「守られた柿の苗木」

現代美術家・宮島達男(一九五七~)

〈時の蘇生〉

二〇〇〇年二月の事である。水戸芸術館へ、学芸員に会う用事があって訪問した時の事である。館内の展示を見ていたところ、子供達の賑やかな声がするので、つい誘われるようにその部屋に入った。〈時の蘇生〉柿の木プロジェクトと称するアートプログラムで、子供と父兄が折り紙を折ったり、メッセージを書いたりとワークショップを楽しんでいた。

「一九四五年長崎に原爆が落とされ、あらゆる物が死滅したが、一本の柿の木が生き残っていた。一九九四年、樹木医である海老沼正幸氏が被爆した柿の木から二世を生み出し、子供達に配る活動を開始した。一九九六年、現代美術家である宮島達男はその二世の柿の木に触れ、その活動をアートとして応援していくプログラムを考えた。そして世界中の子供達に〈被爆柿の木二世〉を体感し、育てて貰う植樹活動を推進するノンプロフィットのユニット、〈時の蘇生〉柿の木プロジェクト実行委員会が作られ活動を始めた。そのコンセプトは三つ。それは変化し続ける、それはあらゆる物と関係を結ぶ、それは永遠に続く、である。このプロジェクトは〈被爆柿の木二世〉を通して、一人一人の〈時の蘇生〉を目指すアートプログラムである」

と説明されており、そこで私は初めてプロジェクトの存在と始まりを知る事となった。

一九九九年ベネチア・ビエンナーレに参加し、現代美術の旗手として日本を代表する柿の木プロジェクトの主宰者、宮島達男は、第四回二〇〇〇年光州ビエンナーレの出品作家でもあった。私は第四回二〇〇〇年光州ビエンナーレの展示企画委員であった事から、記念として柿の木プロジェクトを光州に招請したいと宮島達男に申し入れたが

「柿の木を植える時期と時間がないので、来年以降にしましょう」

と断られた。しかし私は

「二〇世紀の美術の“かたち”である宮島達男の表現、〈時の蘇生〉柿の木プロジェクトは、韓国も考えるべき問題である。苗を巡る人々の全てがアートだというあなたの作品として、光州ビエンナーレ開催中に植え表現しましょう」

と説得した。こうして二〇〇〇年四月四日、光州ビエンナーレメイン会場正門近い中外公園の一角に、柿の木の苗木は植樹された。

アメリカの公立植物園では、植樹式に行政関係者は出席しなかったというが、当日、光州では市長を始めとする機関長が出席し、ビエンナーレ記念公演を行った秩父屋台囃子の大太鼓が鳴り響く中で、政治を超えるイベントとなった。

しかし、その苗木の運命は儚いものであった。ビエンナーレ会期後、何者かに引っこ抜かれてしまったのである。理由は「枯れてしまった」「国民感情から」というが、私はその時、苗木を植える時期が悪かった事、イベントを急いだことが原因であると反省した。だが、その時点で既に教科書問題は燻り始めていたのであった。

〈厳しい現実〉

翌二〇〇一年春、再度植樹することとなったが、光州の雰囲気は一変していた。教科書問題が深刻になっていたからだ。

「こんな時、誤解を受けてまでやる事はないのではないか」

と反対された。しかし

「原爆の被害は柿の木だけの問題ではない。人類全ての平和を願うシンボルとして、光州に植えた意義は大きい。これを育てていこうとする我々の意志と行為が、未来の人々に希望を与えるのだ」

と言って私は押し切った。公園の管理所長は、枝を分枝し植樹しようと言って用心の為、数本分枝し植樹した。

それから二ヶ月経って、芽が出たかと心配になり光州に行ったところ、心配していた事が現実になった。

「芽が出たと喜んでいたら、誰かがハサミかナイフで芽を切り取ってしまっている」

という報告があった。何の罪科もない長崎柿の木の苗木の運命は、現世に於いても二重三重の苦しみから未だ救われず、解き放されていない現実は、余りに無情で悲しい事だ。原爆の現実の中で生き延びた強靱な柿の木の生命から、今我々に課せられた試練に、生き続ける柿の木から激励を受け、その尊い姿を見る事で学ぶ事は多い筈である。

現実が厳しいからこそ、政治の壁を乗り越え、感情を克服して平和の祈りを受け継ぎ、生かし続けていく事が柿の木プロジェクトの本義なのだと改めてその時、確認した。わずかに残った芽は、我々の願いを滋養として生き延びる事であろうと祈願している。

〈宮島達男の芸術と経歴〉

宮島達男は一九五七年に東京都生まれ、東京藝術大学大学院を終了後、とりわけ一九八八年のベニス・ビエンナーレの「アペルト」部門への招待を皮切りに、その発光ダイオード(LED)を用いた作品を中心に、世界各地の美術館や数々の国際美術展での発表を通し、国際的にも高い評価を得続けている、日本を代表するアーティストの一人である。

その表現は、静謐にして明快なる哲理、つまり、それは変化し続ける、それはあらゆるものと関係を結ぶ、それは永遠に続く、という根本原理に基づき、人間存在をも包含した万物の根源的なありようを現そうとするもので、「1」から「9」までカウントされた世界の記憶が「0」に戻る瞬間に訪れる絶対の闇、そして、そこからの復活の光に誘われるかのように立ち上がってくる記憶の誕生、この永遠の繰り返しに堪えられる、喜びと悲しみを超越した「生と死」の姿といっても過言ではない。

一九五七 東京に生まれる

東京藝術大学美術学部油画科卒業。東京藝術大学美術研究科絵画専攻修了

一九八八 「第四三回ヴェネツィア・ビエンナーレ アペルト」出品

一九九〇 アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の招きでニューヨークに滞在

一九九〇-一九九一 ドイツ文化省芸術家留学基金(DAAD)留学生としてベルリンに滞在

一九九三 カルティエ現代美術財団アーティスト・イン・レジデンス・プログラムによりパリに滞在

一九九九 「第四八回ヴェネツィア・ビエンナーレ アートの行方」日本館出品

現  在 京都造形芸術大学教授。

茨城県在住

(熊本市現代美術館 宮島達男Beyond the Death展「死の三部作」カタログより)

人類の遺産・木刻連作版画『花岡ものがたり』

〈出会い〉

私は、秋田県大館市(あきたけんおおだてし)には秋田工業高校一年生の時、学校で集めた義援金を持って大火の慰問で訪れた思い出がある。一九九八年春、戦前(一九〇九~一九一四年)に大館営林署に務めた浅川巧(あさかわたくみ)の足跡を訪ねて、四二年ぶりに大館を訪ねた。わらび座の茶谷十六(ちゃたにじゅうろく)氏から紹介を受けた、大館在住で花岡の地日中不再戦友好碑を守る会会員の富樫康雄(とがしやすお)先生の案内で、浅川巧の足跡を辿った後に、花岡鉱山を案内された。日本帝国主義時代の戦時下、血塗れの狂った歴史の汚点がある〈花岡事件〉の現場である。

〈花岡事件〉

「一九四四年から一九四五年にかけて、九八六人(内途中死亡七人)の中国人が、花岡鉱山にあった鹿島組花岡出張所へ強制連行された。彼らは花岡川の改修工事、鉱滓堆積ダム工事の掘削や盛土作業に従事し、これをシャベルとツルハシ、モッコでやり通した。

作業所での扱いは過酷なもので、補導員の中には指導の名の下に激しい暴行を加える者もいて、加えて敗戦直前の時期から、国内の食糧事情の悪化が彼らの上にも重くのしかかり、耐え難い暴行と空腹で精神に異常をきたす者も出てきた。〈中山寮(ちゅうざんりょう)〉に収容された九七九人の内一三〇人が死亡し、更に暴行や栄養失調で身動きできない重症者が多く出た。

餓死か、暴行によって殺されるか、という状況の中で、耿諄(Geng Chun)大隊長ほか七人の幹部は

『このままではみんな殺されてしまう。もはや一日も忍耐できない、蜂起するしかない』

と考えた。寮内の動きを調べ、蜂起は六月三〇日の真夜中と決定した。しかし計画が全員に知れ渡るやいなや、規制が効かない者も出てきて統制は大きく崩れ、以後の組織的行動は不可能となった。取り敢えず逃走命令を発し、それぞれが逃げたが、重症者の一群は神山(かみやま)付近で最初に捕まり、次に体の弱っている一群が旧松峰(まつみね)付近で捕まってしまい、残る主力集団も獅子ヶ森(ししがもり)山中に逃げ込み抵抗したものの、食糧も水も無く力尽き、次々と捕らえられてしまった。

捕まった者達は、七月一、二、三日と共楽館前広場に、炎天下のもと数珠繋ぎに縛られ、座ったままの姿勢で晒された。三日の夜に雨が降り、それで何人かは死なずにすんだが、多くの者が亡くなった。

死体は一〇日間も放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人達の手で中山寮の裏山へ運ばれ、二つの大きな穴に投げ込まれた。この後も、中国人の悲惨な状況には変化は無く、七月に一〇〇人、八月に四九人、九月に六八人、一〇月に五一人が亡くなった。

一九四五年一〇月六日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れ、棺桶から手足のはみ出している中国人の死体を見て、その日の内に詳細な調査を開始した。こうして『花岡事件』が明らかになった。

強制連行の途中で亡くなった中国人の慰霊や、花岡で亡くなった中国人の遺骨は、花岡信正寺(しんしょうじ)の蔦谷(つたや)達道(たつどう)師により供養が続けられ、一九五三年に中国へ送還された。一九六三年一一月に花岡十瀬野(とせの)公園墓地で〈中国殉難烈士慰霊之碑〉が、一九六六年五月には花岡姥沢(うばさわ)で〈日中不再戦友好碑〉の除幕式が行われた。」(大館市観光物産課発行『大館市の史跡』の記述より)

〈七ツ館事件〉

富樫先生は私を七ツ館にある信正寺に案内され、住職を紹介された。そして、その墓地内に建立されている〈七ツ館弔魂碑〉へと案内された。一九四四年五月二九日、花岡鉱山七ツ館坑内は伏流水の異常出水のため崩れ落ち、噴き出した地下水は泥流水となり、七ツ館坑の上を流れる花岡川河川敷が陥落、その浸水と落盤によって起きた事故犠牲者の慰霊碑であった。その碑の裏には、日本人一一名、朝鮮人一一名の犠牲者の名前が刻まれていた。

