2018年10月26日、山梨県甲府市居住の書家、峡山・植松永雄先生、妻・尹昌子、長女・河祐妙を連れ立って秋田県仙北市田沢湖田沢にある曹洞宗田沢寺参拝に赴いた。

植松先生が「ふるさとを田沢とよばんひがんばな」という私の句を作品にされた事で一度、その句を刻んだ田沢寺の朝鮮人無縁の慰霊碑を現地で見てみたいという事で訪問する事となったのだ。

「寺を訪ね始めて深い意味が判りました。言葉を軽々しく書いてはいけない事を改めて認識しました。」と感想を述べられた。

そして植松先生が本堂で感激を以て語られた「この度の秋田訪問は私の修学旅行である。ここに掲げられている『逸曳』署名の書は桑原翠邦の弟子の様な書風なのでびっくりした。」と言った。そして、もう1枚の肩額の昭和14(1939)年4月8日付「悌充普照」の書に日をやり、再度びっくりされた。「これは桑原翠邦の書である。現代書道の父と言われる比田井天来に師事(金子鵬亭・上田桑鳩・手島右卿と共に四天工)の1人で、最も天来の師法を受け継いでおり、東宮御所の御進講役を拝命された方の書である。

余談であるが愛読する「埼玉新聞」の題字は手島右卿の書である事を菊池正志埼玉新聞記者から教わり、更に身近く感じた。

翠邦は1938年、天来が発起された大日本書道展では審査員に任命され、1939年には『現代中国に古典筆法を教える』使命を受けて北京に渡り、赴任中に天来が急逝されたが氏の遺志を継いで書宗院を設立した。

現在、桑原翠邦の長男・桑原千磨太(呂翁)が『書宗』誌で後進の指導をしており、田沢寺の1枚の書は、その弟子であるの宮崎逸曳氏(菅原宗弘現田沢寺住職は宮崎逸曳氏の従兄弟に当たる姻戚)が自身の書を田沢寺に贈ったものだ。『沸充普照』の翠邦の作品については田沢湖町に知人(名不詳)がいらして、その方に頼まれて書いた作品の1点です。昭和14年(1939年)3月15日に主人・桑原翠邦の長男(呂翁)が生まれて間もなく4月8日(降誕会)花まつりに北京で書いた作品です。

書・「峡山」植松永雄(2019年11月)

峡山・植松永雄書「ふるさとを田沢と呼ばん彼岸花」(2018.7.7)

多分、花まつりにお釈迦様への感謝でこの作品を書いたのでは。この作品はお寺(田沢寺)にあるのが相応しいと主人(呂翁)が説明して下さいました。人の巡り会わせとは不思議ですね。と呂翁の奥様のお手紙に綴られており由来を知った。

北京時代の翠邦先生の様子は小津征爾氏御母堂の著書『北京の碧い空』に記述がある。」以上は植松先生の御教授を元に文を纏めた物である。

私が生まれた昭和14年、同年に北京で書かれた翠邦先生の書が田沢寺本堂に贈られ、私と出会った事実。未来に向け、不幸であった歴史を回顧し、多くの方々と、この御縁を大事に共有したいと思い、修復への想いを発露した。そこで2018年11月15日、秋田市の木村表装店(木村明夫代表)へ次のように依頼した。

「突然のお願いで恐縮しております。角館町平福記念美術館長・富木弘一様より良い仕事をしており当館もお願いしているとの紹介にてFAX致しました。写真の書『働充普照』は1939年制作の物で田沢寺本堂に掲げられております。

私は檀家の者ではありませんが、田沢寺と御縁を頂いております関係で貴店に修復(傷みがあり、あと何年ももたないとの見立てにより)をお願い致したくお伺い致しました。
額そのものは活かし、表装して頂ければと存じます。費用につきましては私がお寺様に」喜捨します。何卒、意を汲んで下さり、お寺と打ち合わせ納めて下さい。」
翌日、木村明夫代表から応諾の電話があった。「私は河さんと同じ秋田工業高校の後輩で金属工学科の卒業生です。先輩の事は良く存じております。これから先輩の本を読んでみたいと思います。」と思いがけない話をされ胸が熱くなった。

そして12月3日付書信にて「傷んだ作品を修復する事は先人達への尊敬の念と未来の若者達への愛の発露と年を重ねるごとに思うようになりました。」と次のように所見があった。

『①本作品は、昭和14年に書かれてから79年の年月を経過しているため、経年劣化が著しい状態にあり、本紙の右側3箇所に破損の修理を施した痕跡が見られる。また、本紙の黄変が進行し、四辺には糊焼けも見られ、本紙全体が薄茶色に変色した状態にある。原因としては、裏打ち紙や下張り紙に使用されたパルプ混入の材料による紙質の酸性化による影響と思われる。

②墨書部分の勝の劣化により墨の粉状化が見られる。墨の定着が弱くなり擦ると剥落し、墨色が薄くなる状態にある。さらに、墨が移って本紙を汚損している箇所も確認出来る。

③額装の下張りには、昭和13年1月19日付けの報知新聞が張られていたことから、昭和14年頃には橡無しの額に表装されていたと推測される。田津寺の旧本堂に飾られていた時期に雨漏りを受けており、老朽化と損傷が激しく、特に裏面は黄変、汚損、破損が顕著な状態である。また、黒塗りの額橡は、後年に地元の大工が製作したもので、作品を保護するアクリルやガラスなどは入っていない

本紙の修復については

①本紙を額装より外し、墨書部分に謄水を塗布し、墨止処置を行い、墨色を保護強化させる。

②本紙全面に純水の微温湯に浸漬し、汚れや酸性物質、徽菌などを浮かび上がらせ除去する。

③本紙に養生紙と布海苔で表打ちを施し、旧肌裏紙をすべて除去する。

④本紙の漂白処理を施し、黄変を緩和させ、汚損等も除去する。

⑤新たに純格紙と正越糊で新肌裏打ちを行う。欠損部分には、補修紙を充填し、地色に合わせた補彩を施す。

本額装の再表装に際しても歴史性を温存する必要はある。長い期間の保存を考慮すると既存の額の使用には問題があり、文化財仕様の額装を新調する方引を採用する。

額装の表装については

①額の骨と橡には、狂いが少なく、アクの出ない秋田杉を使用する。

②額橡の塗装は漆代用の黒の上塗りにする。

③額骨(組子)の下張りは6編7枚。すべて純格紙と自家製正越糊を使用。

④額縁には、金地の鍛子を用い、額裏には、利休色の布を張る。

⑤作品の保護のため、アクリルガラスを入れる。

最後に止め金具、浮け金具、座布団等を新調し、田津寺の長押に掛ける。』各界で母校の人材が活躍している事は自覚しているつもりではあったが、母校の後輩と、田沢寺の寺宝を守るこの度の仕事で共に文化財修復事業を行える縁に私は大きな」昌びを覚えた。2019年5月には修復され収まる事となった。

「伽充普照(ぶっこうふしょう)とはどの様な意味か。」と問い合わせを複数人から受けた。字の意味から「仏の光は普く照らす」という意味だろうと思われる。

また「田沢湖町の『名不詳の知人』とは誰だろうか。」と市民から探求する声を複数受けた。私は菅原宗展田沢寺先先代住職ではないかと推測している。

田沢寺本堂の扁額「佛光普照」2019.5.18修復