2007年7月13日 今村写真帖の学術研究日中戦争記録の写真 大学共同利用機関法人人間文化研究機構、国立歴史民俗博物館との共同研究始める。

今村一也(1947年生―2005年没)さんのフィリピンへの初渡航は不動産取引が目的であった。若い頃の海外留学経験を活かして建築資材の購入、設備やデザイン、高層マンションの視察など新しい住環境への提案を意欲的に提案していた。

そんな時、フィリピンで健康食品に出会い多角経営の必要性、新しいビジネス展開を考え私への韓国での事業参画を要請、マニラでの支店開設に忙しく活動していた矢先に不慮の事故で亡くなった。 今村一也が私に託した「今村写真帖」を世に問う。この世で実際に起きる出来事は虚構である小説以上に複雑怪奇で波乱に富んでいる。今村写真帖の内容、辿った道程は数奇そのものであった。公開するに至った背景と経緯を語ろう。まず背景であるが私の故郷秋田での出来事から語らねばならない。

―浅川巧の足跡を訪ねて―

1999年の事である。満開の桜の季節に浅川巧の足跡を求め大館を訪ねた。大館には秋田工業高校1年生の時(1956年)大火の慰問で訪れたことがある。学校で集めた義指金を届けるためであった。駅前は黒々と全てが燃え尽くされていた。それ以来の45年ぶりの大館であった。大館は忠犬ハチ公のふるさとである。寂れた雰囲気の大館駅前広場に秋田犬の銅像があった。天然記念物秋田犬のルーツは、私の父母の故郷韓国全羅南道の珍島犬ではなかろうかと聞かされていたので親しみを持っていた。

植民地政策下の韓国で民芸の中に朝鮮民族文化の美を見つけ出し、韓国の人々を愛し韓国の人々から愛された日本人農林技手。日本では最近まで浅川巧という名前さえ知られることがなく、今もソウル郊外忘憂里の共同墓地に眠る。その墓は韓国の人々によって守られ続けてきた。墓の傍らに建てられた碑文はハングルで「韓国が好きで韓国を愛し、韓国の山と民芸に身を捧げた日本人、ここに韓国の土になれり」と刻まれている。

高校時代、私は浅川巧についての安倍能成が書いた「人間の価値」なる文を読み、その人柄と人格に憧憬を持つようになった。1909年、浅川巧は大館営林署に就職し、そこから1914年韓国に渡ったと彼の経歴に記述されている。浅川巧が秋田杉の美林の中で過ごした四年余りの青春の地、大館は韓国での偉大な功績を残すに至った出発の地である。

―七ツ舘弔魂碑―

わらび座の茶谷十六氏から紹介を受けた富樫康雄(花岡の日中不再戦友好碑を守る会事務局長)先生の案内で浅川巧の足跡を辿った後に、花岡の七ツ舘の信正寺、そして花岡鉱山を廻り共楽館跡を訪ねた。秋田市に住む在日一世の李又鳳さんは徴用により1934年5月から終戦まで花岡鉱山で強制労働に従事させられた。

花岡事件が起きた時は、朝鮮人労働者が山狩りに動員され逃亡者の探索や、犠牲者の亡骸を中山寮裏の鉢巻山に埋める作業もさせられたという。共楽館では逮捕された中国人が、針金で吊るされて残酷な拷問を見た時は日本軍国主義が如何に酷いものか、その時はっきり知ったという。

1949年鉢巻山の中国人犠牲者遺骨発掘に関わった時、同じ人間同士が虐殺し、埋め、そして掘り起こす。これらの因縁と因果修羅の暗い時代を李さんは呪っていた。今は中山寮の跡地と鉢巻山の跡地は意図的に作られた花岡鉱山のダムにより隠蔽された。その跡地の全てを見下ろす事が出来る小高い森の中に「日中不再戦友好碑」が建立されていた。

