主な経緯

1998年4月5日 施主在日一世尹炳道氏より埼玉県日高市所在・高麗山聖天院勝楽寺境内地の在日韓民族無縁の霊碑建立の援助を依願され支援する。
1998年7月13日 聖天院に澤田政廣作「釈迦如来立像」木刻仏像
墓守羊石像1対(新羅時代の石像)
墓守羊石像1対 若光王墓前前
朴炳熙作「平和の使者」ブロンズレリーフ5点
李龍子作白磁壷一個寄贈
1999年3月29日 秋田県仙北市角館の日本国天然記念物枝垂桜5本植樹
2000年4月23日 ケヤキ植樹20本・慰霊塔周辺
2000年11月3日 在日韓民族無縁の霊碑建立落慶法要挙行し式辞を述べる
聖天院本堂落慶法要慰霊塔開眼法要
過去帳 朝鮮人死亡者名簿4310柱奉納
2001年9月5日 第2回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2002年9月5日 第3回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2003年9月5日 第4回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
在日韓民族無縁の霊碑を守る会創立当番となる
2004年9月5日 第5回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2005年9月5日 第六回慰霊式会報「ひがんばな」第1号発行
2006年9月5日 第七回慰霊式会報「ひがんばな」第2号発行
2007年9月5日 第八回慰霊式会報「ひがんばな」第3号発行
2008年3月28日 角館枝垂桜30本植樹・慰霊塔周辺と寺域内
2008年3月30日 秋田県仙北市角館の日本国天然記念物枝垂桜30本植樹
2008年9月5日 第九回慰霊式会報「ひがんばな」第4号発行
2009年9月5日 第10回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2010年9月5日 第11回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2011年9月5日 第12回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2012年9月5日 第13回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2013年9月5日 第14回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2014年9月5日 第15回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2015年9月5日 第16回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2015年9月5日 戦後70周年韓日国交正常化50周年記念寄贈
①仏画 四明張孝友作 90×71.5㎝
②仏画 四明張孝友作 50×73㎝
③仏画 佛説高王観世音経作 58×97㎝
北京中央工芸芸術院 張孝友 董沐敬写
2016年9月5日 第17回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2017年9月5日 第18回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2018年9月5日 第19回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2019年9月5日 第20回在日韓民族無縁の霊碑慰霊法要
2020年3月27日~29日 「夜桜詣」慰霊観桜会

無縁同胞の霊碑

 

第2回日韓親善献花祭(2003年)

「無縁霊碑を守る会」発足(2004年)



慰霊祭・第3回韓日親善献花祭(2004年)




第7回在日韓民族無縁之霊慰霊祭(2006年)

在日韓民族無縁仏の霊碑を守る会主催の第7回在日韓民族無縁之霊慰霊 祭が5日、埼玉県日高市の高麗山聖天院勝楽寺 (真一宗)で行われた。 今年は韓国から世界大覚法華会の道林代表をはじめとする45人が参加し、在日、日本人参列者とともに慰霊祭を行った。

第9回在日韓民族無縁之霊慰霊祭(2008年)

【埼玉】日高市の高麗山聖天院勝楽寺は5日、本堂で「大施餓鬼会」を行い、関東大震災や強制連行、被爆などで亡くなった韓国人無縁故者4310柱の霊も合わせて慰霊した。今年で9回目。 この日の法要には「在日韓民族無縁の霊碑を守る会」(当番・河正雄)からも韓日の会員40人余りが参列。一般の檀信徒の見守るなか、犠牲者を偲ぶ短歌を捧げ、冥福を祈った。また、韓国伝統舞踊家の金順子さんがサルプリ舞を捧げた。守る会の会員はこの後、在日韓民族無縁之霊慰霊碑の建つ本堂の裏山でも同様の祭祀を行った。この慰霊碑は在日同胞の歩んだ苦闘の歴史を風化させず、子女孫女に語り継いでいこうと、聖天院の檀信徒でもある在日1世の尹柄道さんが00年に建立した。

