「韓国人の故郷」

写真家・姜鳳奎(カンボンギュ)(一九三五~ )

「人間は、なんと知ることの早く、行うことの遅い生き物だろう」

とゲーテは嘆いた。いつも私は口先だけで行動しない、怠惰な人間がなんと多いことかと、この世を突き放して見ていた。

〈再会〉

二〇〇二年お正月、光州で姜鳳奎先生と再会した。一九九五年、第一回光州ビエンナーレで共に仕事をして以来である。その時、

「河さんに頼みがある。韓日共催ワールドカップ大会開催、そして韓日国民交流年を記念して、日本五大都市で自作の『韓国人の故郷写真展』を開きたいので、協力して貰えないだろうか」

と唐突に依頼された。私は急なことで大変、戸惑ってしまった。それまで、写真作家姜鳳奎のことについては、プロフィールも作品世界も知らず、まして外国である日本で展覧会を開くことの難しさを知っているのだろうか懐疑し、その場では断ってしまった。だが、それは表向きの理由で、正直な理由は、人間、姜鳳奎を私が知らなかったからだ。後日『韓国人の故郷』写真集が送られて来て、作品世界に触れた私は、目から鱗が落ちるような思いだった。

姜鳳奎の一貫したテーマは〈故郷〉を愛する心。人間的で、温かな視点と鋭い洞察は、時空を超えた姜鳳奎の心の根にある世界、今日を生きる韓国人の、情緒と内なる心に作家精神の深さを感じた。私は認識を改め、日本での展示会の手助けをする事とした。

日本では、これまで韓国の現代美術を紹介する企画展は何度も催されているが、写真に焦点を合わせ、韓国人の記憶を写真に定着させた大規模な展覧会は、今回が初めてである。姜鳳奎の作品には韓国の社会状況、家族、自分自身のごくありふれた日常の風景など、様々なシーンが、韓国のアイデンティティを捉え直そうとする現実と虚構性について発言している。作品には、韓国の原風景が深い叙情と優しさが、さりげなく日常の一瞬の中に記録されている。韓国縁りの伝統や文化を生きる韓国人の姿と共に、若い世代が都市に流失することで衰退していく韓国の農村の風景は、美しくも儚い現実として撮影されている。

韓国の自然と、そこで培われた情緒に対する深い観照と洞察は、作家の感性が作り上げたものだ。忘れ去られた、殊に六〇年代から七〇年代に撮影された風景や人の表情は、もうこの眼で見ることの出来ない、貴重な韓国の歴史そのものではないだろうか。その芸術性と共に、史料としても高く評価できる。

全く国が違うはずなのに、実際に入ったはずのない場所であるというのに、懐かしい風景に出会ったと思わせるこの共感性と親近感は何なのだろうか、と不思議な感慨に耽る日本人のギャラリーも多かったようだ。伝統の良さを失いつつある日本人にも、アイデンティティとは何かと問い掛ける、彼らの故郷の原風景がそこにあったからではないかと私は思う。

東京都庭園美術館学芸係長、横江文憲氏は

「額縁から今にも飛び出してきそうな人々の活き活きとした表情、人物を主題とした作品が秀逸である」

と賞賛し、報道写真家の山本將文氏は

「どれも懐かしくホッとさせるものばかり。人々の表情が自然で何とも言えない」

と、生活感溢れる韓国人の健康的な表情を讃えた。

韓国通である写真ジャーナリスト岡井耀(てる)毅(お)氏は、展示された作品の中から電光石火、一〇数点を選んで、朝日新聞ソウル支局長時代の良き時代の韓国を回顧し懐かしんでいた。

写真展では老若男女、異口同音に、懐かしい想い出の世界にいるようだと、良き昔に想いを馳せていた。韓国人の顔(貌)、伝統的な精神と韓国人らしい個性を見て取って、その中に自分探しをしているようでもあった。そして民族の壁を超えて生まれた「自己を知ることは他を知ること」の一体感」を彼らは哲学的な感覚で掴んだのではないかと思う。

会期中、日本各地から巡回展をしてほしいと数カ所で要望され、開催地に名を挙げる団体があった事からも、関心と共感の強さが伺い知れる。人は、心の中にある心象風景を、いつも何かに求め、探している証拠ではないだろうか。私達は、何処から来て何処に行くのだろうという永遠の問い掛け、記憶を語り合う出会いと対話の場を、与えたようにも思われる。失われつつある二〇世紀その物を象徴しているようにも考えられる。過去を回顧、省察し、韓国理解の架け橋となった誠に良い時期を得た、大義を果たした写真展であった。私はこの写真展開催に寄与できたことも喜びであったが、才知に優れ、わずかな示唆で物事の全てを理解する人間、姜鳳奎に触れたことが大変な発見であった。

仙台展の際に私は、自分の話(心)を聞いてもらいたい一念で〈恨〉ある胸の内を打ち明けた。そこで光州ビエンナーレや光州市立美術館のビジョン、写真の芸術性についてなど、多くのことを語り合った。「一を聞いて十を知る」には、多くの人生経験と研鑽があってのことで、姜鳳奎の魅力的な目から、その光を幾筋も見たような気がする。人の話をじっくりと聞く習慣が廃れつつある世相に、見る目も聞く耳にも、そして発せられたみずからの言葉に、写真芸術家の奥深さと五感の健康さがあった。思いがけず、そこで心の交流が生まれ、理解し合えた喜びは大きい。

姜鳳奎先生との出会いは、私の進歩と成長、これからの新しい人生に、刺激を与える契機になった。

姜鳳奎の写真世界は、人間としての成長と円熟の中で、ますますヒューマニズムが輝き、その芸術性は、多くの人々から共感をもって讃えられることであろう。そして、その作品が多くの人々の〈心の故郷〉の一つになることを強く願う。

「境界を越えて」

一九九五光州ビエンナーレ

光州ビエンナーレが、一九九五年九月二〇日から一一月二〇日まで開かれた。光復五〇年を締め、飾るにふさわしい国際美術イベントであった。

一一月一一日から一七日まで、私は光州に滞在した。ビエンナーレを目の当たりにして、感慨深いものがあった。特に、田沢湖町から駆け付けた〈わらび座〉の公演が大成功に終わったことは、出演への橋渡し役を務めた一人として、喜びこれに勝るものはない。

〈第二の故郷〉

韓国全羅南道の首都・光州広域市は、父母の故郷であり、私の第二の故郷である。人口一三〇万の韓国第四の、地方を代表する大都市として、また、個性的で発展目覚しい芸郷の街として知られる。

歌謡と演劇を兼ね備えた伝統芸術で、庶民の恨(ハン)を表現したり〈パンソリ〉や中国、精神世界に通じる〈南宋画(文人画)〉において、古来、多くの傑出した芸術家を世に送り出してきている。このように、文化と芸術を愛する文化的土壌と市民意識があふれている、韓国を代表する文芸の都市である。

そして義郷。この地の熱い民主の気風は、歴史的に証明されている事実である。一九八〇年代、韓国現代史の激動期を乗り越えた韓国民主化の聖地であり、民主の都市である。また、食の都市、グルメの都市ともいわれている。

韓国には「倉から仁心が生まれる」ということわざがある。裕福な仁心が、すべての人々を心から慈しみ、接待するという素朴な愛郷でもある。

光州市に、気高くそびえ立つ無等山の雄大な姿を仰ぎ見ることができる。人口一〇〇万以上の大都市で、市内に一〇〇〇m以上の山を有するのは、世界でただ一つであるといわれる。

〈無等〉とは、形状、性質、状態、程度、数値などを対比して同じでないことをいう。同じでないことに価値をおき、それぞれの違い、おのおのの個性を尊ぶのである。全羅南道地方の湖南の人々は、この無等を愛し、日々努力、進歩の底力にしてきたのだと私は思う。そして、この等しからざる山の容姿を心の山として誇りに思い、光の街光州ピッコール・グァンジュの精神のよりどころとしてきたのである。

われわれの故郷・光州が掘り起こし、築き上げてきた伝統を土台として、それを継承しつつ、新しい時代と文化を受け入れる器になろうという希望をもって出発することが、まさに光州ビエンナーレなのだ。世界に向かって、光州ビエンナーレ開催を発信した光州の英知と先見を、わが矜持(きょうじ)としたい。

ラグーン(潟湖)の上に浮かぶ、海でも陸地でもないベネチアの街に、二年に一度の美術のオリンピックが開かれて今年が一〇〇年。カステッロ公園内の主会場は、各国の芸術家が自分の国のパビリオンを使って自由な作品を展示し、芸術に国境はないことを印象づけている。

あとひとつ、サンパウロ・ビエンナーレが有名であるが、光州ビエンナーレは東アジアでは初めての、大きな国際美術隔年展となるのである。

〈光州の英知と先見〉

「“境界を越えて”のテーマの下、光州ビエンナーレは世界市民が伝統と習慣の異質性を妥協させることなく、複雑な政治的、人間的、そして美術的境界を、いかに乗り越えられるかを模索する。それはまた、近代技術と科学の関係における、アートの未来を試すことにもなるであろう。韓国は恐らく、最後の政治的に分断された国家であろう。しかし、世界のほとんどの地域には、いまだに政治的、宗教的、そして人種的対立が残っている。ビエンナーレは、アートが分断と紛争の世界における、調和と癒(いや)しの“声”となれるということを追求する」

重要な〈テーマ〉であるが、韓国が抱える、また光州が抱えた今世紀の数々の受難を救世する、意味深のテーマともとることができるのは、私の思い過ごしで、うがった見方であろうか。それはいま、われわれが克服しなければならない民族的宿命ともいえるようだ。

〈わらび座公演決定まで〉

私は、小学生時代から〈わらび座〉の舞台に慣れ親しんだ。もう四五年近くにもなる。

いつの日にか、わが祖国・韓国で、わらび座の公演を実現したいという夢とロマンを抱き続けてきた。きっと韓国の人々も、私が持ったと同じ感動をもって受け止めてくれるに違いないという信念があったからだ。

五年前、わらび座民族芸術研究所の茶谷十六さんと出会った縁から、何気なく私の野心を述べた。

「本当に韓国で受け入れてくれるだろうか。信じられない」

と言うのだ。私は

「必ずできる。近いうちに実現しましょう」

と、ひとり力を込めて語ったものだ。

世の中、流れが変わった。一九九四年二月、韓国政府は大衆文化を段階的に開放する方針を打ち出した。何のことはない、難しくはなかったのだ。要は

「良いものは良いものとして受け入れる」

ということだ。民主の国になってきたことを歓迎する。

ケナリ(れんぎょう)が咲く三月、私はわらび座の是永幹夫国際部長とともに、光州ビエンナーレ記念公演の可能性を打診するため、光州を訪問した。

祝祭行事としての民族芸能公演には六カ国を招待、日本からは一団体を招くということだった。いち早く準備していた資料を提出し、わらび座を推薦、招待を要請した。われながら打つ手が早かった。大変好意的にわらび座が理解され、可能性は十分との感触をつかみ、公演決定が現実のものとなったのである。