富樫先生は私を七ツ館にある信正寺に案内され、住職を紹介された後、その墓地内に建立されている「七ツ館弔魂碑」へと案内された。1944年5月29日花岡鉱山七ツ館坑内は伏流水の異常出水のため崩れ落ち、噴き出した地下水は泥流水となり、七ツ館坑の上を流れる花岡川河川敷が陥落、その浸水と落盤によって起きた事故犠牲者の慰霊碑であった。その碑の裏には日本人11名、朝鮮人11名の犠牲者の名前が刻まれていた。

「七ツ館事件」は「花岡事件」の重大な誘因となった。花岡鉱山へ中国人や朝鮮人を徴用した動因はアジアに対する侵略戦争拡大に伴う銅の大増産計画の遂行のためである。

1944年から終戦までには花岡鉱山では朝鮮人徴用者が2000名以上強制労働に従事しており、花岡川の改修工事でも労役させられたが人間の極限状態にまで追い込まれた受難史「花岡事件」の傷ましさの陰に隠れて余り知る人がいなかった。人間の尊厳が無視された悲惨な戦時下の状況を寒々と肌で感じる現場であった。

―花岡事件―

1944年から1945年にかけて986人(内途中死亡7人)の中国人が花岡鉱山にあった鹿島組花岡出張所へ徴用された。彼らは花岡川の改修工事、鉱滓堆積ダム工事の掘削や盛土作業に従事し、これをシャベルとツルハシ、モッコでやり通した。

作業所での扱いは過酷なもので、補導員の中には指導の名の下に激しい暴行を加える者もいて、加えて敗戦直前の時期から国内の食糧事情の悪化が彼らの上にも重くのしかかり、耐え難い暴行と空腹で精神に異常をきたす者も出てきた。「中山寮(ちゅうざんりょう)」に収容された979人の内130人が死亡し、更に暴行や栄養失調で身動き出来ない重症者が多く出た。

餓死か、暴行によって殺されるか、という状況の中で、耿諄(Geng Chun)大隊長ほか7人の幹部は「このままではみんな殺されてしまう。もはや1日も忍耐できない、蜂起するしかない。」と考えた。寮内の動きを調べ、蜂起は6月30日の真夜中と決定した。しかし計画が全員に知れ渡るやいなや規制が効かない者も出てきて統制は大きく崩れ、以後の組織的行動は不可能となった。取り敢えず逃走命令を発しそれぞれが逃げたが、重症者の一群は神山(かみやま)付近で最初に捕まり、次に体の弱っている一群が旧松峰(まつみね)付近で捕まってしまい、残る主力集団も獅子ヶ森(ししがもり)山中に逃げ込み抵抗したものの食糧も水も無く力尽き次々と捕らえられてしまった。

捕まった者達は7月1、2、3日と共楽館前広場に炎天下のもと数珠繋ぎに縛られ、座ったままの姿勢で晒された。3日の夜に雨が降りそれで何人かは死なずにすんだが、多くの者が亡くなった。

死体は10日間も放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人達の手で中山寮の裏山へ運ばれ2つの大きな穴に投げ込まれた。この後も中国人の悲惨な状況には変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が亡くなった。

1945年10月6日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れ、棺桶から手足のはみ出している中国人の死体を見て、その日の内に詳細な調査を開始した。こうして「花岡事件」が明らかになった。

徴用の途中で亡くなった中国人の慰霊や花岡で亡くなった中国人の遺骨は花岡信正寺(しんしょうじ)の蔦谷達道(つたやたつどう)師により供養が続けられ、1953年に中国へ送還された。1963年11月に花岡十瀬野(とせの)公園墓地で「中国殉難烈士慰霊之碑」が、1966年5月には花岡姥沢(うばさわ)で「日中不再戦友好碑」の除幕式が行われた。

(大館市観光物産課発行「大館市の史跡」の記述より)

