アンニョンハセヨ(にんにちは) 10年前、私が館山と縁をもつようになったのは、高校時代 一緒に美術を学んだ友人の富樫研二君が館山に住んでいて、「NPO法人安房文化遺産フオーラム」を紹介してくれたからです。

私は生まれたのが1939年、 昭和14年、東大阪市で生まれました。終戦を迎えたのは6歳のとき。だから少し戦争を知っています。生まれた年はどういう年であるか、ヒトラーがポーランドへ進出して、第2次世界大戦 が勃発した年です。日本では中国と戦争をしていた。徴用法が施行されそして韓国・朝鮮の人びとに対して、創氏改名、本名を使ってはいけない、日本人の名前に変えなさい、という法律が施行された年です。だから私は生まれたときから朝鮮の名前をつけることはできませんでした。

在日76年の生活、普通の方達の2倍3倍韓国との往来をして、 語り尽くせぬ二つの祖国、二つの故郷の話があります。その中からーつに絞ってお話します。

田沢湖の姫観音の事です。

東大阪で生まれ、6 カ月後に秋田県の田沢湖、角館、今でいう仙北市に移りました。当時、田沢湖をダムと看做して周辺に発電所を建設しておりました。国策です。戦争のさなかです。父はその工事の労働者として移り住みました。

田沢湖の湖畔に辰子像という銅像があります。全身金粉を塗っ た観光の為の像でえ舟越保武という芸大の先生がつくられた彫刻です。

田沢湖には辰子姫の伝説があります。辰子姫はその絶世の美し さを永遠に保ちたいと神に祈ったのです。神様は、人間はそんな願いをもってはいけないと、龍に変身をさせて田沢湖の守り神にしたという伝説です。

その辰子姫の銅像の対岸に、姫観音という石造の像が建立されているんです。何時建ったのか、1939年11月です。これは私の生まれた年と月です。彫刻を造った方は、秋田県湯沢市出身の八柳五兵衛という人で、8代目を継いでいる人です。その時代、 日本の彫刻界では著名な仏像彫刻家で鎌倉の長谷観音の観音菩薩像、大阪の野崎観音の慈母観音像も八柳さんの作品です。

田沢湖の姫観音は戦後、草に埋もれてそこに分け入って入ることができませんでした。建立された後、戦後はほったらかしになっていたんです。それが1981年になって田沢湖町(当時、現仙北市)が観光名所にしようということで、草を刈ったところ観音様が現われた。そして市民が集まって、田沢湖で投身自殺すーる人が多いから、その霊を慰めよう。それから田沢湖にはクニマスという天然記念物に値する魚、田沢湖の固有種だったが魚が絶滅した。その絶滅したクニマスの霊と辰子姫の霊を祀るという立看板 を町が立てたんです。最近になって富士の西湖に、そのクニマス が棲んでいることをさかなクン氏が発表していますね。

僕は、その立て看板に対して異和感を唱えたんです。それは間違いです。中国と戦争をしていた昭和12年、13年、ダムや発電所建設の為に強制動員された朝鮮人労働者がいて、たくさんの犠牲者が出たんです。もちろん日本人も亡くなりました。その霊を慰めるために 1939年・昭和14年11月、私が生まれたその年・月に建立されたのです。
私の住んでいた家の真裏に東源寺という寺があって、そこに犠牲者の無縁の墓地があったんです。私の家はとても貧しかったのですが、正月やお盆、節句などときは、必ず家でつくったご馳走を墓地にある名前もない石ころに、供えておいでと言われて、小学4年生のころからずっと母親の言いつけに従いました。母に何故供えるの?と聞くと、朝鮮人が発電所工事で亡くなって無縁の仏さんが葬られているからだと教わりました。

小さいながらなんてかわいそうなんだろうと思いながら育ちました。高校を卒業して、社会に出て、事業を起こして、そのうち生活にも余裕ができました。それでも頭から離れなかったのは、その無縁仏でした。

在日の絵を集めて田沢湖に美術館を作ろうとした話です。

小学校の頃から絵を描くのが好きでした。先生も素晴らしい先生で、あこがれた先生でした。絵描きになろうという夢を描きま した。在日朝鮮人には日本社会の中では生活の基盤を作る夢は当時、叶う事はありませんでした。それでも私は神の恵みなのか仏の恵みなのか、この社会で生きていくための糧をつかみました。 私は絵描きになれない、そして夢は破れたけれど、私たちの同胞たちが絵を描いて生活をするということは大変だから、支えになろう。私は在日の朝鮮人、韓国人の絵を集める事にしました。

集めて何をするのか。田沢湖の姫観音が建立されている付近に、 無縁の仏様たちを慰霊するための祈りの美術館をつくろう。というとてつもないことを、夢ではなくて実際に事を起こしました。 私に対して田沢湖町は、「河さん、あなたは本当にヒューマニズムに溢れている。非常に感動した。その美術館を共に造りましょ う。」ということになったのです。嬉しかったです。土地も買いました。設計もしました。作品も集めました。全生命をかけてやりました。