〈わらび座公演大成功〉

光州ビエンナーレでのわらび座記念公演は、舞踊集『潮の流れにのって』である。光州ビエンナーレのテーマ『境界を越えて』に共鳴し、海峡を越えて日本の伝統的な踊りや太鼓、海をテーマに創作したものである。庶民の心、連帯の心を表わし、約一時間にわたってわらび座の魂を舞い、演じた。

口笛、手拍子、満席の観客の熱いコールは、仲外公園野外公演場を感動のるつぼと化した。

公演終了と同時に、報道関係者のインタビュー攻めにあうことになった。そして出演者全員による『アンニョンハセヨ! 光州ビエンナーレ チョッタ!』の映像が収録された。公演の模様は、テレビ・ラジオを通して全国に流され、わらび座公演の成功を、多くの韓国国民にアピールした。この日、わらび座はビエンナーレ観覧客の話題をさらい、その魅力を強く印象づけた。まさに、記録に残る大成果であったといえるであろう。

世界をまたにかけ、文化交流親善大使としての役割を果たしているさまを見て、わらび座と故郷を同じくする者として、どんなに誇らしく、頼もしく思ったかは想像していただけるものと思う。一回りも二回りも大きな翼になって雄飛するわらび座の芸術は、普遍性があって、世界から迎えられていることを実感した。

私は理解と親善のきずなを実り深く結んだ、歴史的な韓国公演の成功を心から喜び、意が通じたことを在日韓国人として安堵(ど)した。近くて遠いといわれてきたが、一衣帯水-近くて近いのだ。

夢を抱けば、願いをかければ、かなうものだ。このたびの公演の成功は、わらび座にとってはもちろんのこと、田沢湖町や秋田県、いや日本にとっての喜びでもあるはずだ。また、韓国や光州市は、ビエンナーレの成功に、わらび座が大きく寄与したことを喜んでいるはずだ。

私にとっても、わらび座公演の実現とその圧倒的な成功は、人生における最も輝かしい一ページとなるであろう。わらび座の皆さんの誠意に、心から感謝したい。そして、受け入れ、理解し、喜んでくれた祖国の人々の寛容にも感謝する。

日韓の文化交流が、このような感謝の気持ちに立ち、自然に行われることを私は無上の喜びとする。

〈日韓の現実〉

しかし、現実はそう甘くはない。

日韓の世論調査などを見れば、両国民とも相手を「嫌い」と答えた割合が、「好き」を大幅に上回っている。韓国でのそれは、さらに厳しいものがある。日韓両国の歴史に残る溝の深さを、痛感せずにはいられない。日本と韓国の間がぎくしゃくし、戦後五〇年間、必ずしも理想的なものでなかったことは、この結果が如実に示している。

「日本人は悪くてずるい」「日本は過去の過ちを認めない国」。

「韓国人は執念深くて怖い」「韓国は軍事独裁の国」。

隣同士の溝が埋まらないのは、こうした先入観である。大事なのは、普通の人と人との出会いであり、国家間の溝を埋めるのは人間でしかないというのが私の理念である。

そういう意味で、日韓両国の人々が誠実に努力し合い、力を出し合って成功させたわらび座の光州ビエンナーレ公演は、『境界を越えて』あすの日韓両国の友好を約束するものと信じている。

〈『日曜美術館』での紹介に感慨〉

光州ビエンナーレが閉幕した。光復五〇年を締め飾るにふさわしい国際美術イベントであった。

その会期をあと数日残す一一月一一日から一七日まで、私はNHKスタッフらと共に光州に滞在し、『日曜美術館』撮影のため立ち会った。今月三日『光州ビエンナーレリポート』として四〇分間放送された映像を見て、感慨深いものがあった。私が見て感じた光州ビエンナーレが、その映像の中に収められ記録されていたからだ。在日同胞はもちろんのこと、日本国民にリポートできたことは私の喜びであり、父母の故郷・光州を誇りとする。

今年は、元旦から光州ビエンナーレで明けたと言っても過言ではない。「“芸術の都市”光州に世界的規模の国際ビエンナーレが創設」との報道を見たことが始まりであった。

私は報道を見て、すぐに光州に飛んで市長に会った。昨年九月中旬、この計画が発案されて、中央庁と協議後、一二月六日に設立準備委員会が開かれ、一三日、光州ビエンナーレ組織委員会創立総会で決定されたばかりであって、何ら具体的な概要は決まっていないとの返事。私は本当に九月に開催されるのだろうかと面食らってしまった。

三月、ソウルで内外記者会見が開かれ、姜雲太・光州市長が公式に発表したことで、光州ビエンナーレの全容が見えた。

〈哲学的で野心に満ちた発想〉

「光州ビエンナーレの主題を『境界を越えて』としたのは、政治・宗教・理念を超えてきた人類が一つになろうという意味からなのです。過去の目に見えない対立と葛藤(かっとう)を、芸術を通じて解いていこうという、世界の人々の切実な望みを託しているのです。光州ビエンナーレは、光州の民主精神と芸術的伝統を基盤として、健康な芸術精神を尊重し、地球村時代、世界化の一環として東西洋平等な歴史創造と二一世紀アジア文化の能動的な発芽のために、その責任を果たそうと思います。光州ビエンナーレは、世界の芸術家たちが純粋な価値創造の新たなる芸術秩序創立のために、互いに心の壁を取り除き、手を結び合う『文化芸術オリンピック』であります。二一世紀を開く入り口で、光州文化の優秀性を体系的に発展させ、光州を世界の芸郷として維持させ、世界の美術の水準をより高めようという光州ビエンナーレを創立することとなりました」

西洋化より世界化へ、画一性より多様な民族文化を尊重する姿勢が明確に示された。そのユニークな発想は、哲学的で野心に満ちている。光州という土地の文化的凝集力であり〈アジアの自覚〉という、最適の地に遜(そん)色のない英知と先見を世界に発信したのである。

〈語れぬほどの産みの苦しみ〉

美術は民族や国家を超えた普遍性を持ちうるものであるが、ベネチア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレにおいて、国と民族の特殊性やナショナリズムがせめぎあう政治の場を感じる最近の風潮がある。低調・停滞の感じ、対立や矛盾が、からみ合う迷路を抜け出せないでいるのを見るにつけ、同じような道に入るのではないかという一抹の不安と危ぐを感じたのも正直なところだった。

発案・決定・構成され、具体的なビエンナーレ像が策定されるまでの火急なること。そこへ、六月には光復初の民選光州市長選挙があった。当選された宋彦鍾市長から、戸惑いを隠さず、世界都市博覧会を返上した青島・東京都知事に見習って、ビエンナーレ返上論まで飛び出すことがあった。初の経験である官主導の体制が本腰を上げるまでには、語れぬほどの産みの苦しみがあったのである。水を差すのではない。まさしく“多事多難を乗り超えて”が、もう一つの光州ビエンナーレのスローガンでもあるのだ。

戸惑いと試行錯誤、初体験の国際イベントにかける舞台裏は、すべからく韓国式行動、思考方式でかしましかった。それに上乗せするかのように、光州が主体となっている国内の事情は、韓国・官政財界あげての前代未聞の不名誉な、前大統領収監事件に発展したことは驚きを通り越して、心痛めた。重要なテーマ『境界を越えて』であるが、韓国が抱える、また光州が抱えた今世紀の数々の受難を救世する意味深長なテーマで、このことがらを見事に暗示していたととらえるのは、うがった見方であろうか。今、われわれが克服せねばならない、民族的宿命ともいえるテーマのように思われた。在日同胞社会においても、心しなければいけないと思われた。

〈わらび座を紹介し茶道で交流〉

私は在日同胞として、祝祭に寄与すべくイベントを企画した。私の故郷・秋田県田沢湖町の民族歌舞団わらび座を野外公演場で紹介した。光復後初めての日本の民族芸能公演は、韓国人の熱い拍手で迎えられ、芸能のルーツを確認し合った。また赤穂市在住の在日二世・禹嶋連氏を代表とする日本人らの茶道人と、光州市三愛茶会の人々との韓日親善交流会を開いた。茶道を通して茶文化のルーツは一つであり、その茶文化の近さは、両国が一衣帯水であることを肌で感じさせた。これもビエンナーレである。これらすべてが韓日の市民と、市民が自然な形で友好親善を結び合う光州ビエンナーレの理想であると評価を受けた。

開会式の時、宋彦鍾市長は「美術、芸術は人を作り、国を造る」と述べた。アンドレ・マルローは「国家は芸術に奉仕せよ」と述べた。この精神、この認識こそが世界化・一流化をうたう韓国の、文化国としての未来を約束し、光州ビエンナーレを開く大きな意味が、ここにあったのではないかと思う。

「地球の余白」

一九九七光州ビエンナーレ

〈光州ビエンナーレが閉幕して〉

第二回光州ビエンナーレが閉幕した。振り返って総括してみると、結果はまあ成功ということにはなったようだが、第一回と同じ感慨を抱いた。率直に語ると、大部分の観客と美術界や言論人たちには主催者側とのギャップがあるからだ。一概に白黒をつけることではないが、前進的意味と客観的視点で、冷静に受け止めることは大事なことだ。

成功としてみる理由は、①国際的作家参加による展示の質的な向上と企画力、洗練された演出とそのテーマ性②観覧入場客八〇万人突破による収益確保③現代美術を広いジャンルでまとめ、今年最も重要な展示であるという世界美術言論界の評価-などである。

ドイツなど四カ国から、光州ビエンナーレの移動展のオーダーがきていることからも、展望が出てきたようだ。大統領選挙を控え、企業の倒産整理やIMF通貨基金救済金融支援要請、経済沈滞と混乱のさなか、悪条件を乗り越えて、唯一明るい話題を提供した国際美術展であったとは思う。

しかし、その一方では辛い評もあることは事実である。第一回の時も指摘があったが、組織運営が公務員中心であるための限界論。専門性とノウハウの蓄積が脆弱で、世界の新美術の潮流と問題提議の創出が期待できない。時間と人力の浪費と試行錯誤は薄氷を踏み、枯死寸前。光州・韓国・アジという我々らしさのカラーを出せず、今ひとつ正体不明。展示企画力のある先鋭化された専門家養成が急務で、思い切った方向転換をせねばならないという意見にも説得力がある。

内容そのものがヨーロッパのコピー版であり、コミッショナー制度も考慮せねばならない。一般大衆の観覧客が異口同音に語る「展示物の持つ意味が、何が何だかさっぱりわからない」という感想には閉口もするが、それも真で無理もなかろう。財団基金も一五七億ウォンとなり、目標二〇〇億ウォン確保も九八年上半期には達成される見通しで、継続的開催の基盤はできた。ともあれ、「誰のための、何のための」西欧と違うアジアの特性を生かした我々らしさのビエンナーレは、国内はむろんのこと、国際的にも関心を呼び、注目されてきたことは喜ばしいことではないか。