―花岡ものがたり―

富樫先生は大館訪問記念にと「花岡ものがたり」の本を下さった。その表紙裏に「花岡ぶし」の音符と作詞が載っていた。その後の調査でわかった事だが作曲は原太郎(はらたろう)であった。原太郎はわらび座の創始者で「山有花」の作曲で知られる民族音楽家金順男の師でもある。裏扉の「花岡を忘れるな」の作品は朝日新聞の日曜版(1970~1978まで連載)や1年もののカレンダーなどで見覚えのあった作家、切り絵で有名な滝平二郎(たきだいらじろう)の作品であった。

「花岡ものがたり」は苛酷で非人間的な労働を強いられながら他国で死んでいった中国人俘虜を慰める鎮魂歌であり、人間性のひとかけらもなくする戦争に対する告発、人間の尊厳のために死んでいった人々を讃える物語である。この惨事を目撃した多くの人々から事実に基づく証言をしてもらい大衆の心をとらえる芸術として「花岡事件」を物語にし木版画(桜の版木にて制作)と物語詩を用いて表現しようという構想が立てられ1951年出版されたものである。

その本のあとがきには「花岡事件は軍国主義日本の罪悪の塊のようなものである。これを徹底的に追及し、えぐり取ることは古い日本の腐ったカスをなくして、日本と中国の本当の友好を築く礎である。これを曖昧に残しておくことは、軍国主義のばい菌を培っておくようなもので、再び恐ろしい戦争を引き起こすもとになる。この絵物語は平和を愛し、日本を愛し、日中両国の永遠の友好を願う人々によって、一大国民運動を起こすために作られた。あらゆる困難をおかして、闇に葬られようとしている事件の真相について、調査に調査を重ね、これを本当に活き活きとした芸術作品として表現するために、討論し、修正し、それこそ血の出るような努力が積み重ねられた。この作品は在日華僑4万と日本の民衆の間に起こされた日中友好運動の力に支えられ、また、現地秋田の鉱山、山林労働者、農民及び民主的な団体とその運動に援助されつつ、友好運動者、画家、詩人、文学者、音楽家その他多くの人々の集団創作として生まれたものである。これは日本の芸術運動の上に、新しい方向を切り開いたものとして、芸術史の1頁を飾るものであろう」と記してあった。私は日中を日韓、在日華僑を在日同胞と置き換えこの文を読んだ。

「花岡ものがたり」は大館で市民演劇運動を指導していた瀬部良夫(せべよしお)(本名・喜田説治・きたせつじ1915年生まれ)が物語詩を作詩し、版画は新居広治(にいひろはる)が下絵の大半を仕上げていたが滝平二郎と牧大介(まきだいすけ)らが協力して彫り、3人の個性ある作家の力作によって実を結んだ。花岡ものがたりの57枚の連作の中に「たたかった朝鮮のひとがた」と「朝鮮人」という2点の作品がある。徴用で徴用された朝鮮人の人権獲得のための戦い、解放の戦いが彫られている。共通の不条理克服のために連帯して戦うことの意味を教えている作品である。

「花岡ものがたり」は日本人として戦争に対する反省を明らかにし日本人の良心と後悔を込め「再び戦争を起こさない」という誓いから生まれた。フィクションの部分もあるが「花岡ものがたり」を歴史の評価のみならず、優れた芸術作品として表現されており芸術史の1頁を飾るものである。

―人類の遺産―

私は「花岡ものがたり」木刻版画の芸術的価値を富樫先生に評価し、光州事件について語り、韓日、朝日の歴史についても言及した。人類の不幸を浄化し共通の祈りのために、この「花岡ものがたり」の版画作品を光州市立美術館河正雄コレクションとして収蔵し、公開したいと申し入れをした。

すぐに「花岡の地日中不再戦友好碑を守る会」代表奥山昭五(おくやま しょうご)先生から「当会保存の連作版画『花岡ものがたり』を貴館に寄贈させていただく運びになりましたことを心から悦ぶと共に、名誉この上ないことと存じております。日本の侵略戦争の実相を鋭く表現したこの作品が、多くの人達に鑑賞されることを通じて、日韓の美術文化と親善友好の深まりはもとより、日韓の平和、アジア・世界平和に大きく寄与できることを切望いたします。私達もその為に更なる前進を続けることを誓い申し上げます。」と寄贈のご返事が届き私の意が通じた。