〈七ツ館事件〉は〈花岡事件〉の重大な誘因となった。

花岡鉱山へ中国人や朝鮮人を強制連行した動因は、アジアに対する侵略戦争拡大に伴う銅の大増産計画の遂行のためである。一九四四年から終戦までには、花岡鉱山では朝鮮人強制連行者が約二〇〇〇名も強制労働に従事しており、花岡川の改修工事でも労役させられたが、人間の極限状態にまで追い込まれた受難史〈花岡事件〉の傷ましさの陰に隠れて、余り知る人がいなかった。人間の尊厳が無視された悲惨な戦時下の状況を、寒々と肌で感じる現場であった。

〈花岡ものがたり〉

富樫先生は大館訪問記念にと『花岡ものがたり』の本を下さった。その表紙裏に『花岡ぶし』の音符と作詞が載っていた。その後の調査でわかった事だが、作曲は原(はら)太郎(たろう)であった。原太郎は、わらび座の創始者で、『山有花』の作曲で知られる民族音楽家金順男の師でもある。裏扉の『花岡を忘れるな』の作品は、朝日新聞の日曜版(一九七〇~一九七八まで連載)や、一年もののカレンダーなどで見覚えのあった作家、切り絵で有名な滝平二郎(たきだいらじろう)の作品であった。

『花岡ものがたり』は、苛酷で非人間的な労働を強いられながら、他国で死んでいった中国人俘虜を慰める鎮魂歌であり、人間性のひとかけらもなくする戦争に対する告発、人間の尊厳のために死んでいった人々を讃える物語である。この惨事を目撃した多くの人々から、事実に基づく証言をしてもらい、大衆の心をとらえる芸術として〈花岡事件〉を物語にした。木版画(桜の版木にて制作)と物語詩を用いて表現しようという構想が立てられ、一九五一年出版されたものである。

その本のあとがきには

「花岡事件は軍国主義日本の罪悪の塊のようなものである。これを徹底的に追及し、えぐり取ることは古い日本の腐ったカスをなくして、日本と中国の本当の友好を築く礎である。これを曖昧に残しておくことは、軍国主義のばい菌を培っておくようなもので、再び恐ろしい戦争を引き起こすもとになる。この絵物語は平和を愛し、日本を愛し、日中両国の永遠の友好を願う人々によって、一大国民運動を起こすために作られた。あらゆる困難をおかして、闇に葬られようとしている事件の真相について、調査に調査を重ね、これを本当に活き活きとした芸術作品として表現するために、討論し、修正し、それこそ血の出るような努力が積み重ねられた。この作品は、在日華僑四万と日本の民衆の間に起こされた日中友好運動の力に支えられ、また、現地秋田の鉱山、山林労働者、農民及び民主的な団体とその運動に援助されつつ、友好運動者、画家、詩人、文学者、音楽家その他多くの人々の集団創作として生まれたものである。これは日本の芸術運動の上に、新しい方向を切り開いたものとして、芸術史の一頁を飾るものであろう」

と記してあった。私は日中を日韓、在日華僑を在日同胞と置き換えこの文を読んだ。

『花岡ものがたり』は、大館で市民演劇運動を指導していた瀬部良夫(せべよしお)(本名・喜田説治(きたせつじ)・一九一五年生まれ)が物語詩を作詩し、版画は新居広治(にいひろはる)が下絵の大半を仕上げていたが、滝平二郎と牧大介(まきだいすけ)らが協力して彫り、三人の個性ある作家の力作によって実を結んだ。

新居広治(一九一一~一九七四)は東京生まれ。前田寛治に油絵を学び、日本プロレタリア作家として活躍した。『一等兵物語』そして『水兵物語』という五〇枚の木版画連作。『常東物語』『日立物語』、一九七〇年頃からは、ライフワークとして『日立のおふくろ』の大連作を構想した優れた素描家である。労働者や農民大衆の生活の戦いを描くことを焦点に置いて、木版制作し記念すべき作品群を生んだ。

滝平二郎(一九二一~)は茨城県生まれ。一九五一年秋田県横手市(よこてし)で『秋田にて』。この年、版画物語『裸の王様』を制作。一九五八年頃から出版美術に関わり、水彩ペン、切り絵などによる装幀、挿し絵、絵本の制作を始め、いわさきちひろ等と童画グループを結成、児童出版美術家連盟会員として活躍。

牧大介(本名・下村信一(しもむらしんいち)一九二〇~一九九〇)は秋田県毛馬内(けまない)に生まれ、少年時代、福田豊四郎(ふくだとよしろう)より墨彩画の手ほどきを受け、一九四四年、近藤日出造(こんどうひでぞう)に彩色漫画が認められ師事。『花岡ものがたり』の作品五七点の内『いでたち』を木刻し、主に渉外を担当し、桜の版木の調達に尽力する。

花岡ものがたりの五七枚の連作の中に、『たたかった朝鮮のひとがた』と『朝鮮人』という二点の作品がある。徴用された朝鮮人の人権獲得のための戦い、解放の戦いが彫られている。共通の不条理克服のために、連帯して戦うことの意味を教えている作品である。

『花岡ものがたり』は、日本人として戦争に対する反省を明らかにし、日本人の良心と後悔を込め「再び戦争を起こさない」という誓いから生まれた。フィクションの部分もあるが、『花岡ものがたり』は歴史の評価のみならず、優れた芸術作品として表現されており、芸術史の一頁を飾るものである。

〈人類の遺産〉

私は芸術的価値を評価し、富樫先生に光州民衆抗争事件について語り、韓日、朝日の歴史についても言及した。人類の不幸を浄化し、共通の祈りのために、この『花岡ものがたり』の版画作品を光州市立美術館河正雄コレクションとして収蔵し、公開したいと申し入れをした。

すぐに、花岡の地日中不再戦友好碑を守る会代表奥山昭五(おくやましょうご)先生から

「当会保存の連作版画『花岡ものがたり』を貴館に寄贈させていただく運びになりましたことを、心から悦ぶと共に、名誉この上ないことと存じております。日本の侵略戦争の実相を鋭く表現したこの作品が、多くの人達に鑑賞されることを通じて、日韓の美術文化と親善友好の深まりはもとより、日韓の平和、アジア・世界平和に大きく寄与できることを切望いたします。私達もその為に、更なる前進を続けることを誓い申し上げます」

と寄贈の返事が届き、私の意が通じた。

物語詩をハングルで翻訳することになったが、本文は秋田の方言で綴られており、一八年も秋田で暮らした私にも難解な表現があった。そこで秋田市在住の李叉鳳(イウボン)氏に指導を仰いだ。氏は一九四四年五月から終戦まで花岡鉱山に徴用され、花岡事件が起きたときは、逃亡した中国人捜索のため山狩りに動員されたという。李氏の指導を元に、友人の金栄愛(キムヨンエ)氏がハングル版の物語詩をまとめて下さった。そして奥山昭五、佐藤守(さとうまもる)先生等守る会会員の方から多くの資料が届けられ、本文の考察、校閲、そして助言をいただいた。心より感謝申し上げたい。

こうして、人類の遺産である芸術作品の、普遍的な価値を共有することとなった。木刻連作版画・『花岡ものがたり』の河正雄コレクション収蔵によって、光州市民と大館市民との連帯感が育まれ、親密なる交流の絆が結ばれたことを喜びとする。光州市立美術館は『祈りの美術館』として、世界に人権のメッセージを発する機能を増すことであろう。

「桐塑人形の世界」

人形作家・市橋とし子(一九〇七~二〇〇〇)

〈桐塑とは〉

桐塑とは新語で〈おひねり〉のことである。どこにでもある生麩糊と、捨ててしまうような桐のおが屑、台所の払い下げのお鍋一つあれば広い場所もいらず、どこでも製作できる。お団子をこねるような要領で、煮えた糊を桐粉の中でこねる。糊粉仕上げ、和紙貼り、布貼り等の仕上げで製作される。桐塑人形の源流は、江戸時代の雛人形や衣装人形の頭部や手足など、商品として多数製産するための型抜きに多く使われてきた技法ではあるが、今日の創作人形においては、その材質の持つ特徴を彫塑的な技法として生かしたものである。

〈人間国宝〉

平成元年(一九八九年)三月二四日、文化財保護審議会は重要無形文化財保持者(人間国宝)の新分野として〈桐塑人形〉を指定し、市橋とし子(本名:登志・一九〇七-二〇〇〇)をその保持者に認定した。

約半世紀に渡り、和紙張りの人形を中心に幼児、少女、老人ら老若男女の自然な姿を健康な感覚で表現され群像作品が多いと、その業績が紹介、評価されていた。

「市橋とし子先生、この度、桐塑人形創作に精進され人間国宝として輝いたこと、心から慶祝申し上げます。私は一五年前(一九七四年)に、先生の『春深し』の作品に出会ったことが縁でございました。その作品を見る度に、過ぎ去った秋田時代の辛い、悲しいことを忘れ、来る春をどんなに待ち望んで生きてきたかしれません。『春深し』の作品に励まされ、内に秘めた希望を燃やし続けて参りました。昨年のお正月に先生のお宅にお伺いした時、先生は「私の人形は平和がテーマであります」と話されたことが印象深く感じられました。平和こそ私の願いでもあるからです。作品と出会ったことで、先生を他人のように感じられませんでした。これから、愛で満たされた平和の作品が生まれますことを心から祈念します」

と、私はその時、お祝いの言葉を贈った。

〈出会い〉

市橋とし子との出会いは一九七四年のことである。その二、三年前に、私は夏風邪をこじらせたことで体調を崩し、河田町の女子医大病院に通院していた。診療の帰り道、日本橋の高島屋に立ち寄り、何気なく画廊に入ったところ、市橋とし子の桐塑人形展が開かれていた。展示されていた『春深し』の作品を見て心を奪われた。『春深し』の乙女の服装が、私が育った秋田の風俗に重なり、無性に故郷が懐かしくなり、何故か涙ぐんでしまった。たんぽぽの綿毛をフッと吹きかけている、仕草の愛くるしさと、作品が語りかける春の息吹が、私の病を癒してくれたように思えた。私はその作品をコレクションしたくなり、店員を呼んだところ、

