ナザレ園

ナザレはキリストの聖地。父ヨセフと母マリアの故郷である。その名を冠した施設が日本と韓国にある。

茨城県那珂郡瓜連町の社会福祉法人ナザレ園 (会長:菊地政一)と韓国慶州市九政洞の日本人妻帰国者寮ナザレ園 (理事長:金龍成)である。菊地会長は宣教師で、韓国福祉関係の第一人者金理事長とは、日韓福祉関係者の交流がもとでかねてより親交があった。

1972年、菊地会長は韓国大田の教導所(刑務所)で、2人の日本女性との出会いが縁となり、日本人妻の保護施設「帰国者寮ナザレ園」を慶州市に創設したのだ。

菊地会長は金理事長の物心両面の協力を得た。金理事長が主宰していた明和会財団の中に帰国者寮ナザレ園を組入れ、財団の名をナザレ園に変えたのである。

帰国者寮ナザレ園は、1969年、日本国が「在韓日本人永住帰国希望者とその子ら」のために帰国援助に乗りだしたが、期間中に落ちこぼれた人々の世話をする役割を負ったものである。

日本のナザレ園創立は、1949(昭和24)年で、総合福祉法人である。韓国のナザレ園は、韓国の土になるつもりの日本人妻の駆けこみ寺といわれる施設である。

両親や家族の反対を押し切った恋の逃避行の末に来た人、強制労働や微用などで日本に渡った朝鮮人と結ばれて、解放後夫の祖国へ来た人、韓国で日本人の夫と行きはぐれた人など、数奇な運命の道を歩んだ人々が最後に辿り着いた安住の施設なのである。

日韓いずれの国にも故郷を持たず、身寄りがない日本人妻の収容施設を「ナザレ園」と名づけたことは、救いがあって意味深い縁であると思う。

1993 (平成5)年正月、明けてまもなくのこと、 「田沢湖町よい心の会」(以下会という)会長よりFAXが届いた。

「河正雄氏の故郷と「ギャラリ21』を訪ねる韓国の旅」を会が決定したので、スケジュールを春に組んでほしいとの内容であった。会では以前から、 韓国訪問の旅をしようという話が持ち上がっていたからだ。

私は、「せっかくの韓国訪問だから、初めての方も多いので、新羅の古都慶州を訪ねてほしい。そして会の性格からいっても、社会的な意味のある訪問であってほしい。

慶州には、ナザレ園という日本人妻の収容施設がある。聞くところによれば、秋田県出身の3名の身寄りのない人がここで暮しているという。その1人は田沢湖町の出身者と聞いている。 ぜひその慰問の旅にしてほしい」と提案して、プライベートのことは固持した。

そんな経過を踏んで、「田沢湖町よい心の会慶州ナザレ園慰問の旅」が計画実行された。

会では、1938 (昭和13)年より1940 (同15)年に行なわれた国策による生保内発電所建設に関わる導水路工事犠牲者の、「朝鮮人無縁仏追悼慰霊碑」を建立し、その追悼式を主催執行してきた。そして田沢湖畔に建つ姫観音像建立趣意書の発見により、姫観音像はその時の工事の犠牲者の慰霊碑であることがわかり、田沢寺の無縁仏とあわせて、追悼慰霊を毎年行なっている、善良なるよい心の人々の集まりである。

世界広しといえども、このように素直で純朴にして汚れない無垢なる会の名は見当たらない。

忘れ去った遠い昔のよき心、 大事な宝物を取りもどしたように、人々の心を慰めほのぼのとさせる。未来に希望を灯しているヒューマニズムの会である。

1973 (昭和48)年3月1日、金龍成理事長が、 我が東京王仁ライオンズクラブ (当時は結成前の首都ライオンズクラブの時代)を訪問した際の記録がある。日本人妻帰国者寮ナザレ園が認可され、収容を開始してまもなくのことである。

困難な事業を訴え、支援要請の訪問だったという。私はそんな記憶があったため、会の間の旅を企画したのである。

韓国第二の都市釜山は、日本との縁がとりわけ深い港湾都市である。日本と大陸を結ぶ歴史的な玄関口である。終戦後、日本在住の500万以上の朝鮮人がこの港から帰国した。また朝鮮半島内に居た百数十万の日本人が、帰国するためこの港に集結した。

幼時の私も、この港から妹と一緒に母に手を繋がれ、関釜連絡船に乗って日本に渡った。忘れがたい思い出の都市である。母は「生きるか死ぬかの涙の連絡船だった」と、当時を振り返っては涙した。

