干葉治平(1921年~1991年)、本名は堀川治平という。1921年、田沢寺の在る秋田県仙北市に生まれた。昭和15(1940)年、秋田工業高校電気課を卒業後、南満州工業専門学校を卒業、旧南満州鉄道科学研究所に入社し、現地で召集された。

敗戦後、復員して田沢村に帰農した。後に東北電力に勤務し、傍ら1946年「月刊さきがけ」の懸賞作に応募し、「蕨根を掘る人々」が一等入選、そして1947年には「秋田文学」を創刊した。

主として山村に取材した農民文学作品を書き、1955年第1回地上文学賞、1966年「秋田文学」に発表した小説「虜愁記」で第54回直木賞を受けた。中国で敗戦を迎え、捕虜として洞庭湖の湖畔湖南省岳州の村に送られた日本兵と中国人達の「民族同士の根強い不信感、憎悪と闘い人間的な信頼を回復」していく物語である。

戦後11年経った1956年に自費出版した「田沢湖風物誌・藁田沢のほとり」の文で田沢湖畔の姫観音像の慰霊祭、除幕式の事が文学的表現者としての感慨を込めて書かれている。

「藁田沢のほとりで、発電のための導水路をつくるトンネル工事があつた頃・山すそには朝鮮人の土工たちを収容する飯場や長屋がたくさんあつたものである。ハツパの音が毎日湖水をゆるがしていた。

その頃、タ方になつてハツパの音もしづまりもののかげがおぼろになるころ、ある鮮人の土工が藁田沢の入江の岸辺を通ると草むらの中を幻のような美しい女の人が見え隠れしながら通つてゆくのをみた。

男は、どうもタツコひめではないかと気に病んで仲聞に話していたが、間もなくハツパに打たれて死んでしまつたということである。

湖水の神聖さをけがされてゆくのを悲しく思つてタツコひめが岸べをさまようのだろう。タツコひめをみるものは死ぬのだと村人は噂しあつたものである。

工事が終つてから藁田沢の岸べにタツコひめを慰める姫観音像が建てられ、工事の犠牲者の慰霊祭と観音さまの除幕式がおこなわれた。

あれから二十年近いとしつきが流れ、訪ねてくる人もない藁田沢の岸べはーめんすすき野である。導水路の水音と波音をききながら、みほとけの面相はもの思はしげに湖心に向けられているのである。」

1999年1月の事、田沢湖町での新年名刺交換会出席の帰りに、わらび座の茶谷十六氏を訪ねた所、この著作の存在を知らされた。

私は急ぎ田沢湖町町立図書館を訪れて、その文を確認した。それまで30数年間、田沢湖では誰一人として、この文の所在を教えてくれる人はいなかったのだから不幸であった。

姫観音像の建立は、田沢湖発電の工事にまつわる朝鮮人や日本人労働者の犠牲を慰霊する為の物である事を証明した唯一の文であった。

著作によると地元では姫観音は慰霊碑である事は周知の事実であった事が判る。知らぬが仏というという事であろうが、史実を隠蔽しての誹詩中傷を受けて気の重い遠回りしての歳月を過ごしたが、母校秋田工業高校の先輩である千葉治平の文で私は救われ名誉『回復をしたのである。

千葉治平は1991年盛岡タイムス刊「南部牛方ぶし」が絶筆となった。