平成の終わりに

我が家の近くに「哲学院金海」を営む易学者の金克伊先生がいらした。生前、我が家に良く遊びに来たり、また私を呼んでは親身に易学の講話をされた。

昭和から平成になった1989年の事、金先生が私を呼んで「君の易を見てやろう。」と話され、易書を下さった。その時は気にも留めず、以来忘却の書となっていた。2018年平成最後の暮れ、文書類を整理していた折に、その易書が出て来た。それには平成元年に見立てた私の運勢が記されていた。平成の30年を回顧し懐かしくもあり、痛みも伴う生々しいものであった。

幼い時から母が易を盲信するのを見て批判、反発したものだが、改めてその易書を神妙に読んだ。易は当たるも八卦、当たらぬも八卦と言われるが、実に良く当たっていたものと身が縮む思いがした。

  • 少年時代より厄が多く、早くより遠途多郷暮しで何事も無成、家事に失敗や難儀が付き纏い、秋草逢霜八敗である。
  • 天性の性格は陰険にしてやわしい。外面寛大にして内情深い。聡明であるが軽薄でもある。(良い面でもあるが)
    他人の事に関心多く、世の為に奉仕する良い面があるが、人を信じ過ぎる。
    親しく交きまとう人を信用するな。必ず利用され、破害を受ける。その親しい人が敵となり、必ず破敗を受ける被害あって何ら利はない。他人から害を受けて鳥が翼を傷め飛べなくなる。
  • いつも孤独にして東西奔走し心の置き場所が無い。吉凶善悲で凶厄が吉厄と変わり悪難から免れる。
  • 争い事も耐元ぬから仲立ちはしない事。意に背く時は外出や行動を中止し近付かず、害から逃れる事。
  • 財物は路上にある。河川に家屋(財)を成し億万の財を成す。美人の妻が金を財をもたらす。
  • 勤勉に得た財を社会に奉じ、遭難、外傷、事故死、短命を回復し、厄から免れる。他人に大きく損財して滅びるので特に注意する事。
  • 健康面は特に心臓病(手術も受け病殺進入する)、眠病及び神経系病み足脚不具の恐れと不安あり。病厄何遍となくある。しかし多忙から努力するも予防無し。
  • 子供とは他郷か離れて暮し、夫婦のみにて晩年を幸せに暮らせ。晩年には必ず発福有り違運なる。慶事有り、春が来る。

これ以外にも世事細々に渡る易相が記録されており、頷き合点するばかりであった。一途に歩んで来た平成の30年間、打ち寄せては引き返す波動の様なリズムの人生であった。

この易見を悟り守っていればと今更の如く痛恨の思いが走る。塞翁が馬の故事に倣い、夢と希望だけは失うまいと引き締める。

2019年は年号が令和と改まる。運命に逆らわず、流されず、余生だけでも人生を味わいつつ、金先生の教えを改めて愚者の指針としたいと思う。

2032年南北共同オリンピックへの夢

父母が生前に「生きていれば、良い事も悪い事もいろいろなとあるものだ。」と良く語った。傘寿を過ぎて私の二つの故郷で起こった慶事は人生の喜びであり、捨てたものではなかった。

父母の故郷、全羅南道霊岩は王仁博士の生誕地である。2007年、霊岩郡守の要請により河正雄コレクションの美術作品を寄贈した事が緑となった。郡立河正雄美術館が建立され、2012年秋オープンした。その開館記念展のメインテーマは「故郷」である。

私の故郷、田沢湖町生保内(現秋田県仙北市)には戦後まもなく移住し、高校卒業の日まで過ごし、青春の日々を送った故郷である。仙北市教育委員長であった小中時代の畏友、安部哲男氏の依頼で霊岩郡立河正雄美術館に寄贈する事になっている作品を仙北市立角館町平福記念美術館で送別展(会期2011年2月7日~3月27日)が開催される事となった。

続いて駐日韓国大使館、韓国文化院主催ギャラリーMl(2011年5月10日~15日)に移動して「故郷展」が開かれた。終幕後、それらの作品は霊岩郡立河正雄美術館に寄贈され収まった。

私はこの展示会を迷う事なく「故郷」展と銘した。国と市をあげて歓迎してくれた温かい情。河正雄コレクションの意味と意義を評価し、私の存在を誇りにしてくれる事は、故郷に生かされた人生の冥利である。

一衣帯水、韓国と日本は兄弟の国と悠久の歴史が教えている。故に霊岩の故郷も秋田の故郷も私の故郷、祖国である事は普遍の理であり、宝なのだ。

国と国は力を持って争い合っても、二つの祖国を愛し信頼しあえる兄弟になりさえすれば、と私は愛を分散し生きてきた。その愛が韓国と日本の友好親善の架け橋になるならば、一在日として光栄ある存在である。

「故郷」展が架け橋となって霊岩郡立河正雄美術館と仙北市立角館町平福記念美術館が兄弟美術館となる事、そして両国の文化文芸振興と交流発展に寄与する事を念願している。

日本で生まれ、80年の歳月を日本で生きた。生を受けた1939年は、第2次世界大戦勃発、朝鮮人に対する創氏改名令、そして徴用が法制化された戦時下であった。その時代へのこだわりが心の深層に刻まれたのは宿命であろう。学生時代は河本正雄という日本名、高卒後社会に出てからは韓国名・河正雄として生きた在日の生涯。

祖国が南北分断された戦争。在日では民団と朝総連のイデオロギーによる葛藤があり、その狭間に流した涙は苦渋に満ちた物である。幾星霜、在日の喜怒哀楽を時はいつも何事も無かったかの様に、韓日強占合併100周年の年をも夢幻の如く流れ去った。在日の願いである祖国の平和統一の答えも無く時は流れ過ぎ行ってしまった。

つくづくと無常感を抱く世相であった。2018年10月24日、韓国与党「共に民主党」は南北文化体育協力特別委員会を発足させ、2032年に南北共同オリンピック開催を政策に挙げた。

私は、その委員会の顧問就任の指名を受けた。南北でオリンピックを開催し、平和と友好の祭典とする祖国統一が現実味を帯びて来た。

祖国に寄贈した河正雄コレクションの美術展が統ーオリンピックの文化祝祭行事として開催される事が夢となって膨らむ。私は希望と夢の実現の為に余生の生き甲斐としたい。