「朝鮮人犠牲者追悼碑」制作委員会資料集より

よい心の碑建立の経緯

よい心の碑を田沢湖畔姫観音の傍らに建立する計画を立ててから十年が経った。しかし町当局や槎湖仏教会との合意がならず、田沢寺朝鮮人無縁仏慰霊碑の傍らに建立する事となった。その事業にあたり田沢湖よい心の会では朝鮮人無縁仏慰霊碑浄化事業奉賛寄付金願いの呼び掛けを次の様にした。「1990年、秋田県田沢湖町田沢寺に於いて、田沢湖周辺の発電工事に関わる導水路とダム工事等の犠牲者の無縁仏、徴用(強制連行)労働者を慰霊する朝鮮人無縁仏慰霊碑を建立し、毎年慰霊祭を行なって参りました。皆様の慈悲あるご理解を賜りましたこと厚く御礼申し上げます。

田沢寺に建立された「よい心の碑」

その間、参拝者も増え、墓地参道や慰霊碑周辺が風雪のために荒れました。この度二十世紀の不幸を浄化する意味において浄化事業に着手致す事になりました。

総予算は五百万円也です。11月11日に竣工慰霊祭を挙行致します。一口一万円以上の奉賛寄付金をお寄せ御支援下さい。尚、石碑に刻んで奉賛者の徳を記します。1999年8月15日」

その呼び掛けによい心の会員や地元有志、秋田県内の在日同胞が賛同し寄付金が集まった。田沢寺住職の寛大な取り計らいで、慰霊碑周囲の敷地の拡張を許され計画が推進された。慰霊碑側に新たに碑銘板を設置、竣工したのでその碑銘文を紹介する。

「1940年に完成した生保内発電所に関わる田沢湖導水路工事では、玉川、先達川、そして田沢湖から生保内発電所までの三本の導水路が掘整された。困難を極めたこの工事には、多くの朝鮮人労働者が動員されて危険な作業に従事した。

これに続く先達発電所、夏瀬発電所ダム工事では、一九四四年以後、徴用(強制連行)による朝鮮人が強制労働に従事させられた。これらの工事中、多数の朝鮮人が犠牲となった。

この地には、遂に故国に帰る事なく異国の土となった朝鮮人無縁仏が葬られている。最も不幸な時代の痛眼の歴史を心に刻み浄化するために、浄財を募り、この碑を建立する。

1999年11月11日建立田沢湖町よい心の会会長佐藤勇一」私は慰霊碑側壁面には曹洞宗龍蔵山田沢寺住職二十八世菅原宗美書の「よい心の碑」書碑を掲げた。同じく壁面には韓国大田市の韓南大学、朴柄照教授作のブロンズレリーフ「祈願の形象・鳩」(1985年作)2点を設置した。

この作品は自由の象徴「鳩」に託した「祈願の形象」を作品にしたものである。20世紀の不幸のために故郷へ帰れず、この地(田沢寺)に眠る朝鮮人無縁仏が、魂だけでも故郷へ自由に往来してほしい。そして日朝韓の親善友好の平和の使者であってほしいという願いをこめたものである。

また同作品は埼玉県日高市聖天院、韓国光州市立美術館、韓国霊岩郡立河正雄美術館、ソウルの秀林文化財団金煕秀記念アートセンターにも展示されており、このメモリアルは韓日を結ぶ友好の碑でもある。生保内小学校中庭の「陽だまりの像」、生保内中学校校庭の「憧慢の像」と同作者で、いずれも同じ思いから寄贈設置したものである。

1999年11月11日午前11時田沢寺本堂において朝鮮人無縁仏慰霊碑建立十周年記念慰霊祭が執り行われた。その一時間前には田沢湖畔で姫観音供養祭を挙行した。開式となり十年間の経過が報告された。

「1990(平成2)年9月23日には1938(昭和招)年来行われた田沢湖導水路工事就労で亡くなった徴用朝鮮人の無縁仏に対し、駐日本大韓民国大使館鄭亨壽公使をお迎えし、田沢湖町、在日本韓国民団秋田県地方本部、在日朝鮮人総連合会秋田県本部及び田沢湖町よい心の会会員などの関係者105名の参列のもと、田沢寺において慰霊碑の除幕と追悼の慰霊祭を挙行した。

