「私のルーツ」

〈父の肖像〉

潮のように引いては打ち寄せる、そして泉のように湧き出ずる母校の思い出。ほろ苦く、切なく、やるせなかった青春期の感傷もまんざらではなかった。今、六〇代の生を歩むものには、郷愁となって懐かしさが募るばかりだ。

私の処女出版『望郷-二つの祖国』に、中学時代からの親友、直木賞作家の西木正明君が一文を寄せてくれた。

「人間の記憶には二種類あって、時間の経過と共に薄れていく記憶と、逆に過去を埋め尽くす渺々たる時間の中で、ますます輝きを強める光芒のような記憶がある」

という書き出しで始まる。それは

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ去ることの虚しさよ」

で始まった菊田一夫作『君の名は』のナレーションが同時に甦り、重なる。〈忘却〉など、我が辞典にはないと言えるほど、母校の〈記憶〉は今も新鮮で温かい。

私が秋田工業高校に入学した理由は、ラグビーの名門校、質実剛健の校風への憧憬もあったが、就職が目的であり社会に出た際に、働いてお金を稼ぐための役立つ技術を身につけたいという単純な動機からである。当時我が家には、ラジオも冷蔵庫もなかった。日々の生活の切実さから、貧乏からの解放、そして、もっと良い世界へ行きたいという願望、現実的な考えが入学に繋がった。私の入学式の日の記念写真に、父の肖像が一枚だけアルバムに残されている。息子の晴れの日に、唯一人だけノーネクタイのジャンパー姿、労働着で写っている。私はその姿を見る度に、父母の愛の有り難さに頭が下がる。

生保内から秋田まで三年間、片道三時間、往復二〇〇キロの列車通学したことは、良い思い出である。蒸気機関車の躍動は心臓の鼓動のように感じ、日々生きているという実感を味合わせてくれたからだ。

「雨にも負けず、風にも負けず…そういうものに私はなりたい」

と祈りながら、生きた実感を味わったことは、誰よりも果報者であったと思う。

〈恩師〉

私は中学時代から、絵を描くことの楽しさに目覚めていた。

高校に入学して絵画部に入ろうとしたが、当時、部はなかったので、担任であった松田幸雄先生に部創設の相談をした。級友からは「絵画部は質実剛健の校風にそぐわない」「女々しい」と蔑まれたが、すぐさま三〇余名の入部者が集まった。当時、全校で女子学生は三名いたのだが、その全員が入部したものだから、全校生の羨望の的になったものだ。

一九八六年、松田先生が母校の一九代校長に就任されたので、表敬訪問をしたことがある。その時、絵画部部室に案内された。五〇坪以上もある部室で制作に勤しんでいる後輩を見た時、誇らしさと嬉しさを隠すことが出来なかった。私の時代には、一〇坪にも満たない物置のような部室であったからだ。絵画部創設は工業高校でありながら、文化部が活性化する時流を作り、部活動全体の評価を高める実績を挙げ得たと、今も誇りに思う。部長を引き受けて下さった斉藤靖雄先生は、卒業後も毎年年賀状に干支を描いて送って下さり、亡くなられるまで私を励まして下さった。その証は額装されて、我が家で今も私を見守り私の心の糧となっている。

一九五九年、この年は鍋底景気と称される大不況で、卒業間際まで私は就職が決まらなかった。担任の青海磐男先生は品川にある、母校の先輩が経営する会社を就職先に決めて下さった。数年経って、その時の身元保証人が第九代大井潔校長であったことを打ち明けられた。それまで大井校長の存在を私は知らなかった。影で支えて下さった恩師と、母校の温かい配慮を有り難く思ったことを、私は生涯忘れられない。

卒業式間近になった頃、青海先生は

「君の卒業証書のことだが、本籍と本名をどう書けばよいのか」

と尋ねられた。人生は転機、節目があるものだ。私は本籍を〈朝鮮〉、本名は通名の河本正雄ではなく〈河正雄・ハジョンウン〉と書いて下さいと即座に答えた。

私が生まれた一九三九年は、第二次世界大戦が勃発し、創氏改名が法制され、徴用(強制連行)が法的に施行された歴史的な年である。戦争と植民地政策の苦痛の中で、祖国の運命に翻弄されながら、その歴史と記憶を忘れず平和に拘り続けて生きてきた。社会に出たら、朝鮮人としての〈根〉を隠さず、人間的に文化的に生きていこうと、人格宣言をしたのが母校の卒業証書である。

母校が「一人一人の人格の完成につとめ、全地球的観点から人類の幸せのために、日本や国際社会に貢献し、工業界の発展に寄与する人間の育成」を教育目標に掲げていることは、頼もしいかぎりだ。世界に迎えられ、世界に雄飛する人材の育成に挑む教育理念を持ち、発展していく我が母校を誇りに思っている。

〈戸籍謄本〉

半世紀前の一九五八年、私は秋田県立秋田工業高校三年生であった。

その年の一学期末、学校から、卒業後の就職の試験を受けるために戸籍謄本の提出を求められた。

それまでは、外国人登録証明書の提出だけで身分の証明をしてきたので、戸籍謄本の提出を求められる事に戸惑いを覚えた。それまで、父母から戸籍謄本なる存在を全く知らされずに育ち、日本での生活において提出を求められたのは、初めてのことだったからだ。

そのことが、日本社会に出る最初の関門と試練になり、私自身のルーツ捜しの旅となった。

戸籍謄本を取り寄せるために駐日韓国大使館、そして韓国民団を訪ね、さほど障害もなく取り寄せることが出来た。しかし、届いた謄本の内容に問題があった。

謄本に記載されている私の名は〈正雄〉ではなく〈政雄〉となっていたことと、弟二人が戸籍に載っていなかったことである。

父母に聞いてみたところ、私の名については、光復前(戦前)に人に頼んで行なったので、間違えたのだろう。弟二人の戸籍は、光復後(終戦後)のどさくさで頼む人もいなかったので、戸籍に載せられなかったという。無責任といえば無責任ではあるが、父母の言うとおりで、生活に追われ、それどころではなかったのだろう。我が家の戦後の生活状況は、日々切迫していたから私には理解することが出来た。

戸籍の不備を直すために書類を整理して、手続きを終えるまでには半年以上もかかった。学校から推薦を受け、日本を代表する大企業の試験を受けるべく、私はその謄本を提出した。

しかし、試験のチャンスは一度も与えられなかった。要するに門前払いを受けたのである(私はそう思っている)。その時私は、日本の大企業には韓国(外国)人である理由、戸籍条項による就職差別、民族差別があるのだと初めて悟らされた。その不条理に私は激しい憤りを覚えたが、一介の高校生である私には抗う術もなかった。つい最近まで、日本社会には、外国人に対する差別条項は就職差別のみならず、金融や保険、住居や教育など二八〇以上の分野に及んでいたのである。

このような事情で、学友は就職先が決まっていたのだが、私は卒業の間際まで進路が決まらずにいたのである。

卒業証書は、自分のアイデンティティーとルーツに目覚めた私の原点であり、岐路となった。卒業の日一人で上京し、自力で人生の船出をした。それが私の二〇歳までの人生の行路である。

〈族譜〉

今から三〇数年前の一九七〇年始めのこと、我が家に一本の電話があった。

「私は河南斗という者だ。霊岩から来た者だが、正雄さんのお父さんやお母さんを良く知っている。一度、正雄さんに会いたいと思い東京にきた」

と言った。故郷霊岩からの、初めての血脈が繋がる方との出会いである。

河南斗氏は日本語を流暢に話され、重量感のある大人の風格を持った人柄を感じさせる人だった。

「私は河家の族譜を補充補完し、新たに作ろうとしている。日本にいる河家の子孫たちを訪ね歩き、調べているのだ」

と言われた。

「東京の河徳成氏や、京都の河炳旭氏を知っているか」

と尋ねられた。しかし、故郷とも在日の縁故とも断絶して生きていたこの時点では、知る由もなかった。

後日、その方々を知ることになるのだが、日本で成功を収め、名を馳せている人物であった。その時、河南斗氏が河家の族譜の一冊を見せ

「これは大事なものだ。君にお土産として持ってきた」

と言って下さった。その時まで私は、族譜なる存在すら知らなかったのだ。

〈故郷〉

河家の族譜を始めて目にして、震える心で私のルーツを確認した。そこに記されていた厳粛なる河氏の血脈の事実に、ただ圧倒されるばかりであった。

その翌年、青森八戸市で、姻戚筋にあたる金義男氏の長男・性植の結婚式で河南斗氏と再会した。式を終え、夜行列車で共に東京に帰ることになったが、周囲から霊岩での指導者的人物の一人であること、実業家としても並々ならぬ人物であることを確認させられた。

その時河南斗氏は

「正雄さん、歓迎するから、霊岩に一度遊びに来なさい」

と一族の長老として、我が子を諭すように話された。

それまで父母は、日常で霊岩の事に触れたことはなく、故郷を訪れようと話したこともなかった。河南斗氏の誘いの言葉は、霊岩と祖先が呼んでいるように思えて、私の胸に急速に熱くなり、霊岩が近くなった。当時、日本での生活は困難を極め確立していなかったから、故郷に帰るなど父母には夢にも考えられなかったのが実態で、父母の心中は誰よりも私にはわかる。

それ以来、父は故郷霊岩に帰りたいと、朝な夕なに泣きながら訴えるようになった。そこで母を説得し、霊岩を父母と共に訪問することとなったのである。父母にとっては、夢にまで見た四二年ぶりの帰郷である。霊岩に着いて、まず始めに祖先の墓参りをした。そこで初めて私は、祖先の存在を確認し、父母の故郷の偉大さと温かさを認識した。

その翌年、父はまた霊岩に行きたいとせがんだが、一度だけの故郷の思い出を抱いて急に亡くなったのである。

〈報恩〉

その後、私は父母のおかげで、父母の故郷を自分の故郷として、韓国と日本との懸け橋の人生を送るようになった。

その道程で、道岬寺には祖先の有り難さから安寧を祈り、石燈を二基建立し故郷の恩徳に感謝した。一九九五年一月九日、月出山九龍峰の麓には、母方(外姻戚)の祖父(ハラボジ)の墓碑、二〇〇六年四月一日には祖父母の墓碑を建立し祖先を祀った。

王仁廟には王仁廟浄化事業に参加し、東京王仁ライオンズクラブ員と共に浄化記念碑を建立した。そして王仁廟周辺には東京王仁ライオンズクラブ員と共に桜の木、また日本ケヤキ会(会長:尹炳道)員と共に欅の木を各々二〇〇本植樹した。一六〇〇年前、渡日した王仁博士の先賢の徳に尊敬の真を尽くし、顕彰したことは、私の誇りである。

また光州市には盲人福祉会館建立、光州市立美術館へ作品寄贈、五・一八記念聖地竣工記念に日本ケヤキ会(会長:尹炳道)員と共に欅を植樹、光州ビエンナーレ支援など文化事業支援、メセナ運動を推進出来たのは皆、祖国と故郷霊岩への報恩と誇りによるものである。在日の私が存在を示し、矜持を抱いて生きてこられた大きな原動力、その源は故郷あればこそである。

〈栄光〉

二〇〇五年五月三日、河南斗氏を顕彰する霊岩における霊岩河氏門宗の宗廟浄化事業竣工にあたり、私は我が祖先の恩徳に感謝し、その遺徳を受け継いでいくことの意味を噛み締める。子孫たちの未来への繁栄と、安寧を約束するメッセージであると思う。

霊岩河氏門宗の子孫達が国際社会や人類社会で、誠実さと勤勉さをもって、平和と幸福の追求のために寄与する有能で優秀なる希望の人脈、血脈であることを願わずにはいられない。

聖なる月出山、悠久なる霊岩の輝きが我々の行く道を照らし、霊巌河氏門宗の栄光を守ってくれることを祈っている。

「映画『在日』戦後五〇年史」

映画監督・呉徳洙(オドッス)(一九四一~ )

〈過去と未来を繋ぐ〉

映画『在日』は光復(解放)五〇年を記念して、戦後在日五〇年の歴史を記録、過去と未来を繋ぐ在日の想いを、呉徳珠監督が映像化したものである。製作費は全て有志によるカンパで賄われ、製作に二年余りを費やし、一九九七年完成上映された。

映画は「やがて時が来ればどうしてどうしてこんな事があるのか。何のために、こんな苦しみがあるのか、みんな分かる気がするわ」とチェーホフ『三姉妹』より参照された字幕で始まる。

第一部は戦後五〇年の歴史編。映像と証言で綴る、解放五〇年の在日同胞の苦難の歩みである。戦後の冷戦構造と南北〈祖国〉によって翻弄される在日像と、戦後の朝鮮人運動と日本の〈超国家主義〉をあぶり戦後史の欺瞞性をえぐる。

第二部は在日を象徴する人間編ドキュメント。戦後の闇市、パチンコの景品買いに生きる一世の女性。先祖の地韓国と、生まれ育った秋田県田沢湖町の、二つの故郷を愛する二世の河正雄。在日ブルース、『清河への道』を歌う二世の新井英一。そして三世のテレビカメラマン、陸上競技選手、名作『にあんちゃん』の作者の娘らが、それぞれの半ば日本人になりながらの居場所を捜す、四時間に及ぶ長編である。

草の根で行われた上映会は、全国各地で開かれ、動員数は八万人に及んだ。作品は日本映画ペングラフノンシアトリカル部門一位、同年キネマ旬報ベストテン文化映画部門二位入賞、九九年度朝日ベストテン入選を果たし、山形国際ドキュメンタリー映画祭二〇〇五の特別招待作品となった。

日本人から見た『在日』は、歴史の重みを切々と感じ、真の国際化の意味を問われ、学び省察を促されたようだ。この映画を見るか見ないかで、日本人の『在日』の見方が左右されると、身近な在日を知らなかったことを率直に認める新しい視点が開かれたという。

在日からは、感傷や回顧では収まらず、世界を見る目を養い、在日の問題に新しい視点から客観的に振り返り、在日社会を形成していこう。個人を捉え直し、そして自らの歴史を自らの視点で見つめ直そうという省察が促されたようだ。そして

「余りにもいろいろなもつれが多過ぎて、何故このような状況になったのか一度整理してみる必要がある」

と朝鮮近現代史家の朴慶植さんの重い言葉に、思いを一つにしたようだ。

若い世代にはこの映画は、これからの生き方を考える契機になったと思う。映画『在日』は、在日同胞理解の教材である。在日を知ることは、日本を知ることにも繋がる。『在日』は、歴史理解を深めようとしなかった日本人に、そしてこれからの在日同胞にとっても学ぶところの多い、必見の映画である。

私は光復五〇年を記念する一九九五年八月一五日、光化門前での旧朝鮮総督府尖塔取壊しセレモニーの歴史的瞬間に立ち会えたこと、その映像が映画『在日』に記録されたこと、そして映像を通して、多くの人々との出会いが出来たことを、在日に生きる者の一人として光栄であった。

〈呉徳洙監督の熱い思い〉

社会派の在日二世映画監督の呉徳洙氏が、戦後五〇年の在日の歩みを映画にするという朝日新聞の記事を読んだのは、一九九五年三月二日のことだった。私と同郷(秋田県)の鹿角市の出身、同世代の方であることだけは以前から知っていた。

八〇年代、監督が制作された『指紋押捺拒否Ⅰ』の完成試写会に伺った際、受付にいらした呉さんと初めて挨拶を交わした。その間、数十秒、眼の優しい方だという印象を得た。社会性が強い、このような地味で重いテーマの映画を撮って採算が合うのだろうかとカンパを渡しながらも、身勝手な心配をしたことを覚えている程度で、その後御縁がなかった。

一九九五年七月下旬のこと、突然呉さんから電話があった。私の家へ遊びに来たいとのことだった。余りの懐かしさに、受話器を通して、秋田のことや昔話に話が弾んだ。数日後、呉監督は我が家を訪れ、再会を喜び合った。用件は監督が、そのとき撮影している映画『在日』のことであった。戦後五〇年史制作の意図を語る呉監督の優しい眼には、厳しい光が宿っていた。