高麗王と眠る

1995年秋のこと、私は家族らと共に被爆都市広島市を訪ねた。光復五十年の節目に広島での差別の象徴であった韓国人原爆犠牲者慰霊碑の参拝が目的であった。平和公園の石碑には「過ちは繰り返しませんから」と誓いの詞が刻まれていた。主語は日本人が反省する言葉ではなく「人類」だという意味を知ったのはその時であった。
人間死ねば皆な仏。仏は皆等しく肥られると私は思っていたのだが、韓国人犠牲者は平和公園内に肥られるのではなく、公園外の対岸に慰霊碑が無神経に建立されていた。
平和都市を宣言しながら侵略戦争の反省がない無情さを知り、がっかりさせられた。無念なる二万余人の韓国人原爆犠牲者達の霊を追悼し、分け隔てなく、一日も早く平和公園内の全ての霊と共に慰霊される事を祈った。私はその時なにげなく慰霊碑の裏に刻まれた建立者名の中にある「尹炳道」という名を記憶した。
翌春の事である。私が所属していた東京王仁ライオンズクラブの先輩から「埼玉県秩父市に住んでいる在日一世で伊藤さんという方が河さんの故郷である全羅南道霊岩の『王仁廟』にケヤキの植樹をしたいと言っているのでその橋渡しをしてもらえないだろうか。」という電話があった。奇特な一世もいたものだと思ったが、私自身も奇特な人間と言われた事があるので自潮した。
孫子の代の事を想って「愛する祖国と故郷の為に在日同胞の心として、一人が一本のケヤキを植える運動」を、94年からボランティアで始めたという情熱と使命感に、意気を感じて橋渡しを引き受けた。王仁廟は全羅南道公園史跡である為、無作為に植樹する事は出来ない。
私は全羅南道霊岩郡庁に伺い、趣旨を述べ、書類を提出し許可が出たところで1996年4月5日「韓国植樹の日」に200本のケヤキを植樹する事になった。
植樹の日、伊藤さんと王仁廟で待ち合わせ初めて顔を合わせた。ジャンパー姿で野良着に等しい出で立ち、首には白いタオルを巻いて作業人風の姿であった。「私は土方です。秩父で農園をやっている者です。」と言って名刺を出された。手渡された名刺を見て私は面食らった。それには「尹炳道」と記されていた。
その時私は広島の慰霊碑に刻まれた「尹炳道」という名を思い出したからだ。偉大な人と意外な所で出会うものだと御縁を感じ、しげしげと見つめ直した。
植樹を終え光州空港でソウル便を待つ時間があった。その時、尹炳道さんから「あなたが田沢湖の姫観音や田沢寺の朝鮮人無縁仏の供養をしている事を以前から知っていました。
私は今、埼玉県日高市にある高麗神社に隣接する聖天院に朝鮮人の慰霊碑を建立する為に土木工事をしています。日本に帰ったら一度見て欲しい。そして是非慰霊碑建立に協力して欲しい。」
と相談を持ちかけられた。意外な話に戸惑ってしまったが広島の慰霊碑をも建立された程の方だから、篤を積まれているのだと思い直し、聖天院を尋ねる約束をその時したのである。
聖天院には十年前にもなるが参拝に行った事がある。その時阿弥陀堂建立の瓦奉納をした思い出がある。懐かしい山門をくぐり登った所に「2000年竣工」と書いた新本堂建立計画の掲示板があった。本堂の裏山では新本堂建立敷地の士木工事がなされておりブルドーザーが山を削っていた。
尹さんが言った朝鮮人慰霊碑の建立敷地は更に奥まった所にあった。山を削り立木を払い造成の最中で一大土木工事が進行していた。大規模事業で予算も2-3億円と聞いて度肝を抜かれてしまった。在日事業家ら有志から篤志で賄うので事業費は心配はないと升さんは言ったが少し不安になった。
紹介された聖天院第五十世横田弁明住職が、尹さんとの出会いと経緯を話された。「平成七年の或る日、20数年来交誼のある尹炳道さんが来山した折り、終戦までの数十年間に沢山の無縁仏が日本のあちこちに散財したが、誰も奉る者も居ない。何とかこの地に葬り供養したい。戦争中全く日本人と同じ気持ちで過ごし終戦を迎えたという在日の尹氏の言葉に感銘を受け、早速総代に事の次第を報告、役所のあちこちを奔走し、尹氏の心が形となって実現しました。
心が形と成り、形は人々の心に映じ、心によってこれを支えていくものです。形なき世界に心を寄せ、今後一層確かなものと成る事を念じます。遥かなる古の先祖、同胞を祀る異国の地に心ある同胞が静かに冥福を祈る時、生きている我々の心が通じ合い、安らかな世界が展開するのではないでしょうか。」
住職は東京芸大で彫刻家山本豊市門下で学び平山郁夫と一緒に学んだ芸術家僧侶であった。地元で教職に就かれた後、聖天院住職になられたと聞いて私は美術を愛好する者として住職を身近に感じた。
私財を投じてまで何故このような事業を思い立ったのか。
「在日韓民族慰霊塔と慰霊碑は民族統一を願い、日本国内に於ける民団や朝総連の垣根を超え、関東大震災、第二次大戦で犠牲となった同胞の御霊と、渡来人の御霊が安眠できるように供養したい、との願いを込めて発願しました。
私が高麗の地に『白衣民族の聖地』をつくろうと思い立ったのは、李方子妃殿下が聖天院を訪れた20数年前に遡ります。妃殿下は、私を前に『自分が死ねば高麗若光の隣に骨を埋めたい』と語った。
生前妃殿下の願いは叶えられなかったが、それ以来『朝鮮人、韓国人の全てのお骨を拾ってあげよう』という気持ちになったのです。
まず、思い浮かんだのが関東大震災で犠牲になった同胞の霊。東京・目黒区の祐天寺に保管されたまま、引き取り手のない第二次大戦当時の同胞軍人・軍属の遺骨。いずれは全国に散らばる引き取り手のないまま、放置されている無縁仏を安置したいのです。
ここを白衣民族の聖地にすれば、朝鮮人も韓国人も区別無く、いろんな人が好きなときに来て線香を手向けられると思う。完成したら毎年10月3日の開天節に合わせ法要をしていきたいと思います。六・二五動乱の最中、何の罪もない同族が死んでいくのを目の当たりにしたので『白衣民族の聖地』には南北の平和統一を願う気持ちも込めました。
聖天院新本堂新築の基礎工事も請け負いました。境内奥にそびえ立つ慰霊塔は高さ16メートル。石塔としては日本最大、日本との過去の不幸な関係を象徴する意味で36段階にしました。その下の納骨堂には、名前と生年月日の判明している遺骨と無縁仏の安置所です。
