光州市立美術館名誉館長 河正雄

―関東大震災80周年記念報告―

関東大震災80周年記念集会

本日、関東大震災80周年記念集会の開催にあたり、これまで実行委員会の皆様が関東大震災によって引き起こされた諸事件、それによって犠牲となった人々を追悼、この歴史的経緯について追求する学習会を開き、多くの関係資料を発掘して、これらの真実を広く報告されてきましたことに対し敬意を表する。

 埼玉県には関東大震災(大正12年・1923年)による朝鮮人犠牲者の慰霊碑や、供養塔、墓などが数多く残されている。熊谷市の熊谷寺に約70名、本荘市長峰墓地に88名、上里町神保原の安盛寺に42名の慰霊碑がある。児玉町浄眠寺に無縁の供養塔、寄居町正樹院に具学永の墓、さいたま市大宮の常泉寺には姜大興の墓などがある。

 毎年、熊谷市、本荘市、上里町など行政が主催し、地元の民団や総連も参加しての慰霊祭が行われ、それぞれの寺院では住職が手厚く慰霊している。私は幾度か9月1日の慰霊祭に出席し、流言飛語による軍、警察、自警団による大量殺戮で受難した同胞達の霊に合掌した。

 私は1959年に秋田より川口市領家に移住してきた。仙元橋、耶木の橋の近くで、領家はまだ未開の地でアシヤナギが茂っていた。芝川付近は鋳物工場が林立している一大工業地帯であった。そこに入野鋳工所があった。高校時代、母の手伝いで秋田から運んだヤミ米を買って下さったお得意さんである。社長であった入野作一氏(故人)の家屋を譲り受け領家に住むようになったのが川口での生活の始まりであった。

 入野作一氏は時折、私の足を止めて、関東大震災の話をしてくれた。「『朝鮮人が放火した』『朝鮮人が井戸に毒を入れた』と官憲が流したデマは震災翌日から広がった。その責任を朝鮮人と社会主義者、そして自警団に押しつけた事件である。何の罪科もない朝鮮人が猟銃や鳶口、竹槍や日本刀で武装した自警団がデマに踊らされて、関東全域で6000余人以上がその暴力により虐殺された。天災であると同時に人災である。血生臭い歴史は日本人の恥であった。」と語った。

「大震災の時、闇に紛れて木船が岩淵(赤羽)より舟戸ヶ原(川口)に近づいて来るという半鐘が鳴った。自分は家にあった日本刀を持って駆けつけた。現場では自警団が集団で船の中の菰の下に隠れている朝鮮人を竹槍で突き、日本刀で斬りつけていた。その時、何のためにと考える余裕はなく、ただ恐怖と朝鮮人に対する憎悪だけがあった。それは如何に当時の日本人が狂っていたかということであった。翌日、荒川は血で染まり、人肉を魚が食べているのを見たときは怖かった。今でも夢に見ることがある。」と懺悔していた。

 家の近くの宝湯という銭湯で、浅黒い肌のガリガリとした小柄の鋳物職工とよく会うことがあった。この人も入野作一氏と同じく自警団として舟戸ヶ原に駆けつけた一人であった。「朝鮮人など人間ではない。こちらがやらねば朝鮮人にやられると思い込んでいた。」と、その時のことを体を洗いながら武勇伝のように何度も自慢していたのを聞いた。反省など何一つ感じられなかったその言葉に苦々しい嫌悪感を感じ、それは未だに晴れる事がない。

 1980年、川口市青木町にある得信寺(浄土真宗)を訪ねた。同じ町内に住む朝鮮人が得信寺に関東大震災の時の朝鮮人犠牲者の遺骨があると教えてくれたからである。「愚かさとは深い知性と謙虚さである。」と寺門の脇にある掲示板に貼り紙があった。高口得信住職は新潟出身の方で、以前は川口神社がある金山町のある寺にいたという。1959年に庫裡を青木町に建て、1963年に霊堂を建てたと得信寺縁起の石碑に記してある。