ところが、日韓条約の不備というか、今も慰安婦の問題とか、強制連行、ヒロシマ・ナガサキの原爆の被害者、そういう方々の戦後保障ができていない。それが結局日本と韓国の外交問題になりました。友好的に日韓関係は進んでいたのですが、戦後補償問題とそれに輪をかけて歴史認識による教科書問題が重なって、日韓間の問題がこじれました。そうなると田沢湖町は財政的問題との理由で、すっと引いてしまった。莫大な投資をして、莫大な準備をして、莫大な人生をかけたのに、私はあっさりと捨てられました。

李方子様との出会いについて語りましょう。

1982年、日本橋三越でチャリティーバザーを開催しておられた、韓国の李王朝の李垠(イ・ウン)殿下の妃・李方子様にお会 いしました。李垠殿下は11歳のとき伊藤博文によって日本に連れて来られた方です。1970年に亡くなられました。

1963年に李垠殿下と李方子妃殿下は朴正照大統領の計らい で韓国へ帰る事が出来ました。亡くなられた李堰殿下の後を受けて社会福祉活動、慈善活動をなさっているというニュースを読み、 1974年、李方子妃殿下を激励しようと韓国へ行き、ソウルでお会いしました。私の初め韓国訪問でした。1982年のチャリティー開催の際、1974年にお会いした時の縁で私は通訳や接待でお手伝いさせていただきました。そこで「あなたは何をしている方ですか」と聞かれたものですから、「私は田沢湖畔に慰霊の為の美術館を造る事に邁進しています。」 という話をしました。

それから5年くらいしてから、李方子妃殿下はご病気で臥せっ ているというニュースを見まして、お見舞いにソウルへ行き、お会いしました。そしたら「河さん、あなたは美術館を造ると言ったけれど、どうなった?」と聞かれて、びっくりしました。その時は、まだ田沢湖での美術館建設の話は壊れていなかったんです。そしたら「河さん、私一筆書いてあげるわよ、美術館の名前私が 付けてあげるわよ」と言って書いてくださったのが、「田沢湖祈りの美術館」の揮毫でした。しかし、その後に田沢湖での美術館計画の話は壊れます。

父母の故郷霊巌について話します。

私の父母の故郷は、全羅南道の霊巌(ヨンアム)といいます。館山市の四面石塔がある大巌院を創建し、32世知恩院の上人になられたのが霊巌上人ですね。

霊巌には道岬寺(トガプサ)というお寺があります。霊巌の名刹です。1300 年以上の歴史を持つ古いお寺です。道岬寺に観音菩薩の星茶羅があったんです。それが知恩院にあるんです。それは400年くらい前、江戸時代に、霊巌上人が持って来たのではなかろうかと私は考えています。私の勘ですがどうでしょう。 地元では加藤清正軍が略奪したと言われているのです。

404年に応神天皇が百済の王様に賢人を求めた。招請に応じて日本に渡来したのが霊巌出身の王仁(わに)博士で、日本に千字文をもたらした人です。このような歴史的つながりが、在日二世 の河正雄の誇りになっているわけです。戦後は王仁博士の名は教科書はじめ日本の社会から消えて、尊敬の念はどこかに置き去りになって忘れ去られてしまいました。ですが恩恵は不滅なのです。

私在日二世の河正雄は日本で生まれて、日本の教育は受けているけれども、自分の存在や精神はそうした歴史の誇りの上に立っ ている。そう考えていただけたらありがたいと思います。

田沢寺(でんたくじ)の慰霊碑と慰霊祭について話します。

さて話は姫観音に戻ります。看板の記述について違うということに対して、「売名行為」「でっち上げ」「みんな平和に暮らし ているのになんで波風を立てる事を言うのか」と攻撃されました。 人格も何もありませんでした。一番信頼していた友入や同級生、先生までが、「お前何しにこの田沢湖へ来たんだ」と言われまし た。

姫観音は田沢湖周辺め国策の工事に携わった韓国人、朝鮮人徴用工や日本人達の犠牲者の慰霊碑として建立されたと僕は考えていた訳です。しかし、その事を記した記録がない。厚生省(当時) や秋田県の調査でも朝鮮人の徴用工の記録は見つからなかった。 中傷の為にショックを受け、私は夢遊病者の様な状態になり起き上がる事が出来ませんでした。

そこへ横手の十文字町の西成町長さんから電話がかかってきて、「河さん、公文書が出てきたよ」といってFAXで70枚くらい送っ てもらいました。何ケ月も立ち上がれなかった私は、ばっと起き上がり嘘の様に病気は治りました。

田沢湖の近くに田沢寺というお寺があります。その寺に無縁仏が葬られているという事が判りました。そこに慰霊碑を建て、1990年から慰霊祭を行なっています。今年は10 月12 日第1 1回目の慰霊祭を行ないます。