「一九四五年八月一五日、解放された多くの朝鮮人は、祖国・郷里に向け帰っていった。そんな中、様々な理由で断念した『在日』は戦後五〇年、今日本社会で生き続け、現在もその中にある。

日本による植民地支配から数えて一世紀近く、解放から数えて半世紀もの歳月が流れようとしている。当然世代交代は進み、祖国体験を持つ一世は一〇パーセントを切ったと聞く。最早、“歴史”として語られるものもあろう。その長い歴史の中で『在日』は政治的・運動的・民生的に様々な出来事や事件を体験してきた。

この戦後史の流れを“縦軸”にして、その歴史を懸命に生きてきた『在日』の庶民・家族の生き様を“縦軸”にして映像ドキュメントすることにより、過去から現在、そして『在日』の未来を指向しうる作品としたい。と同時に次世代にも継承しうる作品を目指したい。」

いつか誰かがやらねばならない、描かねばならない、〈在日〉〈戦後五〇年史〉という大きなテーマに真正面から立ち向かう呉監督の情熱が惻々と伝わってきた。そして何よりも、呉さんの温かい人柄、在日に拘る熱い想いに強い感銘を受けた。

〈河正雄の在日〉

「在日の既成概念は、強制連行や差別問題で権利獲得の戦いという暗いイメージがある。私はそれらの政治状況を乗り越えた、未来志向の生き方をする同胞のありのままの姿に、視点を当てた映画を作りたい」

呉監督は〈在日〉の一つの生き方として、河正雄のありのままの姿を撮影したいと唐突に切り出した。私は映画「在日」の制作費をカンパで工面すると報道で知っていたので、なにがしかのカンパの要請に来られたのだと思っていた。ある程度の支援はしなくてはと覚悟をしていたが、なかなかその話には至らず、突然に私の映画出演の話を持ち出すものだから、予想だにしない展開に面食らってしまった。

こうして人物編『河正雄の在日』というテーマでの撮影が、慌しく始まった。真夏の韓国と中秋の日本。私の二つの祖国、二つのふるさとで、ロケーションが行われた。撮影開始は八月一四日、ソウルに向かう機内での撮影からであった。八月一五日は光化門前での光復五〇周年記念中央式典、旧朝鮮総督府の尖塔撤去セレモニー、ソウル南大門市場での撮影。そして光州市へ場所を移して、光州市立美術館の『河正雄コレクション記念室』での撮影、『光州盲人福祉会館』での盲人達との懇談とインタビュー。そして私の父母の故郷、霊巌の先祖の墓や王仁廟など、五日間に渡って過密スケジュールで韓国ロケが行われた。真夏の盛りで、連日四〇度近い猛暑の中での撮影は、スタッフ共々汗ダクダク疲労困憊であった。

呉監督は、二〇年ぶりの韓国訪問で、この間の韓国の経済発展ぶりには驚くばかりであったようだ。余りの変わり様に、昔の韓国の良さが無くなっていくようで寂しいと、しきりに呟いていた。失ってはならない固有の伝統的なものが消えていくことが、発展に結びつくものではないと芸術家らしい意見を述べられた。

「月出山の山並みがとても美しい。河さんの祖先が眠る九龍峯の山容が印象的であった」

と感想を述べていただき、自分が誉められているような気持ちになった。

日を変えて一〇月二〇日からの三日間は、私の故郷、秋田県田沢湖町での撮影となった。ロケにあたって呉さんは、『河正雄の在日』撮影の意図について、改めて次のようなコメントを示された。

〈祖国・故郷とは〉

「在日二世河正雄にとって『祖国』・『故郷』とは何か? その一端を探る目的で、今回秋田県田沢湖町でのロケを組む。河正雄は、自らの多感な少年時代を過ごした田沢湖町をこよなく愛し、そして、両親の故郷である韓国の光州・霊巌を愛し続ける。河正雄の郷土愛は抽象的・観念的なものではなく、実に具体的である。例えば、韓国霊巌には先祖の霊碑を建立し、市立美術館に絵画を寄贈し、光州市の盲人福祉施設の建立に尽力し、それらに光州名誉市民章を贈られるほどである。

一方、河正雄は田沢湖畔に立つ『姫観音』の真実の由来、つまり一九四〇年に完成した生保内発電所建設に関わる田沢湖導水路工事で犠牲になった、多くの朝鮮人労働者を慰霊する像であったことを突き止め、田沢寺に『朝鮮人無縁仏慰霊碑』を建立し、毎年秋、地域の人々と共に法要と慰霊祭を催している。更に、田沢湖町立図書館に河正雄文庫を開設し、母校である生保内小・中学校には『ブロンズ像』を寄贈している。そして、民族歌舞団わらび座の光州ビエンナーレ公演の実現と、その成功に力を注ぎ、将来的には『在日』の画家達の作品を中心とした『田沢湖祈りの美術館』建設の夢を抱き続ける。

河正雄の『故郷』に対する情熱はとどまることを知らない。在日韓国人二世である河正雄にとって、それほどまでに具体的実践を通して思いを込める『故郷』とは何であろうか?

『在日韓国人二世・河正雄』を通して、戦後五〇年を生きてきた『在日』の一つの姿を描きたい」

〈田沢湖畔でのこと〉

田沢湖は一年で一番美しい秋の名残り。木々の彩りが生えて絵葉書の写真を見るような美しさである。穏やかな残照の中での撮影は順調に進み、一〇月二二日、田沢湖畔で姫観音供養祭の撮影となった。

法要に先立って、舞われたわらび座の舞踊家黒田龍夫さんが舞う岩手県の民族舞踊“鬼剣舞”は、死者の魂に捧げる鎮魂の舞であるという。鎮魂とは、死者の魂を鎮める『たましずめ』の意味と共に、死者の魂を甦らせ奮い立たせる『たまふるい』の意味を持つという。

大地を轟かせるような太鼓の響きと、湖面を波立たせるような笛の調べ。白い鬼面を着けた舞手が、大地を踏みしめ、扇子を翻して舞い続けた。姫観音の静かな慈顔と、導水路を通して轟々と湖面に流れ込む激流の様が二重写しになって、胸中が波立った。私はキラキラと輝く翡翠色の湖面を見つめながら、戦後五〇年の流れの重さをしみじみと感じていた。

読経に続いて、主催者代表と来賓の田沢湖町町長の挨拶が行われた。しかし両者とも朝鮮人無縁仏はおろか、工事犠牲者の慰霊について一言も触れず、田沢湖の観光振興の話をしたのみであった。そのとき参列者の中に重苦しい空気が澱み、微かなどよめきが起こった。私も心中穏やかではなかった。

そして突然、司会者から前触れもなく指名され、挨拶を請われた。私は席を立って観音像の前に進んだ。胸の中には様々な想いが錯綜し、嵐が吹き荒れているかのようだった。しかし不思議なほど冷静に、その想いを眺めている自分がいた。

「観音像にまつわる話は、皆さん一人一人の心の中にあることですから、私は敢えて触れません。ただ、この場所でかつて不幸な事実があり、歴史があったということは、私がこの席でわざわざ話さなくとも理解していただけると思います」

私は、このように簡潔なる言葉を述べて席に戻った。今一度会場を重い沈黙が覆い、訝しい空気が流れた。

呉監督は、その時の一部始終をカメラに収めていたがその顔は、苦渋と困惑の色に覆われていた。

「河さん、まだまだだねえ。いつまで経っても変わらないものは変わらないねえ」

と私を慰めるような眼で語り、「残念だねえ」と一言付け加えた。

一〇月三一日、韓国から帰ると、秋田の友人からファックスが我が家に届いていた。一〇月二八日付けの『秋田魁新報』夕刊のスクラップであった。

『姫観音』と題するその文章は、慰霊祭当日取材に来ていた秋田さきがけの記者佐川博之氏が、“地方点描”に署名入りで掲載したものだった。

〈記者の眼〉

慰霊とは別の意味で、重苦しい沈黙が漂っていた。

田沢湖畔に経つ『姫観音』で二二日に営まれた供養祭での出来事-。参列した田沢湖町当局が、『朝鮮人』はおろか『工事犠牲者』の件に一言も触れず、姫観音をいかに観光誘客に結びつけるかの挨拶に終始したからであった。

姫観音は、死滅した魚と湖神辰子の慰霊に加え、戦前、導水路工事の事故現場で命を落とした労働者を慰霊する像として伝えられている。犠牲者の中には無論、多くの朝鮮人労働者も含まれていた。

在日韓国人の河正雄(ハ・ジョンウン)さんは訝しく思いながらも、その場では

「姫観音にまつわる話は、皆さんの心の中にあることなので、敢えて触れない。ただ、(犠牲者がいた)事実があり歴史があったということは、話さなくても理解していただけると思う」

とだけ訴えた。

供養祭の翌日、河さんは嘆いていた。

「実は、あの日の夜は涙が出て一睡もできなかった。何故、一言でいいから、朝鮮人犠牲者について触れてくれなかったのでしょうか」

河さんは生保内出身。小・中・高校と秋田で過ごした。日韓の不遇の歴史に遭遇した在日一世の労苦を目の当たりにし、自らも翻弄されてきた世代である。

「導水路工事ではあの人も、この人も亡くなった」-

河さんは、父親が言い残していった言葉の重大さを噛みしめながら生きてきた。町内の寺に朝鮮人無縁仏が眠っていることや、姫観音にまつわるいわれも、そんな思いに駆り立てられて調べたのだった。

「私は自らの民族を誇りに思うし、自分を育んできたこの街も誇りに思う。過去には辛いこともあったが、私達は未来に向かって生きていかなければならない」

そんな河さんの言葉を聞くうちに、再び、供養祭の出来事が重い現実としてのしかかる。素直に慰霊の気持ちを言葉で表すことに、一体何のためらいがあったのだろうか。

(魁新報角館支局長・佐川博之)

〈無常〉

記者の眼からも慰霊祭の場面はよほど、奇異に感じられたのだろう。

追って、地元の友人から私を慰める手紙が届いた。

「これが田沢湖町の現実です。事の真実を理解することについて、恐らく、この土地の人が一番時間がかかるでしょう。もしかしたら永遠に…」

私はあらためて、歴史の中に生きることの重さを噛みしめながら、慰霊祭の日のことを思い起こした。

その翌日、姫観音の傍で、呉監督のインタビューを受けた。

「河さん、今朝のこの田沢湖畔で何を思いますか?」

「私は五〇年間、田沢湖を見続けてきました。見慣れた風景ですけれども、一度として同じ田沢湖ではありません。訪れるたびに違った新しい田沢湖に会うのです。今朝の田沢湖も、これまでになかった新しい田沢湖のように見えます。これを無常というのでしょうね」

映画『在日』の人物編には、河正雄のドキュメントが三〇分収録されている。映画の上映会も各地で開催され、ビデオやDVDも販売されている。ぜひ御覧下されば嬉しい。

「キューポラの街の原風景」

映画『キューポラのある街』には、当時息づいていた人々の人情が、色濃く描かれている。在日朝鮮人の父と日本人の母との間に生まれた、ヨシエとサンキチ姉弟の金山一家は、吉永小百合演じるジュンの家と同じように貧しい。その貧しさを乗り越え、朝鮮人の家族との触れ合いを絡ませ、強く、明るく、逞しく、のびのびと育つ子供達が生きる良い時代が描かれている。鋳物工場や荒川の土手など、作品に描かれた数々の映像には川口の懐かしい原風景があり、川口で生きてきた幾年月が、いつしか私の故郷になったということだろう。

〈秋田から川口へ〉

埼玉の表玄関は川口である。在日同胞の密集地といえば阪神では生野や西成、神戸の長田、東京では足立区や荒川区だが、キューポラが立ち並んだ鋳物の街、川口にも鋳物工場で働いたり、鉄屑回収業を営む朝鮮人が多く住んでいた。一九五〇年代、朝鮮戦争特需で日本は高度経済成長の波に乗った。川口の鋳物産業はその恩恵を受け発展し、社会の断面を映した街である。最盛期には約七〇〇社あった鋳物工場が、今は一〇〇社もない。川口市は現在、外国人登録者が一万人を超えているそうだが、当時は一〇〇〇人程度で、その殆どが在日朝鮮人であった。

一九五九年、高校卒業を機に、一八年間の秋田での生活に私は別れを告げた。上京して川口に縁を結んだのも、母の手伝いでヤミ米を運んだ得意先が多くあった事からだった。その時、川口駅前では鋳物を運ぶ荷車を馬が引いており、馬糞があちこちに落ちている有り様だった。

葦が茂り、民家が少なかった荒川沿いの芝川河岸のマッチ箱のような住まいで、私は生活していた。上流で大雨が降ると、すぐに溢れる〈洪水〉の川縁である。そこはキューポラ(銑鉄溶解炉)が林立する鋳物工場地帯であり、キューポラの赤い炎が燃える吹きの日は、騒音と振動、硫黄の臭いと煤塵が立ちこめる悪烈な環境であった。経済力の無かった私にとっては、そこが唯一生きることの出来る場所であった。当時、川口の鋳物を支えたのは〈金の卵〉と言われた、高校進学が不可能な、東北地方からの集団就職でやって来た若者や、外国人(特に朝鮮人)の労働力が七、八割方であった。

秋田に居た時、生保内(現田沢湖)駅で、集団就職列車で上京する同期生や同窓生達の見送りをした記憶がある。その時の友人の顔が懐かしく思い出される。

その年の秋に襲った伊勢湾台風のため、荒川、芝川が氾濫し、洪水が起こった。我が家も、押入の上段まで浸水し、泣かされた。九七五人の在日朝鮮人が、初めて北朝鮮に帰還するようになったのは、その年の年末のことである。当時、画家になる夢を共に語り合った名古屋のK君が、北朝鮮に帰国することとなり、別れのために上京し、我が家に泊まった。K君からは無事に帰国した、と一度連絡があったが、その後は音信が途絶え、未だ消息が掴めない。

芝川の家から、目黒の武蔵小山にある電気配線器具の会社に通い、設計とデザインの仕事をした。日給二六〇円の賃金で、夜学(日本デザインスクール)に通った。交通費を削り、食費を削る生活で、栄養失調と過労から来る眼の障害で、入院する羽目になってしまった。人生最悪の境涯で、前途が暗闇の中にあった。失明は免れたものの失業し、伏せっている所に台風の被害にあった。弱り目に祟り目の所へ、ボートで川口の朝鮮総連の人達が尋ねて来てくれ、お米を義援してくれた。このような苦難の時に、手を差し伸べてくれる同胞の情けをありがたく思った。その時、朝鮮総連の人から北朝鮮への帰還を勧められた。

一九六一年、私は一切を捨てるほどの挫折から、日本での生活の展望と自信を失い、北朝鮮での新しい生活に全てを賭けてみようと単身、北朝鮮への帰還船での〈帰国〉を決心した。K君の事もあったが、天国だという北朝鮮の宣伝に乗せられて、憧憬を抱いてもいたのだ。私は帰国の手続きのため、川口の朝鮮総連に出向いた。ところが

「帰るのはいつでも出来る。残って、川口の同胞達の権益のために働いてほしい」

と慰留され、そこに務めることとなった。

地域の同胞のための信用組合(金融機関)、銅鉄商協同組合、納税組合、衛生組合を結成し、商工会を創ろうという仕事の手伝いであった。またソビエトや中国、そして北朝鮮から鋳物の材料である銑鉄を輸入し、組合員や川口鋳物協同組合に販売をもした。その時代、需要が多く、引く手あまたの好況で、同胞達に喜ばれる仕事が出来たのでとても嬉しかった。

〈『キューポラのある街』を映画化〉

その年の秋のこと。丸めた冊子と帽子を握りしめ、ベージュのレインコートに身を包んだ男性が事務所を訪れた。顔色は黒ずんで見え、髪はボサボサ、構わない身なりは、今にして思えば刑事コロンボのようであった。