70万柱以上納めることができます。たとえ遺骨が無くても、納骨堂の裏には遺骨の埋葬場所の土を『トラックー台分』納められるだけの穴が六つ掘られています。
慰霊塔左手には三・一独立運動縁りの地、ソウルのパゴタ公園にある八角亭を縮小再現し、その建材は全て韓国から運び建立します。慰霊塔後方の高台では壇君像が一際高見から『聖地』を見下ろし、傍らに申師任堂、太宗武烈王、王仁博士、鄭夢周など韓国の偉人の石像を並べたいと思います。韓国文化庁とも相談して決め、石材は韓国産の花岡岩を使います。
埼玉県日高市にある高麗山聖天院勝楽寺というお寺は、実に不思議なお寺で、そこには天皇家縁りの菊の御紋があるんです。高麗という地名にもあるように、半島からやってきた人々が住み着いて開拓した地です。記録にはありませんが、韓国の三国時代に新羅に破れた百済(ペクチェ)の民が渡来してきて、ここに住み着き、その後、高句麗の渡来人達がやって来たのではないかと思います。
『続日本書紀』によれば当時、高麗人を率いた高句麗七代の王子、若光王がここを開拓したと記されています。当時の半島は日本よりも先進文化を持っていて、その技術を以て稲作を始めたのだろうと思っています。この地には、埼玉県重要文化財指定の巾着田の遺構が残っていて、当時、稲作が初めてもたらされた事が判っています。
ここを開拓定着するようになったのは、半島での三国時代の関係が影響して、当時未開の地だった関東平野が生かされるようになったのではないでしょうか。
不思議な事に、この地は韓国の風水の専門家が見ても素晴らしい土地で、日本の中心の地であるとも言われています。聖天院勝楽寺は約1250年の歴史を持っている古刹で、正に白衣民族の聖地にふさわしい所ではないでしょうか。」と発願に至る想いを尹さんは語った。
協力するようになった私は納骨堂の壁面には五大陸の平和を祈る「祈願の形象ー平和の使者・鳩」(作者・朴炳煕・韓南大学教授)ブロンズレリーフをあしらった。この作品は私に縁りのある田沢寺(秋田県仙北市田沢湖田沢寺下)の朝鮮人無縁仏を慰霊する「よい心の碑」の壁面、韓国光州市立美術館の壁面にも設置している。
海峡を超えて魂だけでも自由に往来し、羽を休めて欲しいという念願からであり、未来の春を忍び慰霊のよすがになることを祈願する為である。
また慰霊塔前と王仁霊廟前には霊を守護する「羊の石像」をそれぞれ配置した。1981年春の事である。京都平安神宮近くの美術商の店先に「羊の石像」が置かれていた。それは新羅時代の物であった。
「名前をお教えする事は出来ませんが戦前に外務大臣を務めた方の芦屋の別荘から出た石像で今は遺族が熊谷に住んでいます。多分、戦前に韓国にあった物でしょうね。」そう言って芦屋の別荘に置かれていた石像の写真を美術商は見せてくれた。
「羊の石像」は韓国の高貴な方の墓の守り神として安置した物である。その時代の物は骨董品として持ち運ばれて、その像は韓国でも貴重な文化財である。韓国の歴史の証人である「羊の石像」は我が家の庭に安置されていた物である。韓民族無縁の霊碑を守護する事になったことは本来の役目を担う為に収まる場所に収まったのではないかと私は胸を撫で下ろしている。
1998年7月13日の盆の入りの日に我が家から釈迦如来像を聖天院本堂に納め安置した。その日は我が家に初めて男子の孫(河家三十五代目)が誕生し、喜び満ち溢れた日となった。像の作者澤田政廣氏(文化勲章受章・熱海市立澤田政廣記念美術館)自宅に伺い釈迦如来像の制作を依頼したのは1982年の事である。先生は88才にもなっておられた。お願いしたところ約東出来ないと言われた。二十世紀の時代に、日本国内で不幸にして亡くなられた、我々の先輩や先祖の霊を慰める為の仏像を彫って欲しいという、私の熱意を承諾して下さったが、高齢なので本当に像が出来上がるかどうか私自身、半信半疑となったが先生は意気を示して下さった。像が完成したのは1985年。像を引き渡される時、先生は「これが私の最後の作品になるかもしれないね」と私に言われた。この像には先生最後の全霊が込められているのだと思い感謝の念を強くした。先生は1988年93才で旅立たれた。
1999年3月29日、慰霊塔慰霊碑の左右と、新本堂前に各1本、王仁霊廟前に2本、計5本の秋田県角館の枝垂桜を植樹した。私が少年時代を過ごした母校の先輩である奥田敦夫先生の御好意である。
また2008年3月28日には30本の角館枝垂桜を追加寄贈し、植樹した。秋田県角館の枝垂桜は江戸彼岸桜で国の自然天然記念物に指定されている。
樹齢200年以上の老樹が華麗に咲き誇る角館の武家屋敷の風情は日本の風景を代表する景観である。聖天院に白色の枝垂桜が舞うように咲き誇る日は遠くない。
住職と尹さん、私のトリオには完成までには好余曲折があったが2000年11月3日に落慶の日を迎えた。その日は尹さんと私の誕生日だという偶然を知った。前日は台風崩れの暴風雨が当日は収まり、つつがなく落慶法要が営まれたのは仏様のご加護かと思った。
その式典で私は心を込めて式辞を読み上げた。私は在日一世尹炳道さんの祈りと願いを実現する為に二世として協力させていただいた事を天の配慮と参席者に感謝した。
落慶を終えた年末の事である。在日の老人ホーム「心の家族」の尹基さんが毎日新聞社の福祉賞を頂くという事でその授賞式に参席した。その席に統一日報の記者が取材に来ていた。
「河さん、広島原爆の韓国人慰霊碑は戦後24年経っても建立されない事を嘆き続けた地元被爆者の故尹炳道さんの提唱によって活動が始まり1967年春建立されたんだよ。秩父の尹炳道さんとは違う方だよ。」と記者に教えられた。そこで初めて同姓同名の別人だという事を知った。「広島の尹炳道さん」と「秩父の尹炳道さん」を短絡的に同一人物と思い込んでいた私だったが、2人の尹炳道さんと出会えた事はどちらも縁以外の何者でもないと思った。
というのは落慶法要の時、私は広島の原爆犠牲者の過去帳(1969年から1987年迄のもの)2489名の名簿を聖天院に奉納したからだ。そして広島の韓国人原爆犠牲者慰霊碑は1999年になって平和公園内に移築安置された事を広島の故尹炳道さんに報告した。

