博愛の人 ヘレン・ケラー(1880年-1968年)

―ヘレン·ケラーの光から―

ヘレン·ケラーは盲聾唖三重苦の障害者である。秋田での青春期の道筋に光を照らしてくれた尊敬する人である。

秋田工業高校には生保内(現田沢湖駅)から秋田市まで、片道3時間の汽車通学をした。その時、途中駅から乗り込んだ秋田市の盲聾唖学校に通う生徒達と友達になった。私は彼らから屈託のない明るさと遅しい精神力に励まされ、勇気付けられた。

1981年韓国光州市に盲人福祉協会の設立と会館創設を発起した。その発心のルーツが秋田での障害者達との出会いによるものである。当時、韓国は軍事政権下で自由や民主のない暗黒の時代であった。

そんな中、盲人福祉発展に奔走した私に、韓国社会は政治的意図を持った在日韓国人のスパイである、また弱者を利用して金儲けと売名を企む詐欺師、偽善者であるとレッテルを貼った。

しかし時が経ち、韓国は民主国家となった。光州の盲障害者2人と始めた協会は今や千数百人の会員を有する組織となった。会館が手狭となり、2008年に新築する事となったのだが、私の誠意と善意が通ずるまでには20数年間もの月日を要した。

その間、日本人でも韓国人でもない在日韓国人が海を越え、奉仕する事は容易い事ではなかった。私は真拳なる誠意と忍耐を以って、3倍、5倍もの努力を重ねて無償の愛を届け続けて、在日のハンディを乗り越えた。

この福祉事業に携わって、在日韓国人は韓日の狭間で三重苦に苦しむ生活者である事を痛感した。

この難行を乗り越える事が出来たのは、ヘレン·ケラーが辛苦の果てに掴んだ光、それは忍耐と努力に尽きるという励ましのおかげによるものだ。

―盛岡視覚支援学校訪問―

 私は2020年11月8日、山形県最上町の瀬見温泉で開かれた秋田工業高校昭和34(1959)年機械科卒の同級会(第32回M金砂会)に出席、9日には秋田市の母校新築竣工の学校及び同窓会の表敬訪問をした。

 4年ぶりのラグビー県大会優勝を祝い、10日には故郷田沢湖畔の姫観音、田沢寺の朝鮮人無縁仏の墓地清掃及び供養をして盛岡に向かった。

 11日、生保内中学校の後輩である高村和人先生が奉職する視覚に障害を持つ人達の為の学校、岩手県立盛岡視覚支援学校を訪問した。彼と2018年4月21日に交わしたヘレン・ケラーの足跡を訪ねる学校訪問の約束を果たす為であった。

 正面の校舎脇には「しばないせんせい」の胸像が新雪輝く南部富士(岩手山)を仰ぎ見て建っていた。高村先生が迎え入れてくれた玄関ホールには創立者柴内魁三先生の教育方針である「自分のことは自分でやれ 天を仰いで歩け」との木版の刻字額が掲げられていた。

 その脇に尊敬する憧憬の人ヘレン・ケラーのポートレートが掲げられていた。気品に満ちた、爛漫の美しさは聖女の名に相応しいと感じた。

 初代校長の柴内魁三(しばないかいぞう)先生(1879年-1966年)は1904年2月から始まる日露戦争に従軍し、翌年の奉天会戦に出兵、その時に両目に銃弾を受けて20代で失明された。戦後、盲目でも何か社会の為に出来る事はないかと考え、明治44(1911)年に私費を投じて市立岩手盲唖学校を設立し、校長に就任した。

 失明の不幸を苦にせず盛岡水道利用組合や盛岡消費組合、盛岡病院(現岩手県立病院)を設立した社会公共事業、身体障碍者支援者教育の父である。

 北島亨(きたじまとおる)副校長と高村先生が3階の歴史資料室に案内してくれた。創立100周年(2011年)の事業としてまとめ整理されたという苦闘の歴史資料が豊富に展示されており、その歩みは茨の道程であった事を知る。

 ヘレン・ケラーが学校訪問記念に植樹したドイツトウヒが1987年強風に倒れたという。その切木と「ヘレン・ケラー女史御手植」の顕彰柱が展示されていた。その樹は、その後に意志を継ぎ2代目が同じ場所に植樹されて今や大木となって育ち、その並木は存在を証明するだけの景観になっていた。

設置された顕彰板は針金のフェンスの内側にあり道路側から埋もれて見難かった。針金のフェンスが境界となり差別を意識する閉塞感を催し存在の影が薄く淋しく思った。都市景観に生かし歴史資料を輝かす事は社会の利益になると私の美感に関する情緒を述べた。

 高村先生が校内の臨床実習室、按摩実技授業室、マッサージ室、鍼、解剖学の授業を担当しているという実習室へと案内して下さった。「昨日も岩手大学で解剖の実習をして来た。」と話されたので「不自由な目で、どのように実習をするのか」と尋ねると、「人体の器官を実際に触れる事で覚えるのです。」と答えられ、息を飲んだ。