「私は浦山桐郎という映画監督です。この度、川口を舞台にして、児童文学作家早船ちよの小説『キューポラのある街』を映画化したいのです。在日朝鮮人の問題も、川口で生きるありのままの姿を等身大で伝えたい。このシナリオの中で、朝鮮人の生活情緒と違うところを監修してほしいのです。そして撮影の際には、川口の朝鮮人達の協力をお願いしたい」

とシナリオを置いていった。後日、監督が訪れた時も、前回と全く同じいでたちで、静かに話されたが、その姿にはどことなく健康さを欠いているように思われた(この一〇数年後に、監督は亡くなられた)。その時監督は、鋳物職人が集まる〈ハーモニカ長屋〉の赤提灯などに足を運び、鋳物の世界を取材した話をされ、真摯な人柄を感じた。弱者、特に在日朝鮮人に対して以心伝心、温かな視線が感じられ、私には好ましく思えた。

何回かのミーティングを重ね、川口駅前で北朝鮮に帰る家族との別れのシーンの撮影が行われた。最終電車が行ってからの寒い深夜の撮影ではあったが、エキストラとして川口の同胞達が一〇〇名以上も集まった。共和国の旗を振り〈金日成将軍の歌〉を合唱しているところに、ジュン役の吉永小百合が見送るために、白い息を吐きながら駆けつけて来る。その時、一六歳の若さだった吉永小百合が、カメラの前に立ち止まりアップになる。カメラを見つめ、視線を逸らさない真珠のような瞳、その澄んだ瞳はどんな宝石よりも輝いて美しく見えた。

川口駅近くの陸橋での撮影は切なかった。サンキチと父が乗った新潟行きの列車を、見送る場面である。列車の窓から身を乗り出して、手を振るサンキチと父へ、力を込めて別れの手を振る吉永小百合。私の手まで力が入ってしまうような名シーンであった。

その年、浦山監督のデビュー作『キューポラのある街』は、吉永小百合がブルーリボン賞主演女優賞に輝く栄誉を得た。『キューポラのある街』は、その時代と社会を映した日本の名画として、今も輝いており、私の青春の記憶としても、今なお鮮明に記憶されている。

吉永小百合は、今までに一〇〇本以上の映画に出ているそうだが、『キューポラのある街』は代表作、これを超える作品はないという。北朝鮮に帰る人達との別れのシーンが心に強く残っており、今も帰った方々がどうしているのだろうかと、その安否を考えるのだそうだ。

私もキューポラのある街で、在日と祖国の狭間の中で生きた境涯と人生を振り返りながら、当時帰った一〇万近い在日帰還者やK君のこと、日本人拉致問題と核開発、今後の日朝問題の行く末に心を痛め、不安を抱いて考えている事が多い日々である。

「関東大震災八〇周年に寄せて・埼玉であったこと」

本日、関東大震災八〇周年記念集会の開催にあたり、これまで実行委員会の皆様が関東大震災によって引き起こされた諸事件、それによって犠牲となった人々を追悼、この歴史的経緯について追求する学習会を開き、多くの関係資料を発掘して、これらの真実を広く報告されてきましたことに対し敬意を表する。

埼玉県には関東大震災(大正一二年・一九二三年)による朝鮮人犠牲者の慰霊碑や、供養塔、墓などが数多く残されている。熊谷市の熊谷寺に約七〇名、本荘市長峰墓地に八八名、上里町神保原の安盛寺に四二名の慰霊碑がある。児玉町浄眠寺に無縁の供養塔、寄居町正樹院に具学永の墓、さいたま市大宮の常泉寺には姜大興の墓などがある。

毎年、熊谷市、本荘市、上里町など行政が主催し、地元の民団や総連も参加しての慰霊祭が行われ、それぞれの寺院では、住職が手厚く慰霊している。私は幾度か九月一日の慰霊祭に出席し、流言飛語による軍、警察、自警団による大量殺戮で受難した同胞達の霊に合掌した。

〈川口での出来事〉

私は一九五九年、秋田より川口市領家に移住してきた。仙元橋、耶木の橋の近くで、領家はまだ未開の地でアシヤナギが茂っていた。芝川付近は、鋳物工場が林立している一大工業地帯であった。そこに入野鋳工所があった。高校時代、母の手伝いで秋田から運んだヤミ米を買って下さったお得意さんである。社長であった入野作一氏(故人)の家屋を譲り受け、領家に住むようになったのが、川口での生活の始まりであった。

入野作一氏は時折、私の足を止めて、関東大震災の話をしてくれた。

「〈朝鮮人が放火した〉〈朝鮮人が井戸に毒を入れた〉と官憲が流したデマは、震災翌日から広がった。その責任を朝鮮人と社会主義者、そして自警団に押しつけた事件である。何の罪科もない朝鮮人が猟銃や鳶口、竹槍や日本刀で武装した自警団がデマに踊らされて、関東全域で六〇〇〇余人以上が、その暴力により虐殺された。天災であると同時に人災である。血生臭い歴史は日本人の恥であった」

と語った。

「大震災の時、闇に紛れて木船が岩淵(赤羽)より舟戸ヶ原(川口)に近づいて来るという半鐘が鳴った。自分は家にあった日本刀を持って駆けつけた。現場では、自警団が集団で船の中の菰の下に隠れている朝鮮人を竹槍で突き、日本刀で斬りつけていた。その時、何のためにと考える余裕はなく、ただ恐怖と朝鮮人に対する憎悪だけがあった。それは如何に、当時の日本人が狂っていたかということであった。翌日、荒川は血で染まり、人肉を魚が食べているのを見たときは怖かった。今でも夢に見ることがある」

と懺悔していた。

家の近くの宝湯という銭湯で、浅黒い肌のガリガリとした小柄の鋳物職工とよく会うことがあった。この人も入野作一氏と同じく、自警団として舟戸ヶ原に駆けつけた一人であった。

「朝鮮人など人間ではない。こちらがやらねば朝鮮人にやられると思い込んでいた」

と、その時のことを体を洗いながら、武勇伝のように何度も自慢していたのを聞いた。反省など何一つ感じられなかったその言葉に、苦々しい嫌悪感を感じ、それは未だに晴れる事がない。

一九八〇年、川口市青木町にある得信寺(浄土真宗)を訪ねた。同じ町内に住む朝鮮人が、得信寺に関東大震災の時の朝鮮人犠牲者の遺骨があると教えてくれたからである。

「愚かさとは深い知性と謙虚さである」

と、寺門の脇にある掲示板に貼り紙があった。高口得信住職は新潟出身の方で、以前は川口神社がある金山町のある寺にいたという。一九五九年に庫裡を青木町に建て、一九六三年に霊堂を建てたと得信寺縁起の石碑に記してある。

住職が

「長い間この寺に祀っていたが、縁故者があらわれたので、その遺骨は帰しました」

と答えられたときは安堵したと共に、よくそれまで守って下さったと感謝した。

その事が起因となって、川口にも犠牲者がどこかの寺に葬られていることだろうと、舟戸ヶ原付近の善光寺や錫杖寺、そして私の家の近くにあった正覚寺、実相寺、私の父が眠っている光音寺など訪ね、調べてみたが、どの寺もそのような痕跡がなかった。何もなくてよかったという気持ちと、腑に落ちないわだかまった気持ちが、心に今もよぎる。

入野作一氏や鋳物職工の話と、得信寺に遺骨があったという事実、山田昭次立教大名誉教授の調査研究によると、荒川放水路沿いで、軍隊に機関銃で大勢の朝鮮人が撃ち殺されたという報告をされた事実などから、川口付近でも歴史の中で封印されている事が多いと思われるからだ。

〈在日韓民族の供養〉

一九九五年、長瀞に住んでいる在日一世の尹炳道氏が、高麗山聖天院横田辨明住職に

「終戦までに数一〇年間、沢山の無縁仏が日本のあちこちに散在して、誰も訪れる者がいない。何とかこの地に葬り供養したい」

と申し入れた。そして私に

「日本国内における民団や総連の垣根を超え、関東大震災、第二次世界大戦で犠牲になった同胞の御霊と、渡来人の御霊が安眠出来るように供養したい。在日韓民族無縁の霊碑建立の事業に協力してほしい」

と頼まれた。

「熊谷、本荘、上里で関東大震災の朝鮮人犠牲者の慰霊祭に出席してきたが、いつもイデオロギーによる民団と総連が、鍔迫り合いをして先陣争いをする。スタンドプレーの見苦しい風態は、在日韓国、朝鮮人の恥である。霊に対しても、心ある日本人にも申し訳ないことである。なんとか霊が鎮まり安寧でありますように、この聖天院に静かに祀り供養したい」

と尹氏は付け加えた。

二〇〇〇年一一月三日、深谷市に住んでいる石田貞氏の協力を得て、埼玉県における関東大震災の朝鮮人犠牲者二〇七名の過去帳を奉安して、私は聖天院在日韓民族無縁之霊碑の除幕、開眼法要の式辞を述べた。

「二〇世紀は、韓日、朝日、両民族の歴史において、まさに激動の時代でした。在日同胞一〇〇年の歩みは、まさにその象徴であります。この一〇〇年の間に、祖国を離れた異国の地で、望郷の思いを噛みしめながら、痛恨の生涯を終えた人々は、どれほどの数になるでしょう。今日に至るまで、我が在日同胞は、家業に精励し、子弟を養育し、あらゆる苦難を乗り越えて、祖国と日本の発展に大きく寄与・貢献して参りました。

在日一世尹炳道氏の発願により、聖天院寺域奥山に、在日韓民族無縁之霊碑と納骨堂、並びに慰霊塔が建立されました。歴史の中で犠牲になられた在日同胞達の御霊が、安眠できるように供養したいとの願いからであります。それはまた、在日同胞が歩んだ苦闘の歴史が風化しないように、歴史の真実が埋没しないように、子々孫々にまで語り継ごうとの願いによるものであります。民族の統一を願い、日本と韓国・朝鮮の友好・親善を願う多くの皆様のご理解とご尽力によって、この事業が実現しましたことは、何よりの喜びであります。

先人達が歩んできた二〇世紀の歴史を、二一世紀を担う若い世代に伝えていくことは、我々に課せられた大きな使命であります。霊碑の建立が、在日同胞の願いを新しい世紀に伝える新たな一歩になることを祈念するものです。私達は二一世紀に向け、よき兄弟として、争わず、信じあう、良きパートナーとして善隣・友好の絆を深めていかなければなりません。本日ここに、よい心、広い心、同じ心を通い合わせて、未来の子孫のために、世界のため、人類のために寄与・貢献し、豊かで平和な二一世紀を創造する起縁を結んだことは、諸霊に対する何よりの供養となるでしょう。諸霊の、とこしえに安らかなることを祈ります」

毎年九月五日は聖天院のお施餓鬼の日であるが、霊碑の建立以後、関東大震災朝鮮人犠牲者の諸霊を慰霊する日となった。この日は、日韓の歌人達が集い、慰霊のための献歌祭を開いている。

過去の記憶は社会の財産、我々在日同胞の財産であるという認識。この尊い犠牲を無駄にせず、教訓を生かして、同胞社会の発展と住み良い環境づくりに精進する。過去をないがしろにせず、きちんと反省し学んで、歴史の流れとして子々孫々伝えていく。真の善隣への懸け橋をつくる役割を担おうという誓いのためである。

〈民族差別の悲劇〉

関東大震災での死者は約九万六千余人。うち火災旋風による焼死者は九万千人という。犠牲者の身元が確認出来なかったという史実から見ても、地震より火災による二次災害が恐ろしいのだという事を示している。

だが私は

「デマが怖い。ふだんは実直な民衆が棍棒や日本刀を振り上げた、竹槍を持って突いた人々の心理が怖い。ああいう凶行がもう起こらないと、誰も保証出来ないだろう」

と言いたい。

一九九九年九月七日、本庄市にある長峰無縁墓地で、心ない事件が起こった。朝鮮人犠牲者慰霊碑を囲む石柱二三本の内、七本が倒されたのである。また碑の西側にある無縁の墓三四基の内、二七基が倒され、内七基がハンマーで割られてしまった。目撃者の証言によると、三〇代から四〇代の男が犯行に及んでいたらしいが、犯人を逮捕することが出来なかった為に、この事件は三年後に時効を迎え有耶無耶となった。

また最近、朝鮮人学校女生徒の制服であるチマチョゴリを切り裂くという事件や、ケンコクギユウダンの朝鮮人を、日本から駆逐するまで爆弾を仕掛けるという事件などは、陰険極まりないものがある。

集団虐殺の事実が、終戦の日まで明らかにされなかったという事実。国がなかったために、韓国人はあれだけの残酷な虐殺にあっても、人権侵害に抗議することはもちろん、弁明の機会もなく、事件の調査要求もできなかった無念さを知らなければならない。朝鮮人の恨という感情に、余りにも無知な行為であると言える。

虐殺事件の根源には、日本社会に民族差別が今だ根深く残っていることを再確認させる。この事件は、在日同胞の歴史の原点であることを忘れてはならない悲劇である。そしてこの悲劇は、いつ何時、また繰り返されるとも限らない。我々は、英知と理性を持って防災に務めなければならない。

私が語りたかったのは、辛く苦しい時代を共に生きなかったからといって目を背けるのではなく、恋人や母親に対し、別れを告げることも無く亡くなっていった人達が何を思い、何を言いたかったを理解したいからだ。

何の罪科もなく、無造作に命を奪われた人達は、大義のために死んでいったのではない。未来の子供達のためにも、亡くなっていった無名の人達を私達は忘れてはならない。彼らは歴史における悲劇をもって、生きるということの価値を私達に教える師であり、間違った道を進まぬ為の物言わぬ道標であるからだ。

思いだしてあげること、それが何よりの供養である。それ故に、亡くなった物言わぬ人達の代弁者となり、生きている私達が語り継いでいかねばならない。彼らには慰霊される権利があり、過去を礎に今を生きている私達には、慰霊をせねばならない義務があると思うからだ。過去の惨劇を風化させないことが、私達の務めであると胸に抱きつつ、日本と韓国『二つの祖国』で私は生きている。

〈関東大震災〉

一九二三(大正一二)年九月一日一一時五八分、関東地方南部を襲った震災。震源は相模湾中央、相模トラフ沿いの断層、マグニチュード七・九。京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。

焼失戸数四四万七一二八、死者九万九三三一、行方不明一万三〇〇〇、負傷五万二〇〇〇、罹災人口三四〇万余。東京被服廠跡では三万二〇〇〇人が焼死、被災総額、五五~一〇〇億円余。

山本權兵衞内閣は、東京・神奈川に戒厳令を布告。非常徴発令、暴利取締令、支払猶予令を発し、震災手形を発行したが震災恐慌が発生。震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。

〈朝鮮人虐殺事件〉

関東大震災の地震と火災の混乱に乗じて、「朝鮮人が暴動を起こした」とか「井戸に毒を入れた」とか「火災は朝鮮人が国を乗っ取るために放火をした」とかのデマを流し、青年団や軍人などが中心になり、朝鮮人を虐殺すると言う虐殺事件が起きた。

虐殺された人数は約六〇〇〇余人とも言われているが、確かな人数はわからない。

「あすなろ忌」

詩人・崔華国(チェハァグッ)(一九一五~一九九七)

私は、短歌と万葉集の研究で足跡を残した、土屋文明の群馬県立土屋文明記念文学館(群馬町)を見学した。そこには、群馬県縁りの文学や文学資料があり、一三のコレクションがあった。その一つに、詩人崔華国の資料が公開されていた。

「崔華国は、いうならば色のことばだ。この七色のことばを焚き合わせて燃えているのが、崔華国の詩なのである」

と詩人荒川洋治が、そう解説されていた。

〈“あすなろ”について〉

崔華国(一九一五年-一九九七年・本名 崔泳郁)は韓国慶州生まれ。彼は一九五五年、群馬交響楽団を取り上げた今井正監督の映画『ここに泉あり』を見て感動し、「高崎市に芸術活動の拠点」をと、高崎市本町に一九五七年、クラシック純音楽喫茶“あすなろ”をオープンした。“あすなろ”は、その後道路拡張に伴い、鞘町に移転した。