参列された御来賓は田沢湖町助役桜田展也、秋田魁新報社常務取締役渡辺誠一郎氏、社団法人日米文化振興会理事長渡辺亮次郎御夫妻、作家西木正明氏ら多数であった。

また1991年9月22日、田沢寺本堂本堂並びに朝鮮人無縁の慰霊碑前に於いて田沢湖町から桜田展也助役、在日本韓国民団秋田県地方本部、在日朝鮮人総連合会秋田県本部及び田沢湖町よい心の会会員などの関係者印名が参列し供養祭が行われた。また同日、「辰っ子に昔の田沢湖を返す会」高橋福治会長より依頼されていた田沢湖畔の姫観音についても供養祭を執り行った。1993年4月21~24日には、田沢湖町よい心の会一行18名が訪韓して「慶州ナザレ園」を慰問した。

「よい心の碑」での慰霊祭(1999.11.11)

8月11日には、佐藤清雄田沢湖町長、姫観音像制作者九代日八柳五兵衛氏夫人」昌代子氏など約四十名の関係者参列のもとに、田沢寺慰霊碑並びに田沢湖畔の姫観音の供養を行った。

折しも8月8日から10日まで、わらび座を主会場として「秋田国際舞踊フエスティバルin秋田」が開催され、来日されていた韓国モダンダンス一行の方々も参列された。韓国舞踊家李丁姫さんは、わらび座の安達真理さんとともに、姫観音供養として創作舞踊を奉納した。

1994年11月3日、1995年9月25日、1997年10月23日、1998年11月18日、田沢寺慰霊碑並びに田沢湖姫観音の供養を行なって来た。

1999年には1990年に朝鮮人無縁仏追悼慰霊祭を挙行してから十周年にあたるので、この節日を記念し、予てより計画していた「よい心の碑」を建立した。6月には墓地参道や慰霊碑周辺の浄化事業として環境整備を行い11月11日、田沢寺並びに田沢湖畔において慰霊祭を執り行なった。

これまでの10年間、数多くの報道関係者の取材があり、その経過が報道された。戦時中の先達発電所建設工事では、307人の朝鮮人労働者が徴用された記録が公表された。その工事に従事していた全羅南道霊巌出身の曺四鉱氏が生存している事を私は発見した。曹氏の証言により、先達発電所の朝鮮人徴用(強制連行)制連行の事実が裏付けられたのである。

下記がその日、佐藤勇一田沢湖町よい心の会長が述べられた式辞である。「本日ここに、多数の皆様のご参列をいただき、『よい心の碑』の除幕式とともに、田沢湖導水路工事に関わる朝鮮人無縁仏の追悼慰霊祭を執り行うにあたり、一言、式辞を申し述べます。

1940(昭和15)年に完成した生保内発電所に関わる、田沢湖導水路工事では、玉川、先達川、そして田沢湖から生保内発電所までの三本の導水路が掘盤されました。

生保内発電所建設工事は、東北地方を食糧生産と軍需産業の一大基地に作り替えようという『東北振興計画』の一環として立案された国策事業でした。1938(昭和13)年2月の着工から、1940(昭和15)年1月の営業運転開始までわずか2年間という、文字通り突貫工事でした。

玉川導水路1865・24メートル、 先達川導水路4025・58メートル、田子の木取水口から発電所までの導水路2626・79メートル、すべて手作業で行われたこの工事は、今日では想像出来ない様な難工事でした。

資材を運搬するにも、馬車やトロッコ、筏などを使い、腿道やトン不ルを掘削するのも、電動の削岩機などなく、全て鶴嚇や鍬やスコップを使っての手作業でした。硬い岩盤を掘り進めるためにはダイナマイトによる発破が使われました。