「その時の遺骨、無縁仏はどうなさいましたか。」と住職さんに聞いた所、「私の父の遺骨と共に埋葬しました。」というのです。こんな美しい話、こんなありがたい話があるのでしょうか。 感動しました。歴史は不幸だったけれど、その後の心の営みありがたいですね。

映画「赤い鯨と白い蛇」を観て感じ入りました。

田沢湖町、今は仙北市ですが私の同級生や先生、市長さんはじ めたくさんの方に慰霊に来ていただいています。今日の午前中 「赤い鯨と白い蛇」の上映がありました。その映画のメッセージ は出征する兵士が「戦場に行った私たちを忘れないでくれ」と言い残す。それに対し香川京子さんは「それを忘れたら二度死ぬことになる」と語る。

田沢寺に和られている無縁仏も同じです。忘れてはなりません。 忘れることは悪です。戦争にいい戦争も、悪い戦争もありません。 戦争は罪悪です。戦争を経験した人は皆僕と同じ事を言います。

まるで戦争を経験した様に、大それた事を言いました。私の戦争体験は6歳のとき、大阪での戦争末期です。B29が来る、焼夷弾が落下する。空襲に備えて、町内会で防火訓練をしました。 6歳でしたが大人に交じりバケツリレーのお手伝いをしました。 竹やりの練習もしました。

 同じ長屋に住んでいた同い年の子がいつも私の家の前で戸が開くのを待っていて、戸を開けると大きな声で「朝鮮人、朝鮮人」 と囃し立てました。余り腹がたったので、竹幕で叩いてしまい枝先が当たって血が出てしまいました。それを見て母は怒って「謝って来い」と言いました。「俺は何も悪くない」と主張しましたが、 しょうがなく謝りに行きました。その際、その子の母親が「正雄さん、家の子が悪いんだから、怪我もこれくらいでよかった。謝 らなくていいよ」そう言って許してくれたんですよ。その時、正直に自分はバカだなと反省しました。その子は終戦まもなく栄養失調で亡くなりました。

映画「赤い鯨と白い蛇」の中で兵隊さんは「私は戦争のために正しい生き方を出来なかった。残されたみなさんは正しい生き方 をしてください」というメッセージを残して行かれたんです。主演の香川京子さんはその約東を守るために、正しい生き方をすると決意をし、それを実行した。そういう映画でした。

政治家は権力を持ち、お金持ちは財カを持っている。力を誇示したがる。力で勝負しては駄目です。力で勝負したから日本はこういう事になったんでしょう。韓国もそうです。人類の歴史はみんなそうでしよう。では何で勝負するのか、

心ですよ。相手を良く理解しなくては駄目です。相手の立場にならなければ駄目です。そうすることで自分の立場や主張が理解してもらえる。お互いに譲り合うということです。それには高度な知識ではなくて知恵が必要です。

私は美術家です。美術は人の魂を揺り動かします。絵は何も語りませんが絵の中にはその時代、その時代に生きた作家たちのメッセージが込められています。私が在日の作家の絵を集め始めたのも、田沢湖に「祈りの美術館」をつくるためでした。歴史、その時代を生きた人達の発するメッセージを風化させないため、作家 はいなくなっても作品は残っている。芸術は永遠である、という言葉がありますね。魂は残っている。時代はどんなに経っても、その時代を生きた歴史を美術作品からしっかり学ぶことが出来るのです。

山本作兵衛は筑豊の炭鉱夫として一生を炭鉱で過した方です。 彼が絵日記に描いたものが、世界記臆遺産になりました。

河正雄がコレクションした在日の作家達の絵も、その次元のものなのです。

世界はひとつです、境界はありません、民族の違いもありません。その時代をともに生きたという証言、記録、史料などは文化遺産なのです。美術作品の偉大性を示すのが河正雄コレクション になるのではないか、と私は自負しています。そういう具合に世の中の流れは高まり文化の時代に入っているのです。

田沢湖祈りの美術館で展示出来なかった私のコレクションが、 25歳から始めてから53年継続して集めた作品群は、光州市立美術館を始めとする韓国の美術館、博物館などに10箇所、1万余点寄贈し、今は国内で展示され巡回しています。ありがたい事に私の父母の故郷霊巌では郡立の「河正雄美術館」が設立されております。二年後になりますが光州事件のあった光州市にも「河正雄美術館jが創設されることになっています。その意議は、在日の生き様を顕彰することだけでなく、美術が持つ意味が今価値として認められつつあるからと思います。大きくいえば、在日の人たちは虐げられ、差別を受けてきています。そうした人権にか かわるものという視点で、韓国文化の発展に願いを込めています。

今日こうして皆様方にお話できたことを光栄に思います。最後 までお聞きいただいたことに感謝申し上げます。