一九五七年に“あすなろ”で始まった生演奏による〈音楽の夕べ〉を二六〇回、一九六一年からは金子光晴や茨木のり子、谷川俊太郎らが訪れた〈詩の朗読の夕べ〉は一四〇回を重ねた。また地元の画家を中心に、絵画展を数多く企画した。“あすなろ”は、戦後の高崎の文化発信地となった。崔華国は“あすなろ”を一九八二年に閉店し、親族のいるアメリカに移住、そこに骨を埋めた。

“あすなろ”の文化的な精神や意義について、高崎という街と、その文化の在り方を問い直そうという考えが、東京での崔華国を知る詩人達の〈偲ぶ会〉で持ち上がり、高崎で彼を顕彰する催し『あすなろ忌』が開催された。私は、弟の崔泳安氏の案内で昨年、その『あすなろ忌』に出席することとなった。

『あすなろ忌』は、崔華国が仕掛けた運動や、その成果を学び検証する。意見を交わし刺激を受け合う〈場〉、人と人とのネットワークづくりを目的にしたものである。

〈崔華国との出会い〉

崔華国と私の一期一会は、一九八五年詩集『猫談義』で第三五回H氏賞受賞を喜ぶ、東京での在日韓国人文化芸術協会主催の祝う会であった。

彼は一九五一年に来日し、六〇歳で初めて詩を書き始めた。処女詩集『輪廻の江』、そして詩集『驢馬の鼻唄』『晩秋』を発表し、分断された祖国への思いを詩にしていることをそこで知った。

H氏賞は詩壇の芥川賞と呼ばれ、歴史と権威のある賞である。崔華国は七〇歳で新人賞を取られた。

「私はH氏賞を取ったから大成したのではない。詩人の大成とは、一〇〇年後の文芸史家に言わせるべきものです」

とジャーナリストらしい気骨の挨拶をし、素直に喜ぶ姿を見せた。私は在日韓国人の誇りであると感激し、その姿が眩しく見えた。

一九八〇年、私は足利の崔泳安氏の自宅を訪問したことがある。画集の出版のため、全和凰作品の取材をするためであった。その時、崔泳安氏は

「兄の喫茶店は格式といい、サロン的雰囲気といい、集まってくる人達の品性と人格、文化的敷居が高かった。“あすなろ”の従業員募集には、何百人もの応募があったことから驚き、兄の人柄がわかった。高崎で、兄は幸せな人生と余生を送ったと思う」

と“あすなろ”の赤字であった経営を支えた、苦労の話は一切されなかった。私はその時、ゴッホとテオ兄弟の麗しいエピソードを思い出した。兄弟愛の深さを教えられた。

〈残された想い〉

春爛漫、桜満開の美しき二〇〇三年四月六日、第二回『あすなろ忌』が、崔華国と親交のあった郡響の創始者である、故井上房一郎の旧邸であった高崎哲学堂で開かれた。その日、アメリカオレゴン州から出席した詩人金善慶夫人は

「草木は春には必ず芽が出る。人間は死んでは芽が出ない。なのにあなたは、高崎で芸術の世界で洒落た人々に愛され、春が来るたびに芽吹いて輝く。イラク戦争の最中、常識を失い、心を失い、人間を失うこの時代に、今日ほどあなたを記憶に残る日はありません。来年もまたあなたに会いに来ます」

と感激の言葉を残して帰られた。

「“あすなろ”に、プロレタリア作家上野誠の版画の大作を飾っていた崔華国の審美眠。好きなものと嫌いなものをはっきりさせる本物志向を、亡くなった後に崔華国をますます好きになった。一九六〇年北朝鮮に帰還した画家、曺良奎を記憶している」

と自由美術家協会の画家田中朝庸は語り

「曺良奎は今、北朝鮮で生きているのだろうか」

と私に尋ねた。

崔華国詩全集(土曜美術社出版販売株式会社刊)の編集委員である森田進(恵泉女学園大学教授)は

「もう一人の父親のような人で、俺の親父にはこんな人がいいなあと憧れた。詩のウラには政治的な意味があり、トリックがあると生前、崔華国が語った。H氏賞を取るまでは日本名・志賀郁夫と称していたので、H氏賞受賞のとき韓国名チェ・ハァグッ(崔華国)と名乗ったので、別人かと戸惑った」

と打ち明けた。

在日の詩人李美子は、詩人としての崔華国の厳しさを語った。

「わからず屋の人が迷惑なことばかりやっている社会で、外国人だからではすまされないこと、苦しいことが一杯ある。黙って、座って泣き言を言い、感極まって泣くような詩では駄目だ。相手を泣かせる詩を書けと教わった」

その日、こうした熱い思いで集まった人々は、『あすなろ忌』で誓い合った。

「郷土を美しい音楽と詩で埋めよう」と。

『あすなろ忌』は、韓日の文化芸術人達の合い言葉となって、新しい崔華国を記憶していくだろうと思った。

「象牙の塔」

〈はじめに〉

米英両軍がイラクを攻撃し、〈戦争〉が現実のものとなった。一方、北朝鮮の核開発疑惑によって、北東アジアの情勢もまた緊張の度を加えている。不透明な世界情勢ではあるが、正義を論じ、条理を説き、憂えてばかりでは能がない。世直しの最善は何か。不透明な時代であればこそ、国際関係づくり、国づくりの基本は、人づくりにあり、若人たちの果敢な〈挑戦〉と〈創造〉が新しい時代を生み、動かしていくと私は確信している。学ぶということ、教育するということ、教育力の強化について、自身の境遇と照らし合わせながら改めて考えさせられることがいくつかあった。

二〇〇三年二月二五日、韓国の新大統領が就任した。その就任を祝う特集を組むという新聞社からの依頼で、私は以下のような文章を寄稿した。

「フレッシュな盧武鉉新大統領の就任に、私は親近感を抱いている。貧農の三男坊、高卒からの独学で人権派弁護士。転身して国政での改革派、地域感情の解消を目指す信念の人というだけでも胸が熱くなるのは、在日での個人的な境涯から私は感慨深く思うのである。努力こそが人生を切り開く、在日にも希望がある、持つべきであると改めて確認したように思う。

W杯での若人達のパワーが、盧大統領を新しい世代のリーダーに選んだことは疑いない。韓国が新しい時代に入り、既存の価値観の変革を望んでいることを意味している。私は韓日両国の懸け橋となる在日の立場から、文化開放政策の発展、在外同胞政策の見直し、特に国政参政権と日本に於ける地方参政権を行使できるよう願っている。

朝鮮半島が、二一世紀には世界に向かって平和を発信する平和地帯に変わっていかなければならないという盧大統領の信念に共感し、〈繁栄と跳躍〉そして〈南北統一〉を何よりも願う。実りのある国民参与(参加)政府の出帆に期待を寄せている」

〈学ぶということ〉

私は家庭(経済)の事情で大学に進学出来なかった。母は八四歳の高齢になるが、今も時折、

「正雄、お前を大学に入れてやれなかったことが申し訳ない。許しておくれ」

と涙を浮かべて言う。秋田で過ごした小中学時代、その当時、クラス五〇人の同級生がいたが、高校進学出来た者は一〇数人ほどしかいない、貧しく苦しい時代であった。小学校の門をくぐった事もなく、日雇い労働者として働きながら私は無論のこと、妹弟を高校まで進学させた偉大な父母は、子等に大学教育を受けさせることが夢であったのだ。

私は大学を断念し、社会に出たその時から、社会から学び、生きながら学ぶことが大学であると思った。卒業証書は死ぬ日に貰える物と思っていたから、母の涙は時に負担に感じるものがあった。しかしそう思うことは私の考えが浅く、父母の心を思いやる事が出来なかったからだと、今はしみじみ有り難いことだと思っている。

大学を出ていないから教育者、弁護士、新聞記者になれない時代を私は生きた。大学を出ていないから、クラブ入会の資格がないと言われたこともあった。今、殆どの人が大学に入っているのに、どうして君は大学に入れなかったのかと蔑まれたこともあったが、それは時代を知らない人が言うことで、親の苦しい時代を共に生きて生きた者としては、何の不満も不足もなかったというのが、私の本音である。

高卒の安藤忠雄は、ボクサーから独学で建築の道を選び、九七年からは東大教授になった。神戸の兵庫県立美術館、米国のフォートワース現代美術館などの作品があり、国際的に活躍し、世界の主な建築賞を総なめにしている建築家である。東大で教鞭を執るようにもなり、そのフィールドワークは広まるばかりだ。今の学生の所作や言動には、何事にも執着しない苦悩とは、迷いや逡巡という感情が殆ど見受けられない。そして他人の意見に耳を傾ける謙虚さや、対話を必要としない学歴社会の象徴としての東大生を、優秀であるが故に、全てを自分の価値観で判断してしまう学生が多いと批判している。

戦後の近代建築を根付かせた同門の丹下建三は、学生時代、自分の道を探求し、日本の建築を自分たちが引っ張って行くという気概と覚悟、責任感があった。建築を通して公益(社会、国家、人類)にどう尽くすか、役立つかという使命感と公の精神を持って、戦後の日本の復興に寄与した。

明晰な頭脳と優れた能力を持っている学生達に、生きる貪欲さ、謙虚さ、気概と責任感を持てと安藤忠雄は東大退官の際に述べている。多様性に富み、不透明な世界情勢の中、全てが通じるとは思わないが、同門の丹下建三ら先人がその精神で時代を切り開いていった熱さを、今の学生達に求めることに私は異論がない。

昨年、『蛋白質の正体を探る質量解析法を開発した業績』でノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんに憧れる人も多い。大学の教授でもない、会社のいちサラリーマンの地道な研究成果が世界で認められ、努力すれば日が当たるものである、人生は捨てたものではない。権威や地位が大事ではないことの不偏さを教えてくれた事は快挙である。これから学ぶ者にとって、人生を勇気づけられ希望があるということを、改めて学んだ事は幸いなことである。

私は一九八八年より、柏シルバー大学院を始めとする多くの場所で、求めに応じて韓国理解の一助になればと、私の在日として生きる姿を通した『韓国と日本二つの祖国』という講義を続けてきた。小中学生時代に憧れた、先生になりたかった夢が、このような形で叶えられた。

人間は、何かしら大きな目標や夢を持っている。しかし、生きている上で挫折したり、横道にそれたりして目標を忘れてしまう。そうした夢を、定年後の第二の人生に専門分野を究め、未開拓の研究を通して、社会貢献の道を探ろうとするシニア大学院生が増加しているのは、生涯学習時代を反映している。学ぶ意義が問い直される時代になった事を喜ぶ。

〈大学の意義〉

二〇〇三年二月二四日、八〇年代に訪問したことがある、五七年の歴史を持つ韓国光州市の朝鮮大学校を訪問した。

その日は、二〇〇二年度卒業式の日であった。街は大学に向かう自動車の波で渋滞し、キャンパスの中は、駐車された車で溢れかえっていた。光州のシンボルである無等山の麓にあるキャンパスは、自然が生きている学舎としての環境を備えていたが、二二〇〇〇余名もの学生を抱える総合大学(六大学院、一四単科大学、二五学部、二九学科、韓国私立大学中第二位の規模を誇る)となり、敷地内に多くの近代校舎が建ち、自然の空が失われていくようで残念に思ったのは、感傷的であろうか。

朝鮮大学は、一九四六年解放間もない翌年に光州市民達の募金で、国家と人類社会の発展に寄与する、指導者を育成する為に設立された民族大学である。名も無き貧しい農民は農作物を届け、労働者は無償で労働力を提供した。庶民等の尊き数は七万二千余名であるという。その建学の精神と光州市民の誇りは今も高く、人を育てる事が国を創る人類貢献なのだという精神が脈々としていた。建学の初心の輝きは今も失われていないと、卒業式の雰囲気から感じることが出来た。

その日、昨年教科書問題に抗議して、日本の国会議事堂前でハンガーストライキをした金泳鎮韓国国会議員の、名誉博士学位の授与式があるというので出席した。金議員とは、三年前東京で、光州のキムチ祭開催計画をした折にお会いし、講演を聞いたことがあり、この度の盧武鉉政権の農林水産部長官となった農林水産の政策マンである。

その授与式にて、ハンナラ党黄ウヨ議員が述べた祝辞に、私は大学の意義を教えられ、励まされた。

「世のため、人のために尽くし、社会で活躍している大学とは無縁の人材を、大学は権威を外して登用し、生かして学ぶべきである。学問だけの人材作りではなく、どの様に生きて、生きようとしているのか。社会の中にいる人材に我々は注目し、その存在と価値を認めることが今、大学に求められている」と説かれたからだ。

〈人を創る源〉

幕末、長州藩(山口)萩で自宅に松下村塾を開いた吉田松陰(一八三〇~一八五九)は、子弟を教育し、その門下からは多くの俊秀を出した〈立志〉の人である。人間一人一人には、それぞれに備わった一つや二つの高い能力があり、その一人一人の才能を引き出し、個性を生かした自由な教育をして、時代の人材を育てようという塾であった。保身と太極を見ない幕末の世相の中、志を立てるためには人と異なることを恐れてはいけないと、国際関係に目を開き、国事への志を深めていった。松蔭は、志のある民衆の心こそが時代を動かす。眠らせたままではいけない、いたずらに時を過ごしてはならないと、講孟余話(岩波文庫)を著し講義した。

人を愛し、国を愛し至誠を貫いたその言動は、純粋なる真心から発せられたもので松蔭の思想に学ぶものが続いた。

松蔭がある塾生に

「君は何のために学問をするのか」

と問うと

「本を読むことが出来ないので、良く読めるようになりたいと思います」

と答えた。すると松蔭は

「人は学んだ事をどう実行するか、その教えを今の世の中の為に生かしていく事が大切なことである。嘘偽りでなく真心を持って物事に当たっていく事だ」

と諭したという。

真心を込めて行動すれば出来ないことはないし、どんな人でも真心を込めて話し合えばきっと判ってくれる。何事をするにもしっかりとした志を立てることが大事であり、学問を志す者は始めた以上、やり遂げる強い心を持って頑張るべきであり、学んだ事を社会に還元することも使命であるという教えであると思う。

その愛弟子の久坂玄瑞(一八四〇~一八六四)は、師の志を継いで果敢に〈挑戦〉した。長州藩の尊王攘夷派の中心人物となって、幕末の京都、江戸で国事に奔走し若くして散っていった。

久坂玄瑞と共に松蔭に学んだ高杉晋作(一八三九~一八六七)は、萩藩で農民や労働者を集めて奇兵隊を組織した〈創造〉の人であった。江戸に出て尊皇攘夷運動に奔走し、幕府との講和の使として交渉、そして外国からの武器購入、薩摩藩との提携に尽力した。しかし、彼も二〇代の若さで病死した。その二年後に、日本は明治維新を迎え、近代の夜明けを迎えることとなる。これらの若き獅子たちを駆り立てた時代の変革、改革の熱情は松蔭の〈立志〉が、如何に先見性に富んだ精神であったか。人を創る源である〈志〉を深く噛みしめてみる価値が今、問われているようだ。

幕末、大阪に蘭学塾『適々斉塾』(適塾)を開いた医学者、蘭学者であった緒方洪庵(一八一〇~一八六三)の今日的意義を、哲学者で芝浦工業大学名誉教授の河端春雄が発言している。適塾から近代日本の原動力としての大村益次郎、橋本左内、佐野常民、そして福沢諭吉等々を生み出している。

適塾に諸国から俊秀が集まったのは、人物を認め、尊重したが故でもある。洪庵の人格の力でもあるが、なんといっても、洪庵の学問見識が影響力を持っていたからだという。

〈生涯学習〉

河端先生は二〇〇三年七月二一日光州の朝鮮大学校において、私の美術名誉博士号授受式で

「二一世紀はアジアの時代と言われています。しかし『アジアの世紀』とは近代欧米を踏襲するものでありません。近代化とは具体的に言えば物質文明に他なりません。この物質文明に基づく近代化に対して当の欧米には極めて深刻な反省があります」