風化する歴史

強制徴用者の慰霊に思う

みぞれ降る2005年2月19日午前9時、西武所沢球場に近い埼玉県所沢市の山口観音・金乗院(真言宗)で、埼玉県の朝鮮総連、韓国民団、強制連行真相調査団の三者合同主催による、朝鮮半島出身徴用工犠牲者合同追悼会があった。
平成5年45柱(対馬の品木島で1984年6月15日収骨したもの)、そして平成15年86柱(壱岐・対馬に仮埋葬されていた遺骨を1976年に収骨し、本願寺広島別院に安置していたもの)を厚生労働省の依頼で金乗院に保管されていた131柱の御霊の追悼会である。
日本の敗戦後、徴用によって日本に強制連行された朝鮮半島出身労働者の乗った祖国に帰る船が台風のために対馬壱岐沖で遭難した。三菱重工などで働かせられ、広島で被爆したと見られる朝鮮労働者の御霊を鎮めるものである。
式の始めに総連委員長と民団団長が供物のお膳の前に並んで朝鮮式の拝礼をした。住職の読経の後に石田貞調査団長より日韓、日朝を架け橋され、三者合同開催までの経過報告があった。追悼の言葉は韓国より日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会・全基浩(慶煕大学校名誉教授)委員長がされた。昨年、慮武鉱大統領が小泉首相との会談で「戦時中の民間徴用者の遺骨収集への協力」を首相に要請された。
今、韓国では日帝強制占領下の強制動員被害(満州事変から太平洋戦争期間に旧日本軍による軍人、軍属、労務者、従軍慰安婦など強制労働被害者の生命、身体、財産上の被害)調査が行われている。
靖国神社に合肥されている韓国人は2万人余りで、その中には特攻隊として死亡した韓国人学徒兵もいるという。これから日本全国を調査して真相を究明すると全会長は述べた。(その一環として民団でも全国調査することとなった。)そして総連委員長、民団団長は1日も早く祖国に埋葬され安らかに眠れますように尽力するとそれぞれ追悼の言葉を述べた。
式を終え、祭壇に安置された131柱の遺骨が入った16個の段ボール箱入りの骨壷の内の3個が赤い敷布の上に降ろされた。そして骨壷から遺骨が出され公開された。私はその時、坪の中から御霊が現れたような戦標を感じた。合葬されて焼かれた遺骨は粉々になっており、ゴミも混ざっており遺骨とは形容しがたい、人間の死の尊厳などは微塵も感じられない、無惨極まりないものであった。
「犬猫でもこんな事はない。骨壷を段ボール箱に入れるなんて霊を冒涜している。」洪祥進調査団事務局長は恨(ハン)を込めて説明された。名もなく合葬された御霊を131柱だけと数だけで呼ぶには余りに胸が痛む。厚生労働省は「徴用工の遺骨である可能性が非常に高いが、個々の身元は確認できない。」として韓国側と返還協議中であるという。
遺骨が安置されている本堂裏の納骨堂は今だ、波濤の中にある難破船のように思え、とても御霊の安寧の眠りの場所とは思えない。戦後60年経つが日韓、日朝間の波は今だ高く、御霊の安寧は幻の如きであると追悼の思いは重く痛かった。
何故なら以前に強制連行の調査でお会いした李用鎮(イ・ヨンジン)さんと曹四鉱(チョ・サヒョン)さんのことが脳裏を掠めたからだ。お二人は私の故郷である秋田県田沢湖を水源とする発電所工事に従事した徴用工である。李さんは、その現場から逃亡した後、病魔と闘いながら横須賀で生きながらえた。曹さんは戦後、韓国全羅南道「霊岩郡三湖面に帰国し唯一生き残られた生き証人である。そして埼玉県にも徴用連行者の生き証人である申鉉杰(シン・ヒョングル)さんがいる。
申さんは韓国民団埼玉県地方本部顧問であり、2005年韓国政府より国民褒章を受章された。申さんは1944年8月、21歳の時に慶尚北道から強制徴用され、秋田県小坂鉱山で働かされた生存者の1人である。1945年7月小坂鉱山から逃亡し埼玉県の高麗の郷で終戦を迎えた。
帰国の機会を失い、埼玉県を第2の故郷とされている在日1世である。受章を祝う会で「国がなかった時代、小坂で空腹のため死にそうな辛い経験をした。国から褒章を受けることなど夢にも考えられなかった。」と申さんは感謝の言葉を述べた。
そして小坂鉱山での過酷な不幸を乗り越えられた貴重な話を涙ながらに話された。その日の申さんを祝う会は、厳粛なる過去への省察の会にもなった。
私は1994年に李さん、1999年に曹さんも追って他界された。2000年に申さんと会って秋田での強制連行の真相を調査したことがあった。(その経緯は明石書店刊・河正雄著「韓国と日本・二つの祖国を生きる」に詳しく記述している。)
その時3人は異口同音に日本政府や韓国政府に保証を切実に求め、無策に抗議していた。だが李さんは、何の保証も謝罪も受けることなく2005年1月5日に逝去され曹さんも追って他界された。生前に徴用の代価を何ら受け取ることが出来なかったことが痛ましい。
遅きに逸した調査が進んで多くの徴用犠牲者達の苦痛が少しでも癒され、名も知れず亡くなっていった方々の名誉が回復することを願わずにいられない。
私は埼玉県日高市の聖天院にある在日韓民族無縁の霊碑を守る会の当番を務め守っている。金乗院に保管されている遺骨や、祖国に帰る事が出来ずに日本で彷徨っている全国の無縁の霊を聖天院在日韓民族無縁の霊碑の納骨堂に安置する方法も良策の1つであろうと考えている。
在日として光を見たのは三者合同で 追悼式が執り行われたことである。そこには日韓、日朝の国としての壁は無く、ただ慰霊の気持ちだけがあった。これこそ御霊の導きであると思った。不条理な出来事は世に満ち溢れ、ただ無為に時を過ごすのみで虚しく嘆かわしいばかりである。しかし、その中から学ぶことにより、より良い世の中を築いていくことも可能なはずである。昨夜の春雪が我々を取り巻く不条理を浄化し清め、英霊の安らかなることを祈らずにはいられない。