私は昨年一〇月、組織委員の委嘱を受けてから閉幕まで、光州ビエンナーレ成功に向け寄与すべく明け暮れ、記念展の一つ、光州市立美術館・河正雄記念室で開いた在日元老作家『全和凰展』の回顧展は好評を得た。求道とその祈りの作品は、国内外に感動と感銘を与え、意義ある展示となった。組織委からの要請で開いた日本での記者会見、晩餐会は三回を数え、記者団を光州に案内もした。NHK新日曜美術館『韓国九七光州ビエンナーレ・地球の余白~現代アートのメッセージ』の撮影は一二日間にもおよび、一〇月一二日に放映され、第一回に続きコーディネート役を果たした。広報活動が功を奏し、日本からの観覧客が飛躍的に伸びたことで、広報の重要性を確認した。日本からの観覧客誘致では、文芸協主催ツアーを組んだ。前夜祭と開会式に出席。そして、史蹟観光で歴史を学び、価値観を共有した。

閉会間近な一一月一八日から二〇日には、前回の秋田県わらび座に続いて、沖縄の琉球民族舞踊団を紹介。初回は時雨模様の中での公演にもかかわらず、観客は大きな拍手で歓迎した。常夏の沖縄の舞台衣装、素足での公演は身にこたえたと思いきや、

「私たちは、熱い想いと南国の風を運んできたのです。逆に光州の皆さんの熱い声援に、力を与えられました」

と打ち上げの席で述べられた。その夜は公演の成功を祝って、三線(さんしん)の伴奏で安里屋ユンタとカチャーシの沖縄の舞で喜びをわかちあった。

今回も私は『在日』をテーマに、光州ビエンナーレに参画したが、残念に思うことは、日本からのコミッショナーの参加がないことと、展示物や作家の選定が余りにも少ないことである。主催者は、韓日親善友好と文化交流のためにも、日本の美術界とも協調し、共有の祭典となるよう育み、力を寄せる努力をしてほしいと思う。

「人+間」

二〇〇〇光州ビエンナーレ

〈二〇〇〇光州ビエンナーレ〉

「イデオロギーによる争いの終結に伴う、新たなる国際秩序の形成によって、東南アジアは新たなる文化と世界経済の中心として飛躍的に発展している。アジアは来るべき二一世紀のために、新たなる文化の創出のために、能力を蓄えていかなければならない」

光復五〇周年を迎えた意義深い年に始まった光州ビエンナーレは、世界に向かってこうメッセージを発したが、光州ビエンナーレを取り巻く環境は政治的、経済的にも順風満帆なものとは義理にも言えない状況にある。光州ビエンナーレは、新たなる文化の創出のための能力を蓄える余裕もなく、内外の葛藤と激動の中にあったと言っても過言ではない。

ミレニアムの春。いよいよ第三回二〇〇〇年光州ビエンナーレが開かれることになったのは、大変喜ばしい。不確実で不透明な、一九〇〇年代の暗いトンネルをくぐり抜け、果たして光明を見ることができるのだろうか、と懐疑半分の心境でもある。第一回、第二回の時もそうだったように…。

私なりの光州ビエンナーレを構成し、寄与貢献の道を歩んでは来たが、満たされないもどかしさを感じていたのもまた事実である。それは、私が『アウトサイダー』であるということかもしれないが。

〈『祈りの美術展』の意義〉

昨秋、光州市立美術館で『祈りの美術展』が開催された。九三年と九九年に、私が寄贈した六八三点を一同に展示したこの企画は、在日一世をはじめとする在日作家たちが歩んできた苦難の歴史を記録し、証言するものである。それは二〇世紀へのレクイエムという意味も持っており、鎮魂と祈りの込められた、濃いヒューマニズムに彩られた世界である。しかし残念ながら、韓国現代美術史において、これらはすっかり抜け落ちており、さながら一九五〇年代の作品群は、ブラックホールに落ちたように埋もれてしまっていた。

美術展は、多様な在日文化の一端に触れる機会を設けることになったのだが、これは〈在日の人権〉という、戦後五〇年を浮き彫りにしているといっても過言ではない。在日が、日本で営々と生きて闘ってきた生活の場は、祖国分断のために、祖国の事件や出来事が海峡を越えて、在日の身に降りかかる奇妙な運命共同体を形成することを余儀なくされた民たちの、韓日間の中での絶え間なき人権との闘いと尊厳の証であったのだ。

この企画展示により、在日同胞の生きた歴史とその哀しみ、差別と圧迫への不屈の闘志を感じ、共感してもらえたのではないだろうか。一九〇〇年代末尾を飾った、この『祈りの美術展』の意義が後世まで記憶に残れば幸いである。

〈在日の人権展〉

二〇〇〇年、光州ビエンナーレ記念・光州市立美術館河正雄コレクション『在日の人権展-宋英玉と曺良奎そして在日の作家たち』が、光州市立美術館主催でビエンナーレ期間中に開催されることとなった。ビエンナーレのテーマ『人+間』が持つ意味、『人間の存在・人権に対する根本的な問いかけをする』というテーマに呼応して、大変意義深いことである。

在日一世、宋英玉画伯が昨年急逝された。八二歳であった。在日として、人権との闘いに生涯を費やし、芸術魂をもって我々に強くそれらを訴えかける。私が宋英玉を回顧し、宋英玉を慈父と慕った曺良奎と共にスポットを当てることとなったのは、時代の要請であるのだろうか。

曺良奎(一九二八~)は晋州に生まれた。一九四七年、晋州師範学校を卒業後、釜山で国民学校の教師をしていたとき社会運動に関わり、警察の弾圧、捜査から逃れて日本へと密航してきた。曺良奎は

「日本の戦後、特に朝鮮戦争以後の中に生きた一人の朝鮮人が、独占資本主義的社会体制の中に生きる現代人として、対照認識を通して思想への模索を続けた過程であります。その支配からの脱出と同時に、新しい強暴な支配者の墜ちていく南の社会政治情勢下にあって、逃亡という方法を余儀なくされ、それ故につまずきへの深い屈辱感に苛まれながら、新しい思想の論理を築こうと渇望した時期であります」

という言葉を残して六一年、北に渡った。

「戦後美術の最も重要な一角が、殆ど彼一人によって支えられてきたのである」

と、美術評論家・針生一郎は送別の言葉で述べた。

帰っても絵が描けるかどうかも分からないのに、祖国に幸せを求め消息を絶った悲運の画家である。日本で公開されている『密閉せる倉庫』『マンホールB』の二点。光州市立美術館河正雄コレクション『三一番倉庫』と『殺されたニワトリ』の二点、計四点が二〇〇〇年になって、初めて光州の地で展覧されることは、なんと表現してよいものか。

在日の歴史は人権の闘いの証人であり、記録であり、人間の尊厳の美しい鏡ともいえる。二三名の在日作家たちの一〇〇余点による『在日の人権展』が、光州ビエンナーレの未来を展望することに間違いないものと信じる。

「止まれ(一時停止)」

二〇〇二光州ビエンナーレ

〈二〇〇二光州ビエンナーレに寄せて〉

アジア最大規模の現代芸術の祭典、第四回二〇〇二光州ビエンナーレが韓国光州広域市で開催されている。

プロジェクト1のテーマは、慌ただしい現代社会の流れの中で混沌と不条理、矛盾を省察する『止まれ』である。一時停止(単純な停止でなく)で過去を〈振り返り〉新たなるスタート、跳躍のために休息、充電し思索を呼び掛ける〈止まれ〉である。光州ビエンナーレは、『境界を越えて』『地球の余白』『人+間』というテーマで回を重ねてきたが、この度は光州ビエンナーレ自体をも省察し、跳躍しようという意志が込められている。芸術監督の成完慶氏と各プロジェクトのキュレーターが巧みに計算した好企画で、説得力のある展示となった。

プロジェクト2は『韓国人の離散』がテーマである。在外に居住する韓国人は六〇〇万人にもなる。分断と韓国の近代史の断面と結びつけ、多様で混成的な営みの中で、民族の同一性とそれらの文化を見つめ直してみようというものである。

在日の作家(蔡峻、盧興錫、朴一南、金英淑、金誠民、尹煕倉)六名が参加しているコーナーでは、身近なものを感じ、頼もしくなる。特に、蔡峻の一九九七年作『故郷を捨てて』には、在日一世の苦節の想いがにじんで共感を呼ぶ。

〈市民参加型も追求〉

プロジェクト3は『執行猶予』。一九八〇年に起こった光州民主抗争運動(光州事件)を軍隊が鎮圧、その憲兵隊兵舎を保存している五・一八自由公園が会場。旧尚武台軍事法廷や監獄、食堂、浴室など寒々とし生々しい歴史の現場は、韓国民主主義について若い世代のために、歴史的な想像力を喚起し余りある展示である。私はその展示場で、凍り硬くなった心と体を元に戻すために、長い時間がかかった。その刺激的な現場で、〈止まれ〉の明確なる主題の意図を見た。

プロジェクト4は、市内の旧湖南線南光州駅の鉄道廃線跡地が会場である。アートと都市の新しい出会いがそこにはあった。光州の未来に、アートの介入と参加を能動的な姿勢で促している。全体的に言えることだが、もう一つのテーマは〈市民の中に入ろう〉である。市民が積極的に参加し共有する。市民参加型の『光州ビエンナーレ』を創造しようとしていることだ。

また光州市立美術館では、記念特別展として『韓日現代美術五〇年の礎・郭仁植の世界-河正雄コレクションを中心として』が開かれている。韓日で、現代美術史に残る活躍をした郭仁植の業績を回顧する展示は美術史上、これが初めてである。韓日間の美術界に、新鮮なる記憶を刻み込んだ意味深い展示である。

前回はアジア中心の展示がなされ、日本作家の参加も多かったが、今回は少ないように思えることが、私としては物足りない。光州ビエンナーレの歩みは未だ混沌とし試行錯誤しながら、明確なる道筋が見えてこないという批評もある。

〈世代で分かれる評価〉

「難解で独りよがりの作品は面白くない。どこかの展示会で見たような作品はもう見飽きた。見て楽しい、いうなれば単純明快な美しさに感動するビエンナーレが見たいものだ」

私の尊敬する元老彫刻家は、そう感想を述べた。

しかし、連日押し寄せる若者達は、それを頓着無く受け入れているようで、今風のテクノロジーアートを楽しみ好奇心を満たしている。世代、世界観の違いなど多面的な事柄を考慮するに、評はなかなかに難しいようだ。

しかし創設した際の初心である

「政治、宗教、理念を超えて人類が一つになろう。

東西洋平等の歴史創造とアジア文化の能動的な発芽のために、美術の水準を高める世界的な美術展にしよう」

という矜持、情熱と意気を胸に更なる前進を望みたい。

我々もまた、世界の『光州ビエンナーレ』に育み定着するよう、ともに歩み寄与していこうではないか。

「光州市立美術館の存在」

私は光州広域市が、地方都市で初めて公立美術館を持った事を誇りに思う。義郷、芸郷の都市として名を憚らない歴史的、文化的立地を考えると奇跡ではなく必然性があった。

〈はじめに〉

我が国の美術館は、欧米等の先進国の美術館と比べて一〇〇年以上も遅れている。それは韓国と欧米では、社会における美術館の存在理由に雲泥の差がある為である。歴史的に未熟で知識や技術の蓄積も乏しい。問題なのは、美術館の現場に於いて、若い可能性が発揮される機会が阻害されているのは、一にも二にも官僚主義が原因であると言われる。

