全体的な経緯

1994年8月20日 第20期東京王仁ライオンズクラブ会長として史跡伝王仁墓にむくげ記念植樹(大阪市枚方市)
1998年5月9日 伝王仁墓大阪府史跡指定60周年記念式典参席・記念誌に「仏縁」寄稿
2006年10月14日 史跡伝王仁墓に「百済門」竣工(大阪市枚方市)寄附金支援
2016年10月7日 小池百合子東京都知事と王仁博士の解説案内板(青銅刻画碑) ベンチ2脚、案内石柱物件贈与契約書を締結する
2016年10月12日 社団法人韓日文化親善協会刻画碑建立諮問委員長として 上野公園王仁博士青銅刻画碑建立・除幕式辞
2017年11月16日 上野公園に於ける第2回王仁博士追慕参拝式
2018年5月11日 伝王仁墓大阪府史跡指定80周年記念式典参席
2018年9月5日 上野公園に於ける第3回王仁博士追慕参拝式経過報告

上野公園 王仁博士 青銅刻画碑 除幕式

  • 日時:2016年10月12日 (水) 午後2時
  • 場所:東京都上野公園内 王仁博士碑前
  • 主催:社団法人韓日文化親善協会

2016年10月12日 上野公園にて

除幕式、式典の様子

除幕式の様子

温故知新・王仁博士青銅刻画碑建立に寄せて

社団法人韓日文化親善協会刻画碑建立諮問委員長 河正雄

─王仁博士の偉業─

日本における文化形成の原点、漢字を伝え飛鳥文化を花咲かせた百済の賢人と崇められる漢文学・儒学の始祖博士王仁。
西紀285年(日本書記応神16年「16年春二月王仁来之太子師之習諸典籍於王仁莫不通達…是年百済王…」なる記述)に応神天皇の招請をうけて百済14代近仇首王(375年~384年)代の文化使節として渡来河内に定住。文筆をもって朝廷に仕え日本皇室の師博君臣の政治顧問として活躍した。庶民に至るまで文字、文章、倫理、道徳を広く教えた。
また技術工芸の伝授、鍛治、醸造、造船、織物、陶器などの技術を教えた。これより古代日本人が文化生活を営む大陸文化の摂取に貢献、日本文化史上に新紀元を建て日本で生涯を終えた。日本の朝廷では博士の功徳に報いるべく「西(かわちの・河内)の文首(ふみのおびと)」の始祖という尊称を授けた。
博士王仁の出生地は韓・日両国の学者の研究や地元の伝説(1939年刊の寅輿勝覧霊岩聖基洞條「百済古爾王時博士王仁生於此」の記述)などから全羅南道霊岩郡鳩林里聖基洞と確認されている。
渡日の年代については、古事記によれば百済古爾王52年(285年)とあるが、日本書記には百済阿華王14年(405年)の記述がある事からこの年代であろう。
古事記(712年)中巻、応神天皇條「百済国」項に和邇吉師(わにきし)によって漢字が日本に伝えられたと書かれている。和邇吉師は日本書記(720年)応神天皇巻では王仁博士と改まって書かれている。
古事記では漢籍「論語」十巻、「千字文」一巻を携えて来た事が記してあるが、日本書記ではその事には触れず天皇の皇太子(菟道稚郎子・うちのわさいらつこ)の家庭教師となったと記されている。

─王仁博士遺蹟址─

王仁博士遺蹟は韓国全羅南道霊岩郡郡西面鳩林里一帯、国立公園月出山麓の国有地に所在する。1976年9月30日地方記念物第20号に指定されている百済時代の遺蹟と指定されている。
遺蹟地内には、王仁博士誕生地「聖基洞」「聖川」、修学地の「文山斉」、博士が渡日当時、郷友達が集い歓送の宴を開いた「会社亭」、渡日時の出港地「上台浦」、名残りを惜しんで生家を振り返った「トォルジョン峠」「王仁石像」「冊窟」等が遺蹟地として指定管理されている。
王仁博士遺蹟は1985年より1987年にかけ浄化事業に着手、それまで建てられた百済王仁博士遺蹟碑の傍らに王仁廟、学而門、紅箭門、百済門、養士斉、遺物展示館等が建立された。遺蹟地の文化財を活かし民族文化の伝承と啓蒙は国民観光開発に大きく寄与する。
民族的な矜持と自負を植えた創造的な文化遺蹟址として悠久に保存育成されるだろう。
私は1983年、東京王仁ライオンズクラブに入会(1999年退会)した。クラブでは私を企画推進役として、1987年竣工の王仁廟浄化事業に参加し遺跡址内に浄化記念碑を建立した。1991年には王仁廟の参道や周辺に染井吉野桜200本を植樹した。また日本ケヤキ会では私を推進役として遺跡址内に200本の欅を植樹した。
私個人としては2006年より2009年まで3度に渡り、私の日本の故郷である秋田県仙北市角館の枝垂桜60本を遺跡址内や上台浦に植樹した。また2006年には遺跡址内に神仙太極庭苑を企画造成した経緯がある。