こうして人類の遺産である芸術作品の普遍的な価値を共有することとなったのは私の大きな喜びである。木刻連作版画・「花岡ものがたり」の河正雄コレクション収蔵によって光州市民と大館市民の共通の連帯感が育まれ親密なる交流の絆が結ばれた。光州市立美術館は「祈りの美術館」として存在内容を深め、世界に人権のメッセージを発する機能を増すことであろう。

私は2004年5月11日~8月25日まで光州市立美術館に於いて光州民衆抗争24周年を記念する「花岡ものがたり展」を開催した。韓国の民主主義と人権の聖地である光州で平和への断固たる闘争を描いた展覧会は、歴史的なものであった。

―秘められていた姫観音―

田沢湖畔に姫観音が建立されたのは私が生まれた1939(昭和14)年11月のことである。その姫観音像に刻まれている碑文の主旨は玉川の毒水が田沢湖に入り込んだ為、死滅した魚と伝説の湖神・辰子姫の霊を慰めるというものである。

田沢湖町観光課は1985(昭和60)年に荒れ果て放置された姫観音像の周りを整地し掲示板を掲げた。それまで町史や観光案内等の資料にも建立由来の記録は何一つ見あたらず紹介されていない秘められた観音様であったが、田沢湖観光の名所として公式に紹介されたのである。

その年から町の観光課長ら町有志により、姫観音供養祭が執行されるようになったが、湖に飛び込む自殺者があまりに多いので訪れる観光客の安全を祈祷するためという理由に私は疑念を抱いた。碑文と掲示板の字句から考察すると、主旨と意味を取り違え真実が伝えられていない事。また供養祭そのものが場当たり的で当て付けたように感ぜられたからだ。

姫観音が建立された歴史的背景を考えると刻まれ掲示された美文に私は納得することが出来なかったのだ。

―徴用―

戦時下、1938年から40年にかけて田沢湖をダム湖とした国策によって行われた田沢湖、生保内両発電所建設に係わる隧道掘削工事は、玉川と先達から2つの導水路、そして田沢湖畔田子の木から生保内発電所への導水路が3本掘られ2年間の突貫工事で進めらた。寒冷と過酷な労働、食糧不足と発破や落盤事故など、多数の犠牲者があり、その中には強制労働に従事していた朝鮮人も含まれていたのだ。

20数年かかって私は田沢寺に眠る朝鮮人無縁仏の所在、姫観音の建立趣旨書を発見した。姫観音は当時の工事犠牲者を慰霊するために建立されたことが裏付けられ史実が明らかになった。また1998年になって先達発電所工事に関わる徴用307名の官斡旋・徴用名簿が公開された事で田沢寺の無縁仏についても犠牲者であった事を証明出来た。 追って、先達発電所の工事現場で働いていた曺四鉉氏が私の父母の故郷霊岩に、そして夏瀬ダム徴用者であった李用鎮氏が横須賀市にそれぞれ捜し出し、生きた証言が得られたことは幸いであった。以降私は1990年より今日まで田沢湖町民らと共に姫観音と田沢寺の朝鮮人無縁仏の慰霊祭を行ってきた。今日この道に至るまで、ふるさと秋田に関わり67年の歳月を営み生きて来た。

―今村一也さんとの出会い―

「今村写真帖」を託された経緯を記そうと思う。2003年春の事。朝日新聞埼玉版に株式会社協和建物が創立30周年にあたり、良質な住環境の創造と豊かな街づくりに寄与するという抱負を述べた広告が載った。

その時私はビルの建築計画をしており、建築の施工会社を捜していた。その広告内容に誠実さを感じ埼玉県越谷市にある協和建物の本社を訪問し、私は社長の今村一也さんと初めて出会った。本社の入口や廊下、社長室には西洋風の絵画や置物が配置されて、そのインテリアはアートのようであった。私は今村さんのセンスや趣味に興味を抱き、好意を持った。