今、美術館の危機が問われているが、これは社会の危機である。それは〈政治家〉と呼ばれる人達の文化意識の低さと、横暴さによる弊害から生じる構造から来ている。欧米に近づくためには、官僚ももう少し文化に対し寛容に、且つ学習すべきであると思う。社会の変化に対応し、市民と共に進化していく、社会に働きかける美術館の機能を確立しなければならないからだ。

〈地方色を積極的に〉

私達は今、韓国人(光州市民)に望まれている美術館像を構築することが求められている。美術館は行政の装飾品、文化行政のシンボルではない。文化は足下を掘り耕すという意味から、地域の特質を捉えた運営を考えなければならない。地方であるからこそ、個性的に地方色を積極的に打ち出し、地元に、市民に密着した活動、フィールドワークを大切に活動するところに活路があるように思える。

ソウルや東京、ニューヨークの近・現代美術館はそれぞれ独自の趣向を持っており、私達の光州市立美術館とは全く違うという事である。そのコンセプトに注目し、アーティストがそれに対応して、如何に活動するかという事を見なければならない。光州市立美術館は、韓国光州広域市の都市の魅力だけの美術館ではなく、世界の人々の為に開かれた美術館にならなければならない。

光州市立美術館が良い美術館になる為には、充実したコレクションを持たねばならない。コレクションを充実させるためには、購入等の努力をせねばならない。方向性を持った作品の収集こそが、美術館の見識と質が問われる。そして殆どの展覧会が、方向性を持ったコレクションを中心とした独自の企画で進められることが望ましい。それらをどの様に結合させて、より良く見せていくかという研究が重要である。

現代のアーティストに於いては、企画のテーマは心に留める関心事の一つである。そのテーマをもとに、過去と現代の作品の中から構成した企画、他のモデルや真似ではなく、どこの都市でも不可欠になっている存在あるものが必要なのである。

河正雄コレクションは、光州市立美術館の常設に留まらず、広範囲に国内外への特別プログラムとして巡回させ、多くの人々にこのコレクションの意義を訴え、分かち合いたいという意向を持っている。コレクションの巡回によって、他の美術館とも提携する様々な方法を考える。互いの発展のために、長期的な協力関係を如何に構築していくかという事が重要な課題である。活用と展覧、これは光州市立美術館に課せられた義務の一つであると考える。また、河正雄コレクションの幅広さを、一つのまとまりの中で見て探求してもらう体験をする素晴らしさを、観客達に保証する責任があると思う。

韓国(光州)がまだ、きちんと〈美術の形〉が定まっていないからといって、欧米式を盲従する必要はない。美術館独自のスタンスを明確にし、美術だけでなく、あらゆる文化の現象が保存研究の対象になるという意識と、システムが備わる美術館づくりをすればよい。個人の作家の充実したコレクションを基本にした美術館、評価の定まらない埋もれた作家を発掘する仕事等、テーマ的なものを目標とした良質なコレクションをもって、企画展や常設展という分け方のみでない、堂々としたコレクションのみで成立した美術館づくりが良いと思われる。そして美術館同士の、効果的に機能するネットワークを構築していく事で、より質の高い展覧会や常設展示が行える。

しかし残念ながら、地元の関心や来館が少ないという問題がある。何度も足を運んでもらう為には、敷居を低くせねばならないのではないかと思う。一般の人に門戸を開いて、充実した創造力を社会的に生み出す場、人が人生を楽しむ為にある、多様な価値観と生きる意味を考える基本的条件を、美術館は備えていなければならない。作品に向かって見つめ、くつろぎ、リフレッシュし、コミュニケーションと知的感動と満足を与えるなど、数多くの物を提供する事、こうした基本を、誠実に心を込めて対応する事が使命であると思われる。展示だけで美術館は評価されるものでないということ、社会の要求に応え、社会に浸透することが要求されている。

〈美術館とは〉

内容を充実させるという意味で、学芸員の企画力と独創性はますます問われる事になる。アーティストと観客の懸け橋となり人に語り伝える〈ものからひとへ〉という流れが、美術館というより文化行政の流れとなるのではないだろうか。

単年度予算というシステムを根本から変えない限り、美術館業務と現行の予算制度とは相容れないものがある。また企画の伸び伸びとした美術館活動には、行政職が芸術内容に一切関与しない体制が理想である。行政のバックアップと、企業からのメセナ的サポートによる地域との連携を計り、地元の関心を引きつけ、現代美術に関心を持ってもらえるよう、市民の積極的な利用促進を促す美術館機能の充実を計らなければならない。もっと学校教育と密接に繋がった活動を展開し、作品を観る事を教える美術教育、多様な美術世界がある事を広く、早い段階からの普及を促すことが必要である。光州の美術館の将来は、ある意味で〈韓国の文化〉と教育行政の将来を占う物であるとも言える。

美術館は、学芸員各個人の眼によって方向を定められるものだという観点で、充分に理解されねばならない。現代美術の学芸員には、美術史の知識以外に豊かな国際性と知性、情熱など個人的な資質と感性が要求される。学芸員が個性を発揮出来ると、真の創造性を生み出すことが出来る。既存の価値を再編し、新しい価値を編集していく仕事として創造活動の大きな比重を担う。良い仕事をするには、新たに熟考する機会を設け読書や旅行をする事により、現実から距離を置き、物事を見つめる新しい視点を持つことが必須である。

今、学芸員の力によって韓国近代美術史の基礎的研究が進んでいる。学芸員は、バランスのとれた美術感覚を持ってその美術館の特質を引き出し、自主的な美術館の独立を裏付ける。故に学芸員個人の研究や調査、収集の〈蓄積〉が美術館の質的な〈蓄積〉となって、その成果を外に向け還元する努力が必要である。学芸員は社会人としての常識やマナー、韓国の美術館を良くする為に、ジャーナリスト的正論と批評に於いて責任ある発言をしなければならない。新しい状況を勤勉さと専心さで、〈大人〉として官僚や一般の人々を説得する表現者になるべく努力をしなければならない。そこに学芸員の存在意義がある。

その基本的な本義は、地域性の問題が根底にあるとは思うが、教育普及面の充実をもったところにある国民や市民の学習権を保証する美術館学芸員は、社会的責任を負っているのである。

ところが、文化に対し責任のある学芸員の職種に対して、一定の資格及び基準が、現在曖昧である。学芸員の本分は、展覧会とカタログ作成による〈記録〉にある。しかし、行政財務局の無理解により、展覧会を開いても、十分な予算と時間がとれず、不満足な結果を生んでしまっている事実は残念でならない。学芸員の仕事を合理的に確立し、学芸員の専門職としての地位を得るためには、学芸員自身の弛まぬ努力も必要であるが、行政の理解と後援なくしては、その努力も結実し得ない。

研究職としての存在を確認する為にも、縦割り官僚制度と美術館組織の変革が求められる。人員の配置や採用の問題等、職制の見直しをしてスタッフ間の意志疎通を計り、学芸員の存在理由を確認する必要がある。

昨今の社会的な事件の中で、行政に於いての個人の責任が問われているように、学芸員の質を高めるためにも、行政全体が変わるべき転換地点にいるのだと思う。二〇世紀に築いた勢いとバイタリティ、質の高さを、いかに二一世紀におけるプログラムに生かすという課題と、優秀な企画スタッフ、献身的な行政メンバーによるエキサイティングかつ的確な問題提起により、光州市立美術館はその存在と真価を世に問わねばならない。好きになれる都市、幸せになれる都市、存在感のある都市に光州市立美術館は輝いてほしい。

「コレクションの意味とメセナ」

〈メセナ〉

メセナとは芸術文化擁護・支援を意味するフランス語。

古代ローマ皇帝アウグストゥスに仕えたマエケナス(Maecenas)が、詩人や芸術家を手あつく擁護・支援したことから、芸術文化支援をメセナというようになった。ただし、現代の企業メセナにおいては、企業のイメージアップ・企業文化の改善・社内での連帯感・顧客との新たなコミュニケーションなど、長期的かつ間接的なメリットを求めることが、企業メセナの当然の方向性である。日本では一九九〇年の企業メセナ協議会の設立に際し、テレビ番組の協賛の意で使用されてきた“スポンサー”という英語ではなく、フランス語のメセナを採用したことから、メセナは、企業がパートナーシップの精神にもとづいて行う、芸術文化支援をさす言葉として知られるようになった。

〈私と美術〉

美術との関わりの記憶は、秋田県生保内小学校二年生の時からである。小学時代は生保内の風景や梵天祭、運動会、学芸会、盆踊り、田植えなどの行事や風俗などをよく描いた。幼かったその頃が無性に懐かしく、夢があり、楽しかった時代ではないかと今、しみじみと思う。

中学に入って絵画部に入り、田口資生先生の指導を受けた。画用紙や絵筆、絵の具などを無料であてがってくれ、自宅に呼んで食事までご馳走してくれた。好きなように、のびのびと自由に描けと誉めて、よく指導してくれた。私の人格形成において、大きな影響を受けた尊敬する先生である。先生の指導のおかげもあり、仙北郡の写生大会では毎年入賞する事が出来た。

美術が持つ意味と、生きることの自覚を強くしていったのが中学時代である。人間を作る教育の基本がここにあると、私は思っている。

秋田工業高校へ入学して絵画部を創設した。質実剛健の校風で、絵画部創設の時は女々しいとからかわれたが、三〇余名の部員がすぐに集まり、文化部を活性化させたのは私の誇りである。

秋田市内高校絵画連盟の会長を務め、県展では高校生で始めて受賞し、卒業の時は生徒会功労賞をいただいた。高校時代は意気に燃えて学び、青春を燃やした。多感な少年期、青年期に良い先生と出会ったこと、学んだ学校の環境が良かったことの幸せを今、噛みしめている。

子供の頃に、朝鮮人だといってよくいじめられ差別されたであろうと、同情に近い質問を良く受けた。私には面と向かっての、そのような記憶や経験、感情がなかった。私が率直に語ると、質問者は納得のいかない表情を見せる。私は朝鮮人としてではなく、人間として生きてさえいれば認めてもらえるのが世界であると、秋田で学んだと自信を持って言える。

高校卒業後、画家になろうとして東京に出た。そして在日朝鮮文芸同美術部に入り、在日の作家である、全和凰、宋英玉、金昌徳らと出会った。日本アンデパンダン展に出展したりもしたが、母の強硬な反対で、画家になる夢は放棄せざるを得なかった。画家などは頭の狂った人のやることで、生活は成り立たない、飯は食えない、河家の長男が画家だなんてとんでもない事だと言うのであった。母は冷徹に私の進路を阻んだのだが、幸か不幸か今の状態を思えば吉であったと、母に感謝するのみである。

〈コレクションの動機〉

二四歳の時、事業を始めたところ、上手く軌道に乗せる事が出来た。その利益を基にして美術品のコレクションを始めた。ある時、私の好きな向井潤吉の絵の隣に、全和凰の『弥勒菩薩』の絵があったことが、在日の作家の作品をコレクションする契機となった。全和凰の絵を通して、在日同胞作家達との感動的で、私の人生を決定づける出会いとなったのである。