「本日は市橋先生がいらっしゃいますので、御紹介します」

と紹介された。

「まあ私の作品のどこが良くて。普通のおばあさんなのよ。年寄りの遊び、趣味みたいな人形だから仕様もないわよ。人形作りが好きでいじっているのよ」

と屈託なく話されるので、すっかり魅了されてしまった。神田の生まれという、さばさばとした江戸っ子の歯切れの良さと庶民感を感じたからだ。話が進む中で、戦争の話になると

「戦争はいや!ひどい戦争を体験したでしょ。戦争なんて悪魔のするものだと思っているの。人形は平和のしるし、人形はだませないのよ」

と自作の人形に秘めた平和への祈りを吐露された。また私が韓国人であると知ると

「私などは当時、何も存じませんでしたが、過ちは繰り返してはならぬ事と深く感じます」

と率直に日韓の歴史に触れた。人を思いやる自然さに、真心と人間性の温かさを感じた。独学で学んだという市橋とし子の人形は、女性や子供の表情などに慈愛に満ちた温かな眼差しがあり、日本的な情感と哀愁がある。その端正な表情には存在感=〈形〉があり、その完成度が内に秘めたものを、更に浮き彫りにしているように感じる。

先生と語らいながら思いを巡らしていた時、『人形の魅力の不思議さ』について歌舞伎役者の板東玉三郎氏が語った言葉を思い出した。

「人形って、わかるとかわからないとかいうもんじゃないと思うんですね。人に会ったのと同じで、わかりっこないわけよね。もうお互いに言葉がないのね」

市橋とし子は、人形にこそ、現実と無縁のものどころか、大きな使命感を感じるという。このような形で市橋とし子と、その作品世界に出会えたことは理屈や言葉のいらない、大げさではあるが運命的なものではなかったかと、今にして私は思う。

〈人間の愛〉

昭和一五年(一九四〇年)、市橋とし子は、ふと巡り会った女流人形作家の草分けの一人である今村繁子に支持して、伝統的な創作人形の技法とその真髄を学んだ。

戦後、市橋とし子の製作する人形は和紙貼りの桐塑人形を中心に、衣装人形・木彫人形等に及び多彩を極める。作品の主題を身近な生活にとり、一貫して日常生活の延長線上での幼児、少女、老人等の自然な姿態を暖かく表現されている。それらの作品に見られる的確な構成力は、彫刻デッサンや木彫等の造形的な基本によって培われたものであり、繊細で優美な心の隅に置き忘れた懐かしさの心の詩、いわゆる詩情を素朴に、生き生きと表現されており、市橋とし子の精神が凛として輝いている。

一九〇七年東京神田生まれ。東京女子高等師範学校卒業。二四年第一回、二五年第二回現代人形美術展特選。日展などにも出品し、日本伝統工芸展では三八年より入選、六二年勲四等瑞宝章、平成元年重要無形文化財〈桐塑人形〉の保持者に認定されたのである。人形製作を芸術の領域までに高めた偉業を称える。女性の目と感覚で大地にしっかりと足を据え、社会を見据え、本質を見つめた市橋とし子の生活の軌跡である。素直で飾らぬ清潔で健やかな精神と、前向きに人生を楽しみながら創作した〈人間の妙〉〈人間の愛〉が人形に現れている。

「その時々の自分自身の熱い想い、季節の想い、社会で起こった事への想いを人形に込めた。人は皆幸せでありたいという願いから、世の中の移ろいの様や、生きる喜び、悲しみ、時の流れの中に生きていて良い世の中に、人間に対する真実のために、みんなが生きていけますように、その祈りを人のかたち、つまり人形で表現した」

と市橋とし子は語っている。作品の対象が常に人であるということに、深い意味と使命感を持つ。人間讃歌そのものと言え、また作家の人生観が作品の全てである。

〈コレクション〉

私に遺された市橋とし子の人形コレクションを語る。

『春深し』(一九五一年木芯桐塑布紙貼)は、市橋とし子との出会いの作で感慨深いものである。

『温もり』(一九七四年 菜会女流人形展出品 木彫紙貼)

あどけない少女が素足で立っている。綿入れの半天と長襦袢は、冬の厳しい地方での生活には欠かせない服装である。福々とした容姿は、当時貧しかった者の願望と希望である。斜めに見つめた視点の先に、何があるのだろうか。その眼差しに、幸せへの誘いを感じる。

『水ぬるむ』(一九七六年第六回伝統工芸新作展出品 木芯桐塑布紙貼)

切り株に座っている丸髷を結った乙女は、何を想っているのだろうか。綿入れの半天に質素な絣の着物を羽織っている。『春深し』と共通する想いの作品である。水ぬるむ頃、この乙女は、どこへ旅立とうとしているのか。せせらぎの水音と春の息吹が、乙女の前途を奏でているような世界である。

『慈しむ』(一九八〇年第二七回日本伝統工芸展出品 木芯桐塑布紙貼)

福々とした母の襟先をしっかりと握り、乳房を無心に吸っている赤子。赤子を愛おしく抱き、見つめる母親の温かな眼差しに、万国共通の愛を見ることが出来る。私の母も、こうして私を抱いて育んでくれたのだろうかと思うと、感謝と喜びが満ちてくる。

『稲波』(一九八三年第三〇回日本伝統工芸展出品 木芯桐塑布紙貼)

農作業の後の一服なのだろうか。あぜ道の一隅で語り合う二人の乙女の談笑に、花や木々、小川のせせらぎ、蝶や小鳥たちが色を添えて共に語り合っているようだ。労働の厳しさの中での憩いは、新たな活力となる。穂波が実る秋の収穫までに繰り返される労働と休息、私にはそれが人生の縮図にも見えてならない。

『少年の日』(一九八五年第三回伝統工芸人形展出品 木芯桐塑布紙貼)

両手を床につき、腰を下ろして両足を前に出しているセーター姿の素朴な少年。

「私、子供が好きなんです。だってたくさんの未来を持っているでしょ。でも、これは今の少年と(感じが)違うかもしれないわね…。今は少年か大人か、わかんなくなっちゃっているとこありますからね。洒落けがあってね。洒落けが悪い事じゃないけれど」

世の中の色にすり寄っているような、犯されているような。

「そうね、ほんとに少年らしい少年というより…いきなり大人になっちゃうのかしらね。まだ、食べるものも何もないって言ってる方がいいのかしら。ほんと、純粋だったわ…」

(『田中館哲彦著 人形はだませない』より)

この少年の面影には、私の少年時代を沸々と甦らせる。自身が投影されていると思うだけでも、愛おしく思える作品である。少年時代は、誰にでも懐かしい記憶である。

『きれいな空』(一九八六年第四回伝統工芸人形展出品 木芯桐塑布紙貼)

若い母親と、その母親に守られるように正面に並んで立つ二人の幼子が、空を仰ぐように見つめている。服の色は濃茶。

「これは空襲の時のものです。もう粗末なモンペは手放せませんでしたからね。一晩として、きれいな空ってなかったんです。夜中に必ず空襲警報で飛び起きなくちゃいけない。そして縄を伝って真っ暗な穴蔵の中に入っていくのね…」

その闇を裂いてきれいな、明るい空を見たい-切実な想いが込められた作品である。

(『田中館哲彦著 人形はだませない』より)

私はB29の焼夷弾の空爆で逃げまどい、生死におののいて終戦を大阪で迎えた。どんよりとしたその日の空は、私には明るかった。この像のように、助かった、生き延びたと空のかなたを見つめ、さあこれからどう生きるかという切実な想い。この光景は日本人はもとより、アジア人の共通の想いではなかっただろうか。

〈収録〉

これらの作品は、展示会に出品展示され、カタログに収録されている。

市橋とし子個展      一九九四年一月二七日~二月三日 銀座和光

市橋とし子人形展 東京展 一九九八年二月一一日~二七日 伊勢丹美術館(新宿)

仙台展 一九九八年三月二〇日~三一日 藤崎

新潟展 一九九八年六月一八日~二三日 新潟伊勢丹

京都展 一九九八年七月一日~二〇日 美術館「えき」KYOTO

静岡展 一九九八年八月六日~一一日 静岡伊勢丹

千葉展 一九九九年二月一七日~三月二二日 千葉そごう美術館

市橋とし子と花影会展   二〇〇一年九月二一日~一〇月二日 長崎大丸

 

また文献としては

芸艸堂刊『人間国宝辞典』(一九九二年)

汐文社刊『人形はだませない』田中館哲彦著(一九九七年)

アリア書房刊 緑青Vol.22(通巻五二号)『人間国宝の作家たち』(二〇〇四年)

に収録されている。

「木地山こけし」

こけし工人・阿部平四郎(一九二九~ )

〈心の交流〉

木地山こけし工人・阿部平四郎さんとの心の交流の一端を語ろう。

二〇〇三年一二月一九日のことである。阿部平四郎さんから宅急便でこけしが届いた。

「昨夜は静かだと思っていたら、やはり雪が屋根に白く積もって今も降り続いています。愈々、冬将軍の到来と言うことでしょうか。十文字町(現横手市)の泉谷好子さんから、大学の美術学名誉博士号を授受されたことをお聞きしまして嬉しくなりました。世で言う、偉い人の考え方は余り好きではありません。どれだけ皆に喜びを与えたかで、判断したいものと考えております。良いものはいつか認めてもらえることを信じて、私のものを作れる喜びを感じて下されば幸いと思っております。

私も発病以来一〇年以上になりますが、幸い下半身の不自由だけで、余り弱らないでいるのは本当にありがたことで、感謝の毎日です。妻と娘と二人で一生懸命介護と世話をしてくれるので、少しづつでもこけしを作ることが出来るので、嬉しいことと思っております。皆の思いに報いる為にも十分自愛し、注意して、良いこけしを残したいと思っております。お祝いの気持ちだけですが、こけしを送ります」

と手紙が添えられていた。

私はお礼に、妻が漬けた自家製キムチを送り謝意を示した。

「新年に入っても早や一月も過ぎようとしております。お宅様からいただきましたキムチ漬けの近況をお知らせいたします。我が家では白菜の切り漬けと申しまして、一寸位に切った白菜に、いただいたキムチを小さく切って混ぜて漬けることで、丁度良い美味しさのキムチの一夜漬けとしております。