と祝辞の中で述べられた。

「大学は未知なるものに対する乾きに燃え、現存する全ての事物に対する不満に悩む青年学徒に愛を持って撫し、鞭打つと共に、学問によってその渇きを癒さねばならない。大学教育に携わる者は、如何に時代が変わっても教育者であると同時に、教師であり研究者であること、大学及び大学人に求められる精神である。そして若人達の果敢なる〈挑戦〉と〈創造〉が新しい時代を生み、動かしていくのだいうと教えを、我々は温故知新、学び直す時ではないかと思う。」

と河端春雄は説いている。

正義を問い、条理を説くのは容易い。米国がイラクとの戦争を開戦するかしないかで、〈戦争〉が、一方北朝鮮の核開発による〈核〉問題が、世界中の不安の共通認識になっている。また日本人拉致問題で、日朝間が膠着状態となり混沌とした政局を呈している。

国際政治や外交の事には疎いが、憂えてばかりでは能がない。世直しの最善は何か。国づくり、人づくり、国際関係づくりは教育の原点に帰り、先賢に学ぶ事だと私は思っている。

大学・大学院は学府の頂点ではあるが、社会から超絶した存在ではない。生涯学習の時代にあっては、一つの課程と位置づけられる存在でもある。学ぶ側はもちろん、教え育む側も社会によって鍛えられるべきだと思う。かつて『象牙の塔』とも言われた大学だが、権威の垣根を低くして内外の人材を糾合し、学び合う場になって欲しいと願う。

 

君子欲訥於言、而敏於行(君子は言に訥にして行ないに敏ならん事を欲す)

「不言実行」は孔子の信条である。言うは容易く行なうは難し。

現代社会に於いても心すべきことである。

-私塾「清里銀河塾」-

〈生前の遺言〉

河端春雄先生から二〇〇三年一月二五日付の書状が届いた。

「老生は、日韓合併大学の如き高等教育を夢想してまいりました。誰も耳を貸さない夢物語に、断念しなければならない齢を重ねました。が、貴兄の人格-まだ二回しか接触がありませんが-つい貴兄に老生の夢を託したく…」と記されていた。

それまで先生は、お会いする度毎に現代社会の見失っている人材の養成という作業の重要性を、私に熱く説かれた。

狂瀾の世を生き、身を処した吉田松陰は、純粋なる魂から絶叫して生きた理想主義者であり『狂気の思想家』と呼ばれる。松陰の思想は、その時代には「この世のものとは思えぬ」ほど「僕をもって狂となし愚となす。万々的当せり」と、松陰自ら残された言葉は純粋そのものであった。国を愛し世を憤る、純粋なる心情から発する松陰の胸に通じ合った河端先生は、吉田松陰の喜怒哀楽を『孟子』に寓し、『孟子』の何がを、深く思索しているとも話された。

ひいて日韓問題、とりわけ両国の青少年交流問題について関心を持っている。日韓を近づけあう、新しい関係を築くには、今の若者達に交流の担い手として立ってもらう事が急務である。

不幸な時代を踏まえて、人と人が国と国との関係を判り合い、人間的な絆を築く事で国際関係を見直して、想いを共有する新しい関係作りに繋げて行かねばならない。

暴力や憎しみからは何も生まれないものである。希望は「歩んでいくことで、そこが道になる」と信じ、動く事、行動する事で生まれるものだ。

河端先生は「遺言だと思ってほしい」と語り、私に塾の開設を依願された。

〈風土は人を作る〉

その時、私に託された河端先生の遺言は、途方も無く遠い道のりのように感じられた。また私への期待も的外れではないかと思う中、三年の月日が流れていった(河端先生は、ご健在である)。

浅学で、人生経験も浅く、とても吉田松陰の思想や、日韓両国を憂え、両国の青少年のために一肌脱げと請われても器に適う者ではなく、かなり掴み所のない話で、心もとない心境だったというのが正直なところである。しかしこの三年間、その遺言は間違いなく私の心に刻まれていた。

私事ではあるが、二〇代から清里の地で余暇を過ごすようになり、この地域、風土に育まれ人生を送ってきた。それは、この地に私が憧れ、尊敬する偉人のいる事が大きく関係している。

植民地下、韓国に渡り、韓国人の敬愛を受けた淺川伯教・巧兄弟と、戦前、戦後の日米間を激動期と変わらぬ友愛と、青少年教育に一身を捧げたポールラッシュである。

この世に人間愛を教え施された先賢たちは、在日として生きる私の師であり、目標であり、シンボルであった。

一人の人間として、真実の道を切り拓き歩まれた先賢の足跡は、清里の風土に息づいているからだ。現代を生きる人の心の根にも清里の風土、韓国の風土、アメリカの風土を重ねて見えてくるものが、この地域にはあると思われる。

人を形成するものは「人の真実」であると思う。「人の真実」が誇り高く、求道的であれば風土、人も準じる。しかし人心乱れ、荒廃に任せれば風土、人も堕するのではないだろうか。

八ヶ岳の山麓、清里の地域風土の中に生まれた精神を身に付ける、浅川兄弟、ポール・ラッシュの生き方から学ぶ事の意義と意味を、私は見つけたいと思うようになっていった。

〈何を学ぶのか〉

清里銀河塾で何を学ぶのか。主には国際理解と友好親善を目的に、韓日青少年交流を促進する健全な青年活動家の養成であるが、その基本となる「生涯学習」について考えてみたい。

一般人(住民)は自分の為、地域発展貢献のために勉強していこう。

職業人は職業意識のレベル向上の為に勉強していこう。

生涯健康を保ち、元気に生きていく為に、世代を越え、心と体を養うために勉強していこう。好奇心を持って自分を磨きたい、生涯成長していきたい、頑張る自分でありたいという学びの本能は、誰にでもあると思う。学ぶ意味、学ぶ楽しみは、生きることそのものであるからだ。

学び成熟する事で、本物の自分を確認、自分の尊厳を見つける事に繋がり、自分自身を慈しみ大切にする。

そこから相手を認める人間関係を作り、人を愛する事が出来る、そんな人たちが創る成熟した聡明な社会を創っていきたい。学びあい、助け合い、共に生きることにより、互いを高め合い、自己研鑽を積んでいきたい。多様な価値観の中で自ら学び、共に学ぶということは自己が決定することであり、生涯学習は自己教育なのである。学びを楽しむ文化を創造していきたい。

〈学びの旅-銀河への旅〉

清里銀河塾は、心響きあう事を願って「ひびきあう心-浅川兄弟、ポール・ラッシュの精神」をキャッチフレーズに、若者達らとも、これからの暮らしと生きる事を「楽しむ」「伝える」「深める」「創る」「演出する」とカテゴライズし、講座を進めていきたいと思う。

江戸時代には、庶民の旺盛なる探究心から普及した寺子屋のような私塾『清里銀河塾』から発せられるメッセージが、日韓はもとより、世界を懸ける橋になる事を夢に思い描いている。

具体的には淺川兄弟、ポール・ラッシュの生きた時代から、その人を通して、その精神性、生き方を問い、歴史を学んでいきたい。

大自然の大気の中で、彼らが生きた風土を五感に感じせしめ、次代を背負う、青少年の健全なる育成を考えてみよう。

清里から富士を仰ぎ日本を考え、それぞれの故郷を考え、世界を見よう。八ヶ岳の大自然を楽しみ、我らが生きる環境を考える。その中で五感を蘇生させて鍛え、教育のもつ意味と意義、人格、人間の価値、地域貢献、国際交流について共に学んでいこう。

河正雄の私塾『清里銀河塾』で出会い、共に学び生きる喜びや想い、疑問を共有し、更なる高みを目指す。歴史と文化に触れる「学びの旅-銀河への旅」に、福音を祈念したい。

「よい心の碑」

〈よい心の碑を建立するきっかけ〉

よい心の碑を、田沢湖畔姫観音の傍らに建立する計画を立ててから、一〇年が経った。しかし、町当局や槎湖仏教会との合意がならず、田沢寺朝鮮人無縁仏慰霊碑の傍らに建立する事となった。その事業にあたり、田沢湖よい心の会では、朝鮮人無縁仏慰霊碑浄化事業奉賛寄付金願いの呼び掛けを次のようにした。

「一九九〇年、秋田県田沢湖町田沢寺に於いて、田沢湖周辺の発電工事に関わる導水路とダム工事等の犠牲者の無縁仏、強制連行労働者を慰霊する朝鮮人無縁仏慰霊碑を建立し、毎年慰霊祭を行なって参りました。

皆様の慈悲のお心とご理解を賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。

その間、参拝者も増え、墓地参道や慰霊碑周辺が風雪のために荒れました。この度、二〇世紀の不幸を浄化する意味において、浄化事業に着手致しました。

総予算は五〇〇万円也です。一一月一一日に竣工慰霊祭を致します。一口一万円以上の奉賛寄付金をお寄せ下さい。尚、石碑に刻んで奉賛者の徳を記します。一九九九年八月一五日」

その呼び掛けに、よい心の会員や地元有志、秋田県内の在日同胞が賛同し、寄付金が集まった。田沢寺住職の寛大な取り計らいで、慰霊碑周囲の敷地の拡張を許され、計画が実行された。慰霊碑側に新たに碑銘板を建立した。その碑銘文を紹介する。

「一九四〇年に完成した、生保内発電所に関わる田沢湖導水路工事では、玉川、先達川、そして田沢湖から生保内発電所までの三本の導水路が掘鑿された。困難を極めたこの工事には、多くの朝鮮人労働者が動員されて、危険な作業に従事した。これに続く先達発電所、夏瀬発電所ダム工事では、一九四四年以後、強制連行による朝鮮人が強制労働に従事させられた。これらの工事中、多数の朝鮮人が犠牲となった。この地には、ついに故国に帰ることなく、異国の土となった朝鮮人無縁仏が葬られている。最も不幸な時代の、痛恨の歴史を心に刻み、浄化するために、浄財を募り、この碑を建立する。一九九九年一一月一一日建立 田沢湖町よい心の会 会長 佐藤勇一」

慰霊碑側壁面には、曹洞宗龍蔵山田沢寺住職二八世菅原宗美碑書の『よい心の碑』を掲げた。その壁面には、韓国大田市の韓南大学、朴炳熙教授作のブロンズレリーフ『祈願の形象・鳩』(一九八五年作)を二点設置した。この作品は自由の象徴〈鳩〉に託した〈祈願の形象〉を作品にしたものである。二〇世紀の不幸のために故郷へ帰れず、この地(田沢寺)に眠る朝鮮人無縁仏が、魂だけでも故郷へ自由に往来してほしい。そして、日朝日韓の親善友好の平和の使者であってほしいという願いをこめたものである。

また同作品は、埼玉県日高市聖天院の在日韓民族無縁の霊、納骨堂壁面そして韓国光州市立美術館にも展示されている。このメモリアルは韓日を結ぶ友好の碑である。生保内小学校中庭の『陽だまりの像』、生保内中学校校庭の『憧憬の像』も同じ作者で、いずれも同じ思いで寄贈設置したものである。

〈姫観音供養祭〉

一九九九年一一月一一日午前一一時、田沢寺本堂において、朝鮮人無縁仏慰霊碑建立一〇周年記念慰霊祭が執り行われた。その一時間前には、田沢湖畔で姫観音供養祭を挙行した。開式にあたり一〇年間の経過が報告された。

「一九九〇(平成二)年九月二三日、一九三八(昭和一三)年来行われた、田沢湖導水路工事の強制就労で亡くなった朝鮮人の無縁仏に対し、駐日本大韓民国大使館鄭亨壽公使をお迎えし、田沢湖町、在日本韓国民団秋田県地方本部、在日朝鮮人総連合会秋田県本部及び田沢湖町よい心の会会員などの関係者一〇五名の参列のもと、田沢寺において慰霊碑の除幕と、追悼の慰霊祭を挙行した。参列された主なご来賓は、田沢湖町助役桜田展也、秋田魁新報社常務取締役渡辺誠一郎氏、社団法人日米文化振興会理事長渡辺亮次郎御夫妻、作家西木正明氏ら多数であった。

また一九九一年九月二二日、田沢寺本堂並びに慰霊碑前に於いて田沢湖町から桜田展也助役、ほか在日本韓国民団秋田県地方本部、在日朝鮮人総連合会秋田県本部及び田沢湖町よい心の会会員などの関係者五〇名が参列し、供養祭が行われた。また同日は、『辰っ子に昔の田沢湖を返す会』の高橋福治会長より依頼されていた、田沢湖畔の姫観音についても供養祭を執り行った。

一九九三年八月一一日には、佐藤清雄田沢湖町長、姫観音像制作者九代目八柳五兵衛氏夫人喜代子氏など約四〇名の関係者参列のもとに、田沢寺慰霊碑並びに田沢湖畔の姫観音の供養を行った。八月八日から一〇日まで、田沢湖町を主会場として『秋田国際舞踊フェスティバルin秋田』が開催され、来日されていた韓国モダンダンス一行の方々も参列された。韓国舞踊家李丁姫さんの申し出により、わらび座の安藤真理さんとともに、姫観音供養として創作舞踊を奉納した。そして四月には、田沢湖町よい心の会一行一八名が訪韓して〈慶州ナザレ園〉を慰問した。

一九九四年一一月三日、一九九五年九月二五日、一九九七年一〇月二三日、一九九八年一一月一八日、田沢寺慰霊碑並びに田沢湖姫観音の供養を行なってきた。

本年は、一九九〇年に朝鮮人無縁仏追悼慰霊祭を挙行してから一〇年にあたる。この節目を記念し、『よい心の碑』を建立し、六月に墓地参道や慰霊碑周辺の浄化事業(環境整備)を行った。本日一一月一一日、田沢寺並びに田沢湖畔において慰霊祭を執り行なうことになった。

なお、この一〇年間、数多くの報道関係者の取材があり、経過が報道された。また、戦時中における先達発電所建設工事では、三〇七人の朝鮮人労働者が徴用された事実が公表された。工事に従事していた曺四鉉氏が、全羅南道霊巌郡三湖面に生存されていた。曺氏の証言により、朝鮮人強制連行の事実が裏付けられた。

〈追悼のことば〉

佐藤勇一田沢湖町よい心の会長が式辞を述べた。

「本日ここに、多数の皆様のご参列をいただき、『よい心の碑』の除幕式とともに、田沢湖導水路工事に関わる朝鮮人無縁仏の追悼慰霊祭を執り行うにあたり、一言、式辞を申し述べます。

一九四〇(昭和一五)年に完成した生保内発電所に関わる、田沢湖導水路工事では、玉川、先達川、そして田沢湖から生保内発電所までの三本の導水路が掘鑿されました。

生保内発電所建設工事は、東北地方を食糧生産と軍需産業の一大基地に作り替えようという〈東北振興計画〉の一環として立案された国策事業でした。一九三八(昭和一三)年二月の着工から、一九四〇(昭和一五)年一月の営業運転開始までわずか二年間という、文字通り突貫工事でした。玉川導水路一八六五・二四メートル、先達川導水路四〇二五・五八メートル、田子の木取水口から発電所までの導水路二六二六・七九メートル、すべて手作業で行われたこの工事は、今日では想像できないような難工事でした。資材を運搬するにも、馬車やトロッコ、筏などを使い、隧道やトンネルを掘削するのも、電動の削岩機などなく、全て鶴嘴や鍬やスコップを使っての手作業でした。硬い岩盤を掘り進めるためには、ダイナマイトによる発破が使われました。

一九三七(昭和一二)年七月の蘆溝橋事件以来、中国への侵略戦争は泥沼化し、多くの若者達が戦場に駆り出されました。国内における労働力の不足は決定的でした。

そのような状況の下で困難を極めたこの工事に、多くの朝鮮人労働者が動員されて危険な作業に従事しました。

工事は冬季間も続行され、飢えと寒さの中での過酷な労働によって、病に倒れた人も少なくありませんでした。また発破の装着などの危険な仕事は朝鮮人労働者に割り当てられたため、爆破や落盤事故の犠牲となって、多くの人が命を奪われました。