私は釜山の金海空港で、会の一行を出迎えた。戦前、故郷の霊巌から田沢湖町までたどり着くには、1週間から10日かかったものだと母はよく語った。

いま一行は田沢湖町を発って、7時間後のその日に到着したのだから、今昔の想いひとしおである。懐かしい小学校時代の倉橋清徳、梁田イク先生、中学校時代の恩師、中島昭二郎玲子御夫妻の顔が見えた。同期生の渡辺正太郎君夫妻、秋田時代の懐かしい馴染みの町の方々14名。

会った途端、私は秋田の故郷に舞い戻った気持ちになったから不思議だ。秋田訛りの会話のせいなのだろうか。

慶州は爽やかな初夏を迎えたようであった。朝霧のなかに浮かんだ慶州の山々は幻想的であった名残りの桜も散り始め、柔らかに若葉が芽吹いて華やいでいる。ケナリ (レンギョウ)の黄金色と桃のピンクで彩られたコントラストは、一幅の絵をみるように美しい。

十数年程前にさかのぼる。体調を崩して苦しんでいた時だ。1人慶州を訪ね、のんびりと野山を歩いたことがあった。まだ仏国寺周辺には観光ホテルもなく、観光旅館と称する施設が2、3軒という寂しい時代であった。今想えば、その時の静けさとのんびりとした古都の印象が強く脳裏に甦る(しかし当時、長期滞在の男の一人旅は、怪訝な目でみられ不審がられたものだった)。

一番の想い出は、早朝吐含山石窟庵の日の出を拝むために出掛け、東海の水平線から昇る太陽を礼拝した時の感動である。

国宝の釈迦如来座像を祭っている石室が、眩いばかりに輝く瞬間は神々しく、この世のものとは思えなかった。まさに天上にも昇る思いをしたものだった。

今では環境や歩道もよく整備されてはいるが、座像を安置してある石室はガラスで覆われ、その周りにある十一面観音菩薩、十大弟子像などを拝することが出来ない。保存のためやむを得ぬこととはいえ残念である。慶州での散策は、有難い仏様との出会いであり、加護を受けた旅だった。病み疲れた身体と精神を回復するための、孤独な日々を過ごした忘れることのできない古都である。

ナザレ園は仏国寺行きの道路から入り、施設は静かな田園のなかにたたずんでいた。道すがら杖をついた2人の老婆に出会う。

「こんにちは」と挨拶したら、日本語で「こんにちは」と答えが返ってきた。施設に入らず、在宅援助金での生活をしている方々であった。その1人に、「ここが私の家ですよ。どうぞお入り下さい」と誘われた。

庭はこぎれいで、見事に剪定された盆栽が数十鉢、整然と棚に並べられ、日本の庭に入ったような錯覚を覚えた。

「庭いじりと植木が趣味で、楽しんでいます」と、自慢げに愛らしい笑顔をみせた。 上品で趣味の良さが目の輝きでわかる。しかし老いの深さと顔の皺が、その過去の労苦を物語っていた。

ナザレ園では、病気の金理事長に変わって、常務理事の宋美虎女史が全てを取り仕切っていた。ナザレ園の後継者といわれる方だ。 佐藤勇一会長が、支援金と秋田の土産や酒など心尽くしの品を、田沢湖町長からの支援金とあわせて手渡した。その様子を地元のテレビ局が撮影し、新聞記者も取材していた。宋女史が険しい顔で私にいった。

「報道のテレビ撮影は、ニュースとして瞬間的に流れるからいいですが、新聞記事は残るからまずいのです。日本人が日本人妻を慰問し見舞うのは当たり前のことで、何も記事にすることはないと、いまだに批判する人が多いから困るのです」。私はわだかまりが燻っている現実を知って、複雑な思いにかられた。

その夜、MBC (文化放送) TVは、訪問の様子をニュースとして報道した。会の活動を社会的意義があると認めてのことと、私は理解している。

宋女史は、慶州ナザレ園の沿革を話された。第二次世界大戦中に派生した、身寄りのない心身障害者、孤独老齢者、および困窮している帰国希望者の永年帰国便宜と、老弱者の生活保護をしている国内唯一の日本人妻保護施設であること。

1972年10月、民間事業として日韓両国の篤志家の支援を中心に創設され、この間、日本への帰国希望者140余人の帰国を実現させ、帰国意思のない孤独老齢者の生活保護をしていること。

約80名の国内居住日本人妻のなかで困窮している100世帯に、在宅援助金を送金していること。

そして今一番問題になっていることは、老齢化が進んで老人ホーム化の傾向があることであり、特に寝たきりの老人が10人もおり、その面倒をみることが大きな問題で、これからも増える傾向にあること等々、一つ一つ心にしみる話であった。