辛いのは苦手なので、今までスーパーからキムチの素を買って、刻んだ白菜に入れておりましたが、本場の仕込とは比べ物になりません。南蛮も日本のものとは違い、見た目より辛さもマイルドで色々な物が入っているようで美味しいですね。こちらは雪の中で冷凍庫と同じですので、容器を軒先に置いています」

と奥様の陽子さん(陽子さんは、阿部平四郎さんを師匠とするこけし工人である)から、私の故郷の仙北市西木町上桧木内の紙風船上げ行事の絵葉書にしたためられたお礼状が届いた。

〈こけしとの出会い〉

二〇〇一年九月五日、私は光州市立美術館名誉館長(終身)に任命された。一九九三年より、光州市立美術館に私のコレクションを寄贈した実績を認めて下さり、その事を記念して河正雄青年作家招待展を毎年秋に開催することとなった。

ここに至るまでに、私は周囲の方々にお引き立てとご指導をいただいて生きてきた。そのご恩に報いるべく、私は記念品を準備しようと思い立った。併せて、毎年選出される無名の青年作家達を励ます記念としての副賞とするためでもあった。私は迷うことなく、秋田のこけしにしようと決めた。

秋田で生きた一八年は、林檎の空箱が机代わりで、我が家には雪が舞い込み、雨だれが落ちる中で日々を過ごした。そんな時代に、町の店先に飾られていたこけしを

「ああ、こんな可愛いこけしが我が家にもあったらなあ」

と眺めていた事があった。

高校を卒業して、秋田工業高校時代の同級生中村龍一君が

「秋田に住んでいながら、スキーも無く、滑れもしないのか。教えてやるからスキーに行こう」

と言って鳴子に連れて行ってくれた。当時、日当二六〇円で働いていた私は、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、鳴子のこけし二本(中鉢君雄・菅原直義 作)を購入した。これが私のこけしコレクションの始まりであった。そのこけしは我が子、そして孫の良き遊び相手となり、今は黒光りして骨董品のようになっている。

〈故郷の思い出〉

戦後の苦しい秋田の生活を思い出すと、必ず、あどけないこけしが瞼に現れ、私に微笑み語りかける。泣くな、挫けるな、愚痴るな、負けるな、いじけるな、不平不満を言うな、人のせいにするなと…こけしは、ただそこにあっただけであり、それは私の自問自答に過ぎない。しかしその姿には、無限の愛と包容力を感じさせる精神性を感じ、美しく神々しくも思える。仏様と対峙する時のような祈りの境地も感じる。

ちあきなおみがデビューした一九六九年に唄った『帰れないんだよ』(星野哲郎作詞・臼井孝次作曲)に

「秋田に帰る汽車賃あれば 一月生きられる だからよ だからよ 帰れないんだよ」

というフレーズがある。帰りたくても帰れない時代は、私も同じ境涯であった。しかし、折れそうな心を支えてくれたのは、かけがいのない故郷の思い出である。故郷の思い出の中、心に浮かぶこけしの優しい慈愛の表情が、静かに私の人生を鼓舞してくれたと言っていい。

〈阿部平四郎さんとの出会い〉

私は友人の泉谷好子さんに

「お宅の近くに木地山のこけし工人がいたら、紹介願えないだろうか」

と電話をした。そして紹介いただき、資料が送られてきたのが阿部平四郎さんであった。

一〇年も前のことである。都内のデパートで〈みちのくのこけしまつり〉が開かれていたので、懐かしさもあり立ち寄ってみた。東北各地のこけし工人たちの製作実演があり、大変賑わっており驚かされた。また、並べられているこけしの数の多さにも圧倒された。

私の目は、自然と秋田のこけしに移っていった。数ある中から、清楚で純朴な、笑顔が可愛く、慈愛に満ちた表情のこけしが私の目に入った。そのこけしが阿部平四郎こけしであった。

資料に目を通し、その事を思い出した私は、阿部平四郎さんに作品を作ってもらうことにした。初め、韓国ではこけしに馴染みがなく、価値がわからぬようであった。工芸か民芸品、観光土産程度の認識でしかなかったようだ。しかし時が経つにつれ、こけしを贈った人から

「こけしには、時が経っても少しも古さを感じさせない美がある。心の触れ合いがあり、その優しさが心を温めてくれる」

と言う感想をいただくようになった。また私の故郷秋田にも興味を持ち、行ってみたいとも言ってくれる様になった。韓国の人々にもこけしの芸術性、精神性、ひいては日本の郷土性をわかってくれるようになった事が、私には何より嬉しかった。

〈こけしについて〉

「ろくろ挽きの、手も足もない筒型の胴と丸い頭。墨の黒と赤・緑・黄・紫の原色のみの色彩。ただそれだけの木人形を、こけしという。

こけしは東北地方で生まれ育った。東北人の素朴さ・質実さが、簡素の極みと言い得るような形体を生んだ。木地職人の確かな腕が、その形を表出させる時、簡素であることは限りなく繊細であることへつながる。職人は鉋を持つ腕の、筆を運ぶ腕の動きの、微妙な違いに千差万別の表情を埋め込むのである。それは自分の姿であり、土地の人々の生活であり、人間の生き様である」

と阿部平四郎さんは文にしている。

こけしという名前は、戦後に始められた新型こけしの事で、観光地などのお土産で見られる。しかし本物の伝統こけしは、東北固有の風土の味わいを宿した郷土玩具で、東北地方の各地で伝えられた、独特の模様や形が受け継がれて作り続けられたものをいう。東北各地の木の椀や盆などを挽く木地屋が、湯治場などで子供の玩具として作ったものと思われる。

こけしの歴史は二~三〇〇年のもので、文化文政の頃と考えられる。何故、東北地方以外には無いのかという疑問に、阿部平四郎さんは、諸説ある中から、自論を教示してくれた。

「親が子供を愛する気持ち、可愛い子供が丈夫に育つようにと祈りを込めたもの。高価な玩具を買い与えることが出来ずに、人形の形に作ったものを、挽師の親が子供に与えて喜ばれた事がこけしの始まりである」

阿部平四郎さんらしい、優しさ溢れる解釈であると思う。

〈伝統こけし〉

師弟相伝の形で、その製作技術や、形、模様等が一族や弟子に伝えられて外にない、その土地、その家系に定着した独特のものが伝統こけしである。

伝統こけしは福島県の土湯系。宮城県の遠刈田系、弥治郎系、鳴子系、作並系、肘折系。山形県の山形系、蔵王系。秋田県の木地山系。岩手県の南郎系。青森の津軽系の一一の系統に分かれ系統特有の特徴を持っている。こけしは〈東北の顔である〉と称するのは、東北の風土を反映しているからであろう。こけしは、東北地方が誇る抽象的かつ象徴的な、伝統ある日本の美なのである。

木地山系について述べると、秋田県雄勝郡皆瀬(現湯沢市)木地山と稲川町(現湯沢市)を中心に発達した系統で、胴(前垂れ模様が有名。菊のみを描いているものが多いが、梅の花を描いた着物模様が良く知られている)と頭が繋がっている作り付けの構造が特徴。頭部は大きい前髪と髷に赤いテガラを付け、黒いおかっぱ頭もある。古くは一筆描きにして瞳や眉も省略し、頭部の後ろにつけた毛を付けるのも特徴である。

〈美の世界〉

阿部平四郎(一九二九年三月一〇日生)さんは、秋田県川連町(現湯沢市)の出身である。昭和二一年横手工業高校を卒業後、高橋兵次郎氏について木地を学んだ。一九五〇年から二年間転職後、独立して木地業を始めた。一九五八年頃から正式にこけし製作を開始した。

「平四郎こけしは、木地山系川連こけしに属し、大きく分けて本型、泰一郎型、米吉型の三型があり、その中に形、模様、顔の異なる多種類の形がある。

本型は高橋兵次郎型を、一九六〇年から小椋泰一郎型を、一九六七年からは小椋米吉型を復元、近年伝承形態より脱皮、平四郎米吉と呼ばれる世界を確立。躍動的な文様と静的な表情を一本の木人形に纏め上げ、円熟の境地に到達、川連の伝統こけし継承の第一人者として川連こけしの名を高めてきた。一九八一年より小椋久太郎(一九八八年没)と並んで、秋田県こけし展の無審査工人に称され数々の大賞を受賞している。

その特徴は、職人の生き様そのものが素直に作品に表現されていることにある。修練の賜物であるスピード感のある技法が、職人の息遣いとその背景にある多くの事物たちの息遣いを、見るものに伝える。

目新しさ、奇抜さを排除した作風は一見玄人好みとも言われる。しかしこけしの表情の奥底から滲み出る情愛は深く、草花の清楚な美しさのような世界は、日本人の心の故里への導き手のようにも思われるのである。平四郎の、技と心が生み出した、静やかな美の世界。伝統こけしならずとも、美しい心を持つ作品は素晴らしい芸術として、人々の中に生き続けるに違いない」(リーフレットより引用)

〈幸せな師弟〉

木地山系のこけし工人、阿部木の実さんの師匠は父である阿部平四郎さんである。子供は親の背中を見て育つという話があるが、阿部平四郎さんは、こけしの伝統を受け継ぐ後継者を立派に育てられていることは、日本文化のためにも喜ばしいことだ。

木の実さんは教員になろうとして、宮城教育大学に進んだ。その時、銀座で父の個展を見て、実家で目にしていたときは土産物としか映らなかった父親の伝統こけしが、他の美術品の中にあって全く見劣りしないことに、震えるような感動を受けたのだという。一九八五年に大学を卒業すると同時に父の門下に入り、こけし工人としての道に入った。

小さい頃、ろくろの傍に作ってもらったブランコに乗りながら、父がこけしを作るのを見て育った。そして今、父の隣でろくろを回しながら、物を生み出す喜びと苦しみ、父の人生について深く思いを共有、共感したいという。幸せな親子、師弟である。