2004年正.月になってビル工事を協和建物に発注する事となり、2005年の2月末にビルは完成した。そこで今村さんから竣工祝いの接待を受ける事となった。その席でフィリピンで今村さんが展開している事業計画を聞かされ、韓国に販売網を作りたいので協力してほしいと請われた。

3月末になってその事業の説明をしたいからと今村さんから電話があったが、私は「清里に行く用事があるので、帰ってきたら会いましょう。」と約束をした。

―フィリピンでの事業―

4月初め、清里から帰り今村さんと我が家で会った。「樹木ヤエヤマシタン(学名:プテロカルパス・インディウス・ウィルド)の樹木や根を成分とする100%天然素材の21世紀の健康食品をフィリピンで生産し、日本で事業展開する。韓国にも支店を作り、販売網を広げたい。」と言って「エカルマ・ローズウッド」と称する製品と、その科学的資料を持参して来た。

アトピーや喘息など免疫性の難病にも効果があると説明し、「人類の健康に貢献する事業です。いずれフィリピンの生産地にご招待しましょう。」と話された。今村さんは多角経営の必要性と新しい事業展開を考えていた折り、フィリピンに不動産取引が目的で初渡航した際に出会った健康食品に、活路を見出したと力説し、張り切っていた。

―風流に生きた人―

ビジネスの話がひとしきり終わったところで「何故清里に出かけていたのですか。」と今村さんが興味深く尋ねたので、私は清里との縁、浅川兄弟に関わる40数年の人生の話をした。当時、営業社員であった多田君に私の著書を折々にあげているので読んで貰いたいと今村さんに要請したところ、「実は私の母の実家が高根町の五町田にある。」と話された。ここから、今村さんとの距離が一気に縮まり、プライベートな話の方に移っていった。

「父は今村守之(1902年~1964年)、山梨県北巨摩郡登美村龍地6513(現双葉町)の生まれで、私が高校2年生の時に亡くなった。母はしづゑ(1910年~1996年)といい、実家は高根町五町田(浅川巧の生地の角向かい)で母の末弟である五味義親さんが家督を継いでいる。

甲府空襲の時に、家族は母の実家に疎開した。終戦後、その実家にあった古材を利用して今村家具店を甲府(旧泉町72・現中央1-286)に開き、戦後山梨県の高額所得者の第1位になる程に栄えた。しかし数年前に不況のため廃業した。」と話された。

息子である今村一也さん、五味義親さんが語る今村守之さんは、文芸を愛し風流に生きた自由な気風を持った芸術人でもあったようだ。

面倒見がよく、商売に於いても金銭の扱いが綺麗で、現金払いの商売をして借金をしなかった。お酒も飲まず、お茶やお花、唄、踊りなどのお稽古事をした風流に生きた人であったようだ。 東光会(現在はこの会派はない)に所属して、上野の美術館でも油絵を発表する美の世界も理解される人で、県議会に立候補を薦められても政治的なことに関わりを持たなかったそうである。亡くなったのは富士山を登山中に不慮の事故に遭われたためだったそうだ。

―今村写真帖―

韓国での支店網の事を依頼された私は、その具体化の為に韓国ソウルに赴き、5月6日にその報告の為に我が家で今村さんと会見した。韓国での受け入れ先のミーティングと韓国の市場調査に共に行こうと言う話がまとまり、雑談に入ったところで協和建物のロゴの入った紙袋を私の前に置いた。

「近々取り壊す甲府の今村家具店の父の書斎にあった、父の写真帖です。子供の頃(小学校時代)、その写真をこっそり見たことがあります。父が中国に出征した際に写した怖い写真でした。その時母に見つかってしまい、「今後絶対に見てはいけない、誰にも話してはいけない。」ときつく叱られました。