 住職が「長い間この寺に祀っていたが縁故者があらわれたので、その遺骨は帰しました。」と答えられたときは安堵したと共に、よくそれまで守って下さったと感謝した。その事が起因となって川口にも犠牲者が、どこかの寺に葬られていることだろうと舟戸ヶ原付近の善光寺や錫杖寺、そして私の家の近くにあった正覚寺、実相寺、私の父が眠っている光音寺など訪ね調べてみたが、どの寺もそのような痕跡がなかった。何もなくてよかったという気持ちと、腑に落ちないわだかまった気持ちが、心に今もよぎる。入野作一氏や鋳物職工の話と得信寺に遺骨があったという事実、山田昭次立教大名誉教授の調査研究によると荒川放水路沿いで軍隊が機関銃で大勢の朝鮮人が撃ち殺されたという報告をされた事実などから、川口付近でも歴史の中で封印されている事が多いと思われるからだ。

 1995年、長瀞に住んでいる在日一世の尹炳道氏が高麗山聖天院横田辨明住職に「終戦までに数十年間に沢山の無縁仏が日本のあちこちに散在して、誰も訪れる者がいない。何とかこの地に葬り供養したい。」と申し入れた。そして私に「日本国内における民団や総連の垣根を超え関東大震災、第2次世界大戦で犠牲になった同胞の御霊と渡来人の御霊が安眠出来るように供養したい。在日韓民族無縁の霊碑建立の事業に協力してほしい。」と頼まれた。

 「熊谷、本荘、上里で関東大震災の朝鮮人犠牲者の慰霊祭に出席してきたが、いつもイデオロギーによる民団と総連が鍔迫り合いをして先陣争いをする。スタンドプレーの見苦しい風態は在日韓国、朝鮮人の恥である。霊に対しても、心ある日本人にも申し訳ないことである。なんとか霊が鎮まり安寧でありますように、この聖天院に静かに祀り供養したい。」と尹氏は付け加えた。

 2000年11月3日、深谷市に住んでいる石田貞氏の協力を得て埼玉県における関東大震災の朝鮮人犠牲者207名の過去帳を奉安して、私は聖天院在日韓民族無縁之霊碑の除幕、開眼法要の式辞を述べた。

 「20世紀は、韓日、朝日、両民族の歴史において、まさに激動の時代でした。在日同胞100年の歩みはまさにその象徴であります。この100年の間に、祖国を離れた異国の地で、望郷の思いを噛みしめながら痛恨の生涯を終えた人々はどれほどの数になるでしょう。今日に至るまで、我が在日同胞は、家業に精励し、子弟を養育し、あらゆる苦難を乗り越えて祖国と日本の発展に大きく寄与・貢献して参りました。

 在日一世尹炳道氏の発願により、聖天院寺域奥山に、在日韓民族無縁之霊碑と納骨堂、並びに慰霊塔が建立されました。歴史の中で犠牲になられた在日同胞達の御霊が安眠できるように供養したいとの願いからであります。それはまた、在日同胞が歩んだ苦闘の歴史が風化しないように、歴史の真実が埋没しないように、子々孫々にまで語り継ごうとの願いによるものであります。民族の統一を願い、日本と韓国・朝鮮の友好・親善を願う多くの皆様のご理解とご尽力によって、この事業が実現しましたことは、何よりの喜びであります。

 先人達が歩んできた20世紀の歴史を、21世紀を担う若い世代に伝えていくことは、我々に課せられた大きな使命であります。霊碑の建立が、在日同胞の願いを新しい世紀に伝える新たな一歩になることを祈念するものです。私達は21世紀に向け、よき兄弟として、争わず信じあう良きパートナーとして善隣・友好の絆を深めていかなければなりません。本日ここに、よい心、広い心、同じ心を通い合わせて、未来の子孫のために、世界のため、人類のために寄与・貢献し、豊かで平和な21世紀を創造する起縁を結んだことは、諸霊に対する何よりの供養となるでしょう。諸霊のとこしえに安らかなることを祈ります。」

 毎年9月5日は聖天院のお施餓鬼の日であるが霊碑の建立以後、関東大震災朝鮮人犠牲者の諸霊を慰霊する日となった。この日は日韓の歌人達が集い慰霊のための献歌祭を開いている。