玉川から強酸性の毒水が流入される事によって、豊富な魚資源が絶滅する事を憂えた湖岸の住民達は、工事計画の変更を求めて陳情運動を展開しましたが、〈富国強兵〉〈産業報国〉の名の下に一蹴されてしまいました。

毒水の流入とともに魚は死滅し、辰子姫伝説に彩られた神秘の湖は、死の湖と化してしまいました。

田沢湖周辺の多くの住民を駆り出し、その生活の根幹を脅かしたこの工事で、最も不幸な犠牲となったのは、故国を遠く離れた異境の地で病気や事故の為に命を落とし、異国の土となった朝鮮の人々でした。

帝国主義日本の植民地支配の下で、祖国を奪われ、土地を奪われて亡国の民とされた朝鮮の人々の多くが、本意なく日本に渡り、図らずもこの工事現場で無念の最期を遂げたのでした。

生保内発電所工事に続く、先達発電所・夏瀬発電所ダム工事では一九四四(昭和一九)年以後、日本政府による徴用によって、多数の朝鮮人が強制連行され、過酷な労働に従事させられました。

近年、これらの工事に徴用された三百七名の朝鮮人の名簿が公表され、生存者による生々しい証言も行われています。短期間ではありますが、これらの工事の中でも、多数の朝鮮人が犠牲者となっています。

今、私達が立っているこの地には、ついに故国に帰ることなく異国の土になった、多数の朝鮮人無縁仏が葬られています。

私達田沢湖町よい心の会では、一九九〇年九月二三日に『朝鮮人無縁仏慰霊碑』を建立し、慰霊祭を執り行いました。

以来一〇年、日本と韓国・朝鮮の多くの方々がこの地を訪れ、この地に眠る人々の霊を慰めるとともに、不幸な歴史を二度と繰り返すまいとの誓いを新たにしております。

二〇世紀が間もなく終わり、新しい二一世紀が始まろうとする今、最も不幸な時代の痛恨の歴史を心に刻み、浄化するために、浄財を募って『よい心の碑』を建立するものです。

碑の除幕にあたり、改めて朝鮮人無縁仏の霊の安らかならんことを祈り、追悼の誠を捧げます。

最後に、本事業の趣旨に賛同して御芳志をいただきました皆様、本日ご参列下さいました皆々様にお礼を申し上げ、式辞と致します」

佐藤清雄田沢湖町長(代読・高橋正男助役)が、追悼の言葉を述べた。

「紅葉も散り、いよいよ秋も深まってきた今日、ここ田沢寺に於いて、朝鮮人無縁仏慰霊祭が、多数の皆様の御参列のもと、厳粛に執り行われますにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

今から六〇有余年前、我が国の国策工事のために、懐かしい祖国から遠く離れ就労され、異国に於いて尊い命を失われた朝鮮人の皆様、そして、ただ黙々としてあらゆる苦難に耐えてこられた御遺族の胸中をお察しします時、万感胸に迫るものがございます。ここに尊霊に対し、謹んで敬弔の誠を捧げます。

また韓国、朝鮮人の皆様が、戦後、今日に至るまで、家業に精励され、更には立派に子弟を養育され、祖国や我が国の発展にも大きく寄与されてこられた、そのご努力に思いをいたし、ここに深甚なる敬意を表するものであります。

この慰霊祭が、心ある方々の貴い浄財によって建立された慰霊碑の前で、継続して開かれてこられたことは、ひとえに、『よい心の会』の皆様を始めとする関係各位が、それぞれのお立場の違いを乗り越え、真の平和と友好を願い、心を一つにされた事の賜物と存じます。

あたかも千年紀をまたがんとする時、慰霊碑建立一〇周年の節目を迎えられたのでございますが、過去の不幸な歴史を決して風化させる事なく、二一世紀を担う世代へと伝えてまいる事は、我々に課せられた大きな使命であり、この度の『よい心の碑』の建立は、皆様の願いを新しい世紀へ伝える第一歩として、誠に意義深いものがあると存じます。

我々も、田沢湖を湛える水のように深い心で、そして、瑠璃色の水のように澄んだ心で、過去の歴史をしっかりと踏まえながら、恒久平和を念願し、両国を始め、諸外国の皆様との友好の輪を積極的に広げてまいらなければと心を新たにした次第です。

諸霊に於かれましては、安らかに眠られますように祈念いたしますとともに、慰霊祭開催にあたりご尽力された『よい心の会』の皆様、並びに御列席の皆様の御多幸を心からお祈り申し上げまして、追悼の言葉とさせていただきます」

続いて、韓国民団秋田県地方本部朴昌洙団長が、追悼の言葉を述べた。

「戦争時代に異国の地、日本の田沢で亡くなられた韓国の人達に、謹んで追悼の辞を申し上げます。

第二次大戦中、日本政府は国内産業の人手不足を補うため、国策として、その労働力を韓国各地から多くの人々を強制連行して、日本各地に割り当てました。その多くは、未来ある若者であったことが、尚更に胸を打たれるものがあります。

秋田県は鉱山が多く、県北には数千人の韓国人が住んでいました。韓国の人々は、日本の国のためにいろんな分野で就労し、過酷な労働と飢えと寒さの中で、多くの人々が無念の死を遂げていったのであります。

一九四五年八月一五日、終戦と共に生き長らえた大半の人々は、生涯癒えることのない心の傷を負いながらも光復を迎え、一日として忘れる事のなかったあの懐かしい祖国韓国に、我先にと帰っていったのであります。

しかし犠牲になった多くの慰霊は、懐かしい故郷、両親、妻や子供に会えることなく、日本各地にそのまま置き去りにされました。その無念さは、余りあるものであったと思われます。時の流れと共に人の記憶は薄れ、田沢の地は何事もなかったかのように、平和の時を刻んでおります。

しかし、皆さんのことは、決して忘れてはならない歴史の一ページであります。

ある日、皆さんと故郷を同じくする、父親の元に生まれた一人の在日韓国人の二世が何かを感じ取り、弛まない努力によって、皆さんの存在を発見しました。そしてその二世の人を中心に、田沢に住んでいる人々に、その善意の心が広がり、この地に皆さんの遺霊を癒す碑が建てられ、こうして慰霊祭を行い、皆さんに語りかける事が出来ますことは、韓国民団秋田地方本部団長として感無量であります。

戦後半世紀が経った今、韓国と日本はかつてないほど友好状況にあり、来る二〇〇二年には韓日共同ワールドカップが開催され、多くの人々が、韓国へ又は日本へと訪れることでありましょう。

今後は、この追悼碑に込められた善意を大事にして、一層の韓日親善友好に尽くし、両国の発展に努力する事を誓い、追悼の言葉といたします」

〈碑建立の意義と意味〉

僧侶の読経に続いて、参会者の焼香と進み、本堂での追悼慰霊祭を終えた。引き続いて、墓地裏山の小高い丘に建てた“よい心の碑”の除幕を終えて、霊を慰める直会を開き、参会者一同は懇親した。私はこの席で謝辞を述べ終え、胸を撫で下ろした。

この一〇年は夢のように過ぎた。始めは建立趣旨の理解を得られず、切なく悲しい思いをした。しかし多くの人々の善意と協力により守られ、乗り切る事が出来た。何事も理解を得て物事を成す為には時間が必要であり、時間の流れの中、状況と人心が変化するのを待つ事が大事であることを悟らされた一〇年であった。

同時に時と時代は目まぐるしく変わってきたが、本質的なものは何も変わっていない事をも痛感させられた一〇年でもあった。教科書問題、靖国参拝問題の韓国や中国などの反発や抗議を見れば、よくわかる事実である。

よい心の碑建立の意味と意義が、それらの問題の解決方法の一つになるのではないかとも思う。このメモリアルが永遠に記憶され、韓日友好親善の礎になることを願う。

「満月照らす金剛の峯を望んで」

〈はじめに〉

金剛山は建国神話に始まって、新羅時代から三神山として崇められ、古より韓民族の崇拝と信仰の対象である。また美の対象でもあり、芸術的審美の叙事として捉えられてきた。金剛山は歴史の舞台、文明の背景であり、韓民族の伝統的な精神世界と文化を育んできた重要な位置を占めている。

在日の私にとって、金剛山は憧れの対象であり、夢の中でしかその姿を描くことが出来なかった。死ぬ前に、一度は行くことが出来るだろうかと長い間、想いを寄せていた。一九九八年になって政経分離、太陽政策の成果により、韓国の現代グループが、南北統一の礎となる金剛山観光の道を拓いた。

分断後五三年ぶりに南北民間交流が実現し、海路から天下の名山を観光することが出来るようになり、二〇〇四年には陸路で三八度線の境界を越え、秘境を探訪する道も拓けた。それ以来、昨年までの金剛山の観光者は八〇万人であったというが、今年一年の計画では五〇万人を予定しているというから、飛躍的な伸びを見せている。統一に向かって、金剛山は政治的な位置をも占める重要な観光スポットになろうとしている。

〈旅立ち〉

昨年の晩秋、春川の隣街、龍川のスキー場コンドにソウルの友人程巳柱氏が招待してくれた。その時、

「旧正月(ボルムナル)には、金剛山で開催される『統一祈願観月(お月見)行事』に参加しましょう」

と誘われた。民間レベルで、南北交流協力の主旨で設立された統一部傘下社団法人ジウダウの主催によるイベントであった。

「祖国光復六〇周年、分断六〇周年、六・一五共同宣言発表五周年を記念して、詩と調べと共に、金剛山で正月の満月の統一観月を行いたいと思います。昔から、正月の満月を見ながら懸けた願いは叶うと言われています。民族の名山、統一・平和の聖地金剛山で、正月の満月に民族統一の願いを懸けましょう。二〇〇五年、我々民族の希望を、明るい月を眺めながら祈りましょう」

と年明けに案内が届いた。

私と妻は、ソウル昌徳宮から観光バスに乗ったが、早々に

「金剛山を観光することは、海外旅行と同じであると思って下さい」

と添乗員に釘を刺された。南北分断とはいえ、安易に北側も我が祖国と思っている私には、同じ朝鮮半島に異なる文化を持つ〈外国〉が存在することである現実を再確認させられ、緊張感がよぎった。

〈北側に入る〉

以前は南側の最北限基地で、一度訪ねたことがある三八度線の統一展望台。この地点から韓国、北朝鮮とは呼ばず、南側、北側と表示、呼称している。下の南側の出入管理事務所で手続きを終え、バスを乗り換え、金剛山専用道路を走り、電流が通っている鉄条網の張られた非武装地帯を進んだ。

この道路は、南側の資本力と北側の人力で完成させたものである。その道路の脇には、分断されていた京義線が繋がれて北側に伸びていたが、元山までは昨年末までに開通するとの話があったが、現在のところ開通はしていない。そこは手付かずの、自然の保護区域のようであった。

三八度線の南北境界線でバスは停まった。北の軍人が挨拶もなしにバスに乗り込んできて、人数を確認した。その間、車内は静まり返り、乗客は身じろぎもせずにうつむきながら、彼らの様子を窺っていた。何とも言えない緊張感を感じていたが、その状況、心情はとても複雑で表現することが出来ない。

余りにいたたまれなかった私は、目をそらして窓の外、遙か遠くに目を移した。零下五度にもなる雪原の山裾に、黒い牛が放牧されていた。そののどかさは、車内での緊迫感のギャップが余りにもあったため、不自然さを感じ、奇異なものに映った。絵になるように演出されて牛が放牧されているのではないかと。

北側に入ってから、民家が防壁の左右に見えた。煙突から煙が力無く上がる様子は、まるで半世紀前に戻ったような佇まいで、寒々とした風景である。どの家からも光らしいものは見えず、無人の町のようにも思えた。道路には、雪道を歩いている人と、両手にバケツで水を運んでいる女性、自転車を押している人が点々と見えた。

一台のトラクターに、一〇数人を乗せすれ違ったが、乗っていた何人かが我々に手を振ってくれたので、心に温かいものが流れた。それ以降は北側を去る日まで、道路に自動車を見ることはなかった。

海金剛の港に、北側の出入管理事務所があった。

「あなたは在日同胞二世でしょう」

「そうです」

「なぜ、光州市立美術館の名誉館長をしているのか」

「父母の故郷が光州である縁故から」

という軍服の事務官とのやりとりの後に、北側に入る査証の印をもらった。質問の内容、眼光から、この事務官は在日や韓国について関心が強い人なのではないのかと見直したが、目を合わそうとしなかった。

〈将軍の絵〉

経営は現代亜山、従業員は北側の人間だという金剛山観光ホテルに到着した。道路の横断幕には「我々の式(やり方)で生きていこう」、ホテルの脇には「二一世紀の太陽、金正日将軍万歳!」というスローガンが掲げられていた。

このスローガンには、六者協議の不参加を表明し、核兵器製造を宣言している北側の「敵対政策を解消せよ」「主権を認めよ」「内政干渉をするな」という意志、北側の言う主体思想が表されているとの印象を得た。少し離れた所に、金日成将軍が公園で遊んでいる幼児と語り遊んでいる様子の壁画があった。

この絵は朝鮮画報で何度も見た絵であり、金日成将軍の顕彰碑であった。その碑の周りを、降りしきる雪を一生懸命掃き払っているというよりは、掃き清めている婦人がいたので

「有名な画家が描いたものと思いますが、誰が描いたか知りませんか」

と尋ねたが

「わかりません」

と、怪訝そうにその婦人は答えた。

その時、突然に森の中から警笛が鳴り、赤い平旗を振って軍服の警備員らしき人が現れ

「話をするな、離れろ」

と警告された。突然のことで私はひどく驚いてしまい、冷や汗をかいた。

その絵をその晩、再度見に行った。降りしきる雪の中で、またしても前述の婦人が、金日成将軍の壁画の周りの雪を払っていた。

金日成将軍は人民に、こんなに敬愛(?)されているのかと思うと共に、命令で任務としてやっているのだろうかとも脳裏をかすめ、その婦人の姿を見ながら声をかけることなく思いにふけてしまった。

鍵をもらって部屋に入ったところ、点いていた電気が消えてしまった。しばらくしてルクスが下がった状態で点いた。テレビが設置されており、南側の放送だけが受信できるものであったが、見ることは出来なかった。薄暗い中で明日の登山の荷造りをして、早々と眠るしかなかった。

翌朝、フロントの支配人に事情を尋ねたところ、電力不足が原因だったらしい。一般市民は、一日に一時間しか電力供給を受けないとも聞いている北側の電力事情を考えると、不平を言うよりも北側の人たちの境遇を考えてしまい、申し訳なさが先に立ち、その晩は眠りにつけなかった。

〈金剛山登山〉

翌朝九時、金剛山登山に出発した。外金剛九龍峰コース、約四・三km、往復約三時間半の行程である。金剛山の面積は済州道とほぼ同じ一六〇<CODE NUM=0107>、山勢は険しく雄大、大きな滝がある外金剛、山勢が穏やかで潭と沢が多い、内金剛、海に隣接し奇岩絶壁を持つ、海金剛と区域分けされており全山懐を金剛山と呼ぶ。

毘盧峰一六三八mを主峰とする一万二千の峰が連なる。ツアーの一行の中に、主催者の趙世衝前駐日大使が参加されており、再会を喜び挨拶を交わす。

「金剛山の山岳風景を、どう言葉や文字で全てを表現できようか。金剛山の大自然を問うべからず。目でもその全てを見ることが出来ないものを、どうして言葉で語れようか。金剛山の大自然を知ろうとするならば、ここに来てみるべきだ」

と詠われている。その詩に誘われ、夢にまで見た金剛山の山懐山脈への感激と感動は、言葉に言い表せない。水墨画の名画のような風景であった。

「お前を最初に見た時、私は恍惚となった。二度目は自分自身を忘れた。三度目に見た時は、いっそ家族とも別れてあの峰、あの谷、あの岩の一つ一つに込められた物語を集め、お前の懐に抱かれ生きん」(小説家・鄭飛石)