当時、在日の作家は日本、韓国美術世界において、存在認知、評価を受けないブラックホール、死角であった。だから在日作家の作品をコレクションするということは、価値のない、金にもならない、最終的にはゴミ公害になるであろうと言われたものだ。私は在日の作品の中に、我が民族と韓日の歴史の記録、証言、資料となりうる貴重な芸術作品であると、確固たる信念を持ってコレクションを始めたのである。いつの日か、我が国が統一されたら、国や民族の宝、文化財になるという信念からだ。その時の私の感性は、視覚と視点において進むべき道を探し当てたのだとも言える。

私は、一九八二年に全和凰の画業五〇年展を東京、京都、ソウル、大邱、光州と韓日を巡回して開いた。画集を発行し、初めて内外に在日作家の存在をアピールした。韓日の美術界に、在日という文化を担う画家達の存在があったのだということを認識させた、歴史的な展覧会であったと、内外から評価を受けたのは言うまでもない。在日に文化があることを認識させた文化的事件であったともいえる。

在日同胞の作品群をコレクションする動機はもう一つある。戦前、私が育った秋田県田沢湖周辺では、国策によるダム建設、水力発電所建設が着工された。父母がその工事で働くために、私は共に秋田に住むようになったのである。戦局が悪くなった日本は、労働者を朝鮮から強制連行によって動員することを法的に施行した。その数は、田沢湖周辺だけでも二〇〇〇名にも及ぶといわれる。寒冷地における、危険が伴う突貫工事、そして食糧不足による栄養失調などで犠牲者が数多く出た。

私は、その犠牲者を慰霊するための『祈りの美術館』を、田沢湖畔に建立しようとの計画を建てた。その計画を田沢湖町に相談したところ、田沢湖町は観光のためにも、志しも良い事であると賛成してくれた。美術館の計画を推進してから数年後、韓日間の外交問題として慰安婦、挺身隊、強制連行などの戦後補償問題がクローズアップされ、韓日関係がギクシャクしだし、雲行きがおかしくなってきた。それから田沢湖町は予算がないと言うことで、美術館計画から撤退していった。丁度その頃、光州市立美術館が創立(一九九二)されたのである。

〈決断〉

光州との御縁は一九八一年からである。

在日一世、全和凰画伯の画業五〇年展開催準備のため、私は光州を訪れた。光州事件の翌年のことで、市内の惨憺たる状況を眼にした。日本で事件の経過をTVや新聞で知り、心を痛めた。その時の市民の人心は荒廃しており、美術や芸術に関心が届かなかった頃である。

私は一九九三年、久しぶりに光州に立ち寄り、友人の呉承潤画伯と会った。その時

「昨年光州に市立美術館が出来たので遊びに行こう」

と誘われた。そして

「一つお願いがあるんだ。訪問記念に一~二点、あなたが持っている美術作品を寄贈してはもらえないだろうか?」

と請われた。車鍾甲美術館長にお会いしたところ、

「あなたが二~三点寄贈して下さるそうですね」

と言うではないか。そうしている間に、美術館の二階の第四展示室に案内され

「この部屋をあなたの記念室にしたいので、あなたのコレクションを寄贈してほしい」

と言われた。そして

「オープンにこぎつけるまでに二年間、美術館に収蔵品がないので、全南や国内の画家達に作品の寄贈を頼んだが、集まったのは百数十点でした。これでは美術館の機能や運営が果たせない。助け、育ててほしい。光州の文化発展に力を貸してほしい、そして光州を愛してほしい」

と言われた。

私は車館長のこの言葉で、人生の大きな決断をする事にした。私は青春時代に社会に奉仕し、公益に寄与するという哲学を持ち、決意し、使命を持った。そして、その使命に生きた自己の存在を、光州に賭ける事にしたのだ。それは人生の意味、進路の大きな選択である。私は、私の生涯をかけたコレクションを、光州市立美術館に寄贈することを決意したのである。

「あなたに頼みたい、あなたに助けてほしい」

と言われたことの意味を考えて下されば、私の誇りが判るはずである。

第一次一九九三年二一二点、第二次一九九九年四七一点。二〇〇三年七月二一日は、第一次寄贈から満一〇年となる記念日である。第三次寄贈として一一八二点を寄贈することにより、合計一八六五点となる。第二次寄贈以降の四年間に、三七回に及び美術館に送り続けた成果である。

これには一寸した誤報があったことを打ち明ける。私は一次、二次を合計して、決まりよく一〇〇〇点になるようにしたいと希望を述べたことが

「河さんが一〇〇〇点を追加、第三次寄贈をする」

と新聞で報道された。

結果として誤報にならず、嬉しい結果になったことで胸を撫で下ろしている。また第三次寄贈作品の中には、三二人の作家達が私の寄贈趣旨に共鳴され、無償、または制作費のみの有償で作品をメセナ精神で提供してくれたことをご報告し、感謝の意を表する。

〈メセナ精神〉

私が、メセナ精神について光州で初めて語ったのは、一九八二年のことである。その時、メセナとは何であるかと新聞記者に質問を受け、説明した経緯がある。

メセナ活動とは、企業が社会から得た利益の一部を、文化芸術活動に見返りなく支援、援助し、潤いのある文化社会を作ろうという活動である。私は個人でもメセナ活動をして、社会に寄与貢献しても良いという考えを述べた。母校に、図書や彫刻のモニュメント寄贈、在日同胞の文化芸術活動の支援など、私のメセナで光州の盲人福祉の向上、光州の文芸振興に役立ってきたことを誇りにしている。

過去に、第一次、第二次の時寄贈された美術品の価値が幾らであるか、数量と金額が話題になった。また、これらの価値はゴミのようなものであると、神経を逆撫でするようなことを言う人まで現れた。著名な光州の元老作家は

「ゴミもこれだけ集めれば立派な宝だ」

とも言った。両極端な価値評価でひどいものであったが、ゴミであるのか、宝であるのか、寄贈を受けた光州市民の英知と見識が問われる問題であると思う。

作品は社会のものであり、自己の所有、愛玩するものではない。美術品は公に供されるものである、という理念がわかれば理解されることである。また、これほどの数量と価値のある作品を送るにあたって惜しくはなかったか、勿体なくはないかと尋ねられたことがある。例え一枚でも勿体ないなどという気持ちを持っていては、何も出来ないという事に人々は気付いていない。

「助け、育ててほしい。光州の文化発展に力を貸し、そして光州を愛してほしい」

と言われた人間の誇りを守るために、純粋で誠実な心で、賊でない証しの為に寄贈を黙々と一〇年間続けたのは、公に対する揺るがない信念からである。

二〇世紀に築いた勢いとバイタリティ、質の高さを、いかに二一世紀におけるプログラムに生かすという課題と優秀な企画スタッフ、献身的な行政メンバーによるエキサイティングかつ的確な問題提起により、光州市立美術館はその存在と真価を世に問わねばならない。好きになれる都市、幸せになれる都市、存在感のある都市に光州市立美術館は輝いてほしい。

種を蒔き、木を植える事は容易いが、これを育み花を咲かせ、実がなるまでには、時間と弛まぬ努力と精神力が必要とされる。特に文化芸術においては言を待つまでもない。一人の人間が四〇年をかけて集め、美術を愛し、美術に全人生の命をかけたコレクション、その全てが光州市民のコレクションであるという真実が全てを語る。

〈コレクションのコンセプト〉

河正雄コレクションの意味について、市民の皆さんに考えていただきたい。私のコレクションのコンセプトは〈祈り〉である。平和への祈り、心の平安への祈りである。愛と慈悲心に溢れた祈り、犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者、歴史の中で名もなく受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈りである。韓日の痛みの歴史の中で在日に生まれ、在日に生きた私の心の事柄、持ち方、精神の出来事である事を皆さんは確認されることと思う。

コレクションを、三回に渡って光州市立美術館に作品を寄贈してきたのは、若かった時の画家の夢を放棄した為ではない。その夢の実現のため、河正雄が生涯を語る一枚の作品として描くような気持ちでコレクションをしてきたのである。

光州市立美術館には〈祈り〉という、河正雄の作品が常設されているのだと記憶して下されば幸いである。私は光州市立美術館に寄贈されたコレクション、一八六五点の作品一枚一枚が花であると考えている。この花が咲き、平和への祈り、幸福への祈りを私と共にしていただければ、これ以上の喜びはない。光州市民の皆様も、河正雄コレクションと共に社会に、公益のために咲く花の一輪になって光州市立美術館を助け育て、ひいては光州を愛して下さることを祈っている。

光州は芸郷、義郷、味郷の都市として内外に認識されるようになった。私はここに加えて一九八〇年代、受難を受けた痛みを癒すコンセプトを持った都市、平和と人間、弱者に優しく温かいヒューマニティックな〈祈り〉をテーマに世界にメッセージを発する、精神性豊かな都市になってほしいと願っている。

『人間に優しい都市光州』の創造は、世界から共感をもって愛され、不偏の価値を認知されるものと信じる。光州市民が大変なときに私の心が役立ったこと、市民から歓迎されたこと、無償の愛が通じたことを人生最大の喜びとしている。光州広域市の無窮なる発展と、光州市民の平安と幸せを心から祈っている。

「旅の途中展」

光州広域市主催・社団法人韓国美術協会光州広域市支会主管により、光州広域市のメトロギャラリーにて、二〇〇四年九月二二日から一〇月五日まで「旅の途中展」を開くこととなった経緯と、その思いをつづる。

〈出会い〉

二〇〇三年九月末のことである。私は全羅南道庁前の南道芸術会館で韓日美術交流展を見た。会館前の壁面には、太極旗と日の丸の垂れ幕が掲げられ、目を引いていた。光州の目抜きに、日の丸が堂々と掲げられているのを私は初めて見た。その光景に驚きと戸惑いもあったが、素直に「これは良いことだ」と思った。同時に、反日感情の強い光州で、時の流れとはこういうものなのかと感慨をもって痛切に感じた。

その会場で、交流展の主催者であった林炳星画伯と会った。一九九三年、光州市立美術館に私のコレクション二一二点を寄贈することになったが、その打ち合わせのために我が家を訪問されたのが画伯との出会いである。私は言論人でもあった画伯の気骨を知っていたが、気易さもあって

「先生は、いつから親日家になられたのですか?」

と率直に聞いた。画伯は

「まあ、そう言うなよ」

と笑顔で返された。そして

「奈良漬けが食べたい」

と言われた。戦前に食べた奈良漬けの味が忘れられないと言うのだ。

一一月になり、再び画伯とお会いする機会を得た。妻が

「日本橋の高島屋で買ってきました」

と奈良漬けをプレゼントした。画伯は大層お喜びになり、その様子から、日本に対する感情が少し理解できたような気がした。

その席でのことである。

「君の個展を招請したい。来年五月、南道芸術会館でどうだろうか」

と唐突に切り出された。画家でも芸術家でもない私に個展とはと、その意外な申し入れに戸惑っていると

「君が生きてきたありのままの姿を、そのまま見せればいいのではないか。光州市民は君に関心を持っているし、君の生き様は、彼らに希望を与える事にもなるだろうから」

と言われた。私は

「来年五月までの半年間では、余りに時間がない。再来年の五月なら考えてみましょう」

と答えたのだが

「私には時間がないのだよ。鉄は熱いうちに打つのがいいのだよ」

と言った。時間が無いという意味を私は理解し、画伯の提案には使命を感じるものがあり、熱情に押された。

私はこうして『旅の途中展』を開く決心をした。

〈旅(人生)〉

人生は旅である。人は生まれ落ちた日から旅人、雲水となる。どこで、どの様な境涯であろうが、布施・持戒・精進・忍辱・弾定・智慧という六波羅蜜の修行者となって生きるのが人の一生である。