─伝王仁墓─

大阪府枚方(ひらかた)市には、大阪府が管理している1938年指定の「史跡伝王仁墓」と「碑石」がある。史跡地内の大阪府北河内郡藤坂村の元の地名は王仁山である。「享保16年(1731年)京都の儒者並川一郎は、枚方市禁野「和田寺」の古記録により、王仁の墓が藤坂御墓谷にある事を判り、この地を調査して自然石の立石を知った。これを王仁博士の墓としたのが伝王仁墓の由来である。
子孫は文筆を以て朝廷に仕え、羽曳野市古市西琳寺付近に居住していた記録が残されている。
1998年、牧方市の伝王仁墓には大阪府史蹟指定60周年記念として東京王仁ライオンズクラブは宝塚王仁ライオンズクラブと共にムクゲを記念植樹した。
そして2006年には社団法人韓日文化親善協会(尹在明会長)が協会創立30周年記念事業として百済門を建立した経緯がある。

─上野公園の碑─

上野公園には王仁博士の偉業を追慕する碑が建っている。正碑は大理石で作られており、その隣に副碑がある。
この正碑は昌徳宮からの下賜金、近衛文磨首相を始めとする皇室一族と日本各界を総網羅した330余人の名士等の協賛により建立されている。
正碑文の要旨は次の通りである(金昌洙著「博士王仁」より引用)
『博士王仁は百済人として、当時百済で、鴻儒巨撃と賢人達士らの尊敬を一身に集めていた文章道徳の君子であった。百済仇首王のとき、日本国応神天皇が招請した王仁は285年〔応神天皇16年〕2月、千字文と論語を携えて渡来し、皇太子の師傅に任命された。
これより王仁の学問は、広く普及、上は朝廷より、下は一般臣民に至るまで、人倫道徳を知らぬ者無きに至った。
その中でも最も秀でた者は、吉備真備、菅原道真、藤原惺窩、伊藤仁斎、荻生祖徠などの諸君子達であり、特に傑出した者は大僧正行基である。真に王仁の業績は燦然としている。
王仁に対し、日本人達は挙国的に敬仰、尊敬しない者はなかったとも言える。まして、韓国人しては彼を尊崇せずにいたとする者があったとすれば、誰を韓国の先行君子に相まみえようか。
孔子は春秋時代に生まれ、万古不朽の人倫道徳を明らかにして、天下万世に儒林の始祖となり、博士王仁は孔子没後、760年後に韓国で生まれ、日本の皇室の太子らに、忠信孝悌の道を教え、広く日本国内に伝授し、伝承させた。千古に輝く、博士王仁の偉徳は、真に悠久である。

─青銅刻画碑建立─

父母の故郷は小金剛山と呼ばれる月出山と王仁(わに)の生誕地と伝えられている全羅南道霊岩である。
2016年5月8日、ソウルの社団法人韓日文化親善協会会長尹在明氏から「百済の子孫として韓日間にて王仁博士を顕彰する事業は私の夢でもあり、100歳までに成し遂げたい一生の仕事の1つである。河さんにも百済の子孫として王仁博士出生の地、霊岩の出身者として手伝って欲しい事がある。近々、東京で会いたい。」と電話があった。
10年前、牧方市の伝王仁墓の史跡に「百済門」を建立する為の募金要請が協会からあり、2006年10月14日の竣工式祝賀行事参加以来の電話であったので正直、驚いたが私の故郷の先輩でもあり愛郷心と王仁博士に対する尊崇の情の熱さにほだされた。
2016年11月25日、尹会長が創立された社団法人韓日文化親善協会は今年、創立40周年の記念日となる。
尹会長は「上野公園にある王仁博士碑の場所が判りにくいので、観光などで韓国から訪れる上野公園訪問客の利便性を計り、王仁博士の顕彰を深め広める為、協会の記念事業として王仁博士碑への「行先案内板」の設置を計画している。その事業推進の為、河さんに協力して欲しい。」と要請された。
王仁は戦前には教科書にも載り、学んだ人間であるが戦後に消えてしまった。最近、著名な人士でさえ上野公園に王仁博士の碑がある事を知っているかと尋ねても殆どの人々が碑の所在地や人物について知らぬと答えられ失望と困惑をしていた。私は歴史を風化させてはならないと協力する事になった。
そして上野公園王仁博士碑の横側に「王仁博士青銅刻画碑」が建立され、10月12日除幕式を迎える事となった。
この慶祝を期に温故知新、王仁博士の恩徳を新たに胸に刻み記憶する事の意味は現代求められる大切な事であると思う。
王仁については文学博士谷山茂編「日本と世界の人名事典」には『古代の帰化人。百済の人と伝えられ、4世紀末ごろ百済より日本にはじめての漢籍「論語」十巻、「千字文」一巻を持って来て、帰化したという。その子孫は河内で栄え、西文首といわれた。文筆をもって朝廷に仕え、大陸文化の摂取に貢献したともいえる。その実在には今も疑問が少なくない。』と記述されている。韓国で確たる歴史資料が少ない事から論争はある様だが霊岩人の誇りは高い。王仁博士は私の畏敬と自尊心を高めてくれた世界人である。
浅学ではあるが私の矜持を述べた。建立の意義を共有して下さり、日韓友好の為、この慶事を共に喜んで頂ければ幸いである。