1937(昭和12)年7月の慮溝橋事件以来、中国への侵略戦争は泥沼化し、多くの若者達が戦場に駆り出されました。国内における労働力の不足は決定的でした。

その様な状況の下で困難を極めたこの工事に、多くの朝鮮人労働者が動員されて危険な作業に従事しました。

工事は冬季間も続行され、飢えと寒さの中での過酷な労働によって病に倒れた人も少なくありませんでした。また発破の装着などの危険な仕事は朝鮮人労働者に割り当てられたため、爆破や落盤事故の犠牲となって多くの人が命を奪われました。

玉川から強酸性の毒水が流入される事によって豊富な魚資源が絶滅する事を憂えた湖岸の住民達は、工事計画の変更を求めて陳情運動を展開しましたが、『富国強兵』『産業報国』の名の下に一蹴されてしまいました。

毒水の流入とともに魚は死滅し、辰子姫伝説に彩られた神秘の湖は、死の湖と化してしまいました。

田沢湖周辺の多くの住民を駆り出し、その生活の根幹を脅かしたこの工事で、最も不幸な犠牲となったのは、故国を遠く離れた異境の地で病気や事故の為に命を落とし、異国の土となった朝鮮の人々でした。

帝国主義日本の植民地支配の下で、祖国を奪われ、土地を奪われて亡国の民とされた朝鮮の人々の多くが、本意なく日本に渡り、図らずもこの工事現場で無念の最期を遂げたのでした。

生保内発電所工事に続く、先達発電所・夏瀬発電所ダム工事では1944(昭和19)年以後、日本政府による徴用によって多数の朝鮮人が徴用(強制連行)され、過酷な労働に従事させられました。近年、これらの工事に徴用された数百名に及ぶ朝鮮人の名簿が公表され、生存者による生々しい証言も行われています。短期間ではありますが、これらの工事の中でも、多数の朝鮮人が犠牲者となっています。

今、私達が立っているこの地には、遂に故国に帰る事なく異国の土になった多数の朝鮮人無縁仏が葬られています。

私達田沢湖町よい心の会では、1990年9月23日に『朝鮮人無縁仏慰霊碑』を建立し、慰霊祭を執り行いました。

以来十年、日本と韓国・朝鮮の多くの方々がこの地を訪れ、この地に眠る人々の霊を慰めるとともに、不幸な歴史を二度と繰り返すまいとの誓いを新たにしております。

二十世紀が間もなく終わり、新しい二十一世紀が始まろうとする今、最も不幸な時代の痛恨の歴史を心に刻み浄化するために、浄財を募って『よい心の碑』を建立するものです。

碑の除幕にあたり、改めて朝鮮人無縁仏の霊の安らかならんことを祈り、追悼の誠を捧げます。

最後に、本事業の趣旨に賛同して御芳志をいただきました皆様、本日ご参列下さいました皆々様にお礼を申し上げ、式辞と致します。」佐藤清雄田沢湖町長(代読・高橋正男助役)が追悼の言葉を述べた。

「紅葉も散り、いよいよ秋も深まってきた今日、ここ田沢寺に於いて、朝鮮人無縁仏慰霊祭が、多数の皆様の御参列のもと、厳粛に執り行われますにあたり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。

今から六十有余年前、我が国の国策工事の為に、懐かしい祖国から遠く離れ就労され、異国に於いて尊い命を失われた朝鮮人の皆様、そして、ただ黙々としてあらゆる苦難に耐えてこられた御遺族の胸中をお察しします時、万感胸に迫るものがございます。ここに尊霊に対し、謹んで敬弔の誠を捧げます。

また韓国、朝鮮人の皆様が、戦後、今日に至るまで、家業に精励され、更には立派に子弟を養育され、祖国や我が国の発展のも大きく寄与されてこられたそのご努力に思いを致し、ここに深甚なる敬意を表するものであります。

この慰霊祭が、心ある方々の貴い浄財によって建立された慰霊碑の前で、継続して開かれてこられたことは、ひとえに、『よい心の会』の皆様を始めとする関係各位が、それぞれのお立場の違いを乗り越え、真の平和と友好を願い、心をーつにされた事の賜物と存じます。