人間にとって、世の中にとって役に立つ生き方をするには、その修行を誠実に務め、努力することが人を幸せにする、自分が幸せになる根幹であると思う。自分の利益のみを考えるのではなく、人を思いやる心こそ、人間として最も尊く美しい心である。その心こそ芸術(アート)であると思う。人生を芸術で生きる夢を抱くことは、優雅で至福な事である。人それぞれの旅(人生)の途中をふと振り返り回顧することは、自分はどこにいて、これからどこに進んで行けばいいか、未来に希望を見出す座標になることであろう。

河正雄のアートには、韓国と日本・二つの祖国があり、母校があり、恩師があり、友情が塗り込められた、人生の途中を描いている。多難をくぐり抜けて、幸せという収穫を感謝の心で描いた作品を見てもらいたいと思う。まとめるならば、幸せを求める生き方の一つが、河正雄のアートであるともいえる。

・コンセプト一

ここ一〇数年は絵を描くことはなかったので、以前に描いた数少ない絵を展示する。風景や花など自由奔放、自然体の絵である。自然の中で私は癒され、生きてきたことが表れている。その描いた自然には国境のないことがわかる。画家の夢を見続けた美術への憧憬の原点がここにあると思う。また、この展示のために新たな作品を制作することは、物理的にも時間的にも出来ないと言う理由もある。

・コンセプト二

河正雄の自画像として、家族の営みと歴史を写真で展示する。

旅(人生)の始まりから旅(人生)の途中までを〈家族〉とは、『韓国と日本、二つの祖国』とは何であったのかをテーマに見てもらいたいと思う。生きる道程、人々との触れ合いや折々の行事を通して、韓国と日本の自然の中での自然体の肖像に、河正雄の生き方があるがままに記録されていると思うからだ。

〈家族について〉

コンセプトの〈家族〉について語る。

父は一九二八年一六歳の時、単身日本に来た。母は一九三八年一八歳の時に日本に渡り、父と結婚した。そして一九三九年大阪で私は生まれた。

私が生まれた年は第二次世界大戦が勃発し、強制連行と創氏改名が法で強制され、太平洋戦争に突入していった、韓日の歴史の中でも苦痛と苦難の時代が始まった年である。暗い将来しか見えない時代、それが私の人生のスタートであった。植民地時代、そして戦争の時代を経て、民族解放を味わったが祖国へ帰国することは出来ず、日本に踏み止まることとなる。大阪から秋田へ、そして埼玉へと流転と流浪の生活が、我が家の歴史の前半部である。

その間、家族は七人となっていた。父は一九七五年に亡くなったが、その人生は多事多難なものであったと思う。親兄弟が離ればなれにならずに、今はひ孫の代となり、父の渡日から在日四代の歴史は七五年になった。河家の血脈は二六名となって今、まとまって生きていられるのは幸せなことである。

昨今、家族の絆が希薄となり、家族の意味、重みが問われている。私は家族あればこそ生きてこられたし、家族が生きる力の原点であることを痛切に感じている。幸せの源は家族の中にあり、それが明日へと繋がり、希望になっていったと言える。泣くも笑うも家族は一心同体であった。

自分が何ものであるのか。何が出来るのか。人間として正しい仕事をして、それを通して美しい心を育んできた。夢を追い続ける充実した生き方、幸福の時間を生きてきた私の〈家族〉を見てもらいたいと思う。また〈家族〉のテーマには、時代も国境も越える普遍的な問題意識があるという理由からだ。

河正雄の哲学である〈家族〉の構成を見ると、在日同胞史、在日韓国人の生き様の典型を見ることが出来ると思う。韓国と日本・二つの祖国を生きる家族とは、何かを問うことになるであろう。

「私の愛する光州」

〈はじめに〉

本日、光州広域市議会第一二四回第一次定例会を訪問し、市民の代表であります市議会議員の皆さんとお会いできました事を大変嬉しく思います。公私ご多忙の市議会議員の皆さんが、私の話を聞いて下さることを光栄に思います。

このような厳粛なる市議会場で名誉ある機会を与えて下さり、私を迎えて下さった関係者の皆さんに感謝を致します。私を既にご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、今日の皆さんとの出会いを、偶然なる御縁ではない、意味深いものと考えております。

光州に関わる話を三つに絞って致します。

〈光州との縁〉

光州との御縁は一九八一年からです。在日一世、全和凰画伯の画業五〇年展開催準備のため光州に参りました。光州事件の翌年のことで、市内の惨憺たる状況を眼にしました。日本で事件の経過をTVや新聞で知り、心を痛めておりました。その時、市民の人心は荒廃しており、美術や芸術に関心が届かなかった頃です。

一九八二年五月、呉之湖先生をお迎えして、全和凰展を南道芸術会館で開催しました。その巡回展の疲労のため、私は光州でダウンしてしまい、視覚障害者の黄英雄氏のマッサージを受けました。その時、黄英雄氏が私に頼み事があるというのです。

「全羅道にいる二〇〇〇人の視覚障害者のために、協会と会館を作りたいと、数年前より道庁や市庁の福祉課を尋ねて要請してきました。市や道から何の返事もなく、助けてくれない」

と訴えるのです。その時、光州は社会的弱者に目を向ける余裕などない状況でした。福祉など名のみの時代でした。

私は彼に言いました。

「為政者を頼らず、障害者だから助けてほしいと言わずに、自分たちの力と努力で運命を切り開かねばならない」と。

「力のない、私達に何が出来るのですか」

と彼は私に尋ねました。

「あなたのマッサージ代は六〇〇〇ウォンですね。私が一〇〇〇ウォンプラスして支払いましょう。あなたも一〇〇〇ウォン出しなさい。あなたの同僚達とお客さん達の協力を得て、募金活動をしなさい。マッサージをする毎に、二〇〇〇ウォンずつのお金を積み立てて基金を作るのです。二〇〇万ウォンの基金が出来たら連絡を下さい。あなた達の、自立しようとする姿勢と意志が見えたら協力しましょう」

と約束しました。

彼らは一年後に、私との約束である二〇〇万ウォンの基金を作りました。それを元に、協会事務所を借りました。引き続いて募金活動をし、土地を買いました。一九八八年、市や道から各々五〇〇〇万ウォン、計一億ウォンの助けを受けて、現在の建物を建てました。

「土地は三〇坪、会館は三〇坪あれば良いから頼む」

と彼は当初、遠慮して言いました。私は土地を一六二坪購入し、会館は一三一坪のものを建てました。彼らや市と道、光州市民や在日同胞と日本人達の力の結集により、韓国で初めて官民一体となって作り上げた福祉会館です。

「これでも少ないと思うが、私の力で出来るのはここまでです」

と私は彼に謝りました。今、盲人福祉会館は、手狭で動きがとれないほどの発展規模になっています。その後も幾度か、黄英雄氏から助けてほしいとの要請がありました。これからは市民等が市や道の官と共に、地域の問題は地域で考え、解決していくようにと指導しています。どうか彼らに道が開かれますようにレールと列車を与え、力を貸してあげて下さい。

当時、福祉があってない時代だった韓国が、困難な時代でありながら助け合いの精神と英知、希望と展望を持つことの意味を、この盲人会館建立事業は教えていると思います。会館建立後、「たかだか二、三億ウォンで建てた会館」という金銭的評価のみで、事業を評価をする人が多かったことに寂しい思いをしました。ですが出発時には、市も道も一〇〇万ウォンを出すのが精一杯の時代があったことを忘れてはいけません。金額のみで物事の評価をするのは、真実を知らない、価値のわからない人の言うことです。ちなみに私は、会館完成までの七年間に五〇回も光州と日本を往来、指導をしました。そうしたのは、その社会的事業の価値には、金銭では計れない付加価値があったからです。多額の経費と時間とエネルギーを投資、全てボランティア精神でやりました。

「あなたに頼みたい、あなたに助けてほしい」

と言われたことの言葉の意味を考えて下されば、私の誇りがお判りになるはずです。市議会議員の皆さん、こうして生まれた盲人福祉会館の原点は、哲学的精神を礎としております。福祉行政の先進として、市がこの魂を受け継いでほしいと思います。

韓国の独立運動の高潔なる指導者、安昌浩先生は嘘を嫌いました。

「真理には必ず従う者がいて、誠意は必ず実を結ぶ日が来る」

という言葉を、私は信じていたからです。一人の人間が四〇年をかけて集め、美術を愛し、美術に全人生の命をかけたコレクション、その全てが光州市民のコレクションであるという真実です。

生前、呉之湖先生は

「在日同胞といえば故郷に来て金をばらまき、功名心を煽る行為をしている。女遊びや遊興にふける姿は最低である。在日同胞は犬胞、金胞、糞胞だと言っていたが、君を見て在日同胞への認識を改める」

と言われたことがあります。在日同胞に対する偏見と誤解が解けたことを、私は喜んでいます。

しかし、日本人でない在日韓国人、韓国人でない在日韓国人が両国で生き、理解され認められるのは容易なことではありません。お金だ、名誉だ、学歴だと毀誉褒貶に捕らわれず、祖国や同胞のことを考えた奇特な人間が在日同胞にいたという事実、〈嘘〉でないことを、河正雄コレクションは語り証明するであろうと思います。

〈コンセプトは祈り〉

私は光州ビエンナーレを記念して、ビエンナーレ展示本館に近い、中外公園の一角に柿の木を一本植えました。

一九四五年長崎に原爆が落とされ、爆心地はあらゆる生命が死滅しました。しかし、唯一柿の木だけが生き残りました。長崎の樹木医海老沢正幸氏が、被爆したその柿の木から二世を生み出し、二〇〇〇年光州ビエンナーレの出品作家である宮島達男氏が、アートプログラムとして世界中の子供達に〈被爆柿の木二世〉を体感し、育てる植樹活動に私は共鳴したからです。

人類全ての平和を願うシンボルとして、人権の都市光州のシンボルとして被爆柿の木を植樹した意義は大きいものです。ところがビエンナーレ終了後、柿の木は無惨にも引き抜かれてしまいました。二〇〇一年、再度長崎から苗木を取り寄せ再植樹しましたが、枝や葉を切り取られ、今や瀕死の状態です。縄と鉄条網でグルグル巻きに守られている柿の木の姿は異常、且つ見苦しく光州に相応しくない姿です。