の礼讃に、私もその世界に全身全霊を委ねる。

山道は雪が深かったが、北側の奉仕員達が山路を作ってくれて有り難かった。一五〇mの絶壁から滑り落ちる九龍滝は凍りついていたが、朝鮮三大滝の折り紙付きの風格、品格で誇る景勝である。飛鳳滝、武鳳滝も同じく凍りついて水晶のように輝いていた。名だたる渓谷は春雪の布団に眠っていたが、微かにせせらぎが聞こえ、春の近いことを告げている。

登山コース、特に名のある金剛門などにあった巨石に、金日成将軍を讃える赤字の刻文が数多く見られた。この先、金剛山が世界遺産に指定を受ける事があった場合、この刻字がどう評価されるのだろうかと考えた。多分この刻字された個人崇拝のスローガンのため世界遺産登録は無理でなかろうかとも思った。金日成将軍を讃える碑石のあるところは、どこも雪を掃き清められ、北側の監視人が立っていた。そこでは崇拝の現れだろうと思うしかなかった光景である。

観光客が、一般の北側住民に接する機会は度々あったが、コースの要所に配置された北側の奉仕員からは無表情で挨拶はない。私達からの挨拶に目で答えるのみで、中には何ら反応しない人もいた。コミュニケーションがとれないのは、旅人の心情としては淋しかった。しかし、昨年よりは少しずつ挨拶があるようになってきたと案内員が教えてくれたことから、親密な関係を築くには、まだ時間が必要なのだと理解するしかなかった。

〈朝鮮はひとつ(ハナ)〉

登山が終わって、金剛山文化会館で平壌曲芸芸術団公演を見た。空中サーカスは世界的と評判があり、日本のテレビでも見たことがあった。ピエロ役の俳優も見覚えがあったので親しみを感じた。昨年、上海で上海雑技団公演を見ていたので、水準は世界的に通用するものであると納得した。

公演中、演技に飲まれ何度も涙が出てきた。それは、芸術的な演技による賞讃と感動から来るものであった。アクロバット演技のフィナーレに、白地に青の朝鮮半島の地図の旗が振られた。そこには「ハナ(ひとつ)」と書かれていた。舞台と観客が一つになった瞬間で、口笛と大きな拍手が起きた。

次に、赤地に青の朝鮮半島の地図の旗が振られた。しかし傍から

「北側流の〈ハナ(ひとつ)〉では困るなあ」

と冷めた声が聞こえたので、瞬時に夢から覚めた気分になってしまった。公演終了後第二部として、ソウル大の国楽公演があった。実は、平壌モランボン校芸団総合校芸公演との交流があるはずだったが、政治的なことで今年は実らなかった。主催者は折角の南北交流が出来ずに残念がっていた。

〈マッコリの味〉

公演を終えて屋外に出ると、ものすごい雪が降っていて、旧正月(ボルムナル)に春の雪が降った、これはよい報せであると喜んだ。

感動冷めやらぬ気分で食堂に入り、マッコリ(濁り酒)を注文した。その瓶に貼られたラベルには「一杯では満足しない。もう一杯飲めば力と勇気が湧いてくる。無病長寿、マッコリ(濁り酒)のおかげであることを、くれぐれもお忘れないように」、また「脳血管、高血圧、心臓疾患、健忘症や美容にも良い」とも書いてあった。その味は、南側で飲んだものよりも、私には美味しく感じられた。

ラベルの文句通りだと言ってはもう一杯、もう一杯と飲み交わした。だが、その時ふと、北側の人達はこのマッコリを、我々のように自由に飲み交わすことが出来るのだろうかと考えた途端、酒の酔いが醒めていくようだった。店の奥では、北側の娯楽番組のテレビ映像が流れていたのを見た。同じ区域内でも、南北の情報の分断があるのがわかり、気分が暗くなった。

ホテルへの帰り道、もう九時を廻っていたが、また金日成将軍の壁画の碑を見ると、昨日の婦人が吹雪の中、雪を黙々と掃いていた。私はその光景を見て、崇拝だけではない、任務、命令でやっているのだろうかと思えたのだが、北側の人達に同情することも、また失礼なことかもしれないと、複雑な心境になってしまった。

〈永遠なる金剛山〉

三日目の朝は快晴となり、金剛山の峯々は清々しく気品に満ちた勇姿を見せていた。昨夜の春雪を踏みしめて、萬物相コースの登山に出発した。万物の姿を映した奇岩、怪石と鬱蒼とした森、「萬物相を見ずして金剛山を語るなかれ」と言われるほどの絶景であるというが、雪が深くて萬物相登山は途中で断念せざるを得ず、有名な鬼面岩、三面岩を見ることが出来なかった。

温井里から神渓川畔の松林を散策する往復二時間の行程であったが、松林の美しさは姿、形、色のどれをとっても、金剛山を引き立てる芸術品といえるものである。冷気の中の金剛山の山脈と山塊をバックにしての金剛の朝の光はまばゆく、神々しいものであった。神気、霊気が五感に染み入るような朝の登山を私は満喫した。

こうして帰途に就いたのであるが、我々南側の人間が行動した金剛山は電気が通った、鉄条網に囲まれた中であったことが、何よりもストレスを感じた。それは、我々が駕籠の鳥のように感じられたが、鉄条網の外にいる北側の人々もまた、更に大きな鉄条網の中で生きているという現実に、複雑な想いを抱いたからだ。

国際社会で孤立せず、北側には核兵器製造を放棄し、民主化され、開かれた社会を何よりも切望してやまない。引き裂かれ、憎しみ合い、南側も北側も鉄条網の中で生きている現実は不幸である。南北の不幸を思うからこそ、北側で私は事あるごとに、涙が溢れてくるのを抑えることが出来なかった。北側を抱擁すべき可哀想な同胞との、同情心を超えた人類社会の普遍的倫理と、不条理に対するやるせなさが込み上げてくるからだ。

鉄条網の中では、韓民族に真の幸せと安寧がないのだという事を肌で感じさせる、痛みを帯びた旅であった。もう一つの外国でなく「朝鮮半島は一つの国」で、生きることが最大の幸せをもたらすのだと確認した金剛山観光であった。また秋には錦繍金剛の峯々を歩いてみたい、その時には京義線に乗って訪ねたいと切に願った。

ボルムナルの満月の月が金剛の峯々を明るく輝かし、月の光は優しく、またの来訪を誘うかのようにソウルに向かう我々を見送るようにどこまでもついてきた。この明かりが、何よりの救いのように我々の心を照らしていた。

「二〇〇六王仁文化祭に寄せて」

〈王仁文化祭(桜まつり)〉

二〇〇五年四月二日、霊岩郡守から二〇〇五王仁文化祭(桜まつり)に招待され、開幕式に参列した。毎年、日本からのお客様を連れて王仁廟参拝は続けていたが、王仁文化祭には参席する機会が無かったので感慨深かった。王仁廟は、全羅南道の史跡であり道立公園であるが年々、文化的に整備拡大され、市民公園として充実してきたので、その変わり様には目を見張った。

開幕式は薩摩琵琶の演奏で開幕されたので、非常に驚いた。というのは、この時、小泉総理の靖国問題、独島(竹島)問題で両国の関係は険悪になり、色褪せた韓日友情年となっていたからだ。会場の周りには警官が配置され、日本から来た薩摩琵琶奏者をものものしく警備していたのが、象徴的であり、興醒めな雰囲気を醸し出していた。

金澈鎬郡守は

「応神天皇の招きで日本に行かれ、先進文化を伝達した王仁博士は霊岩の誇りである。韓国、そして国民が反日になろうとも、霊岩は王仁博士の遺徳を守り、韓日の友好親善の要となる」

と私を勇気づけてくれた。

羽織袴を纏った薩摩琵琶奏者らの団長は、私の東京王仁ライオンズクラブ在籍時代の知人、森園安雄氏であった。

「河さんの故郷、霊岩で会えるとは夢のようだ。今日、晴れの演奏が出来たことは、王仁博士の遺徳であると思う。両国にどのような波風が立とうとも、薩摩琵琶が平和と友好を奏でます」

と語ってくれた事に、深い感銘を得た。

私は一九八七年九月二六日、王仁博士遺跡趾浄化事業竣工式における梁井新一駐韓日本大使の挨拶「王仁博士の遺徳は、日本の学問文化の基礎は基より、韓国との交流史の金字塔を打ち建てて現代に蘇った。『温故知新』、王仁博士はこの格言を持って我々に教えている。この竣工を契機に、両国の善隣友好関係を子々孫々推進して、相互文化交流を深めねばならない」を思い出し、その言葉を強く噛み締めた。

〈閃き〉

公園の中心部に、枚方市の大阪府史跡伝王仁塚の王仁墓のレプリカが建立されていたのを見て、ある閃きが走った。王仁墓の周りに、私の故郷秋田県仙北市角館の枝垂桜を植えてみてはどうだろうか。私は早速、霊岩郡・朴太洪文化観光課長に打診してみた。

「公園は計画的に既に整備され完成しているので、新たに植樹することは無理かと思う。特に日本からの桜となると…?」

感想は予想通り、概ねこのようなものであった。

そこで私は

「朴課長、王仁博士のお墓の周りは余りに淋しすぎます。王仁博士を慰め、感謝と報恩の心で韓国と日本が桜咲く春を共有、共感できるようにしたいのです。それが王仁博士の想いに通じるものではないでしょうか」

と畳み掛けた。すると

「計画書と資料を送ってみて下さい。河さんのおっしゃることですから検討してみましょう」

と程なく返事を頂いた。日本に帰り早速、計画書を作成し秋田と角館、そして桜に関する資料を送ったところ、追ってすぐに

「植えてみましょう」

との返事が届いたので、話はしてみるものだとつくづく思った。

〈奥田敦夫先生〉

二〇〇〇年、埼玉県日高市聖天院に在日韓民族無縁の霊碑建立を記念して、角館町教育委員会から寄贈された国指定天然記念物角館の枝垂桜は、元角館町教育長であった奥田敦夫先生の配慮により実現したものである。

「今年は光復(終戦)六〇周年、韓日国交条約締結四〇周年、そして国民友情年を意義ある年とするために、私の父母の故郷の賢人王仁博士を顕彰、報恩と感謝の心で韓日友好親善交流を促進するために、角館の枝垂桜を霊岩の王仁廟に植樹したいので、ご紹介いただけないでしょうか」

と奥田先生に連絡を取った。

奥田先生から紹介いただいた岩手緑化種苗生産組合(北上市和賀町)から、一年接ぎ木された一、二mの苗木二〇本が届いた。

「角館の“枝垂桜”と言う名称は文献にはありません。一般に、その土地の名木に名称を付けて、呼んでいるものであります。この度の枝垂桜の品種は、紅枝垂桜一四本。ヒガンザクラ系で紅色、八重咲き。名称は仙台(せんだい)枝垂(しだれ)桜。そして白枝垂桜六本。サトザクラ系で白色、一重咲き。名称は吉野(よしの)枝垂(しだれ)桜」

と苗木の説明文が添えられていた。

〈桜〉

私も予備知識を得るべく、文献を調べ始めた。桜はバラ科サクラ属に含まれ、北半球の温・暖帯に分布する約二〇〇種と、南米アンデス山地に生息する少数の種からなる。ヒマラヤから、日本に至る東南アジア地域には二〇~三〇種の自生種があるが、日本のものは殆どが固有の種類である。

サクラの種類は、野生種にヤマザクラ系(カスミザクラ、オオシマザクラなど)とヒガンザクラ系があり、明治初年、染井《現豊島区内》の植木商が広めた園芸種で、エドヒガンとオオシマザクラの雑種のソメイヨシノが現れるまでは、サクラの主流であった。園芸種には、先にあげたソメイヨシノの他に、コヒガンザクラ、サトザクラ、オオシマザクラ、ヤエザクラなどがある。

古代日本人は、サクラには神霊的、神聖感を感じ、美意識の対象である以前に、農耕社会の民俗信仰が源流にある。大陸文化全盛期には一時、梅に取って代わられていたようだが、平安時代に再び桜に傾倒を集めて以来、日本人にとって切り離すことの出来ない花となったのである。

観桜は貴族、そして武家社会の行事から始まるが、江戸時代になると庶民をも交えた春の行楽として定着する。

〈角館の枝垂桜〉

角館の枝垂桜(エドヒガンの変種)の歴史と由来を語りたい。

佐竹北家として入分した初代・佐竹義隣(さたけよしちか)(公家高倉永慶の次男)の子、義明(よしはる)に輿入れした公家三条西家の娘が、京を偲ぶために持参した三本の苗木を移植したことが始まりと言われている。樹齢二〇〇~三〇〇年以上の老樹四〇〇本が咲き誇り、国指定天然記念物一五二本(一九七四年指定)と、建ち並ぶ武家屋敷で知られている往時そのままの角館は、秋田藩の支藩であった。

角館は一六〇三年、角館城主となった一万五千石の芦名盛重(義勝)によって造られたものである。また、桧木内川堤の桜並木(国名勝指定)は、一九三三年天皇陛下誕生を記念して植えられたソメイヨシノの群落で、二㎞に渡る日本一有名な「桜のトンネル」である。

〈失敗〉

植樹する日は二〇〇五年五月一三日と決まった。杉並区NPO法人「もくれんの家」(代表八木ヶ谷妙子)の会員七名と東京呉学園理事の呉永順御姉弟四名、そして私の妻と総勢一三名で霊岩を訪問することとなった。苗木は韓国に発つ一日前に成田での検疫を受け、現代美術家宮島達男氏の奥様、依子さんが手続きを手伝ってくださったことで、無事検疫許可証が下りる事となった。

しかし仁川空港で、その苗木が差し止めになってしまうトラブルが発生してしまった。昨年の秋に検疫法が変わり、苗木を二年間預かり、検疫が降りたら取りに来てほしい、事情があるのならばこのまま持ち帰るか、無用であればこちらで処分する、と言うのである。まさに青天の霹靂とはこのことである。軽いパニックに陥りながらも、その場は

「二年後に取りに来ます」

と返事をして立ち去るしかなかった。

韓国に於いて法律改正はよくある事だとは、ある程度認識してはいたつもりだったが、霊岩郡庁でもその法改正を認識しておらず、すでに植樹のための穴を掘り、セレモニーの準備までして待機して大変な苦労をかけてしまったので、ただ我が身の不明を恥じた。

〈経緯〉

しかし一二月一七日に霊岩から

「霊岩は八〇年か一〇〇年かの大雪で、街は麻痺状態です。日本ではどうですか?」

との電話が入った。会話が進むうちに

「桜の検疫が通ったので、来春四月八日に王仁文化祭(桜まつり)のメインイベントとして植樹式を執り行いたい。日本からお客様を連れてきてください」

という話が、突然に出てきた。

植樹は二年後のことだからと、全く頭からその事が抜けていた私にとっては

「えらいことになった」

としか言いようがなかった。何せ、植樹式まで一〇〇日程度の時間しかないのだ。年末の最後のところで、急に忙しくなってしまった。

すぐに考えたのは、この意義ある植樹を有意義な行事にしたいという事である。そこで奥田先生に

「この桜の苗木は、秋田の人々に植えて貰いたい。出来れば仙北市長に植えてもらいたいと思っているのですが、どうでしょうか?」

と相談した後、石黒直次仙北市長と面談し、植樹の提案をした。その場で

「検討しましょう。二月までにご返事すれば良いでしょうか?」

と答えられたのを聞いて、この植樹に意義を感じてくれたものと、市長に感謝と親しみを得た。

石黒市長が、郷土の誇りとする桜の苗木を植樹するというのは、王仁博士との縁を結び報恩と感謝を示すことで、桜が取り持つ両国の友好親善の絆になるであろうとの考えからである。しかし市長が公務多忙のため植樹に参加できないのは心残りである。

良い事を考える、行うという事は、本来は国を超えて楽しく、幸せなことであるはずだ。しかし実行に際しては、決して思うようにはならないものであり、その想いや行動は理解されずに一方的に取り止めになってしまうことが多く、落胆させられるのも事実である。