それ以来40年以上も書斎にそのまま放置して忘れていたのですが、河さんの著作を読んでいる内に、この写真帖の所在を思い出し、河さんに委ねるのが最善ではないかと考えました。どのように使われて、処分されても構わないので、河さんの仕事に役立ててほしいと思い持参しました。」と言って写真帖4冊を私に差し出した。

正視出来ないような残酷な写真の中に、従軍中においても日常生活ののどかさを写したスナップが多数あり、それらを見て心が凍ったような思いがした。血圧が急上昇し、咽喉が渇き心臓が波打った。それと同時に奇妙な感情が込み上げていた。そこには戦争が日常化していく奇妙に歪んだ日常が静かに写し出されていた。その違和感が私の心と体に揺さぶりをかけているかのようだった。

「これは南京事件が起こった時に南京で撮られた物ですね。写真はライカで撮影された物ですね。」

「河さん、良く判りましたね。蛇腹のライカ、そしてローライフレックスで撮影された物です。父は余り戦争には貢献してはいなかったようです。生きて還らねばならないと逃げ廻ったそうです。お酒は飲めないので、病気にならないように消毒に使い健康に気をつけたのだと、父から聞いたことがありますが、それ以外には戦争にまつわることを語ったことはありません。」と語られた。

「もしあるならば、そのカメラも譲ってもらいたいですね。」

「捜してみましょう。書斎のどこかにあると思います。あったら差し上げましょう。河さんの本を読んで、しばらく行っていない清里の母の実家にも行ってみたくなりましたし、甲府の家具店にも立ち寄り、父の菩提寺である甲府の日蓮宗遠光寺にも行きたい。」と話され「近々共に行きましょう」と約束を交わした。

―不慮の死―

7月26日営業の多田さんが、我が家に暑中見舞いの品を届けに来た。その製斗紙に「株式会社協和建物取締役今村一也」と書かれていた。そこで「社長と清里に行く約束になっているので、日程を知らせるように言って欲しい。」と多田さんに言付けたところ、表情が曇った。何かを迷っているかの様子だったが、意を決して話し始めた内容は悲しい知らせだった。

「社長は7月14日フィリピンで亡くなりました。余りにも急な不慮の事故のため、取引先や知り合いには、秘密にしていたのです。でも河さんには隠し続けることが出来なくなりました。申し訳ありません。」狐に騙された様な、余りに突拍子のない話に、しばらく思考が働かなくなり、言葉を失ってしまった。

2004年正月にフィリピンで事業展開する話しを聞かされた時に「お金持ちの日本人は事件に巻き込まれるのが怖い。大丈夫かい。」と聞いたことがある。しかし「長年に渡って信頼している通訳と運転手を雇っているので大丈夫。」と特に心配はしていないような口ぶりであった。私もそれ以上の忠告は無用かと思ったが、このような事件性が高い亡くなり方をされた今、もっと注意を促すべきかと思うと悔やまれてならない。結局、今村さんとは、たった4回の出会いのみの物となってしまった。良い友人、良きパートナーになれたのではないか。清里への同行や韓国での事業展開も夢幻に消えてしまったこと、そして今村さんがこれから残せたかもしれない仕事のことを思うと残念であり、無念である。

―哀悼―

9月30日越谷の今村一也さんの自宅へ弔問に伺った。奥様のまりさんは直江津出身の方で、地元の山本医院のお嬢さんであった。まりさんのお父様は戦後直江津から帰還する欧米の捕虜であった兵隊に食糧や水などでもてなして帰したという。戦後アメリカの帰還兵一人が礼を言うために直江津までこられたと言う人道の人であることが判った。

まりさんは「子供もいない夫婦だけの暮しでした。とても明るく楽しい人だったので、突然いなくなって途方に暮れました。今はハワイアンダンスの指導やサークルで気を紛らせています。」と気丈に話された。

今村さんは慶応の法科を卒業、海外留学生活もされ、理知的なセンスは輝いていた。私生活に於いて幸せに、経営に於いても順風の極みにあったことを思うと、惜しまれてならない。

