らぬと思っておる、純日本犬が欲しいと思っています。」

 その講演のニュースが流れて、大舘出身の秋田署巡査・小笠原一郎氏は愛犬である純粋秋田犬の牡犬「神風」を真心の国際親善プレゼントとして贈られた。「神風」はケラー女史に抱かれ海を渡ったのである。

 続いて1937年6月16日には秋田県立盲唖学校を訪問して盲唖生を激励した。』

―心眼を開いていれば不自由はない―

「世紀の二大奇蹟の一人はナポレオンであり、今一人はヘレン・ケラーである。」と岩手県立盲唖学校(現・岩手県立盛岡視覚支援学校)をヘレン・ケラー女史が訪問(1937年6月29日午後1時)した記事「心眼開いていれば不自由はない」(岩手日報1937年6月30日)を学校の歴史資料室で読んだ。

『柴内魁三校長が「ヘレン・ケラーには御不自由なお身体ではるばる万里の波頭をこえて四月御来朝、南は九州から北は北海道まで御旅行された。今日は態々当校においで下さって誠に有難い厚く御礼申し上げます。承れば之から朝鮮、満州にもこの愛をお分かち下さるさうですが酷暑の折御健康で御旅をつづけられます様に祈ります」と歓迎の挨拶を述べる。

「親しい生徒のみなさまたちよ、私はこんなに歓迎を受けて私の心は感激にふるえて居る、あなた方の心をこめた歓迎にお礼の言葉に困るくらいです。

私はあなた方の勇気に満ちた様子を見て嬉しいです。目が見えなくても耳が聞こえなくても心の目があいて居り、心の耳が聞こえるならば不自由なことはない。私の先生が私に明るい人生をつくってくれた様に、あなた方の先生もあなた方を幸福にしてくれるでせう。

私たちは決心さへつければ、やれぬことはない。頑張ってやらなければ不可ません。然し一人では不可ない、互ひに共力して手を握り合って幸福になりなさい。それではサヨーナラ。」と140余名の生徒を激励され校庭にドイツトウヒの木を植樹された。

その日の午後2時半からの婦人大会における歓迎会で8、9才の少女3名が1束ずつの花束を抱えて之を贈ると女史は喜びに居堪られず花束を抱き、その香を嗅ぎ少女の頬に熱い接吻を与えると少女はビックリ、入場の御婦人方もドッと笑い崩れるといふ風景。

女史は茶目っ気たっぷりに少女の頬を撫で可憐なお太鼓を結んだ帯まで撫で廻し次々に3少女にキスを与える。

そして「21才の家庭教師サリバン嬢が私の家に来られた翌朝、私の手に人形を下さった。そして私の手にDOLL(ニンギョー)と綴られました。

私はこの指の遊びが面白くて、それをマネてみると上手に綴れるようになりました。かくて水を覚え、ハットを覚え“考える”という事を知るようになった。私は大学時代、何を好んだかといへば文学でした。点字のタイプライターを打つ事は他の学生の邪魔になるので帰宅後にノートを取りましたがその結果驚くべき記憶力を養はれました。

 私は自分を不幸だと思っていません。却って幸福、友情、仕事を見つけることが出来た。婦人の人生、目的、使命ですか、一言でいへば、この地上に平和とよき心を打立てることが大きな使命です。

 私は暗の世界にいても怖いとは思はない。神様が常に私の傍らに居るから、最後にあなた方の全力を盲聾唖者為にお尽くし下さるようにお願ひ致します。」と盲唖生を激励する講演を行った。

「心眼が開いていれば決して不自由ではない」と女史の哲学をふりしぼるやうな声で、身体を卓上に乗り出して傳へる。最前列に座って聞いている盲目の人々が、一様に注視を向けて女子の姿を射すくめた。

講演が終わると感極まった満場は割れるやうな拍手をしばし送り、柴内魁三盲唖学校長が閉会を述べてあとも、ケラー女史が立ち去るまで席を離れず女史が演壇近くまで寄せた子供たちの間を泳ぐやうに退場すると初めて人類最大の教訓に酔うた足を運んで散会した。尚、女史は30日午前9時半発列車で仙台に向かふ』と報じている。

―20世紀全記録―

その1週間後の1937年7月7日盧溝橋で謎の発砲事件起きる。陸軍、ついに華北へ派兵。日中全面戦争へ。「20世紀全記録」(講談社刊539ページ)の文である。

『「奇跡の人」来日

財布を盗まれた女史に全国から詫び状、続々
 4月15日 盲・聾・啞の三重苦を克服した「奇跡の人」ヘレン·ケラーが来日した。夕刻帝国ホテルに入ったケラーは、かねてから親交のあった盲目の社会事業家岩橋武夫と,腕を組んで記者会見にのぞんだ。

 全世界身障者の慈母と敬愛されていたケラーは、 かたわらの女性秘書と手話を交わすと立ち上がり、かすれ声ながら日本国民へのメッセージを自ら述べた。
 「美しき日本よ、私は船からここまで美しい歓迎を受けました。感謝の言葉を知りません。……私はこの美しい国の身体の不自由な人たちのためにささやかな仕事を始めたいと存じます。……ああ、サンキュー、アリガト」
 ケラーは翌日天皇と会い、盲目の音楽家宮城道雄と講演会にも出席。滞日期間中は全国各地で大歓迎を受け、日本に初めて身障者対策の必要性を呼び起こす。
 訪日直後,ケラーの250円入りの財布と貴重な住所録が盗まれたニュースが伝えられると,無名の中年男性が宿舎に同額の現金を届け、全国から小学生を含む詫び状が多数送られてきた。これに感激したケラーは、250円を身障者事業に用いてほしいと寄付、そのことがさらにケラーへの歓迎,尊敬を高める結果となる。』

 三重苦の博愛の伝道者が日本や朝鮮、満州を廻り、身障者を慰問激励して友好交流に献身している時に、一方では日中戦争に突入する愚行を犯し、2年後の1939年には第2次世界大戦勃発、そして更に2年後の1941年には米国との戦端が開かれ太平洋戦争に突入した。ヘレン·ケラーはどんなに心を痛めた事だろうか。

1945年に終戦を迎え悲惨な歴史を残す事となった。戦後76年の今も、その後遺症は残り、傷は疼き、葛藤は続く。多くの不幸が癒されない世界である。

 ヘレン·ケラーは私の小、中学生時代にも訪問し、戦前に変わらぬ博愛を日本国民に届け、励まし勇気づけ、社会奉仕の一生を続けた聖女であった。

 今また襲って来た世界の難局、新型コロナ災禍を乗り越えるには今こそヘレン·ケラーの博愛の精神、その足跡を回顧復習して、誠心を以って我々は答える事で、この試練を乗り越えなければならない。人間は忘却する動物である。ウイルスが学びの時を人類に与えたのだと、この旅を通して私は学んでいる。


(菊地正志さん紀行写真 2020年11月9日~11日)