─除幕式に至るまで─

5月16日 尹在明会長がソウル市東大門区洪陵にある秀林文化財団を訪問され、私と面談した。そして準備して来た協会指導委員の委嘱状を私に伝達した。
6月15日 左藤章衆議院議員政策秘書真鍋宣忠氏の仲介により尹会長は東京都東部公園緑地事務所(以下公園事務所と呼称)管理課長田中巧氏(以下、田中課長と呼称)と面談し、私は同席した。
尹会長が「行先案内板」設置計画を説明し申し入れた。事業の推進にあたり、以降の交渉調整役として河正雄と田中課長が協議推進する事に決めた。
6月16日 尹会長が再度、公園事務所を訪問し大野副所長と面談し、要望事項を4点述べられたが、それらは河正雄と田中課長間で調整させて頂きたいと大野副所長から回答があった。
6月20日 尹会長は6月15日申し入れた協会計画の「行先案内板」を取り止め現在、王仁博士碑左側脇に台東区教育委員会が設置している王仁博士碑案内板と同じ材質、形状の「王仁博士肖像画入りの案内板」を設置したいと小林直樹公園課長に申し入れた。
設置費用は社団法人韓日文化親善協会が持ち、設置後は東京都に寄贈するとの文書を田中課長に提出した。
6月30日 公園事務所にて田中課長と河正雄は6月20日に尹会長が申し入れた「王仁博士肖像画入りの案内板」設置の件を協議。
7月1日

6月30日の協議結果を尹会長宛に報告する。以下はその報告書である。

尹在明会長様
2016年6月30日午後3時30分から4時まで田中課長と面談協議した結果を報告致します。

  1. 貴協会よりの2016年6月20日付小林直樹公園課長宛文書について概ね承諾可能であるとの事。
    至急、貴協会が計画されている案内板の素材と具体的な図面を提出されたいとの事。
    劣化せぬ物で長く保存され、綺麗な物であって欲しいと田中課長より要望された。
    以降、貴協会からの文書送付については田中巧管理課長宛に送付されたい。
  2. 2016年6月16日午後3時30分から40分、尹在明会長御夫妻が公園事務所を訪問面談され、「8月15日に日韓交流51周年記念式典を行いたい。それまでに案内板を設置したい。」と申し入れた件ですが、田中課長は大変期間が短い為に無理ではないかと心配されています。先に10月12日除幕式をしたいと申されていますので、どちらが正しいのか?
  3. 案内板に寄付者の記入は可能であるとの事。但し個人名で肩書や団体名、会社名などは控えて欲しい。
    尚、代議士左藤章の名前は法律違反となるので秘書真鍋宣忠氏より固辞されました。私個人の名前の記入も必要ありません。
  4. 王仁博士肖像については出典記録文と、その制作者(作家)が存在するならば、問題が生じない様に著作権をクリアする文書が欲しいとの事。
  5. 肖像画の説明「王仁博士の伝記」を日本文と韓国文で記すと申し入れましたが、その原稿を送って下されば田中課長と協議調整します。
  6. 案内板設置工事については河正雄が業者の手配をします。
  7. 以下は河正雄の提案事項です。

※尹氏が6月20日田中課長に申し入れた「台東区教育委員会が設置した案内板と全く同じ材質と形状の案内板を石碑の左側に設置したい」と記載されている件ですが私は別紙の通り石碑(図面添付)の建立を提案します。
※JR及び京成口の案内板にステッカーでも良いから王仁博士碑の行先の位置案内を田中課長に提案しました。
※王仁博士碑入口の所に案内標識石柱の設置を田中課長に提案しました。