リビングにあった簡素な祭壇に笑顔の写真があった。今そこに息づいて、話しかけてくるように感じるほどに若々しく自然であった。私は心からの哀悼の意を表し、その場を辞した。返す返すも無念だと思った。

―省察―

10月に入り取材に訪れた埼玉新聞社の菊池正志記者に今村写真帖について相談することになった。平素、菊池記者は埼玉における在日韓国朝鮮人に関心を持って報道をされる事から、頼もしく思っていたのが理由であったのだが、埼玉新聞社の8月24日付記事で1937年11月から12月に南京に向かう途中での「百人斬り」に関する報道訴訟の経過を読んでいたからである。・

それまで私に預けられた写真帖の意義と意味を、私は写真帖を見るにつけ、考えに考えていた。最初はとても正視に耐えるものではなく、不気味さと恐怖感で情緒不安定になる日が幾日も続いた。

正直、目を逸らさずに写真が持つ記録の真実を見詰める事は優しい事ではなかった。しかし回を重ね、見続けることにより、精神が鍛えられ、動揺していた心が正常に向かうにつれ、新しい発見と世界を感じるようになってきた。

過去の過ちに目を逸らし、省察を行わない事は先に進むことの拒否であり、本質を捉えることは出来ないし、真実を見ることも知ることも出来ないだろう。

自虐的になるから子供達に見せない、教えないというのは過ちである。ありのままの事実を伝えることこそが今求められているのである。今村写真帖が、そのことを私に正しく教えてくれている。

今村一也さんが私に託した心、写真を撮影し残された今村守之さんのメッセージは、次代の青少年教育、平和教育に欠かせない意味を投げかけていることに気づく筈だ。

―南京―

今ここで南京の歴史を学んで認識を新たにしよう。南京は中華人民共和国(1912~1949)政府で首都となる。江蘇省西部揚子江南岸に沿う省都である。明時代に南京と名づけられたが天京(1853~1864)とも呼ばれた。

辛亥革命(1911年)後、孫文らの臨時政府(1912年元旦)が南京を首都としたが、同年4月首都は北京に移された。蒋介石の国民党政府(1927年)の首都(1928年)になったが(抗日戦中は重慶に移転したが、戦後南京に復帰)、日本軍の侵入後(1937年)汪精衛政権の治下に入り1949年4月人民解放軍により解放され、国民党は台湾に逃れた。江兆銘を主席とする日本の{鬼偲政権(1940年~1945年)も南京を首都とし国民政府を自称した都市である。六朝時代の陵墓、紫金山の明の考陵、天文台、孫文の中山陵、雨花台烈士陵などの名勝が多い。

―南京事件―

南京で起こった前後3回の事件を南京事件という。1913年7月の第2革命中に北京軍により日本人3名が殺害されたとして、山本内閣が中国側に抗議した事件。

1927年3月24日、国民革命軍(北伐軍)の南京入城に際し、一部軍隊が、日・米・英などの領事館を襲撃し略奪殺害を行ったとし、米・英艦が南京市を威嚇射撃したため、蒋介石の共産党弾圧の口実にされた事件。そして南京虐殺事件である

―南京虐殺―

日中戦争中、南京を占領した日本軍による1937年12月の30万を超えると推定される市民虐殺事件を南京虐殺事件という。南京虐殺事件は南京とその周辺で総司令官松井石根大将の日本軍によって行われた捕虜、一般市民の虐殺事件をいう。

「極東軍事裁判に提出された資料によると、2つの慈善団体が南京で埋葬した遺棄死体だけで15万5337人(うち子供859人、婦人2127人)あり、この他、揚子江に大量の死体が投棄されている、国民政府側の守備軍15万中8万が戦死あるいは捕虜になったが、日本軍はこの作戦に補給部隊を伴わなかったので捕虜を養う事が出来ず、また当時25万ないし40万と推定される難民に食糧を配ることが出来なかった。ここから多くの犠牲者を出したものと見られる。