あたかも千年紀をまたがんとする時、慰霊碑建立十周年の節日を迎えられたのでございますが、過去の不幸な歴史を決して風化させる事なく、二十一世紀を担う世代へと伝えて参る事は、我々に課せられた大きな使命であり、この度の『よい心の碑』の建立は、皆様の願いを新しい世紀へ伝える第一歩として、誠に意義深いものがあると存じます。

我々も、田沢湖を湛える水のように深い心で、そして、瑠璃色の水のように澄んだ心で、過去の歴史をしっかりと踏まえながら、恒久平和を念願し、両国を始め、諸外国の皆様との友好の輪を積極的に広げてまいらなければと心を新たにした次第です。

諸霊に於かれましては、安らかに眠られますように祈念いたしますと共に、慰霊祭開催にあたりご尽力された『よい心の会』の皆様並びに御列席の皆様の御多幸を心からお祈り申し上げまして追悼の言葉とさせていただきます。」

続いて在日韓国民団秋田県本部朴昌沫団長が追悼の言葉を述べた。

「戦争時代に異国の地、日本の田沢で亡くなられた韓国の人達に謹んで追悼の辞を申し上げます。

第二次大戦中、日本政府は国内産業の人手不足を補うため、国策としてその労働力を韓国各地から多くの人々を徴用(強制連行)して日本各地に割り当てました。その多くは未来ある若者であったことが尚更に胸を打たれるものがあります。

秋田県は鉱山が多く県北には数千人の韓国人が住んでいました。韓国の人々は日本の国の為にいろいろな分野で就労し、過酷な労働と飢えと寒さの中で多くの人々が無念の死を遂げていったのであります。

1945年8月15日終戦と共に生き長らえた大半の人々は、生涯癒える事のない心の傷を負いながらも光復を迎え、一日として忘れる事のなかったあの懐かしい祖国韓国に我先にと帰っていったのであります。

しかし犠牲になった多くの慰霊は、懐かしい故郷、両親、妻や子供に会える事なく、日本各地にそのまま置き去りにされました。その無念さは余りあるものであったと思われます。時の流れと共に人の記憶は薄れ、田沢の地は何事もなかったかのように平和の時を刻んでおります。

しかし、皆さんの事は決して忘れてはならない歴史のーページであります。

ある日皆さんと故郷を同じくする、父親の元に生まれた一人の在日韓国人の二世が何かを感じ取り、弛まない努力によって皆さんの存在を発見しました。そしてその二世の人を中心に、田沢に住んでいる人々に、その善意の心が広がり、この地に皆さんの遺霊を癒す碑が建てられ、こうして慰霊祭を行い皆さんに語りかける事が出来ますことは、民団秋田地方本部団長として感無量であります。

戦後半世紀が経った今、韓国と日本はかつてない程に友好状況にあり、来る2002年には韓日共同ワールドカップが開催され多くの人々が、韓国へ又は日本へと訪れることでありましょう。

今後はこの追悼碑に込められた善意を大事にして、一層の韓日親善友好に尽くし、両国の発展に努力する事を誓い、追悼の言葉と致します。」

僧侶の読経に続き参会者の焼香と進み、本堂での追悼慰霊祭を終え、引き続いて、墓地裏山の小高い丘に建てたよい心の碑の除幕を終えて、霊を慰める直会を開き参会者一同は懇親した。私はこの席で謝辞を述べ終え胸を撫で下ろした。夢の様に過ぎた10年であった。始めは建立趣旨が理解されず、誤解されて切なく悲しい思いをした。しかし多くの人々の善意と協力により守られ、乗り切る事が出来た。何事も理解を得て物事が成すには時間が必要であり、時間の流れの中で状況と人心が変化するのを待つ事が大事であることを悟らされた10年であった。

この10年、時と時代は日まぐるしく変わってきたが、本質的なものは何も変わっていない事をも痛感させられた。教科書問題、靖国参拝問題、領土問題などは未解決で韓国や中国などの反発や抗議の軌蝶は収まる気配が無い。

よい心の碑建立の意味と意義が、それらの問題の解決方法のーつになるのではないかと、その意義の重大さを思う。このメモリアルが永遠に記憶され、韓日友好親善の礎になる事を願う。