〈心の軌跡〉

「東北の冬は長く、白と黒の支配する世界です。伝統的な制約の中で、こけしの花がこんなにも鮮やかなのは、また、その表情が命に満ち溢れているのは、冬を耐え抜く強さと、春という、世界を一変させる季節への憧れ。それらの季節は、私たちの生活や精神の象徴です。こけしは人形でありながら、抽象性を持っています。立体と平面を合わせ持つ形、限られた色彩などによって、人間の本質を表現し得ていると思います。

心を形に出来るなら、雪野のように平らかで、太陽のように丸く、凛と立つ木のように真っ直ぐな、そんな形でありたいと思う。けれども、私の心はもっととげとげしく不確かです。

こけしを作るとき、私の感情はこけしの中に吸収され、無心になる、平らかになる。このこけしたちは私の心の形です。しかしこけしはシンプルなものだから、隠しようもなく自分が出てしまいます。

植物が適地に自生するように、こけしはその地その時代に、生まれるべくして生まれました。ゆえにその生には強さがあり、力があります。しかし時代は失われ、人々もまた過ぎていきました。失われたものを求め、伝統という、残された種をまくとき、こけしは時を越えて新たな実を結びます。そこには確かに、今を生きる私がいるからです。

これらのこけしたちは“時代への憧憬”をめぐる、私の精神の軌跡です」

と木の実さんは語る。

〈悟り〉

その木の実さんを

「技術は五年もあれば身につく。しかしそれでは作品とは言わない。作品というのは、その上に人間性を乗せたものである。生きることへの真摯さと謙虚さはまだまだだが、捉え方や感覚的なものは、もう私を越えた」

と平四郎さんは、目を細めて、こけし工人としての姿勢を語ってくれた。そこには、芸術人として到達した頂きと悟りを感じる。

名作は、時がどんなに過ぎようとも色褪せることなく光るものであり、生きて語り継ぐ新しい命が宿っているというのが私の持論である。

日本人の美意識の中の情(感)が失われていく中で、阿部平四郎さんの世界には、変わらぬ真実に触れるものがある。私はそんな作品に魂が癒されひきつけられる。

「流れのままに」

悲運の王妃・李方子(イバンヂャ)(一九〇一~一九八九)

〈はじめに〉

一九九〇年五月二五日、盧秦愚韓国大統領の来日を記念して、韓国国立国楽院と宮内庁楽部は、両国の雅楽の交流演奏会を宮内庁の舞台で開いた。

両雅楽が宮中で演じられたのは、両国の歴史上初めてのことで、二一世紀に向けた日韓文化交流を象徴する文化行事であった。

第一部は日本の雅楽の演奏。朝鮮系の曲〈高麗楽(こまがく)〉が流れる中、慶賀の行事に演じられる〈延喜楽(えんぎらく)〉を舞った。

第二部の韓国の雅楽(国楽)は、平成天皇、皇后両陛下をお迎えして、華やかに厳粛に演じられた。私は在日に生きる韓国人二世として出席したが、両陛下と共に鑑賞できたことに感慨無量だった。

韓国宮中音楽の〈寿斉天(スジェチョン)〉の名曲に続き、宮中舞踊の〈春鶯囀(チョンエンジョン)〉が披露され、民族衣装のカラフルな色彩が印象的であった。さらに、新羅時代の説話に起源した宮中で悪鬼を追い払う儀式の舞〈處容舞(チョヨンム)〉はどこかユーモラス。コミカルな舞にも感じられたのは、仮面の土俗性によるものだろう。

しかし連続して回舞する舞は、不幸な今世紀の日韓の忌まわしき悪鬼を払うように思え、象徴的な因縁を感じた。

〈雅楽のルーツ〉

韓国の国楽、日本の雅楽は同じルーツを持つと言われる。韓半島や中国から伝わった雅楽は、その伝統を一三〇〇年近く連綿と忠実に継承、保存された歴史の重みを感じさせる古典芸能である。

夢の中に誘うような緩やかなテンポの伴奏と、気を充足するような伸びやかなゆっくりとした動作の舞は優雅の極みである。

一般人にはなじみの薄い雅楽。日本国有の歌舞伎舞(神楽歌、久米舞、東遊(あずまあそび))と、七世紀頃唐や高句麗などから伝来した管弦舞曲の総称である。雅楽は管(笙、篳篥、横笛)、弦(琵琶、箏)と三鼓(鞨鼓、太鼓、鉦鼓)と舞楽の編成で謡(うたい)も交えて演奏される。

舞楽はインドや中国から伝わったもので唐楽で舞う『左舞』と、韓半島から伝わったもので、通常は笙を用いず横笛に代わって高麗笛を、鞨鼓に代わって三つの鼓を用いる『右舞』が雅楽の概要である。

この文化遺産を共有していることが、在日に生きる私の誇り、喜びでもある。日本の植民地支配時代、李王家の財政難から滅びそうになった韓国の雅楽を救ったのは、音楽評論家の故田辺尚雄氏だった。先人の労苦を忘れることは出来ない。

〈交流演奏会〉

招待を受けたその日は珍事に見舞われた。妻は民族衣装のチョゴリ、私は礼服と身を整え皇居へ向かった。ところが荒川大橋を渡り、明治通りに入ったところから地下鉄南北線の工事渋滞となり、車が一向に進まない。王子の駅前まで、普通ならば二〇分のところが、二時間もかかってしまった。仕方なく、車を止めてJRに乗り換え、地下鉄で経由し、皇居前についた頃には、指定されていた時間に一〇分の余裕もなかった。

そこでタクシーを乗り宮内庁楽部に行こうとしたが、ことごとく乗車拒否をされてしまった。理由は、盧秦愚大統領の訪日による都内の厳戒交通規制のためである。半ば諦めていたところに、“東急ベーカリー”と書かれたライトバンが止まってくれ、送ってもらえることとなった。妻が民族衣装を着ていたので、目に留まったからだと言う。チョゴリの効力は大であることを確認させられた。

皇居内は案内の警視(守衛)が辻々に立っていた。招待状に印刷されている菊の御紋を示したところ、敬礼を以て車の誘導をしてくれた。その時の若い警視が美男なのに、妻は「さすが皇居には役者が揃っている」などと感心していたのだから、この窮地にも妻には余裕があったようだ。

私は車寄せの一〇メートル手前で止めてもらい、歩いて入場した。礼服でライトバンで皇居に入った事が、何とも恥ずかしく滑稽極まりない風体であるし、照れ隠しのためでもある。冷や汗がどっと吹き出たことは言うまでもない。式場に入り、着席と同時に演奏が開始されたのは奇跡としか言いようがなかった。

行事を無事に終えて、王子駅前に放置した車に戻ったところ、前後に大きな石が置かれ、動かすことが出来なくなっていた。敷地の主人に謝ろうと事情を説明したところ、凄い形相の態度が一変した。その主人は

「私も天皇様にお会いしたかった、もっと皇居であった話を聞かせてくれ」

とお茶まで勧めてくれた。一難を逃れることが出来たのは天皇陛下のおかげであり、日本の国民から心から尊敬されていることを改めて認識させられた。

〈日本の皇族〉

初めて祖国を訪問したのは一九七四年の春で、そのとき今は亡き李方子元王妃(一九〇一~一九八九)を訪ねたことがあった。王妃は李王朝最後の皇太子、英親王李垠殿下が急逝された後、私財をなげうって身体障害者施設明暉園を運営。奉仕活動にご苦労していることを知り、楽善斉に慰問に伺った。

日本の皇族であった梨本宮方子妃は、激動の李王朝末期第二八代李垠英親王の王妃となられた。皇太子裕仁天皇の妃候補にも挙がった王妃は、日鮮一体という日本帝国の政治的陰謀により人質になった、大韓民国の李垠王世子と政略結婚をされた。生涯、韓日友好のために尽くされ、韓国の土となった悲運の王妃である。

その日、運良く私は、七宝や陶磁器のバザーを開催していた方子妃に謁見出来た。人柄の良さと優しさに心洗われると同時に、大衆の中で献身されている姿に尊敬の念を抱いた。この日の出会いが元になり、一九八二年の秋に、方子妃が東京高島屋でチャリティー作品展を開催した際には、私は通訳と接待のお手伝いをする光栄を頂いた。

作品会場に、皇室から明仁皇太子(平成天皇)と美智子妃殿下、三笠宮、秩父宮両妃殿下、高円宮様がお越し下さった。美智子妃殿下が、李方子王妃殿下の書画、申相浩の壺、郭桂晶の工芸作品をそれぞれお買い求められた。その時に私が写したスナップ写真が、何よりも記憶を鮮明に残している。

私は同展終了後、プリンスホテルに招待され、方子妃よりねぎらいの言葉をいただいた。そして、そのホテルの敷地内にある王妃のお住まいに案内された。現在そのお住まいは、歴史的建造物東京都史跡になっている。

王妃は、西欧、アジア各国の王室から李垠殿下との結婚のお祝いでいただいたという絨毯やシャンデリア、寝室の家具やダイニングルームの食器棚にある食器など、新婚時代の懐かしい思い出話を交えながら、頬を紅潮させて一点一点、説明し案内して下さった。そして浴室にも案内されて、貼られていたタイルまで見せて下さった。それらは一級の芸術品ばかりであり、それまで私が目にしたことのない美しい世界であった。方子妃が過ごされた歴史の日々、その思い出がそこには定着していた。この日のことは一生忘れることが出来ない。

〈祈りの美術館〉

私には夢とロマンがあった。

田沢湖町は私の少年、青春期の夢を育んでくれた所だ。戦前、戦後の苦難の時代、縁あって暮らした秋田の自然、人々との触れ合いは、私の人生にかけがえのない滋養を与えてくれた、有り難い故郷である。

食うか食わずの時、恩師の田口資生先生は

「自然と人々の生活を素直に見つめ、感動を描け」

と絵の指導をしてくれた。その教えが、いつしか私のライフワークとなり、故郷の田沢湖畔に美術館を建てようという夢に膨れ上がった。私はその夢を王妃に語ったものだ。

その数年後、王妃がご病気と聞いて、楽善斉にお見舞いに伺った。そのときやつれられた王妃は、

「美術館の方はどうなっていますか」

と私に尋ねられた。よく御記憶なさっていることに驚きながら、

「まだ正夢になっていません」と答えた。

「叶うように、私が名前をつけてあげましょう」とおっしゃり

「田沢湖 祈りの美術館 李方子」

と書いて下さった。全身の力を絞って書かれた、愛情溢れる名筆で思い出深い作品である。

一九八七年、ライオンズクラブ国際協会330A地区年次大会に於いて、王妃が臨席され、お目にかかった。その時ご挨拶に立たれた方子妃は、一回りも体が小さくなられ、力無く弱々しかった。