知人に、植樹式案内の声をかけただけで四二名もの方々が集うことになり、四月八日植樹式が挙行される事となり正直、年甲斐も無く血が騒いでいる。

〈千字文の書寄贈〉

小林冨美子(雅号・芙蓉)さんが、二〇〇六王仁文化祭の一〇周年を記念して「千字文」の作品『楷書と行書の屏風』を贈られる。

小林さんは芙蓉会の代表である。芙蓉会は書道と俳画を通じ、民族と文化の壁を乗り越え、国際親善と文化交流を目指し、一九九八年より精力的に活動している。これまで国内では東京、大阪、四国など、海外ではアメリカ、南アフリカ、オーストリア、特に日本と韓国などで、韓日友好親善に心を寄せる個展を数多く開き、世界の人々の心を共感させてきた書画家である。

私と小林さんとの御縁は、二〇〇〇年光州ビエンナーレ記念韓日親善二〇〇〇展における招待作家として推薦をしたことから始まる。そして二〇〇二年、光州ビエンナーレ記念日本文化週間の招待作家となった。その年は、史上初のワールドカップサッカー大会二カ国共同開催となり、韓日国民交流年と定められ民間交流が活発となった。

サッカー大会は、人類の平和と和合の精神を問う韓日交流の真の意義と深い絆を結ぶ大イベントとなった。その時、知人の具未謨氏から、韓国の書芸家、陳未淑(雅号・玉田)氏との交流展のパートナーとなる日本作家を紹介してほしいとの要請があったので小林さんを紹介した。中国に生まれた漢字を使用しながら、二人の女流作家が文字そのものが持つ意味を最大限に表現しようとする「書画」という独特の表現分野においての、出会いに心がときめいた。

書芸と東洋画、俳画を通じて日本と韓国のそれぞれの感性と精神世界を表現し、親密な関係発展と相互理解を増進する意味は深い。韓日両国の現代美術の共通点と異なる点を比較しながら、両国文化の多様性を確認し、理解しあうのは何よりの国際親善である。

小林さんは、これまで「千字文」の作品を度々、発表してきた。それは応神天皇の招聘により論語一〇巻、千字文一巻を携えて来日、日本における文化形成の原点である漢字「千字文」を伝えた百済の賢人、王仁博士を尊敬する熱い想いからである。贈られる「千字文」の作品は報恩と感謝、韓日友好を願う万人の祈りを込めたものなのである。王仁博士の故郷霊岩の王仁廟に小林さんの心(全霊)が宿り、韓日友好の礎となることであろう。

〈ウィーンの日本庭園〉

二〇〇三年の春、日本庭園の修復を通じて国際交流推進事業を行うNPO(特定非営利法人)日本ガルテン協会(会長 原田栄進)より案内があった。

「一九一三年に造営されたオートストリア、ウィーンのシェーンブルン宮殿にあるハプスブルグ家縁りの日本庭園の修復、復元が完成しました。その庭園で、裏千家前家元・千宗室大宗匠のお手前で茶会が開かれます。一緒に行きませんか」

というお誘いであった。

お互いの文化や習慣の違いを知り認め合う。そして補い合うことで相互理解が生まれ、新しい道が開かれる。陰陽の太極思想のように入り混じり、丸く一体となって新たな生命体を生み出すのだと、国際交流の意義を説かれていた。しかし、その時は日程が合わず、お誘いに答えることが出来なかった。

二〇〇五年の春、私は妻と東ヨーロッパへの旅に出た。立ち寄ったシェーンブルン宮殿の庭園を散歩した。日本庭園の標識が眼に入った時に、これが案内を受けた庭園であったのかと気づいた。

ウィーンの森の中を進むと、その一角に造営された三段の滝石組、築山に三尊石組、心字池、手水鉢が配置されており一〇〇年近い年代の風格を感じる庭園であった。その庭を一九九八年に修復し、その翌年に庭園の両側に茶庭、枯山水など、原田さんが造営した日本庭園を見た時には感動が止まらなかった。歴史もさるものながら、ヨーロッパの宮殿に日本庭園が存在しているという親近感。これは国際交流の大事な要素であるからだ。

〈両国の発展に繋がる〉

東ヨーロッパの旅を終え、すぐに二〇〇五王仁文化祭に参席したのだが、王仁墓の周りは何か物足りないような寂しさがあったことから、桜の植樹を提言した経緯を先述の「閃き」の項で述べたが、この時、私にはもう一つの「閃き」が浮かんでいたのである。それはシェーンブルン宮殿の日本庭園での感動に直結していた。

二〇〇五年六月一二日、日本ガルテン協会主催で「チェコ日本庭園・翔和苑開園一周年記念」行事が帝国ホテルで開催された。原田さんの長女が韓国大使館文化院で日韓文化交流の職にあり、その関係でご招待していただいた。

会に出席して、私の目指している国際文化交流と合致するお話を原田さんから伺い、私が半生をかけて、韓国で手がけてきた文化活動の資料を手渡した。その後、王仁博士に捧げる日本庭園作庭の方向に、急速に進展していった。

「四世紀応神天皇時代、王仁博士によってもたらされた大陸文化により恩恵を受け、今の日本がある事は、日本見識人の常識である。現在日本との通商や、文化交流が高まっているが、人と文化の交流の基盤があってこそ国際理解を深め、両国の大きな発展に繋がる。

日本文化が象徴的、具象的に表現されている日本庭園を韓国で作庭することは、文化の違い、過去の不幸なる歴史認識、そして両国に横たわる外交課題を乗り越えなければならない。外国や国内で作るのとは、精神的に段違いな困難を伴う。現地に赴き調査、石材選び、一方日本でも諸準備を平行して進め、見落としのないように、材料に不足がないように依頼、手配と心を砕き、税関手続きなど事業の難しさがある。しかし、王仁廟に日本庭園を造ろうという河さんの依願に、私も同感する熱い想いがあるので、一緒にやりましょう」

というご返事を頂き、私は強く励まされた。

〈庭園文化について〉

その時、日本庭園文化について原田さんは語った。

「世界でも日本庭園は特殊であり、極めてユニークである。その伝統文化は魅力的である。日本庭園は時代によって自然観、美意識、宗教などが色濃く反映され、庭に込められた精神も形も違う。

歴史的には中国や朝鮮半島から伝来したもので、飛鳥、奈良時代にダイレクトに大陸文化を受け入れ、作り変えたものである。八、九世紀に稲作文化の定着を基盤にして、朝鮮半島の文化の影響を受け、空間的な造形芸術が庭園として成立したことに、起源を求めることが出来る。日本人の生活感覚や意識、歴史が凝縮されて日本的な物になってきたものといえる。

『受容』の精神と共に、木や石、水に神が宿るとした古代人の信仰が日本庭園の起源である。神は清らかな場所を好まれることから、水は庭にとって重要な要素であり、石には魂が宿っており、姿形も人間と同じように見られる。石ほどお喋りなものはなく、一千年前、一億年前のことから喋り始める。

日本庭園作りの基本の七〇%程に、風水や陰陽道による考え方があり、『不死』という人間の基本的な願望に応える鶴、亀などの長寿のシンボルを置いた道教の庭である。自然美を体とし、自然と共生する精神は、最も人間的であるといえる」

私は原田さんの話を、韓国の庭園文化の話のように聞いていた。文化の同質性、歴史の共有性を確認する文化論であり、同時に共有するものを多く持ちながら、隔たりを持つ両国を想い複雑な気持ちにもなった。

〈作庭企画提言〉

十一月に入って、私と原田さんは共に霊岩を訪問し、郡守と面談した。

「あなた方の志はわかったが、韓国はまだ日本文化に理解がなく感情が優先されるので、日本庭園となると問題がある。特に霊岩は三・一独立運動の激しかった土地柄だから、理解を得るのは難しいと思う」

と、朴課長は表情を曇らせた。しかし私は

「王仁博士に対する報恩と感謝の真を日本から捧げるもので、日本的な庭園という固定観念で受け取らないでほしい。庭園のルーツと文化は韓国にあるのですから、それを大事にして報恩と感謝の心を込めたものを作りたい。難しい時代だからこそ、二国間の境界を越える模範を、この庭で具現したいのです」

と説明し理解を得た。

「霊岩には予算がないのが現状であるが、検討してみましょう。事業計画を具体的に出してほしい」

との返事をもらうことが出来た。

私達は現地を視察、考証を重ねた。二〇〇六年一月に入り、私は原田さんが記した作庭の「起案書」を妻と共に持参して、霊岩郡庁に出向いた。

「『青龍・白虎の庭』の作想であるが、韓国では龍と虎は喧嘩ばかりすると言われ、取り合わせが悪いので受け入れられない。日本に龍の図案で三波絞があるが、これは太極思想の陰と陽から発展したものである。

韓国と日本が相対し、青龍と黄龍となって天に昇って行く。和の契りとなる太極の思想で、結びあうという配置が理念的で、韓日友好のシンボルでもある。青龍と黄龍は韓国の花崗岩に青石と黄石があるので表現しやすく、調達もしやすいだろう。

霊岩郡庁としては前代未聞の事であり、郡庁としては公務員が個人的に給料を注いでもやり遂げねばならない、有り難い計画と感謝している。実現出来るよう、超法規的に努力してみましょう」

という返事をもらい、やっと一息つくことが出来た。

そして同席していた若いスタッフらも

「先人である原田さんと河さんの気持ちが、私達にも理解出来るようになりました。私達も一所懸命やります」

と声をかけてもらい、心が熱くなった。

〈神仙・太極庭苑寄贈〉

旧正月を終えた二〇〇六年二月一日、私と原田さんは再び郡庁を訪ね、事業計画書を提出した。

「天に通ずる神がおわす神聖なる〈天壇〉を中心に阿弥陀様に従う菩薩を意味する〈三尊石〉、三支三合、陰陽二元、五行論思想の〈三山(才)石〉と〈四十八祈願石〉を配置し、不老不死と極楽浄土を現す。

この庭〈地〉で〈人〉が出会い「交わり」「耐えて」「補い合って」、〈天〉との契りを結び合うことは王仁博士の愛の教えである。

天壇前には徳川四代将軍の家老、城と庭造りの大家である小田原藩主・大久保忠朝縁りの春日燈籠、日本では一番古い三井寺の閼伽井(あかい)の井戸のデザインを模した阿波の青石で製作された手水鉢(つくばい)を配置して、王仁博士の遺徳に敬慕を表す」

庭園の名称は「神仙・太極(青龍・黄龍)庭苑」と決定した。

計画の細部を詰めて作庭は合意され「日韓文化交流の一層の発展を期する為に、日韓それぞれの責任において協力し作庭する。作庭竣工時に日本(原田榮進さん)側から韓国(霊岩郡)側に寄贈する。庭を改庭(改修)する時には、日韓が相互協議する」との覚書を取り交わすこととなった。

庭苑は二〇〇六年四月八日、王仁文化祭の開幕式に合わせて開庭される事となり、その日に原田榮進さんより寄贈される。

費用については原田榮進さんと有志、霊岩郡共にそれぞれ二〇〇〇万円の経費を支出し、作庭されるものである。日本からの、永遠に悠久なる友情と友好のシンボルとなる、歴史的な意味を持つ庭が具現する。角館の枝垂桜咲く下で語らい、憩う、心の安らぎの場所になると思う。

〈原田榮進氏プロフィール〉

特定非営利活動法人日本ガルテン協会・原田榮進会長のプロフィールを紹介する。

 

一九三三年福岡市生まれ。日本経営士会正会員

日本建築学会正会員

日本庭園学会正会員庭園思想史〈日本建築・庭園文化と経済のパラダイムの解明〉

人間行動研究会・HB研代表として企業で働く人々の心の行動を研究

日本建築学会のメンバーとして世界各地を調査研究。また韓国庭苑学会会員として韓国庭園の調査研究に携わる。日本の社寺庭園の調査研究、沖縄・石垣島の冊封使や福岡の庭園の調査に従事。

オランダ、チェコ、オーストリア〈ウィーン〉などで日本庭園を修復、作庭、日本庭園文化の普及に務める。

〈献呈辞〉

王仁博士の故郷、霊岩に待ち焦がれた春が来ました。春は宇宙の生き物、全てが復活する季節です。美しい桜の花が咲く霊岩は望郷の里、古からの郷愁の里であります。桜はその復活を彩り、祝う人類の喜びの象徴でもあります。

王仁博士は、桜の化身となって春を届けて下さる神仙であります。春爛漫の善き日に二〇〇六年王仁文化祭に参席する為に、私達四二名は日本から美しい霊岩を訪問致しました。

皆様との出会いは御縁であり大変、幸運であり、光栄な事であります。本日、王仁文化祭一〇周年を祝賀し、小林芙蓉さんより王仁博士が日本にもたらした「千字文」を、報恩の真心を込めて書いた屏風を献呈致します。

そして韓国と日本が兄弟であり、文化と歴史を共有する永遠なる友好の証となりますよう、神仙太極庭苑をNPO法人日本ガルテン協会会長:原田榮進さんが友愛を込めて献呈します。

その庭苑と王仁墓域には、日本にもたらされた悠久なる文化の伝導者である王仁博士の偉業を讃え、報恩と感謝の心を込めて、私の日本での故郷秋田県が誇る日本国指定天然記念物角館の枝垂桜一一本を植樹します。

子々孫々、春にはこの鳩林洞の王仁廟に両国の善男善女が集い、桜の成長を楽しみ、友情を深めましょう。月出山の遥か彼方、東の国日本で眠る王仁博士を偲び、世界平和と人類の安寧を祈念しましょう。私達の祈りは、王仁博士の願いであり、祈りであると思います。

二〇〇六年王仁文化祭を慶祝し、日本との更なる友好と親善交流の絆が深まりますように、そして霊岩郡の永久なる発展を祈念して献呈辞と致します。

二〇〇六年四月八日 角館枝垂桜植樹並びに神仙太極庭苑企画推進者 河正雄

〈想いは一つ〉

一九七三年九月一〇日、四六年ぶりの父母の帰郷に連れ立って霊岩を訪問した時から、私の在日として韓日を行き来する旅が始まり、それは今も綿々と続いている。

思えば、一九七六年一一月一一日に建立された霊岩の百済王仁遺墟碑の周囲に、一九七七年四月一一日、私が所属した東京王仁ライオンズクラブが、桜の記念植樹をしたことが御縁の始まりである。一九八六年四月二五日には、王仁博士遺蹟址浄化事業の起工式にクラブ員と臨み、一九八七年九月二六日竣工、王仁廟内の浄化記念碑を建立除幕した。

クラブ員と共に一九九一年一〇月一六日、王仁廟の周辺に二〇〇本の桜の木を植樹し、現在咲き誇るそれらの花々が、今の王仁文化祭(桜まつり)の誘因・起因となったことは誇りである。東京王仁ライオンズクラブと霊岩の仲を取り持った、民間交流の懸橋たる歴史である。

追って一九九六年四月五日には、日本ケヤキ会の方々とケヤキの木を二〇〇本、王仁廟周辺に植樹をしている。このような往来の歴史の積み重ねの上に、この度の角館の枝垂桜の植樹、そして作品「千字文」贈呈と神仙・太極庭苑の贈呈が執り行われる。

霊岩と王仁廟、秋田への私の拘りは「在日」として生きた父母、在日同胞が普遍的に求める想いも含める私の望郷の想い、二つの祖国と二つの故郷を持った恨(ハン)が突き動かしているからだ。悠久の昔日、王仁博士も日本に渡来し、二度と戻れぬ故郷を想い、山河を彷徨していたのではないかと思う時、偉大な賢人を愛しく、切なく思う時がある。それは両国の交流の歴史の中、韓日分け隔てなくあった運命であったようにも思う。

想いは一つ、韓国・日本・在日の平安なる友好であり、それは取りも直さず私の祈りである。この祈りは旅の途中にある。行き先が定まらない、在日の宿命とも言える。

王仁文化祭一〇周年を記念する、この度の植樹により新たな絆が私の見える所、見えない所で生まれるのは間違いの無いことである。今はそれが喜ばしく、私の新しい力になっている。