 過去の記憶は社会の財産、我々在日同胞の財産であるという認識。この尊い犠牲を無駄にせず教訓を生かして同胞社会の発展と住み良い環境づくりに精進する。過去をないがしろにせず、きちんと反省し学んで歴史の流れとして子々孫々伝えていく。真の善隣への懸け橋をつくる役割を担おうという誓いのためである。

関東大震災での死者は約10万人。うち火災旋風による焼死者は9万1千人という。犠牲者の身元が確認出来なかったという史実から見ても、地震より火災による2次災害が恐ろしいのだという事を示している。

 だが私は「デマが怖い。ふだんは実直な民衆が棍棒や日本刀を振り上げた、竹槍を持って突いた人々の心理が怖い。ああいう凶行がもう起こらないと誰も保証出来ないだろう。」と言いたい。

 1999年9月7日、本荘市にある長峰無縁墓地で心ない事件が起こった。朝鮮人犠牲者慰霊碑を囲む石柱23本の内、7本が倒されたのである。また碑の西側にある無縁の墓34基の内、27基が倒され、内7基がハンマーで割られてしまった。目撃者の証言によると30代から40代の男が犯行に及んでいたらしいが、犯人を逮捕することが出来なかった為に、この事件は3年後に時効を迎え有耶無耶となった。

 また最近、朝鮮人学校女生徒の制服であるチマチョゴリを切り裂くという事件や、ケンコクギユウダンの朝鮮人を日本から駆逐するまで爆弾を仕掛けるという事件などは陰険極まりないものがある。

 集団虐殺の事実が終戦の日まで明らかにされなかったという事実。国がなかったために韓国人はあれだけの残酷な虐殺にあっても、人権侵害に抗議することはもちろん、弁明の機会もなく事件の調査要求もできなかった無念さを知らなければならない。朝鮮人の恨という感情に余りにも無知な行為であると言える。

 虐殺事件の根源には日本社会に民族差別が今だ根深く残っていることを再確認させる。この事件は在日同胞の歴史の原点であることを忘れてはならない悲劇である。そしてこの悲劇はいつ何時、また繰り返されるとも限らない。我々は英知と理性を持って防災に務めなければならない。

 私が語りたかったのは、辛く苦しい時代を共に生きなかったからといって目を背けるのではなく、恋人や母親に対し、別れを告げることも無く亡くなっていった人達が何を思い、何を言いたかったかを理解したいからだ。

山田昭次先生と共に

 何の罪科もなく、無造作に命を奪われた人達は大義のために死んでいったのではない。未来の子供達のためにも、亡くなっていった無名の人達を私達は忘れてはならない。彼らは歴史における悲劇をもって、生きるということの価値を私達に教える師であり、間違った道を進まぬ為の物言わぬ道標であるからだ。

 思いだしてあげること、それが何よりの供養である。それ故に、亡くなった物言わぬ人達の代弁者となり、生きている私達が語り継いでいかねばならない。彼らには慰霊される権利があり、過去を礎に今を生きている私達には慰霊をせねばならない義務があると思うからだ。過去の惨劇を風化させないことが私達の務めであると胸に抱きつつ、日本と韓国「二つの祖国」で私は生きている。

(2003年8月30日 東区亀戸文化センターカメリア・ホールにて 関東大震災80周年記念集会にての報告書)

―傍証記録―

川口市近代史料編Ⅰ「205・関東大地震実記(長島彦太郎)第4章 夜警と鮮人騒ぎ」の抜粋である。川口市安行領家での関東大震災時の記録(長島剛次郎所蔵)である。(カタカナの記述をひらがなに直し、実記の文字をそのまま引用する)

 『有史以来の大地震及東京の大火災等を機とし不逞鮮人が東京横浜に暴動し其の余波は我県内にも侵入して早やその一団は根岸鳩ヶ谷方面に出没したとの怪報が3日午後2時頃に達せられたので血気の青年や在郷軍人等は日本刀、脇差、槍、竹槍、鉄棒等を持って自警団を形成した。