「長年皆さんには、慈行会や明暉園の事では大変お世話になりました。息子の李玖の事では、皆さんに大変ご心配をお掛けしました。これからは、韓国で李垠殿下の意志を継いで、福祉事業に身を捧げます。今日は皆さんに、感謝を述べるために参りました」

歴史の悲運の中にあった王妃の、何とも寂しく、辛い、今生の別れの挨拶であった。その時の王妃の心情を思うと、私は涙が潤んでくる。

〈両国の文化交流〉

韓国国立中央博物館に、日本の近代美術品約四六〇余点が、朝鮮戦争の戦火を免れて秘蔵されている事が話題となった。日本が朝鮮半島を支配していた時代、旧朝鮮王朝〈李王家〉が蒐集、或いは寄贈を受けた横山大観、川合玉堂、前田青邨、土田麦僊、鏑木清方等の日本画の大家を含むコレクションであった。

九八年度から日本の文化開放がなされた。その政策の一つとして、広く日本文化を韓国国民に触れてもらう目的で、W杯成功を記念した国民交流年の二〇〇二年秋、韓国国立中央博物館で半世紀を超え、初めて日本近代美術品を公開した。

それまでタブーであった日本近代美術に触れた韓国国民は、日本に関心と新たな認識をしたと思う。過去は過去、芸術は芸術として再評価し合う両国の文化交流が、相互理解を深めたからだ。二〇〇三年春には東京、京都と日本にも巡回され、私は東京芸大の美術館でその作品展を見た。

これらの逸品を見て、改めて王妃との出会いを懐かしみ、感謝の念を深くした。そして田沢湖祈りの美術館の夢は叶わなかったが、河正雄コレクションが光州市立美術館で、その夢を叶えている事をご報告し追憶した。王妃は、私の夢が韓国で花開いたことを、喜んでくれているのではないかと思っている。

いま私は、子々孫々と続く在日の生活を考える。基本的人権を認め、差別と偏見のない社会。決して欺かず争わず、誠意を持って交際できる社会。二〇世紀、韓日の不幸な歴史の狭間で、歴史の流れるままに生きた李方子元王妃の、御生誕一〇〇周年を追慕しながら、そんな社会を具現させる為の努力することを念じた。それが、在日として生きていく意味であると思っているからだ。

「木版画と南蛮焼」

陶芸家・中川伊作(一八九九~二〇〇〇)

〈盲人の比喩〉

「人生は、意味も進路も自分で選ばなければならない。人間の蒙昧と愚鈍は罪を生じさせる」

「馬鹿者や愚か者は怠惰か、それとも呑気でありすぎるかして、それ自身を知るという問題を、真面目に受け取ることが出来ないのである」(ウォルフガング・ステカワ)。

我が家のリビング入口には、中川伊作の木版画『盲目の群』が掛かっている。共に生活するようになって、もうかれこれ二〇数年になろうか。

私は起きると、まず今日はどう生きるかと対話する。そしてその夜、戦い終えた疲れを癒し、慰め語らう親しい絵である。『盲目の群』は、私の人生の糧であり、哲学思想であると同時に、一日の始まりであり終わりである。それはまた、私の生活の規範であり、反省の鏡でもある。教えの源であり、師である。『盲目の群』との厳粛なる体面は、明日への前進を約束する。私はその啓示を神の言葉として聞いている。

この木版画は、数人の盲人が盲目の指導者に導かれて、列を作って橋を渡る図である。橋は壊れ、進路が断絶され、危険が押し寄せている。橋の下は川で深さは知れない。ドラマチックな絵である。先頭は進み、後の人は盲従してついて行くのみである。全員が川に落ちる結末は自明の理で、不幸が迫っている。全員が犠牲者となることもわかる。行列の最後の一人は、提灯を持ってついて来ている。これは何を意味するのであろうか。私は思いやりではないかと思っている。意味深である。

〈百姓ブリューゲル〉というレッテルを貼られた画家ピーテル・ブリューゲルの芸術は、四百数十年間、世界の人々に愛され学ばれている。私もその一人である。この巨匠のメッセージは辛辣で、鋭い人間批評、社会風刺が込められている。テーマは謙譲と寛容と懇請で彩られている。ブリューゲルには、最高傑作『盲人の比喩』(一五六八年ナポリ国立美術館蔵)の作品があり、その主題は「もし盲人が盲人を手引きするなら、二人とも穴に落ち込むことだろう」(マタイ伝第一五章一四節)というキリストの譬である。

ブリューゲルの時代には、いざりたちを見てもさほど哀れみを感じなかったし、盲人達に対しても全く同じであった。今日も、世界にはブリューゲルの時代が現存するから、人類はこの四〇〇年間さほど進歩していないのかもしれない。『盲人の比喩』における盲人達は、一人の邪悪で無責任な指導者の犠牲にされた、哀れな人々なのである。先導する者が邪悪なのではなく、他の人々も全く同じであるという不幸なのである。ブリューゲルは見えない眼、見る事の出来ない眼を教訓的主題で警鐘を鳴らし、『盲人の比喩』を遺産として現代に遺した。

〈盲目の群〉

中川伊作は『盲目の群』を、戦時中のふとしたエピソードから製作し、戦後の日本の国情を風刺したという。彼は単なる過去の描写だけでなく、また単に過去を現在にという平面に移し換えたに止まらず、芸術の良心として表現した。

巡り巡って現実の世相を見ると、外には東西、南北間に民族や国境をめぐっての対立があり、内には教育現場の混乱や家庭崩壊問題、金ボケ政治にバブル経済問題。この世は正に世紀末である。

私は光州盲人福祉会館建設の際、募金活動のパンフレットの表紙に『盲目の群』を掲げ、アピールした。暗示的ではあったが、建設運動全体の精神的シンボルとしたのである。

指導者さえ眼明きであるならば、後からついていく者には平安と信頼と、豊かな世界が開かれている事を悟っていたからだ。私が矜持を持って開館建立を成し遂げられたのは、『盲目の群』の啓示があったからだ。

中川伊作は一九八二年(昭和五七年)、平成天皇に禅宗の教訓に因んだ作品『盲目の群』を献上した。「木はその実によって知られる」と言われる。とするならば、不朽の名声はその実が実証する。

〈南蛮焼〉

南蛮焼は、南方諸島(安南・シャム・ルソンなど)から来た素朴で原始的な素焼きで、安土桃山の茶人達が宋の官窯の均整美の対極として、南方の古渡りと言って愛好され歓迎して以来、今でも使われている呼び名である。南蛮焼の原点の発生は五〇〇年位前と言われているが、二億五〇〇〇年前からの悠久なる神秘性が、沖縄の土壌の上に咲いたものである。

沖縄の陶器は、壺屋焼に代表される〈上焼〉と南蛮焼の〈粗焼〉とがある。沖縄の人は長い間、その〈素焼き〉を見下していたようである。

沖縄の南蛮焼は、古代の素焼きのような素朴で奥深い味わいがある。素焼きというものは、土肌のまま焼き締め、土から出てくる本質的な色・土そのものを加工せずに焼く。南蛮焼は沖縄の〈粗焼〉の事で、着色によらず土が炎によって自然に発色する、非常に素朴で、脆く焼成するうちに微妙に歪み、そのアンシンメトリカルな形が独特の装飾性を醸しだし情熱的である。

〈現代に甦った南蛮焼〉

中川伊作は、沖縄に埋もれていた、滅びつつある南蛮焼を現代に甦らせ、沖縄の土塊に命を吹き込む、最も原始的且つ高度な創造にロマンと情熱を注ぎ込んだ。中川伊作の南蛮焼の基本は、酸化塩で焼く〈赤色〉。生地の色に焼締めが備前に似ているが、知花の焼がより赤いのは土に金を含むからで、備前がより知花に似ているとも言える。焼肌の白い石は、サンゴの破片が焼くとき飛んでくい込んだ物で、これが焼きに見えれば、これこそ中川伊作の南蛮焼である。

沖縄は昔、海であった。サンゴ等が熱で溶かされて土の中に含まれ、二億五〇〇〇年もの間、海と陸が大自然の力により変化し、夥しい数の動植物の生命を包み込んできた、言うに言われぬ深い味わいが出る土である。故に非常に複雑なものである。

形の点、装飾性という意味で、南蛮焼独特の物といえるが、炎に土が焼かれ少し形が崩れてくる。そうしてアンバランスになったところが、他の物にない面白い造形性、いわば「間を取る」という、人間の意図を超えて意外な形の面白さが出たとき、初めて装飾性が生まれる。その中に非常に強い生命感を感じる事で、見る側の心を強烈に打つのである。

装飾性を価値高きものとしたのが、日本の芸術の特性である。装飾とは、日本の芸術は何かという根源的な問いになる。日本美の装飾の根源で、最も優れたものは縄文にある。そこには不思議な呪力が漲り、写実ではないリアル性を超えたところに縄文の装飾性が光る。中川作品は装飾性が強いと同時に、遊びの要素と作る喜びが強く伝わってくる。

土と水と火という、自然が生み出す偶然との戦い。その偶然性を生かす。自然に変化がくるように、事前に炎と土を窯の中で仕掛けておいて、大自然の大いなる力と働きに委ねて生まれた素朴さに、強い生命感を宿す。中川伊作は、土と水と炎の錬金師ではないかと思う。

〈南蛮焼の歴史〉

国道三二九号線を金武から那覇へ向かう途中、沖縄市(旧コザ市)の少し手前右側に、知花城址がうっそうと茂る小山の中にある。知花焼の復活を伝える南島風土記によれば

「知花は美里村の中央にあり、西原字より松本字を経て半道余、知花窯を以て知られる。尚寧時代の人名に芝巴那とあるものこれなるべし。知花窯を俗に知花焼と唱え、その手法は南蛮伝の如し」