 私は校内を一巡して校長室で「私の一生の見聞で、これほどの施設、充実した教育環境の整った学校は見た事がありません。韓国も先進に学び努力せねばならないと決意しました。皆様の努力と英知と献身で私の誇りである高村先生を育まれ、愛されている事は感謝に堪えません。世の為、人の為に働けるよう

に教え、育ちますよう助けてやって下さい。」と訪問の所感を述べた。

―国際親善・秋田犬のプレゼント―

一息入れて雑談となった。「河さんが母校の生保内中学校創立50周年記念講演(1997年10月25日)を聞いておりました。その頃から私は視力が弱り始めていたのです。」そして唐突に「私は何故か秋田が好きなのです。何故なのでしょうね」と尋ねて来た。

 「それは山や川、湖、温泉があったから。友達がいて先生がいて、母校があり、親切な人達がいたからでしょう。韓国人の私でさえ秋田が好きなのだから、そこで生まれた君なら尚更の事。

 何故なのかは、私の年代まで生きればもっともっと判る事でしょう。今夜からでもふっと思い当たる事があるでしょう。その時には判った事を電話して下さい。」と答えた。

 ヘレン・ケラーが我らの好きな故郷秋田を訪ねている記録がある。我々が生まれる以前の事である。

『1937年6月12日、奇跡の聖女が酒田から羽越線で秋田入りしている。6月13日午前9時県記念会館に聖女を迎えて、県教育会大会を開き全県1200名の教員と県民等総数2000余名の聴衆の前で「平和への愛を光無き者に注げ」と講演された。日本と米国の人を結ぶ為に語った事が秋田とケラー女史との絆となったのだ。

 県記念会館にて話された記事を原文のまま紹介する。(秋田魁新聞1937年6月17日付)

「さうですね、今朝私が目覚めた時、山から来るすがすがしい大気に触れて、秋田がどんなに美しい街であるか、それを覚ることが出来た。

 それから此の町の人々の心いく許りなる親切さを私はすぐ感得することが出来ました。こうした自然と、こうした温かい人々に取り巻かれておるところの秋田は、おそらく誰も盲聾唖者に対して善き保護、よき助けの手を差伸べて彼らの教育、彼らの社会施設に惜しみなき努力が拂われているおることを私は思ふ。

 それから秋田犬について私は非常に興味を覚えております。其の秋田犬が餘りに可愛いから一匹アメリカへ持って帰りたいと思ふ。併し出来るかどうかこれからの問題ですが…

 私は犬が好きです。アメリカの自分の家には大きな犬が四匹いますが、四匹では足らぬと思っておる、純日本犬が欲しいと思っています。」

 その講演のニュースが流れて、大舘出身の秋田署巡査・小笠原一郎氏は愛犬である純粋秋田犬の牡犬「神風」を真心の国際親善プレゼントとして贈られた。「神風」はケラー女史に抱かれ海を渡ったのである。

 続いて1937年6月16日には秋田県立盲唖学校を訪問して盲唖生を激励した。』

―心眼を開いていれば不自由はない―

「世紀の二大奇蹟の一人はナポレオンであり、今一人はヘレン・ケラーである。」と岩手県立盲唖学校(現・岩手県立盛岡視覚支援学校)をヘレン・ケラー女史が訪問(1937年6月29日午後1時)した記事「心眼開いていれば不自由はない」(岩手日報1937年6月30日)を学校の歴史資料室で読んだ。

『柴内魁三校長が「ヘレン・ケラーには御不自由なお身体ではるばる万里の波頭をこえて四月御来朝、南は九州から北は北海道まで御旅行された。今日は態々当校においで下さって誠に有難い厚く御礼申し上げます。承れば之から朝鮮、満州にもこの愛をお分かち下さるさうですが酷暑の折御健康で御旅をつづけられます様に祈ります」と歓迎の挨拶を述べる。

「親しい生徒のみなさまたちよ、私はこんなに歓迎を受けて私の心は感激にふるえて居る、あなた方の心をこめた歓迎にお礼の言葉に困るくらいです。

私はあなた方の勇気に満ちた様子を見て嬉しいです。目が見えなくても耳が聞こえなくても心の目があいて居り、心の耳が聞こえるならば不自由なことはない。私の先生が私に明るい人生をつくってくれた様に、あなた方の先生もあなた方を幸福にしてくれるでせう。

私たちは決心さへつければ、やれぬことはない。頑張ってやらなければ不可ません。然し一人では不可ない、互ひに共力して手を握り合って幸福になりなさい。それではサヨーナラ。」と140余名の生徒を激励され校庭にドイツトウヒの木を植樹された。