なぜ祈り慰霊するのか

父、河憲植(1912.9.16-1975.4.1)の墓所は曹洞宗天医山光音寺(埼玉県川口市領家)にあり仏教の開祖釈迦牟尼仏の御本尊の元で眠っている。
農家の三男であった父は全羅南道霊岩の故郷を離れ単身、1928年日本に来て大阪、秋田と労働者として渡り歩いた。父の生涯は血を吐くような労働と生活苦との戦いの一生であった。その父が秋田県田沢湖町の生保内発電所や先達発電所工事に関わったのは1
940年からの事である。発電所工事に徴用され犠牲となった朝鮮人労働者らと共に暮らした、過酷な飯場で私は育った。
その事が御縁で、長じて田沢湖畔の姫観音の由来の発掘や、曹洞宗龍蔵山田沢寺(秋田県仙北市田沢湖田沢寺下)に埋葬されていた朝鮮人無縁仏の慰霊碑を建立(1990年)した。
父が1973年、突然故郷の「霊岩に帰りたいと朝タに泣いて訴えた事で、私は父母と共に祖国韓国を初めて訪れた。
霊岩は応神天皇の招請で千文字と論語を携えて日本に渡来した王仁博士の生誕の地である。日本と縁深い文化の恩人として尊敬されている誇りある先賢を輩出した故郷である。
父にとっては46年ぶりの帰郷であった。父祖の墓所は「霊岩の町の入ロにあって月出山を仰ぎ見ることが出来る丘陵の美しい松林の中にあった。碑石もない土饅頭であったが祖父母が眠る墓所での出会いは、私の全身を震えさせ父母の故郷「霊岩が私の心を激しく揺り動かした。
翌年、一度限りの帰郷を果たした父は亡くなった。私は、父母のおかげで祖国韓国と霊岩との結び付きを強くしていった。その後月出山九龍峯の麓に外祖父の墓所を作り碑石を建立、そして月出山道岬寺に報恩の石燈を建立寄贈した。以後、家族共々参拝できる事が無二の喜びとして在日を生きている。
いつしか私は霊岩と田沢湖を二つの故郷と呼び、韓国と日本を二つの祖国と呼ぶようになった。二つの故郷、二つの祖国を愛する喜びは掛け替えのないものである。
1959年、田沢湖町を離れた私は埼玉県川口市に住むようになり60年が過ぎた。埼玉県日高市は高麗の郷と知られている。8世紀にこの地に入植した高麗王若光一族の菩提寺、真言宗高麗山聖天院勝楽寺の境内には「在日韓民族無縁の霊碑」が建立(2000年)された。
施主尹炳道氏は長瀞に住む在日一世であるが、尹さんとの出会いから霊碑建立に関わった。戦前戦後を通して日韓の不幸な歴史の狭間で亡くなられた、日本全土に散らばる多くの在日韓国・朝鮮人の無縁仏を祀り、苦難に生きた同胞を慰霊する為のものである。
聖天院は人権のシンボル、在日の魂の故郷・聖地として永遠の灯火を灯す事となったのである。
何故祈るのか、何故慰霊するのか。我々が生きた20世紀は不幸な時代であった。日帝の植民地時代・太平洋戦争・祖国分断による苦渋と苦痛に満ちた世紀であったと言える。
在日は人間らしく生きるために、人権を勝ち取る戦いの先頭に立って来た誇るべき民である。20世紀の不幸な歴史の中で、祖国と痛みを分け合った在日同胞犠牲者達を永遠に慰霊追悼する事は、韓民族のヒューマニズムの根幹が豊かで、澄んだ鏡になった事の実証(しるし)であろう。
御霊を忘れない事、思い出してあげる事、そして感謝の心を持って祈る事が、何よりの供養になると思う。それは同時に在日同胞の歩んだ苦闘の歴史が風化しないように、歴史の真実が埋没しないように子々孫々まで語り継こうという願いが込められている。
しかしながら最近、祈る力が弱まっているように思える。我々は20世紀の傷みと、過去の歴史に、じっと耳を澄ませ声を聞く事が出来る世代である。
だが、後の世代は、我々が正しい史実と想いを伝えなければ単なる歴史のーコマに過ぎなくなり、更には後の世代にそれを伝えることは不可能になるだろう。
過去の傷みと教訓が示す事柄に注意力を持って見続け、正しくそれを伝える努力を怠ってはならない。我々の世代が持つ傷みを後進と共有し、薄れて行く記憶や体験を語り伝えていく事が使命である。未来に希望を託せるように、過去への追悼と祈りを継承していく事が、ひいては若人を育てる大きな力となると思う。慌ただしい時代の流れの中で過去を忘れ、今を生きることは容易い。しかし自らの足元、即ち自らが依り立っている父母の生き様や、民族の歴史を知ることは混迷極まる今を生きる中で、重要な事である。

夜桜詣(2020年)

関東大震災97周年に寄せて・埼玉であったこと

光州市立美術館名誉館長 河正雄

―関東大震災80周年記念報告―

関東大震災80周年記念集会

本日、関東大震災80周年記念集会の開催にあたり、これまで実行委員会の皆様が関東大震災によって引き起こされた諸事件、それによって犠牲となった人々を追悼、この歴史的経緯について追求する学習会を開き、多くの関係資料を発掘して、これらの真実を広く報告されてきましたことに対し敬意を表する。

 埼玉県には関東大震災(大正12年・1923年)による朝鮮人犠牲者の慰霊碑や、供養塔、墓などが数多く残されている。熊谷市の熊谷寺に約70名、本荘市長峰墓地に88名、上里町神保原の安盛寺に42名の慰霊碑がある。児玉町浄眠寺に無縁の供養塔、寄居町正樹院に具学永の墓、さいたま市大宮の常泉寺には姜大興の墓などがある。

 毎年、熊谷市、本荘市、上里町など行政が主催し、地元の民団や総連も参加しての慰霊祭が行われ、それぞれの寺院では住職が手厚く慰霊している。私は幾度か9月1日の慰霊祭に出席し、流言飛語による軍、警察、自警団による大量殺戮で受難した同胞達の霊に合掌した。

 私は1959年に秋田より川口市領家に移住してきた。仙元橋、耶木の橋の近くで、領家はまだ未開の地でアシヤナギが茂っていた。芝川付近は鋳物工場が林立している一大工業地帯であった。そこに入野鋳工所があった。高校時代、母の手伝いで秋田から運んだヤミ米を買って下さったお得意さんである。社長であった入野作一氏(故人)の家屋を譲り受け領家に住むようになったのが川口での生活の始まりであった。

 入野作一氏は時折、私の足を止めて、関東大震災の話をしてくれた。「『朝鮮人が放火した』『朝鮮人が井戸に毒を入れた』と官憲が流したデマは震災翌日から広がった。その責任を朝鮮人と社会主義者、そして自警団に押しつけた事件である。何の罪科もない朝鮮人が猟銃や鳶口、竹槍や日本刀で武装した自警団がデマに踊らされて、関東全域で6000余人以上がその暴力により虐殺された。天災であると同時に人災である。血生臭い歴史は日本人の恥であった。」と語った。