不逞鮮人が既に近在に妄動したと聞いた村民の人心は如何であろう。鮮人暴行団襲来の報流言蜚語早鐘の如く伝播し極度の不安と恐怖にて各地住民は半狂乱となった。

鮮人を恐れて寝もせず。東京の火災は不逞鮮人と社会主義者の仕業と噂され彼らは爆裂弾を携えて家を焼き毒薬を井戸に投じて危害を加えるそうだ。依って東京方面では鮮人は誰彼と問わず之を捉えて撲殺する由、其の他各地にて見当次第鮮人を討殺したのだ。

9月5日、埼玉県千葉県とも戒厳令が布かれた。9月6日の北足立郡長の通報である。「朝鮮人の風評に関し針小棒大の説を為すものあり誤解を招くの虞有之候処右は朝鮮人必ずしも不逞の者に之無く候。苟も暴行に出ずるが如き事無き用御訓戒相成候。」

鮮人暴動も近在に切迫せぬから騒ぎ立てる程もなかった9月7日、福田雅太郎関東戒厳司令官は「自警団及び一般人民は武器又は凶器の携帯を許さず。全て鮮人が悪い企をして居る様に思うのは大まちがいである。」と命令を発した。

関東大震災60周年記念朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会編集発行の「かくされていた歴史・関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件」58頁の川口市、中村晃一郎の記録である。

「9月3日に東京に行った。荒川の船橋(渡し)のあたり赤羽寄りに20~30名の死体が浮いているのを目撃した。朝鮮人の死体だ言われていたのを覚えている。」

浦和の饗庭喜蔵の「大震災日記」にも9月3日午前「川口駅では大勢の群衆が不逞鮮人とかを追廻して居たのを見た。」また赤羽側にも兵隊が不逞鮮人を追廻していたとの吉野作蔵の調査による「かくされた歴史」257頁によれば33人、地方新聞の中の伝え聞きとして川口市での朝鮮人虐殺は30~70人という記録があるが、虐殺の証言はない。

大垣市北新町宮村松郎、同市中町の成宮二郎の証言(1923年9月6日名古屋新聞)である。

「私共は上野の山火事で追ひ出され2日7時頃まで食はず飲まずで日暮里まで逃げのび此処で汽車を見つけ貨物列車に飛び乗ったが動かぬので夢中になって赤羽迄来たが、ここから又2里半の道をくたくたになって川口迄出た時は2日の夜9時頃であったが、荒川の鉄橋が落ちていたので船橋を架けて貰って渡った。其時20名程の不逞鮮人が群がって来てその船橋を切断しました。

その際2、3人の人は流されて死んだやうでした何しろ辺りが真暗で皆が橋を渡って仕舞った頃軍隊が来て鮮人は撃退されて4、5人の鮮人が銃殺される所を見受けました。

鮮人は労働者風の者で私が来る時は川口町は焼けて居りませんでした。軍隊は殆ど一町毎に銃剣付きで町を護って居た。何しろ最初の地震以来飯も喰はず水も飲まないでヘトヘトになって来たが川口駅で握り飯を貪るようにして貰った。之は1個30銭であった…」

私は永瀬洋治(1931年-2012年)川口市長とは埼玉県議員時代(1966年)から交際があった。洋治の父四朗は初代川口市長(1933年就任)の岩田三史(1890年-1973年)の弟で、三史の子息は彫刻家の岩田健(1924年-2016年)であった。住まいが赤羽岩淵岸と結ぶ川口市本町の船橋(渡し)の舟渡岸にあった。

川口市東領家で株式会社岡宮美術を営む岡宮紀秀は、私が営んだ「河本電機」のお得意様であった。岡宮さんの仲介で2005年、韓国全羅南道霊岩郡立河正雄美術館に「子供と猫」、光州市立美術館に「朝の母子像」の彫刻作品を岩田健から寄贈を受けた。

生前、永瀬市長は「父が関東大震災時の川口での記録を残した手帳を保管しているので君に見せる。」と話していたが実現する事なく旅立たれた。

 2020年1月31日WHOが緊急事態宣言を布告したコロナウイルス禍。韓国は入国禁止、日本は出国禁止、故郷秋田の田沢湖と山梨の清里も移動自粛、私は自宅に籠り書架の整理を始めた。