その日の午後2時半からの婦人大会における歓迎会で8、9才の少女3名が1束ずつの花束を抱えて之を贈ると女史は喜びに居堪られず花束を抱き、その香を嗅ぎ少女の頬に熱い接吻を与えると少女はビックリ、入場の御婦人方もドッと笑い崩れるといふ風景。

女史は茶目っ気たっぷりに少女の頬を撫で可憐なお太鼓を結んだ帯まで撫で廻し次々に3少女にキスを与える。

そして「21才の家庭教師サリバン嬢が私の家に来られた翌朝、私の手に人形を下さった。そして私の手にDOLL(ニンギョー)と綴られました。

私はこの指の遊びが面白くて、それをマネてみると上手に綴れるようになりました。かくて水を覚え、ハットを覚え“考える”という事を知るようになった。私は大学時代、何を好んだかといへば文学でした。点字のタイプライターを打つ事は他の学生の邪魔になるので帰宅後にノートを取りましたがその結果驚くべき記憶力を養はれました。

 私は自分を不幸だと思っていません。却って幸福、友情、仕事を見つけることが出来た。婦人の人生、目的、使命ですか、一言でいへば、この地上に平和とよき心を打立てることが大きな使命です。

 私は暗の世界にいても怖いとは思はない。神様が常に私の傍らに居るから、最後にあなた方の全力を盲聾唖者為にお尽くし下さるようにお願ひ致します。」と盲唖生を激励する講演を行った。

「心眼が開いていれば決して不自由ではない」と女史の哲学をふりしぼるやうな声で、身体を卓上に乗り出して傳へる。最前列に座って聞いている盲目の人々が、一様に注視を向けて女子の姿を射すくめた。

講演が終わると感極まった満場は割れるやうな拍手をしばし送り、柴内魁三盲唖学校長が閉会を述べてあとも、ケラー女史が立ち去るまで席を離れず女史が演壇近くまで寄せた子供たちの間を泳ぐやうに退場すると初めて人類最大の教訓に酔うた足を運んで散会した。尚、女史は30日午前9時半発列車で仙台に向かふ』と報じている。

―20世紀全記録―

その1週間後の1937年7月7日盧溝橋で謎の発砲事件起きる。陸軍、ついに華北へ派兵。日中全面戦争へ。「20世紀全記録」(講談社刊539ページ)の文である。

『「奇跡の人」来日

財布を盗まれた女史に全国から詫び状、続々
 4月15日 盲・聾・啞の三重苦を克服した「奇跡の人」ヘレン·ケラーが来日した。夕刻帝国ホテルに入ったケラーは、かねてから親交のあった盲目の社会事業家岩橋武夫と,腕を組んで記者会見にのぞんだ。

 全世界身障者の慈母と敬愛されていたケラーは、 かたわらの女性秘書と手話を交わすと立ち上がり、かすれ声ながら日本国民へのメッセージを自ら述べた。
 「美しき日本よ、私は船からここまで美しい歓迎を受けました。感謝の言葉を知りません。……私はこの美しい国の身体の不自由な人たちのためにささやかな仕事を始めたいと存じます。……ああ、サンキュー、アリガト」
 ケラーは翌日天皇と会い、盲目の音楽家宮城道雄と講演会にも出席。滞日期間中は全国各地で大歓迎を受け、日本に初めて身障者対策の必要性を呼び起こす。
 訪日直後,ケラーの250円入りの財布と貴重な住所録が盗まれたニュースが伝えられると,無名の中年男性が宿舎に同額の現金を届け、全国から小学生を含む詫び状が多数送られてきた。これに感激したケラーは、250円を身障者事業に用いてほしいと寄付、そのことがさらにケラーへの歓迎,尊敬を高める結果となる。』

 三重苦の博愛の伝道者が日本や朝鮮、満州を廻り、身障者を慰問激励して友好交流に献身している時に、一方では日中戦争に突入する愚行を犯し、2年後の1939年には第2次世界大戦勃発、そして更に2年後の1941年には米国との戦端が開かれ太平洋戦争に突入した。ヘレン·ケラーはどんなに心を痛めた事だろうか。

1945年に終戦を迎え悲惨な歴史を残す事となった。戦後76年の今も、その後遺症は残り、傷は疼き、葛藤は続く。多くの不幸が癒されない世界である。

 ヘレン·ケラーは私の小、中学生時代にも訪問し、戦前に変わらぬ博愛を日本国民に届け、励まし勇気づけ、社会奉仕の一生を続けた聖女であった。

 今また襲って来た世界の難局、新型コロナ災禍を乗り越えるには今こそヘレン·ケラーの博愛の精神、その足跡を回顧復習して、誠心を以って我々は答える事で、この試練を乗り越えなければならない。人間は忘却する動物である。ウイルスが学びの時を人類に与えたのだと、この旅を通して私は学んでいる。


(菊地正志さん紀行写真 2020年11月9日~11日)