とある。

南蛮焼は始め、長浜に近い喜名で焼かれ、一六世紀に入ると知花に移った。前者を喜名焼、後者を知花焼と呼んでいる。尚氏真王時代(一六八二)に、今の那覇市壺屋に各地の陶窯を集めて官窯としたが、それまで知花で焼かれたとの記録がある。以来三〇〇年、消えた窯の火を灯し、中川伊作が復活した知花窯は知花城址を仰ぎ見るところにある。

古窯址の知花に登り窯を築いたのは、本土復帰後の一九七七年、七八才の長老になってからである。太い丸太で支えられた窯場の屋根は、沖縄特有の赤瓦、分厚い漆喰で塗り固められ、見事な落ち着きと風格を備えている。そこには四室の窯があり、正面の庇間に『知花』、左に『為中川先生栄作』と書かれた大きな陶板が掲げられている。栄作とは、沖縄本土復帰問題などが評価されてノーベル平和賞を受けた元首相の佐藤栄作である。

中川伊作は画学生の頃、琵琶湖北岸の旧家で偶然安土城跡から発見されたという、草花の挿された土器酒壺を見つけ、その侘びの深さに強い感銘を受けた。一九二九年、沖縄にスケッチ旅行に行って招かれた旧王家の一室で、それと同じような南蛮焼きの素朴な焼壺と出会った。それがいわゆる南蛮焼で、渋い焼締めの寂あいに魅了され、興味を持つようになって蒐集を始めた。泥臭く土臭い、沖縄に根強く残っている土着のものに、芸術的な生命を吹き込みたいと思い、南蛮焼きを始めたのが動機であるという。

一九三八年、それら蒐集品を京都国立博物館で陳列(南蛮雑陶の図録あり)したとき、柳宗悦が見に来られ、それが契機となって、民芸協会の人達三〇数人が沖縄に同年一二月、研究に行かれた事で南蛮焼が注目されるようになった。

中川伊作は、一九六四年から七二年までサンフランシスコの美術学校で、東洋画の講義をする為に教授として招かれ、アメリカに一〇数年滞在した。その時、ローゼンクイストやリキテンシュタイン、ジャスパー・ジョンズなどの、ポップアートの造形思考と美学の影響を受けたことが、沖縄の南蛮焼のマンネリ化を防ぎ、新たな生命を吹き込む新鮮な造形を再生するのに役立ったという。欧米の現代的フォルムの理念と、日本的なわびさびの理想とを繋ぐ場を南蛮焼に求めたといえる。併せて、版画家として培った版画木版の技法を取り入れ、自刻の版木を陶面に映す手法は独創的である。創意工夫から質の高い美を求め、私は民芸作家ではないという自負を感じる作業をした。

中川伊作の南蛮焼のベースは、日本美の装飾性であり、木版画の作業の中で培われているという点に注目できる。東京国立近代美術館に収蔵されている多数の作品の中で、特に沖縄を題材にした作品を一覧した時、その飄逸な自由奔放さは一際輝いていた。形の把握と表現において、その木版画に見ることができる。

〈出会い〉

中川伊作との出会いは一九七七年四月である。

私は夏風邪が元で、その二、三年前から体調を崩し寝込むようになっていた。余り寝込んでいても、逆に体に障ると思い、何のあてもなく新宿の伊勢丹に入ったところ、中川伊作南蛮展が開かれていた。

初めての陶芸展と聞いたが、そのユニークさが私の気を引いた。飄々とした縄文花器や水差し、茶碗の骨太な美意識は日本人離れした感覚であった。沖縄の自然と伝統の出会いを讃歌しているようであり、南蛮焼のルーツを見たようであった。その大地と宇宙の悠久を讃えた風雅な世界。“間と遊び”のデフォルメの中には、童心をくすぐり、上質な味わいに感性があった。新羅の土器やインカ、ラテンの土俗的な陶磁の源流をも見た。インターナショナルなセンスと現代性、日本的なわびさびの精神性が見事に融合されていた。多様な表現を見せられて、私は体調の悪さを忘れてその世界で遊んだ。

まもなく店員に中川先生を紹介された。愛くるしくお茶目なクルリとした可愛い眼が、作品にそのまま投影され、作品そのままの人であった。

七月に入って中川先生から

「年端も行かないのに、体が悪いのは良くない。気晴らしに、京都に遊びに来ないかい」

と招待状が届いた。それは哲学の道にある、叶匠寿庵での七夕のお茶会の誘いであった。その茶会のあと、大徳寺の茶室で一服、そして竜安寺の石庭と案内された。それから、沖縄の知花窯を見てくれと私の家族を招待され、初めて沖縄の風土にも接した。

中川先生との出会いから、日に日に私の体調も回復していった。中川先生のお人柄には、病んだ体まで癒す力が潜んでいると、私は真に思った。基本的に人間的な優しさから、中川伊作の南蛮焼が生まれたのだと自然に思った。

一九九八年、先生が床に伏したと言うことで、お見舞いに伺った。その時、自然に出会いの時の懐かしい思い出話をした。意識や記憶がしっかりしてらして、精神力の強さに感じ入った。自分の芸術や作品を、沖縄で認められなかった悔しさや無慈悲さを、上京していらした時、我が家で良く語られた。床に伏した脳裏に、その事が離れないのか涙を流して、淋しそうに語った。私はその時、沖縄にはよき理解者、島常賀や星雅彦先生がいるではないか、そして、私もいるではないかと力づけた。

「君が私の秘書になってプロデュースしてくれたら、仕事がもっとよく出来たのに」

と恨めしそうに語られた。

孫ほどの私に、生前

「死ぬときは一緒に死のう」

とよく冗談で話された。二〇〇〇年

「私は一二〇才まで生きるんだ」

と日頃語ったその願いも虚しく、一〇〇才の天寿を全うされた。中川伊作の真価は、沖縄の大地で花咲くことであろう。そうなることに、悲観や疑いも持っていない。淋しさも悲しさも、浄化される時間が必要であると思うのだ。

中川伊作の南蛮焼こそが、証明すると信じているからだ。

〈中川伊作ブロフィール〉

一八九九年 京都に生まれる

一九二一年 京都市立絵画専門学校卒業

一九二八年 日本創作版画協会最初の会員となる

一九三〇年~三二年 文部省主催日本版画巡回展(ルーブル、マドリッド、ジュネーブ、ロンドン、ニューヨーク等美術館展示

一九三八年 南蛮焼コレクション百点を京都国立博物館に展示柳宗悦氏ら民芸協会員の沖縄行きの契機となる

一九四一年 『南方華布』(京都書院刊)を著す

一九六〇年 渡米、サンフランシスコを中心に各地で個展、木版画の紹介に努める

一九六四年 サンフランシスコ・ルドルフセーファー美術学校の客員教授となり州立大学他、教育機関において東洋画の講義。その間海外展一〇数回、サンフランシスコ市長より金鍵授章

一九六七年 メキシコ・グァテマラにスケッチ旅行

一九七二年 沖縄にて南蛮焼の作陶を始める

一九七七年~九〇年 沖縄市知花に登り窯を築く。以後、東京、名古屋、京都、大阪、山口、北九州、沖縄、各地にて南蛮陶器と木版画の個展

二〇〇〇年一月二日往生 享年一〇〇歳

収蔵

東京国立近代美術館

国立西洋美術館

京都国立近代美術館

京都市美術館

サンフランシスコ国立美術館

スミソニアン美術館

ワシントン国立博物館

クリープラント美術館

「明日の太陽像」に祈りをこめて

彫刻家・加藤昭男(一九二七~ )

この度、母校・秋田工業高等学校創立一〇〇周年を記念して『明日の太陽』ブロンズ像を寄贈するにあたり、私の恩師松田幸雄先生、山方攻学校長、東海林正隆・創立記念事業実行委員会委員長様を始めとする学校及びPTA、生徒会役員並びに実行委員会の皆様、同級生の近藤収君、そして彫刻家加藤昭男、鋳造家岡宮紀秀両先生の御臨席の元に除幕式が執り行われましたことは、私の大きな喜びとするところです。

明日の太陽像設置にあたり、工事を請負われました株式会社瀬下建設並びに、株式会社寒風の皆様にはご苦労をおかけしました。

本日(二〇〇四年九月二二日)母校の体育館で全校生徒にお話をする機会を与えて下さった皆々様に心よりお礼を申し上げます。

〈明日の太陽像との出会い〉

二〇〇二年七月、お盆のことです。東京地方は七月一五日がお盆です。

父の墓参りの帰り道に、私が住んでいる川口市の岡宮美術鋳造の工場で、『明日の太陽』の作品を製作していた加藤先生と偶然にお会いしました。私はその作品を見て閃きました。太陽に向かって一番鶏が「おはよう」と元気よくあいさつしている。今日一日一生懸命働くぞ。勉強するぞと太陽に誓っている。そして太陽の恵みに感謝している。なんと健康的で前向きな姿であろうか。勇気づけられる、励まされる、平和なる祈りの像であると感じたからです。この作品を、母校の創立一〇〇周年を祝うモニュメントにしたら良いのでは、と心に止めたのです。それは電撃的な直感でした。その作品との出会いは、芸術がもつ感性がもたらしたものであると思います。

私は過去に、生保内小学校中庭に『陽だまりの像』、生保内中学校校庭に『憧憬の像』と、母校の記念すべき年にモニュメントを寄贈しました。二〇〇三年春になって、韓国朝鮮大学校から美術学名誉博士の学位を授与して下さるとの報せが入りました。私の最終学歴は秋田工業高等学校卒業ですが、私の母国である韓国の大学から私の業績が認められ、このような栄誉を賜ることは、大変光栄なことであります。

そこで『明日の太陽』像を秋田工業高等学校だけでなく、韓国の朝鮮大学校にも報恩の想いを込めて送ろうと決心するまで時間はかかりませんでした。

戦後まもない昭和二三年に、大阪から田沢湖町に移り住みました。当時は食糧も乏しく、みんな貧しかったけれども助け合って生き学んだこと、秋田での子供時代、学校時代が今の私を育んでくれたと思うと、ありがたいことでありました。