虐殺は機銃による掃射、生き埋め、ガソリンをかけて焼くなど残虐な方法で行われ、また5万の日本軍に対し14人の憲兵しかいないという状況下で、婦人に対する強姦事件が数万件の他、市民に対する略奪と放火(市内の3割が焼失し12,000戸が失われた。)も横行した。

敗戦後極東軍事裁判では松井石根がこの事件で死刑に処せられ、当時の第六師団長谷寿夫を含む数人が南京の法廷で戦争犯罪者として死刑になったが、日本側での追求はなかった。」(1973年グランド現代百科辞典・学習研究社刊より引用)

―参考資料―

1937年11月呉漱上陸、上海、杭州、南京に従軍。翌1938年に帰国して、今村一也さんが残した3冊のアルバムには所属部隊第101師団の動きが記録されていた。300余点の写真は南京での戦争の実相を写している。(4冊目は家族写真帖である。)

私は今村写真帖を学習するために、次の参考資料を紐解き、写真1枚1枚の意味を理解することに努め多くのことを学んだ。

  1. 戦記甲府連隊・山梨・神奈川出身将兵の記録
    樋貝義治著1978年サンケイ新聞社発行
  2. 楕火(ほだび)・山梨の戦争遺跡
    岡村俊彦(小田原の医師・衛生兵として出兵)の自費出版
    山梨県戦後遺跡ネットワーク編
  3. 侵略・中国における日本戦犯の告白
    中国帰還者連絡会 新読書社編1972年 新読書社発行
  4. 呉瀬(ウースン)クリーク/野戦病院(戦時下の戦争文学)
    日比野士朗著2000年中央公論新社発行
    ※呉淞(ウースン)クリーク中央公論1939年2月号掲載
    ※野戦病院中央公論1939年6月号掲載
  5. 日本陸軍部隊総覧〈別冊歴史読本第80(476)号〉
    1998年株式会社新人物往来社発行
  6. 今村写真帖との出会いから見えたもの・南京に連なる上海戦の実相
    福田昭典著2006年ノーモア南京の会
  7. ノーモア南京300000
    ノーモア南京の会ニュース1号―20号
  8. 大虐殺への道―上海から南京へ〈報告集〉
    2004年ノーモア南京の会発行
  9. 報道にみる南京1937
    1997年ノーモア南京の会発行

―甦る写真帖―

今村写真帖を公開したことで少なからぬ反響があった。真摯に評価されることにより今村写真帖は甦り、新たな歩みを始めた。

一兵士が残した戦争の記録が如何に人間性を否定するものかを、歴史の事実としてそのままに学ぶことが出来る。40年、50年先には、その真価を示す資料の一つであろうと思う。写真が持つ〈記録性〉、時代を超え、時を超えても訴える〈伝達力〉がある。

写真の中には軍隊の「日常の中」にある戦争が切り取られている。そこから日常の生活の中にあった戦争、その時代に生きてきた軍人達の生活、そして戦争の残虐さと非人間性、それに少しずつ犯されていく人達の姿が静かに、確かに撮影記録されている。

それらを検証する事は、アジアの平和と、人類の未来に人がどうあるべきかという省察を促し、後世に伝えねばならない想いが凝縮され遺されている。

―私の願い―

私は「今村写真帖」が、平和、民主、人道、人権、良心、博愛主義者達に提言できる教材・日本とアジア諸国が二度と間違った関係に陥らないための教材になってほしいと願っている。

そして未来において、永久に保存公開される事で世界の平和に貢献する教材の一つになってほしいと願っている。

幸いにも今村守之、一也さん親子の出生地である山梨県立博物館に於いて保存活用される道が拓け、写真帖を寄贈する事が今村親子の心に添う落ち着き先ではなかろうかと思っていた。

ところが、その後に紆余曲折を得て「今村写真帖」は2013年3月12日に国立歴史民俗博物館に資料寄贈申込書を提出し、同年12月20日受理されて収蔵された。経緯はともあれ私は神仏の加護があればこそ、と感謝し喜んでいる。