私は今年二月、光州にまた苗木を持って参りました。そして現在、秘密の場所で育てています。しかし、柿の木に何の罪科があるというのでしょうか?植物一本を育て、実らすことが出来ない民族なのか?市民なのか?私は理解に苦しんでおります。

原爆の厳しい現実の中で生き延びた、強靱な柿の木の生命から刺激を受け、その尊い姿を見ることで、未来の子供達にとって学ぶことが多いと私は考えています。

種を蒔き、木を植える事は容易だが、これを育み花を咲かせ、実がなるまでには時間と弛まぬ努力と精神力が必要とされます。特に文化芸術においては、言を待つまでもありません。

河正雄コレクションの意味について、市民や市議会議員の皆さんに考えていただきたい。私のコレクションのコンセプトは〈祈り〉であります。平和への祈り、心の平安への祈りであります。犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者、歴史の中で名もなく受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈りであります。

人々は長い間、河正雄を不思議な人物として社会の異端者、もしくはアウトサイダー、理解しがたい人間であるように思われていたようです。しかし、韓日の痛みの歴史の中で在日に生まれ、在日に生きた私の心の事柄、持ち方、精神の出来事である事を皆さんは確認されることと思います。

光州は芸郷、義郷、味郷の都市として内外に認識されるようになりました。私はここに加えて一九八〇年代、受難を受けた痛みを癒すコンセプトを持った都市、平和と人間、弱者に優しく温かいヒューマニティックな〈祈り〉をテーマに、世界にメッセージを発する、精神性豊かな都市になってほしいと願っています。

今、私達は資本主義と物質文明の中で、進むべき方向や人間性を見失い、大事なことを忘れてしまったことの多さに気付きつつあります。物質や形、量や数、力や富が最善のものではない、人間社会を豊かにするものではないことが判り始めています。人間は過ちを犯す動物です。しかし過ちを犯した後は反省し、良く改めれば社会は良くなるはずです。

私は心の持ち方、精神の在り方を光州で学び、実習したことを皆様にお話ししました。「人間に優しい都市光州」の創造は世界から共感をもって愛され、不偏の価値を認知されるものと信じます。本日は、私と皆さんを強く結びつける御縁深い日となりました。光州市民が大変なときに私の心が役立ったこと、市民から歓迎されたこと、無償の愛が通じたことを人生最大の喜びとしております。

しかし、正確に言葉や発音を表現できないため、皆様に苦痛を与えてしまったのではないかと、恥ずかしさと無念があります。私の勉強不足と不明を侘び、育った時代と日本という環境を理解し、て下されば救われます。最後まで私の話を聞いて下さったことに感謝いたします。

最後に、私は著書にサインを求められると〈百花為誰開〉という文字を書きます。我々一人一人が花であり、百の花、千の花、億の花が誰の為に咲けばよいのか?という問い掛けです。社会のために、公益のために、人類の福祉のために、平和の祈りのために咲く花になろうではないかという呼び掛けです。

私の苦悩や苦痛は、人生の遠回りのように思われるかもしれませんが、公益のために生きることは、損失でもなければ人生の無駄でもないことを私は確信として語りました。

光州広域市の無窮なる発展と、光州市民の平安と幸せを心から祈っております。

「歴史は市民がつくる」

現代美術家・金珠映(キムジュヨン)(一九四八~ )

〈はじめに〉

光州市立美術館には河正雄コレクション、金珠映の『窓』(キャンバス油彩コラージュ一一〇・×一六〇・一九八五年作)と『名のない旗たち』(廣木油彩アクリル混合二〇〇・×七〇・一九九七年作)という作品が二点収蔵されている。金珠映は一九七〇年代~八〇年代に『我一窓一霊魂』という作品を多数発表してきた。それは単純且つモノトーンの色調で、筆を使わずに描かれているが、筆致に表情もなく〈窓〉ではなく〈扉〉のようにも見える。それは構造を意識させる作品である。その構造に雲の流れを感ずる構成と、灯明なのか、それとも月明かりなのか、透視されたかすかに開かれたシルエットのような〈扉〉からは、その先にある〈光の空間〉に作家のメッセージが投影されている。

金珠映の〈記憶〉や〈道〉など人間として立ってきた“意志”やペーソス、作家の寂しさが心象として表されている。〈扉〉がかすかに開かれている構図には、人間の性善や可能性、未来への希望と展望を与えているように思われる。

〈接点〉

二〇〇二年三月二九日、第四回光州ビエンナーレが開幕された。私はその日、野外に設置された作品を見て回った。メイン会場近い小高いところに、赤土を盛り上げて作られた、韓国でよく見られる土饅頭のお墓のような形をしていた設置作品があった。私は粗末な木の扉を開けて、その作品の中に入った。明るいところから急に室内に入ったので、中の展示物はすぐには見えなかった。室内は三人ほどしか入れない狭い空間で、正面に小さな障子の窓があって、窓の桟から外明かりが差し込んでいる。その光に作家の制作意図が感じられる。

目が慣れてきて、室内を見回したところ、古い韓国農家の竈のある土間で、壁も天井も赤土で仕上げられており、柱には厄除けの札が貼られてあった。置かれた笊にはお米が豊かに盛られ、赤い唐辛子など収穫された農作物が置かれて、隅には臼が置かれていた。その臼の中から、かすかな音が聞こえている。のぞいてみるとビデオが設置されており、映像が流れていた。

その映像は中国北部なのかシベリアなのか、国名はわからなかったが、韓民族の生活の様子や彼らのインタビューなどが、ルポルタージュされた作品であった。世界各地に移住している在外同胞は六〇〇万と聞いている。以前に、戦前のサハリンでの韓民族の極悪な生活のルポを見たことがあったので、この作品は韓民族の恨と、癒されない在外同胞の歴史的な痕跡と証言を記録したものと理解した。

私はその土饅頭の中に、一人吸い込まれるように入って身震いを感じた。私が二~四歳まで霊岩で住んだことのある、家の土間と同じ土の香りと空間を感じたからだ。幼少の時の記憶が蘇り、懐かしさが頭の中が渦となった。

私は一人、そこでしばし過去との会話をしていた。戦前戦後に日本での父母と同じような、苦痛の境涯をビデオは映し出していたからだ。韓民族の桎梏、歴史というものの残酷さを感じないわけにはいかない、我が事のように身につまされる映像であった。

外に出て誰の作品であるのか確認しようとしたが、何の表示もなかった。ビエンナーレのガイドに聞いてみてもわからないと言われた。その時、これはビエンナーレ出品作品ではないのかとも思った。

〈出会い〉

二〇〇二年五月一五日、美術雑誌『アート』の主幹である金福基氏から連絡があった。韓国で三月にハングル版の『二つの祖国』を出版したが、その本を読んだ方が私に会いたいというのである。

金福基氏の紹介で、ソウルのロボテルホテルで金珠映と会った。

「私はパリと韓国にアトリエを持ち、両国で作家活動をしています。ビエンナーレに作品を出品していますが、見ていただけたでしょうか?」

と言った。それは先述したビエンナーレでの展示作品であった。その作家である金珠映と、このような形で対面する事に、私は不思議なものを感じた。

「光州で『二つの祖国』の本を読みました。大変感動し、私はあなたのオモニを主題にして、在日同胞の恨をアート作品として制作してみたい。文筆、ビデオ、平面、設置、パフォーマンスなどで表現してみたい。日本での河家の流浪と、流転の歴史の足跡地を取材したい」

と要請された。

そして八月一四日、私は関西空港で、パリのアトリエから来る金珠映を待っていた。降り立った金珠映は、山男が背負うようなリュック姿で現れた。その重さはゆうに二〇キロもあり、私を驚かせた。てっきりフランス帰りのマドンナの雰囲気を持つ、洒落たセンスの洋服を着た女性が現れるのかと思い込んでいたからだ。

心配になって「私が背負いましょうか?」と尋ねてみると

「今までモンゴル、シベリア、中国の僻地もこうして一人旅をして取材し、作品を制作しながらパフォーマンスをして廻ってきたから大丈夫」

と微笑みながら言われた。小さな体にそぐわない大きなリュックを再び見直し、私は溜息をついた。

〈河家の歴史の跡地を旅して〉

私の生誕地は東大阪市(旧布施市)森河内である。金珠映と二〇数年ぶりに訪れたその地に、生まれ、生活した戦前からの長屋が現存していた。だんじりを引いて流した路地、鎮守のお社も変わっていなかった。終戦間際に、我が長屋の裏にあった溜め池に、B29から爆弾が落とされたが不発に終わった。その為、長屋は傾いたが家族の命は助かった。その痕跡は埋められ、建売住宅が密集していた。戦前、長屋には朝鮮人家族が数組住んでいた。その人々は戦後、日本各地に移り散った。私の家族も、ここから秋田に移住したのだ。ここが私のルーツかと思ったら、無性に涙がこみ上げてきたのは、ただの感傷とはいえない実感がその長屋にはあったからだ。

猪狩野、西成、鶴橋と廻った。路地一帯が朝鮮人の家屋で密集していたが、街全体が静まり返っている。当時の活気や生活感が薄くなっているように感じられた。同化が進み、よくみる日本の町並みのように見えた。

一九四七年、私は布施朝連初等学校の第一期生として入学したが、すぐに、民族学校弾圧の嵐が吹いて、授業どころか連日、警察に追われる学校生活を味わった。私は学校の跡地に立ってみて、その時代の狂騒が幻のように思えた。

京橋駅頭に、太平洋戦争犠牲者の慰霊碑が建っていたのでお参りした。終戦間近、B29の襲来で何万もの犠牲者の出たところが、この京橋付近である。その当時住んでいた放出(はなてん)からすぐ近くのところで、父が片町のガラス工場で働いていたので、弁当を届けに何度か行ったことがある。その京橋で父を思い出し胸がキューンとなった。

その日は八月一四日、旧の送り盆で、京橋川の川辺りでは供物と霊に捧げる供物が小舟に山と積まれ、線香の煙があたりに充満し、人並みが溢れていた。

金珠映は、広島平和記念公園で行われる毎夏のセレモニーを、パリやソウルでテレビを見て知っていた。公園内にある韓国人原爆慰霊碑の前で、金珠映はここでパフォーマンスをやりたいと言いだした。私は

「ここは許可無くしては出来ない」

と言ったが、諦めきれないのか、何度もスケッチや記録をして構想を練っていた。二二万余の犠牲者の中に、朝鮮人が二万余人あったという事実を知って、金珠映は想いを強くしたようであった。世界遺産となった原爆ドームの異様さ、何人もここに佇めば、心は平和への願い、核兵器使用への憤り、犠牲者は民衆であるという一つの想いに辿り着く。この場所に韓国人原爆犠牲者慰霊碑が、移され祀られたのはつい最近のことである事を教えたら、霊まで侮辱するのかと金珠映は表情を曇らせた。

その日は終戦記念日であった。突然、私の携帯電話が鳴った。ソウルのKBSラジオ第一放送からであった。実況放送で、光復節を迎えての在日同胞の所感をインタビューしたいとのことだった。私は日本での生き様や、いま広島であったことを話した。