特に、私に美術の世界を開いてくれ、人生の出発点となったのが秋田での学生生活であります。また私は、日本で生まれた在日の韓国人でありますので、私の父母の故郷である韓国の大学とが『明日の太陽像』で結ばれ、日本と韓国とが近く親しくなって友好交流がなされ、兄弟のように仲良くなることを願ったからです。

すぐに両校へ同じ日に、後に続く研究学徒に、未来への希望と活力を与える象徴として『明日の太陽』像の寄贈意思を書類で送りました。それから一〇日後、両校からの寄贈受諾の返事が、全く同じ日に届きました。この日は、私の心が通じた幸運な日でありました。

すでに朝鮮大学校には、昨年の創立五七周年記念の日九月二九日に寄贈し、本日(二〇〇四年九月二二日)は秋田工業高等学校の除幕式となりました。本日に至るまでの間、各方面の皆様方にはご指導、ご鞭撻、ご配慮を数多く賜りました。そして加藤、岡宮両先生には物心両面から御後援を頂き、除幕式を無事に迎えることが出来ました。みな皆様方の英知と英断、そして先見を誇りに致します。皆々様の温かいご理解とご支援に、心からの感謝と敬意を表します。本日、この喜びを皆様と分かち合えることは幸せであります。

〈寄贈する思い〉

先ほど、報恩の想いで寄贈する決心をしたと申しました。

在学中、恩師や同級生達から、どんなに励まされ教えられたかわかりません。私は秋田工業高等学校を卒業する際に、民族的アイデンティティを持って、自分らしく、人間らしく生きるのだと固く決心し社会に出ました。それは私が在日韓国人二世であり、日本の秋田、この地に育まれた〈人間〉であるからです。

社会に出てからも、今日に至るまで辛いことは数多くありましたが、在学中の母校の恩師や友達の温かさは一生忘れることはありませんでした。

人生には数多くの難関、峠と谷と山があります。どの峠も谷も山も、険しく厳しいのが人生であります。恨みやつらみ、不平や不満を持って生きるのではなく、母校から受けたその恩徳に、感謝の心を持って生きるのが正しい生き方であると、私は自分に言い聞かせて、人生の難関を越えて参りました。

特に母校の第九代校長、大井潔先生の恩恵には頭を垂れます。我が母校を卒業した昭和三四年は鍋底景気といいまして、日本は最悪の経済状態にあり、就職もままならない状況でした。

私は、卒業間近まで就職先が決まりませんでした。担任の青海磐男先生が大井先生と相談され、私の保証人になって下さり、やっとのことで、母校の先輩が経営する会社に就職先を決めて下さいました。そのように、陰で私の知らないところで先生方が私を守って、私が前に進めるように心を砕いて下さったことを、卒業後一〇年経って知りました。

大井先生にはお目にかかったことも、教えをいただいたこともなかった私は、先生とはこんなにもありがたく尊いものであると、その時、心からの感謝の涙を流し、いつかその恩徳に報いる日を祈って今日、この日を迎え、心が晴れる思いであります。

「人に施せども慎みて念ふこと旬れ。施しを受けなば慎みて忘れること旬れ」

弘法大師空海様の教えを、その時、実体験として学んだのであります。

父母、祖国、故郷、母校、恩師、友人、後輩達に報恩のメッセージを、母校に、この『明日の太陽』像寄贈に込めたことは、人生の選択の一つとして正しかったものであると確信します。

「子供の頃、日の出に向かって手を合わせ、祈っている人の姿を見かけたものだ。輝きを増しながら地平線から昇る朝日に、限りない力と神秘を感じたからだろう。この頃の日本は少し自信を失い、希望と活力に欠けているような気がする。明日又昇る太陽のパワーを身につけ、住みよい世界を作ってもらいたいものと念じつつ、製作した」

と作者の加藤先生がメッセージを下さいました。私もそのように念じてやみません。

また、私の母は現在八五歳で健在でありますが、大変信心深い人です。朝起きると、コップに一杯の真水を捧げて太陽に拝礼します。照る日、曇る日関係なく御天道様は有り難いものだといい、

「今日陽が当たらなかったと言って、クヨクヨするな。今、日陰にいる運でも太陽はグルッと回って、必ず照らしてくれるから心配するな。御天道様は、誰にでも不公平などはしない」

と言って、信念のように敬虔なお祈りをします。そして

「悪いことだけは絶対にするなよ。全て御天道様はお見通しだからね」

と口癖のように、私達子供を戒めました。

母の祈りと願いはただ一つ、子供達や孫達が皆健やかで無事でありますようにということ。忍耐と努力こそが幸せを掴む原動力であると、母の祈りは有り難い限りで頭が下がります。明日の太陽像は母の祈りでもあるのです。決して人生を諦めてはいけないよ。挫けず、堪えて忍べ、親が子を想う愛の心が秘められているのです。

彫刻の台座は韓国の花崗岩、赤御影石を選び韓国で製作いたしました。母校が『明日の太陽』像を通して、私の祖国である韓国と朝鮮大学校との縁を結ぶ機縁となることを願ってのことです。

在学中に多くの想い出を作り、明日の太陽像を記念のアルバムに残されますように、明日の太陽像を愛し、皆さんの心のシンボル、支えとして下さることを祈ります。

朝の登校のとき、夕方の下校のとき、元気よく「おはよう」、「さようなら」と声をかけて下さい。そして悩みや苦しみがあったとき、そっと明日の太陽像に向かって、心を打ちあけ、語りあって下さい。きっと皆さんに、勇気と希望を与えてくれることと、私は信じています。

本日、私が皆様に話しましたことをまとめます。

これは六五年間、今日まで生きた私の人生の悟りでもあります。

まず、感謝の心を忘れないようにということです。

父母に、先生に、母校に、故郷に、社会に、そして今生きていることにであります。

次に忍耐、努力することが人生を豊かにし、幸せをもたらしてくれると言う事です。

くじけず日々、一歩ずつ前に進んでいく心がけこそが大事であるのです。

そして、青春の時、青春時代に大きな夢を描き希望を抱くことは、これからの人生の道標となることでしょう。

どんなに遠大なる望みでも、自由であなた方のものなのです。明日の太陽像は、みなさまを温かく見守ってくれるでしょう。そして皆様の頭上に輝くことは間違いありません。

後輩達が質実剛健の校訓の下、歴史と伝統を受け継いで、文武両道の気概を発揚され、工業教育を先導する世界の中の名門校として、母校が明日の太陽に向かって更なる躍進と発展を祈念します。

〈加藤昭男の芸術と略歴〉

具象的なスタイルで、深い表現内容と迫力を備えた、独自の彫刻を展開させてきた。

主なモティーフは人間と動物で、自然と人間の関係が基本テーマである。体の形はほとんどの場合、デフォルメされる。たとえば頭部や手足が大きくて、ずんぐりとした形となって、無骨なまでの力強さを表している。また、体はしばしば、ダイナミックな姿勢や動きを見せる。体をねじる、走る、両手を広げる、舞い降りる、といった姿が、ドラマやアピールを思わせる。そこには、自然の現状への問いかけ、自然との一体化の欲求、自然の恩恵などが表現されている。現代の自然と社会に対する厳しい目が、その背後にある。

素材・技法の点では、粘土による塑像を手がけ、ブロンズとテラコッタの両タイプがある。作品の表面には手の跡が顕著である。それが、力強く熱い表現を支えているとともに、自らの手で自然の生命を実感し、探求しようとする姿勢を示している。

一九二七年 愛知県瀬戸市に生まれる

一九五二年 新制作協会展に入選(作品発表を始める)。以後、毎回出品。

一九五三年 東京芸術大学美術学部彫刻科を卒業。五五年、同大学彫刻専攻科を修了

一九五九年 初の個展

一九七四年 第二回長野市野外彫刻賞を受賞

一九八二年 第二回高村光太郎大賞展で優秀賞を受賞

一九八三-九八年 武蔵野美術大学彫刻科の教授を務める。

一九九四年 第二五回中原悌二郎賞を受賞

一九九七年 個展(武蔵野美術大学美術資料図書館、東京都)

二〇〇〇年 「子犬と天使」光州市立美術館蔵・河コレクション

二〇〇二年 個展(瀬戸市文化センター)。

現在    東京都に在住。新制作協会会員。武蔵野美術大学名誉教授

(岐阜県美術館 二〇〇四発行・第二回円空大賞展カタログより)

〈アートライフを語る〉

僕は、焼物の街で知られる愛知県・瀬戸で陶芸家として活動する一方、粘土採掘を業とする家に生れた。子供の頃の粘土山の採掘は、つるはしを握って山に立ち向い、粘土を掘り出すか、一つ間違えば山に押しつぶされるかの、人と自然との壮烈な戦いにより大地から粘土を奪い取っていた。その頃見た、ほとんど垂直に切り立った採掘現場の形が、僕の彫刻造形の原風景となっている。

陶芸の道の跡を取らせたく思っていた父は、僕が小学生の頃から作陶工場に連れ出し、粘土練りやろくろの手ほどきをしてくれた。

その頃、父から聞いた言葉に「土を殺す」とか「土を眠らせる」と、まるで粘土が生き物であるかのように教えられた。

「土を殺す」とは、器を形造る時、粘土の歪を充分取り乍ら作らないと乾燥、焼成の時、形が変形してしまうことを言い、「土を眠らせる」とは、ろくろ成型の時、粘土の塊をろくろの上で凸凹しないよう同心円で廻るようにすることである。

その後、陶芸の造形の基礎造りとして彫刻を学んだが、そのまま彫刻の道を進んでいる。

彫刻の素材である樹には五〇年、一〇〇年と育った樹の命が宿っていると言う。ミケランジェロの言葉で、石は「ここを彫ってくれと語りかけて来るのに従って彫ればいい」というエピソードがある。粘土についてはあまり聞かない。

ところで、瀬戸の粘土山が生成したのは、五百数年前の昔と言う。年月を長さに置き換え一年を一粍の長さとすれば、五〇〇萬年は五粁となる。ちなみに一億年は一〇〇粁となり、年月を実感出来た時は気の遠くなる思いがした。

僕は自然と人間の関係をモチーフに、人間も、動物も、山も、川も対等なものとして扱い、自由な造形を心掛けている。製作には五〇〇萬年の眠りからさめた瀬戸の粘土に、新しい生命を吹き込むことが出来ればと願っている。