2016年7月1日 河正雄

7月2日 石碑制作を有限会社関戸石材店に依頼し見積もりの為、現地案内をする。見積金950,000円(税込)で決定発注する。尹会長に報告し、了解を取る。
7月3日 尹会長から河正雄の7月1日付報告書の了解を得たので田中課長へも同報告書を提出した。
7月4日 尹会長は7月4日付で、王仁博士の肖像画と王仁博士の伝記文並びに、6月20日付で提出した計画を変更、河正雄が提案した案内標識石柱を含む石碑建立を提案する書面(石碑設置位置やサイズ、デザイン等の図面)を田中課長に提出した。
8月2日 田中課長より7月4日付で提出した石碑建立の許可を頂いたので河正雄は石材業者に発注した。
8月3日 池田美術株式会社の青銅刻画碑前面と裏面の製作費見積1,008,000円のところ、1,000,000円で決定発注するとの旨、尹会長に報告し了解を取る。
8月12日 尹会長、真鍋宣忠氏、河正雄が細田晃公園事務所長と面談。追加として王仁博士碑前に訪問客の利便を図る為に石造ベンチ二脚を設置し、追加寄贈する提案を書面で出した。
8月29日 田中課長と河正雄が協議し、8月12日の追加石造ベンチ二脚寄贈案及び除幕式当日の式典案内旗設置の承諾を受ける。尹会長に報告し、見積103,680円を決定し関戸石材店にベンチの発注をした。
8月31日 寄贈申込書(別紙寄附申込書参照)を田中課長に提出し、尹会長に報告した。
9月6日 除幕式の会場設置の為にダスキンレントオール新宿イベントセンターに見積りを取る。除幕式の式順書及び会場設定計画図を田中課長に提出する。
9月14日 8月31日提出した寄贈申し込み書に依る認可が高宗文子管理課長代理より下りた。
関戸石材店及び池田美術株式会社に正式に製作開始依頼をする。
10月12日 王仁博士青銅刻画碑建立除幕式を迎える。

認可が下りた9月14日は韓国の名節「秋夕(チュソク)」を迎える前日であった。これまでの交渉と調整、そして手続きと手配が整い、2016年の「秋夕」を迎える事が出来た事は大きな喜びである。
尹会長を始めとする協会の賛助会員、後援者、協賛者の熱情と精進の賜物である。
また東京都東部緑地事務所長及び役職員御一同様の御指導と御鞭撻のおかげで、王仁博士の栄徳と恩徳を受け、経過報告出来ます事、幸いであり、感謝に堪えません。

─経過報告─

王仁博士青銅刻画碑除幕式にあたり経過報告を申し上げます。この事業は2016年5月16日、私が尹在明会長より社団法人韓日文化親善協会指導委員の委嘱状を受けた事により始まりました。
6月15日左藤章衆議院政策秘書真鍋宣博氏の仲介により東京都東部公園緑地事務所を訪ね、田中巧管理課長との面談により具体化、実現に向けて前進致しました。
その間、緑地事務所長を始めとする関係者御一同様より数々の御指導、御鞭撻を受けて、本日の除幕式を迎える事が出来ました。
経過報告書にある「温故知新」の表題は、1987年9月26日に韓国全羅南道霊岩郡聖墓洞で行われた王仁博士遺跡址浄化事業竣工式に出席された梁井新一駐韓国日本国大使の言葉より引用致しました。
その日、梁井大使は古事記、日本書紀の記述に触れ、百済から現代に至る綿々たる千数百年の歴史的事実、日本と韓国との文化交流の基が霊岩の聖基洞にある事を述べました。
「王仁博士の遺徳は、日本の文化の基礎はもとより、韓国との交流史の金字塔を打ち建てて現代に蘇った。『故きを温ねて新しきを知る』―王仁博士は、この格言を以って我々に教えている。この竣工を契機に、両国の善隣友好関係を子々孫々推進して、相互文化交流を深めねばならない。」と祝辞されました。
主催者の全錫洪全羅南道知事は、「王仁廟は多くの人々の汗の結晶により落成された。王仁廟は我が国の代表的な文化遺跡となり、新しい韓国観を教示するであろう。日本との友好親善関係の歴史的な意味を深め、民族的文化の高揚がなされよう」と、挨拶されました。
先人の歩まれた足跡を回顧し、共に学び合う「推譲の精神」こそ今の我々に求められている事を述べ、経過報告とします。

王仁博士青銅刻画作者経歴

張山 裕史  (Hariyama Hirofumi)
1969年7月25日生

碑文

王仁博士は、4世紀末大韓民国全羅南道霊岩で誕生されたと伝えられている。
『古事記』『日本書記』などによると、応神天皇の招請により論語と千字文を携え渡来、皇太子の師匠となられ忠信孝悌を教えられたという。博士は孔子と比肩され、日本の飛鳥文化を花咲かせた学者として崇められている。

新聞記事