一時間後にまた電話が鳴った。今度はKBSラジオ第二放送からである。日本と韓国を『二つの祖国』とし、故郷としている私の所感をインタビューされた。この春に出した私のハングル版『二つの祖国』の本を読んでインタビューするのだと言った。日韓はこれから運命共同体となる。従って韓日友好親善の路線を貫き、在日同胞の権益と地位の向上を韓国民に強く訴えた。各々放送は一五分にも及んだ。

〈下関の記憶〉

下関は関釜連絡船の玄関口である。

私は母と共に四歳の時に、霊岩から栄山浦の港で伝幡船に乗り、麗水で船に乗り換えて下関に着いた。関釜連絡船岸壁から長い連絡通路を進むと下関駅がある。記憶にある下関駅は、今も現存していた。当時新築されたばかりの下関駅は、今は文化財の指定を受けてもよいほどに古くなっていたが、郷愁を感じる良い建物だ。駅には雑踏はなく、私が戦前、この地に降り立った時に感じた人々の活気や息遣い、喧騒はもはやそこに感じることはなかった。

記憶を辿って長門町、竹崎町と歩いてみた。そして円通寺に参った。街に昔の名残がなかったが、在日同胞の韓国食材を売る店があったので入ってみた。気のいい店の主人の案内で、丘の上の神田町の朝鮮人部落を訪ねることとした。糞(トンコル)の街と言われた朝鮮人部落は下関に何カ所かあったが、神田町は当時そのままの営みが今も残っている所である。戦前、私の家族もこの部落のどこかに滞在し、大阪そして秋田へ移住する前の一時のねぐらとした所である。

小山の頂上近い、見晴らしの良いところに光明寺があった。戦後まもなく、韓国から住持が移り住んで開いた寺である。鐘楼から見下ろすと、目の前に朝鮮総連系の朝鮮人学校が見えた。

「この地域には、二〇〇〇人程の朝鮮人が住んでいる。年々、ここから出ていく人が増えているので、ずいぶん少なくなった。今残っている人は、生活の貧しい人々。在日同胞は可哀想だ。特に、ここに残されている人々は尚更である。戦前戦後そして、今も日本人社会や韓国人社会から疎外された人々で、南北のイデオロギーの対立による争いは、同胞達を大きく傷つけてしまった。せめて在日同胞は分裂せずに団結さえしていれば、今の境涯はなかったと思う」

と光明寺の金鎮度住持は、吐き捨てるかのように語った。その時、生暖かい風が通った。その風と共に糞の臭いが鼻についた。その臭いこそ私の原点である。今もトンコルの臭いが下関に残っていたのに驚き、郷愁を超えて、在日同胞の置かれている生活の実態を思い知らされる事となった。

坂を下り歩いていたら、韓国語の会話が聞こえた。その町並みは、ソウルや釜山で見た山の斜面に密集している、粗末な箱房の風景と同じであった。懐かしい風景にも見えたが、このトンコルの街から解放されない限りは、在日同胞は浮かばれない。下関からトンコルの街がなくならない限り、在日同胞の戦前も戦後も、真の終わりを迎える事はないのではないかと陰鬱な思いになった。

懐かしい下関駅が二〇〇六年一月七日未明、放火され炎上した。

「空腹でむしゃくしゃしてやった」

と七四才の男の犯人は話している。韓日、そして在日の歴史を証言する建物が無惨に消えたのは残念である。

〈慰霊の旅〉

金珠映と私は、埼玉県日高市にある高麗神社と聖天院に行った。今から一二五〇年前に渡来した高句麗の若光王を祀る神社と菩提寺である。渡来の歴史と日本に祀られている祭神に、金珠映は関心を示し、日本と、そして在日同胞の根を、新たに認識したようである。日本に根付いて、この風土と歴史の中に培われた在日の精神の有り様が理解できたようだ。

二〇〇〇年、聖天院に建立された在日韓民族慰霊碑に参った。日韓の歴史の中、二〇世紀における不幸のために、亡くなられた全ての犠牲者の霊を祀る在日韓民族の無縁の霊碑に、金珠映は在日の人々への想いを強く実感したようである。ここに霊が静かに眠り、在日同胞の祈りの原点があることを。

秋田は、竿灯祭が終わるともう秋の風情がある。東北の秋は早い。秋田新幹線こまちで田沢湖までは三時間弱で着いた。昔は夜行列車で一〇時間以上はかかったものだ。

私は田沢湖町と呼ぶより、生保内の地名の方が馴染んでいて好きだ。民謡の生保内節は盆踊りでよく踊り、酒の席でよく歌ったものだ。田沢湖と言うと小学生時代、母が死のうと何度か私の手を握って湖畔に行ったことがあったため、今でも暗いイメージが浮かんで悲しくなってしまう。

金珠映が田沢湖の姫観音に関心を持ったのは、その建立の由縁が長い間、秘められていたためである。そしてその石像が芸術的に見て、造形が完成されており、湖全体を見守っているたたずまいは優しさに溢れており、美しいことこの上なかったからであろう。田沢湖のシンボルといわれる、金色に塗られた辰子姫像は田沢湖には似合わないと、金珠映は何度も呟いた。

一九三七年から始まった、田沢湖周辺の国策による電源開発工事の歴史、朝鮮人強制連行の歴史などが封印されていた事が、明るみになっていった経過を知った金珠映は、韓国人として強い戸惑いをおぼえたようだ。こんな歴史があったことを、韓国人は知らぬ事実であったからである。

田沢寺に建立された朝鮮人無縁佛慰霊碑に捧げられた、私が詠んだ「ふるさとを 田沢とよばん彼岸花」の句に憐憫の情を示した。秋田空港で降りて、韓国仏教会の団体が田沢寺に参り、法要を数回開いていると説明したところ、金珠映は韓国がこんなに近いのかと深呼吸していた。私達家族が、終戦近くまで住んだことのある先達の馬方の住居跡、そして強制連行者達の宿舎跡の山中に踏み込んだ時には、鳥肌が立つ思いがしたと青ざめていた。

田沢湖畔田子の木部落の朝鮮人労務者の飯場跡を訪ねた。この部落の女性が朝鮮人労務者と恋仲になり、終戦後引き揚げた労務者の故郷に共に行った。男性が亡くなった後に、この日本人女性は慶州のナザレ園に収容され、そこで息を引き取ったのだという史実を話した。金珠映はこの女性の生き様にも憐憫の情を示し、東北の山奥にあった日韓の歴史の共通項を確認したようだ。

父母が労務者として働いた生保内発電所や刺巻の飯場跡、そして神代発電所がある抱返渓谷の山中にある飯場跡を踏査した。金珠映はもうくたくたであったが、弱音は決して吐かなかった。丸二日かかって田沢湖周辺の、終戦までの朝鮮人強制連行の痕跡を捜し歩き、金珠映は作品制作のイメージを固めていった。

金珠映は八月二〇日、日本での一週間に渡る強行軍の慰霊と取材の旅を終えて、夜行列車で秋田駅から大阪へ発ち、そして関西空港からパリに帰って行った。

「秋田に来て、初めて日本の地方の美しさ、田舎の人情の美しさを知った。そしてあなたの父母が、この地でどんな苦労をしたか知った。韓国人は在日同胞のことや、日韓に関わる歴史のことを余りにも知らな過ぎたのは恥ずかしい。今まで、河さんの母をモデルにして作品をイメージしてきたが、田沢湖に来てから、あなたの父に関心をもつようになった。あなたは名を出し、あなたの母は今、幸せに生きている。しかし三〇年前に早逝したあなたの父は、在日同胞が等しく故郷と家を離れて、日本という地で戦い生き、名もなく歴史の中で死んでいった人々と同じ境涯にあることが愛おしく思えたからだ」

という別れの言葉を残して。

〈湖南の空〉

父は生前よく語った。全羅南道の人は、性格温順で人情深い。年長者を尊び敬い、祖先を大事にする。東方礼儀の国の典型的な気性の民であると。

そして、父は生まれ育ったふるさと、霊岩を懐かしみ慈しんだ。百済文化を誇りとし、日本文化の祖と仰がれる王仁博士はふるさとの偉大なる先賢で、その遺徳は燦然と輝き、綿々たる流れや営みは、今も我々後裔に正しく受け継がれていることを矜持としていた。その父が突然、郷里の霊岩に帰りたいと、望郷の想いを切々と訴えた。

一九七三年、私は父母と共に初めて祖国の地、全南霊岩を訪れた。父にとっては四六年ぶりの、生涯初めての帰郷であった。祖先は丘陵の美しい松林の中に眠っていた。国立公園月出山の麓にある道岬寺は、新羅時代に道洗国師が創建された名刹である。住持が話された。

「あなたのハルモニは信心深い人で、道岬寺に帰依され、日夜日本で暮らしている息子夫婦や孫達の平安を仏様に祈っていた。」

と。その言葉を聞いた時、私にはあったこともないハルモニの慈悲深いお顔が見え、ありがたいお姿に出会ったようだった。肉親の情と血の温もりが全身を震えさせ、霊岩は私の心を激しく揺り動かした。

翌々年の一九七五年、父は

「もう一度郷里に帰りたい。田舎で田んぼを耕し、静かに暮らしたい」

と言った。だがその一週間後、病に倒れ、還らぬ人となった。父が病に倒れたのは六四歳の時である。二ヶ月間は意識がなかったのだが、臨終の日、私の手を握り初めて口を開いた。

「正雄、お母さんや妹弟達に苦労をかけた。許してくれ。本当にありがとう」

と言った。その言葉に、父が回復する奇跡が起こるのかと思ったが、それは別れの言葉であった。苦労をかけたのは父ではない。まして父が詫びる事ではないのだと私は思っている。最後に残したその言葉を一生胸に抱き、拘り続けた父の魂は、永遠なるふるさと霊岩の山河に帰っていったのだ。

一九二七年、一六歳の時に父母と別れ、故郷霊巌を後にした日本での父の生涯は辛酸を舐め、血を吐くような苛酷な労働と生活苦との戦いの一生で終わったのだ。

その後、私は美術展や日本との文化交流、そして植樹などのため霊岩をしばしば訪れる機会が多くなっていった。そして失った母国の言葉を取り戻し、積極的に全羅南道の風物を訪ね歩いた。そこで良き師や先輩、友人にも恵まれた。同胞としての存在や理解を受けたことは、私の最大の喜びである。みんな父母のおかげ、故郷のおかげであった。

日本生まれの日本育ち、生の全てがこの日本にあった六四路の私、いつしか湖南の山河を彷徨する旅人となった。自分の姿は、雲水にも似た托鉢修行のようにも思えてくる。父が見た月出山の天皇峰の頂の虎を、探し求めているのであろうか。

それとも、仏教文化の華開いた百済時代の千余の寺院の甍の幻影を追っているのだろうか。雄大なる月出山は湖南人の精神的なシンボル。不偏なる慈悲と哲理を説いて見守っているようだ。私は空を仰ぐと太陽を拝し、月を愛で星を数える。その行き着くところには、いつも湖南の空がある。その空の下が平安で、豊穣なる恵みと幸いを与えたまえと祈っている。

父と出会うための湖南への旅は、新しい出会いを求めて今しばらく続くであろう。