 岩田健著「荒川と御成街道-小説岩田三史-」(文芸社刊2002年刊・絶版)が書架にあったのだ。その本の中に永瀬四朗の日記のコピーが挟み込まれていた。サイン入りの著書を贈呈されていたものをしまい込み、それまでその本の存在を忘れていたのだ。

 著書には関東大震災の記述があり、日記のコピーは永瀬四朗の関東大震災時(1923年8月31日~9月7日)の日記であった。永瀬市長は生前の私との約束を守ってくれていていたのだと欠礼を詫び、感謝した。

 急ぎ茶谷十六先生にその日記の解読を依頼した。その全文を下記にて紹介する。(□印は解読不能)

 岩田健著書と永瀬四朗の日記を読み解くと関東大震災時の生々しい状況が甦ってくる資料である。(2020年5月20日本文記す)

永瀬四朗 関東大震災時 日記

大正十二(一九二三)年

八月三十一日(金)

 兄夫婦ハ今日帰ル事トナル。余ハ実母ト共ニ一番電車ニテ伊香保ヨリ発シ、中ノ条町ヨリ往復自動車ニテ四万温泉積善館ニ遊ブ。

 風景絶佳ナレドモ途中交通誠ニ不便ナリ。帰途渋川ニテ母ハ帰宅ス。七時、城跡ニ帰ル。

九月一日(土)

 午前十一時五十分頃強震アリ。一同驚ク甚シ。伊香保初メテノ大震ナリ。午後、余震ヲヲソレ釣堀ニ行ク。

 夕方、東京地方古今未曽有ノ大地震、引き続キ大火災ニテ東都全滅ノ報ヲ聞キ一同色ヲ失フ。

 電信・電話不通ニシテ、汽車又大宮以南不通ナリ。

九月二日(日)

 早起、万難ヲ排シ一番列車ニテ渋川ヲ発シ幸ヒ川口町駅ニ下車ス。川口町ノ震災又烈シク、岩田・岡村□又全潰シ、被害一千余戸ニ及ブ。午后直チニ□□ニ出動ス。東京ヨリノ避難民陸続トシテ来リ、悲ノ極、惨ノ極ミ、ソノ状筆ニ及バズ。

九月三日(月)

 避難民ハ川口町駅ニ向ヒテ来ルモノ何十万ナルヲ知ラズ。然モ流言蜚語ハ各所ニ起リ、人心甚ダ陶々タリ。殊ニ夜ニ入レバ電燈ハ全ク消ヘ、ソノ間各自ノ自警団ハ抜刀ヲ携フルモノアリ。東ノ

 空ハ昨夜ト仝ジク紅ヲ呈シ、ソノ不安、ソノ物議力、トテモ話シニナラズ。之ノ朝鮮人百六十名ヲ蕨町ニ送ル。

九月四日(火)

 避難民ノ来襲ハ昨日ニ仝ジ。鮮人ニシテ入リ込モノ又多シ。警察□□既ニ数十名ナリ。鉄橋ハ今日ノ夕方開通ス。今、赤羽工兵隊ヨリ兵七名来ル。十時半頃、川口警察分署群衆ニ襲ハル。

九月五日(水)

 汽車開通ノタメ漸ク人ノ交通ハ減ジタルモ、富士館、卓三館、高校、劇場等ニハ尚避難民ノ充満セリ。不安ハ未ダ一掃サレス、鮮人逆殺ノ声ハシキリニ聞ユ。

 三さんヲ伊香保ニ送リ、当地ノ情況ヲ報セシム。

九月六日(木)

 川口町ニ戒厳令布カレ、第七聯隊将校以下四十余名来ル。川口高

  校ニ駐スル。

 夜中十一時頃、三さんとたい子、伊香保ヨリ帰ル。

九月七日(金)

 漸ク電燈モツキ、汽車モ日暮里ヨリ開通セシヲ以テ、町モ追々平静ニ赴クニ至レリ。然カモ吾等ハ連日横田宅ニ集マリテ□警ヲナスナリ。