「大震災の時、闇に紛れて木船が岩淵(赤羽)より舟戸ヶ原(川口)に近づいて来るという半鐘が鳴った。自分は家にあった日本刀を持って駆けつけた。現場では自警団が集団で船の中の菰の下に隠れている朝鮮人を竹槍で突き、日本刀で斬りつけていた。その時、何のためにと考える余裕はなく、ただ恐怖と朝鮮人に対する憎悪だけがあった。それは如何に当時の日本人が狂っていたかということであった。翌日、荒川は血で染まり、人肉を魚が食べているのを見たときは怖かった。今でも夢に見ることがある。」と懺悔していた。

 家の近くの宝湯という銭湯で、浅黒い肌のガリガリとした小柄の鋳物職工とよく会うことがあった。この人も入野作一氏と同じく自警団として舟戸ヶ原に駆けつけた一人であった。「朝鮮人など人間ではない。こちらがやらねば朝鮮人にやられると思い込んでいた。」と、その時のことを体を洗いながら武勇伝のように何度も自慢していたのを聞いた。反省など何一つ感じられなかったその言葉に苦々しい嫌悪感を感じ、それは未だに晴れる事がない。

 1980年、川口市青木町にある得信寺(浄土真宗)を訪ねた。同じ町内に住む朝鮮人が得信寺に関東大震災の時の朝鮮人犠牲者の遺骨があると教えてくれたからである。「愚かさとは深い知性と謙虚さである。」と寺門の脇にある掲示板に貼り紙があった。高口得信住職は新潟出身の方で、以前は川口神社がある金山町のある寺にいたという。1959年に庫裡を青木町に建て、1963年に霊堂を建てたと得信寺縁起の石碑に記してある。

 住職が「長い間この寺に祀っていたが縁故者があらわれたので、その遺骨は帰しました。」と答えられたときは安堵したと共に、よくそれまで守って下さったと感謝した。その事が起因となって川口にも犠牲者が、どこかの寺に葬られていることだろうと舟戸ヶ原付近の善光寺や錫杖寺、そして私の家の近くにあった正覚寺、実相寺、私の父が眠っている光音寺など訪ね調べてみたが、どの寺もそのような痕跡がなかった。何もなくてよかったという気持ちと、腑に落ちないわだかまった気持ちが、心に今もよぎる。入野作一氏や鋳物職工の話と得信寺に遺骨があったという事実、山田昭次立教大名誉教授の調査研究によると荒川放水路沿いで軍隊が機関銃で大勢の朝鮮人が撃ち殺されたという報告をされた事実などから、川口付近でも歴史の中で封印されている事が多いと思われるからだ。

 1995年、長瀞に住んでいる在日一世の尹炳道氏が高麗山聖天院横田辨明住職に「終戦までに数十年間に沢山の無縁仏が日本のあちこちに散在して、誰も訪れる者がいない。何とかこの地に葬り供養したい。」と申し入れた。そして私に「日本国内における民団や総連の垣根を超え関東大震災、第2次世界大戦で犠牲になった同胞の御霊と渡来人の御霊が安眠出来るように供養したい。在日韓民族無縁の霊碑建立の事業に協力してほしい。」と頼まれた。

 「熊谷、本荘、上里で関東大震災の朝鮮人犠牲者の慰霊祭に出席してきたが、いつもイデオロギーによる民団と総連が鍔迫り合いをして先陣争いをする。スタンドプレーの見苦しい風態は在日韓国、朝鮮人の恥である。霊に対しても、心ある日本人にも申し訳ないことである。なんとか霊が鎮まり安寧でありますように、この聖天院に静かに祀り供養したい。」と尹氏は付け加えた。

 2000年11月3日、深谷市に住んでいる石田貞氏の協力を得て埼玉県における関東大震災の朝鮮人犠牲者207名の過去帳を奉安して、私は聖天院在日韓民族無縁之霊碑の除幕、開眼法要の式辞を述べた。

 「20世紀は、韓日、朝日、両民族の歴史において、まさに激動の時代でした。在日同胞100年の歩みはまさにその象徴であります。この100年の間に、祖国を離れた異国の地で、望郷の思いを噛みしめながら痛恨の生涯を終えた人々はどれほどの数になるでしょう。今日に至るまで、我が在日同胞は、家業に精励し、子弟を養育し、あらゆる苦難を乗り越えて祖国と日本の発展に大きく寄与・貢献して参りました。

 在日一世尹炳道氏の発願により、聖天院寺域奥山に、在日韓民族無縁之霊碑と納骨堂、並びに慰霊塔が建立されました。歴史の中で犠牲になられた在日同胞達の御霊が安眠できるように供養したいとの願いからであります。それはまた、在日同胞が歩んだ苦闘の歴史が風化しないように、歴史の真実が埋没しないように、子々孫々にまで語り継ごうとの願いによるものであります。民族の統一を願い、日本と韓国・朝鮮の友好・親善を願う多くの皆様のご理解とご尽力によって、この事業が実現しましたことは、何よりの喜びであります。

 先人達が歩んできた20世紀の歴史を、21世紀を担う若い世代に伝えていくことは、我々に課せられた大きな使命であります。霊碑の建立が、在日同胞の願いを新しい世紀に伝える新たな一歩になることを祈念するものです。私達は21世紀に向け、よき兄弟として、争わず信じあう良きパートナーとして善隣・友好の絆を深めていかなければなりません。本日ここに、よい心、広い心、同じ心を通い合わせて、未来の子孫のために、世界のため、人類のために寄与・貢献し、豊かで平和な21世紀を創造する起縁を結んだことは、諸霊に対する何よりの供養となるでしょう。諸霊のとこしえに安らかなることを祈ります。」

 毎年9月5日は聖天院のお施餓鬼の日であるが霊碑の建立以後、関東大震災朝鮮人犠牲者の諸霊を慰霊する日となった。この日は日韓の歌人達が集い慰霊のための献歌祭を開いている。

