李用鎮氏の証言記録

夏瀬ダム

夏瀬ダム-朝鮮飯場

暑い夏の日、河さんのシャツはしぼるような汗でびっしょりぬれていた。背丈をこえるような草を掻き分けながら、二人は、深い溪流を見下ろす断崖のうえの杉林の中を歩きまわった。

敗戦の色が日に日に濃くなった1944(昭和19)年3月、朝鮮の釜山から下関に上陸し、鉄道を乗り継いで、生保内線(現田沢湖線)神代駅に降りたった朝鮮人の一団があった。夏瀬ダム建設工事のために強制連行された朝鮮人用工たちであった。

およそ400人の人々は、朝鮮飯場と呼ばれた粗末なバラック建ての建物に収容されて、夏瀬ダム建設のための道路開削工事に従事させられた。

深い渓谷に面した断崖の岩肌を削って道路を作る工事は困難をきわめた。ダイナマイトによる発破作業中に事故の犠牲となったものも少なくなかったという。

神奈川県横須賀市に住む李用鎮さんは、19歳の年に強制連行されて神代駅に降ろされ、そこから真っすぐ夏瀬ダムの工事現場につれていかれた。仲間の事故を目のあたりにして、このままではいずれ殺されると逃亡をくわだてるが、失敗する。

みせしめのために殴る蹴るの暴行を受けた李さんは、肋骨を数本折る重傷をおい、生涯癒えることのない体になってしまう。

1994年5月、連行された年からちょうど50年目に神代駅に立った李さんと一緒に、かつてのトロッコ道を歩いたが、李さんが収容されていたという飯場のあとを探すことはできなかった。

ちょうど半世紀も前、言葉もろくにわからぬ異国の地で、強制労働に従事させられた場所を確定することは不可能に近い。しかも李さんの体は、山中の山坂道を歩きまわるにはあまりに衰弱がひどい。

李さんの記憶は驚くほど正確であった。その証言によって、半世紀前にあった夏瀬ダム工事現場での朝鮮人強制連行の実態が紛れもない事実として明らかになった。

李さんの証言は、「朝日新聞」秋田版に「夏瀬ダム強制連行の記録徴用朝鮮人50年目の証言」として7回にわたって大きく報道された。

朝日新聞社大曲通信局の横村出記者と2人で、 この地域の土地にもっとも明るい佐藤隆さんの案内で、ついに飯場の跡を確認することができた。

大きな炉の跡や下水溝など建物の痕跡がくっきりと残されていた。400人の朝鮮人土工たちが起居したというこの場所は、土地の人たちから 「朝鮮飯場」と呼ばれていたという。李さんたちが、炭焼きの農夫から握り飯をわけてもらったという炭焼き釜の跡もすぐ近くに点在していた。

この日、私は、河さんを案内して、再びこの場所に立ったのだった。草いきれの中から、人々の気配がさわさわと迫ってきて思わず鳥肌が立った。

望郷の思いを胸に、苛酷な労働に従事させられた人々の痛恨の気持ちはいかばかりであったろう。

河さんが茫然とたたずんだまま遠い空を仰いでいた。その眼差しの向こうに、碧緑色の玉川の水が音をたてて流れ、赤い岩肌をむきだしにした対岸の絶壁が、まぶしく光っていた。2人は言葉を失ったまま長い時間をすごしていた。

帰途、河さんがポツンと言われた。「茶さん、今度来るときは、きっとお酒とお米、水と塩をお供えしてほしい」と。私は、まだその約束を果たしていない。

(1995年 河正雄著「恨 ‘95」 茶谷十六氏文「恨-我が心の韓国・朝鮮」より抜粋)