 過去の記憶は社会の財産、我々在日同胞の財産であるという認識。この尊い犠牲を無駄にせず教訓を生かして同胞社会の発展と住み良い環境づくりに精進する。過去をないがしろにせず、きちんと反省し学んで歴史の流れとして子々孫々伝えていく。真の善隣への懸け橋をつくる役割を担おうという誓いのためである。

関東大震災での死者は約10万人。うち火災旋風による焼死者は9万1千人という。犠牲者の身元が確認出来なかったという史実から見ても、地震より火災による2次災害が恐ろしいのだという事を示している。

 だが私は「デマが怖い。ふだんは実直な民衆が棍棒や日本刀を振り上げた、竹槍を持って突いた人々の心理が怖い。ああいう凶行がもう起こらないと誰も保証出来ないだろう。」と言いたい。

 1999年9月7日、本荘市にある長峰無縁墓地で心ない事件が起こった。朝鮮人犠牲者慰霊碑を囲む石柱23本の内、7本が倒されたのである。また碑の西側にある無縁の墓34基の内、27基が倒され、内7基がハンマーで割られてしまった。目撃者の証言によると30代から40代の男が犯行に及んでいたらしいが、犯人を逮捕することが出来なかった為に、この事件は3年後に時効を迎え有耶無耶となった。

 また最近、朝鮮人学校女生徒の制服であるチマチョゴリを切り裂くという事件や、ケンコクギユウダンの朝鮮人を日本から駆逐するまで爆弾を仕掛けるという事件などは陰険極まりないものがある。

 集団虐殺の事実が終戦の日まで明らかにされなかったという事実。国がなかったために韓国人はあれだけの残酷な虐殺にあっても、人権侵害に抗議することはもちろん、弁明の機会もなく事件の調査要求もできなかった無念さを知らなければならない。朝鮮人の恨という感情に余りにも無知な行為であると言える。

 虐殺事件の根源には日本社会に民族差別が今だ根深く残っていることを再確認させる。この事件は在日同胞の歴史の原点であることを忘れてはならない悲劇である。そしてこの悲劇はいつ何時、また繰り返されるとも限らない。我々は英知と理性を持って防災に務めなければならない。

 私が語りたかったのは、辛く苦しい時代を共に生きなかったからといって目を背けるのではなく、恋人や母親に対し、別れを告げることも無く亡くなっていった人達が何を思い、何を言いたかったかを理解したいからだ。

山田昭次先生と共に

 何の罪科もなく、無造作に命を奪われた人達は大義のために死んでいったのではない。未来の子供達のためにも、亡くなっていった無名の人達を私達は忘れてはならない。彼らは歴史における悲劇をもって、生きるということの価値を私達に教える師であり、間違った道を進まぬ為の物言わぬ道標であるからだ。

 思いだしてあげること、それが何よりの供養である。それ故に、亡くなった物言わぬ人達の代弁者となり、生きている私達が語り継いでいかねばならない。彼らには慰霊される権利があり、過去を礎に今を生きている私達には慰霊をせねばならない義務があると思うからだ。過去の惨劇を風化させないことが私達の務めであると胸に抱きつつ、日本と韓国「二つの祖国」で私は生きている。

(2003年8月30日 東区亀戸文化センターカメリア・ホールにて 関東大震災80周年記念集会にての報告書)

―傍証記録―

川口市近代史料編Ⅰ「205・関東大地震実記(長島彦太郎)第4章 夜警と鮮人騒ぎ」の抜粋である。川口市安行領家での関東大震災時の記録(長島剛次郎所蔵)である。(カタカナの記述をひらがなに直し、実記の文字をそのまま引用する)

 『有史以来の大地震及東京の大火災等を機とし不逞鮮人が東京横浜に暴動し其の余波は我県内にも侵入して早やその一団は根岸鳩ヶ谷方面に出没したとの怪報が3日午後2時頃に達せられたので血気の青年や在郷軍人等は日本刀、脇差、槍、竹槍、鉄棒等を持って自警団を形成した。

不逞鮮人が既に近在に妄動したと聞いた村民の人心は如何であろう。鮮人暴行団襲来の報流言蜚語早鐘の如く伝播し極度の不安と恐怖にて各地住民は半狂乱となった。

鮮人を恐れて寝もせず。東京の火災は不逞鮮人と社会主義者の仕業と噂され彼らは爆裂弾を携えて家を焼き毒薬を井戸に投じて危害を加えるそうだ。依って東京方面では鮮人は誰彼と問わず之を捉えて撲殺する由、其の他各地にて見当次第鮮人を討殺したのだ。

9月5日、埼玉県千葉県とも戒厳令が布かれた。9月6日の北足立郡長の通報である。「朝鮮人の風評に関し針小棒大の説を為すものあり誤解を招くの虞有之候処右は朝鮮人必ずしも不逞の者に之無く候。苟も暴行に出ずるが如き事無き用御訓戒相成候。」

鮮人暴動も近在に切迫せぬから騒ぎ立てる程もなかった9月7日、福田雅太郎関東戒厳司令官は「自警団及び一般人民は武器又は凶器の携帯を許さず。全て鮮人が悪い企をして居る様に思うのは大まちがいである。」と命令を発した。

関東大震災60周年記念朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会編集発行の「かくされていた歴史・関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件」58頁の川口市、中村晃一郎の記録である。

「9月3日に東京に行った。荒川の船橋(渡し)のあたり赤羽寄りに20~30名の死体が浮いているのを目撃した。朝鮮人の死体だ言われていたのを覚えている。」

浦和の饗庭喜蔵の「大震災日記」にも9月3日午前「川口駅では大勢の群衆が不逞鮮人とかを追廻して居たのを見た。」また赤羽側にも兵隊が不逞鮮人を追廻していたとの吉野作蔵の調査による「かくされた歴史」257頁によれば33人、地方新聞の中の伝え聞きとして川口市での朝鮮人虐殺は30~70人という記録があるが、虐殺の証言はない。

大垣市北新町宮村松郎、同市中町の成宮二郎の証言(1923年9月6日名古屋新聞)である。

「私共は上野の山火事で追ひ出され2日7時頃まで食はず飲まずで日暮里まで逃げのび此処で汽車を見つけ貨物列車に飛び乗ったが動かぬので夢中になって赤羽迄来たが、ここから又2里半の道をくたくたになって川口迄出た時は2日の夜9時頃であったが、荒川の鉄橋が落ちていたので船橋を架けて貰って渡った。其時20名程の不逞鮮人が群がって来てその船橋を切断しました。

その際2、3人の人は流されて死んだやうでした何しろ辺りが真暗で皆が橋を渡って仕舞った頃軍隊が来て鮮人は撃退されて4、5人の鮮人が銃殺される所を見受けました。

鮮人は労働者風の者で私が来る時は川口町は焼けて居りませんでした。軍隊は殆ど一町毎に銃剣付きで町を護って居た。何しろ最初の地震以来飯も喰はず水も飲まないでヘトヘトになって来たが川口駅で握り飯を貪るようにして貰った。之は1個30銭であった…」

私は永瀬洋治(1931年-2012年)川口市長とは埼玉県議員時代(1966年)から交際があった。洋治の父四朗は初代川口市長(1933年就任)の岩田三史(1890年-1973年)の弟で、三史の子息は彫刻家の岩田健(1924年-2016年)であった。住まいが赤羽岩淵岸と結ぶ川口市本町の船橋(渡し)の舟渡岸にあった。

川口市東領家で株式会社岡宮美術を営む岡宮紀秀は、私が営んだ「河本電機」のお得意様であった。岡宮さんの仲介で2005年、韓国全羅南道霊岩郡立河正雄美術館に「子供と猫」、光州市立美術館に「朝の母子像」の彫刻作品を岩田健から寄贈を受けた。

生前、永瀬市長は「父が関東大震災時の川口での記録を残した手帳を保管しているので君に見せる。」と話していたが実現する事なく旅立たれた。

 2020年1月31日WHOが緊急事態宣言を布告したコロナウイルス禍。韓国は入国禁止、日本は出国禁止、故郷秋田の田沢湖と山梨の清里も移動自粛、私は自宅に籠り書架の整理を始めた。

 岩田健著「荒川と御成街道-小説岩田三史-」(文芸社刊2002年刊・絶版)が書架にあったのだ。その本の中に永瀬四朗の日記のコピーが挟み込まれていた。サイン入りの著書を贈呈されていたものをしまい込み、それまでその本の存在を忘れていたのだ。

 著書には関東大震災の記述があり、日記のコピーは永瀬四朗の関東大震災時(1923年8月31日~9月7日)の日記であった。永瀬市長は生前の私との約束を守ってくれていていたのだと欠礼を詫び、感謝した。

 急ぎ茶谷十六先生にその日記の解読を依頼した。その全文を下記にて紹介する。(□印は解読不能)

 岩田健著書と永瀬四朗の日記を読み解くと関東大震災時の生々しい状況が甦ってくる資料である。(2020年5月20日本文記す)

永瀬四朗 関東大震災時 日記

大正十二(一九二三)年

八月三十一日(金)

 兄夫婦ハ今日帰ル事トナル。余ハ実母ト共ニ一番電車ニテ伊香保ヨリ発シ、中ノ条町ヨリ往復自動車ニテ四万温泉積善館ニ遊ブ。

 風景絶佳ナレドモ途中交通誠ニ不便ナリ。帰途渋川ニテ母ハ帰宅ス。七時、城跡ニ帰ル。

九月一日(土)

 午前十一時五十分頃強震アリ。一同驚ク甚シ。伊香保初メテノ大震ナリ。午後、余震ヲヲソレ釣堀ニ行ク。

 夕方、東京地方古今未曽有ノ大地震、引き続キ大火災ニテ東都全滅ノ報ヲ聞キ一同色ヲ失フ。

 電信・電話不通ニシテ、汽車又大宮以南不通ナリ。

九月二日(日)

 早起、万難ヲ排シ一番列車ニテ渋川ヲ発シ幸ヒ川口町駅ニ下車ス。川口町ノ震災又烈シク、岩田・岡村□又全潰シ、被害一千余戸ニ及ブ。午后直チニ□□ニ出動ス。東京ヨリノ避難民陸続トシテ来リ、悲ノ極、惨ノ極ミ、ソノ状筆ニ及バズ。

九月三日(月)

 避難民ハ川口町駅ニ向ヒテ来ルモノ何十万ナルヲ知ラズ。然モ流言蜚語ハ各所ニ起リ、人心甚ダ陶々タリ。殊ニ夜ニ入レバ電燈ハ全ク消ヘ、ソノ間各自ノ自警団ハ抜刀ヲ携フルモノアリ。東ノ

 空ハ昨夜ト仝ジク紅ヲ呈シ、ソノ不安、ソノ物議力、トテモ話シニナラズ。之ノ朝鮮人百六十名ヲ蕨町ニ送ル。

九月四日(火)

 避難民ノ来襲ハ昨日ニ仝ジ。鮮人ニシテ入リ込モノ又多シ。警察□□既ニ数十名ナリ。鉄橋ハ今日ノ夕方開通ス。今、赤羽工兵隊ヨリ兵七名来ル。十時半頃、川口警察分署群衆ニ襲ハル。

九月五日(水)

 汽車開通ノタメ漸ク人ノ交通ハ減ジタルモ、富士館、卓三館、高校、劇場等ニハ尚避難民ノ充満セリ。不安ハ未ダ一掃サレス、鮮人逆殺ノ声ハシキリニ聞ユ。

 三さんヲ伊香保ニ送リ、当地ノ情況ヲ報セシム。

九月六日(木)

 川口町ニ戒厳令布カレ、第七聯隊将校以下四十余名来ル。川口高

  校ニ駐スル。

 夜中十一時頃、三さんとたい子、伊香保ヨリ帰ル。

九月七日(金)

 漸ク電燈モツキ、汽車モ日暮里ヨリ開通セシヲ以テ、町モ追々平静ニ赴クニ至レリ。然カモ吾等ハ連日横田宅ニ集マリテ□警ヲナスナリ。