国の人たちはみな死んだら魂だけでも日本に帰りたいと願っている、という話には、共感以上の深い感銘を受けずにはいられなかった。

園には現在31名が収容されているが、田沢湖町出身のFさんは数年前に亡くなられ、秋田県関係者では河辺町のSさん、角館町のTさんが元気でいると話された。私はFさんが元気でおられるものとばかり思っていたので、もっと早く慰間ができなかったことを悔んだ。
 宋女史の案内で施設を見学した。居室はベッドとオンドルの部屋があって、どの部屋も夢誘うように花や飾り物でコーデネイトされ、清潔そのもの。整然と整理され、 衛生には特に神経がはらわれていることが、消毒の臭いから察せられる。

ある部屋には、寝たきりの方が2人、身じろぎもせず静かに眠っていた。私はその姿を見たとき、これが人間の最後の姿かと、そして人間の幸せとはいったい何なのだろうかとの考えがよぎり、それを正視することができなかった。

化粧室、洗面所、浴室は広々として余裕があり、寝たきりの人も入浴ができる最新の設備と手摺が施され、安全面での気配りも大変よく、日本の福祉施設にもひけをとらぬほどの充実した設備をみて感嘆し、温かく保護されていることに感激した。

24人の園の方々が、集会場に集まって私達を迎えてくれた。 私は、このような場合どんな挨拶をすればいいのか考えあぐねた。とまどうような雰囲気が会場にあったためだ。

私は「本当に永い間、御苦労様でした。 お健やかでしょうか」と、1人1人肩を抱くようにして挨拶した。抱いた肩の骨はか細く弱々しく、その感触が掌からいまだに消えない。

河辺町のSさんは、ふくよかな表情で笑顔がとてもあどけなく可愛かった。角館町のTさんは耳が遠く、小柄で体が縮こまっていた。「角館のどこの町に住んでいらしたんですか」と聞いたら、「横町です」とはにかみながら懐かしそうに答えた。

わらび座の茶谷十六君が、「秋田の民謡、長持唄を唄います」といって立ちあがった。

『蝶よナーヨー、花とヨー、ハアヤレヤレ、育てた娘、今日はナーヨー、晴れてのヨー ……オヤお嫁入りダヨー』

園の一人が、「お嫁入りの時の歌ですね」と頬を染めて聞いた。誰もが若く幸せだった頃を思い出してか、表情が和らいだ。

中島先生がハンカチと紐を取り出して手品を始めた。「種もしかけもありませんよ。 騙されないようによくみてください」。先生の手先に全員の目が集中する。その時、どの目も一つの心で結ばれているようにみえた。

そして園の人々が歓迎の歌を歌った。「茶摘み」である。

「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が繁る……」

日本の初夏を想い、そして望郷の想いを渾身こめて歌う。感傷をとおり越して、切々たるその心情が胸に迫る。

「それでは皆さんナザレの歌を歌いましょう」。

『一日一日が流れ行き ナザレの庭に初夏の風
ひとふさ生きる藤の花 誰かに語る喜びを
古木に蝉の歌声も 讃美に聞こゆる夏の庭
恵みに生きる我々を育くむ ナザレの夕空よ

身の健やかを感謝して 讃美で進む友と
我老いゆく身をば主よ 共に強く明く歩み行かむ』

お互いに支えあい労りあい、そして励ましあい誓いあっている。私は切ない感情が爆発寸前になり、涙腺が破裂しそうになった。周りからは嗚咽の声が聞こえ、皆、目頭を抑えている。

宋女史の、 「皆さんにお別れをしましょう。 お見送りをしましょう」という言葉に、園の人々が一斉に立ち上がって、追い縋るように手を振り、 田端義雄の「別れ船」を歌い始めた。

『名残りつきない果てしない 別れ出船のドラが鳴る

思い直してあきらめて 夢は潮路に捨てて行く』

会の一行はまるで、逃げるかのように集会場を出ていった。振り向いて手を振る人は誰もいない。できないのだ。皆、両手で顔を覆っているために。

あの歌が 「日本へ帰りたい。日本へ連れて行って欲しい」と絶唱しているように追ってきたからだ。会うは別れの始めとはいうけれど、この別れは胸が締め付けられるほど切なく、辛かった。いつまでもいつまでも後ろ髪を引かれたこの歌声は、この耳から永遠に消えはしないだろう。

園を出てバスガイドの鄭京淑さんが目を真っ赤にして、「ここの施設にいる方々は 本当に恵まれ、韓国人がいかに日本人を大事にしているかということがわかるでしょう。しかし従軍慰安婦の方々は、若い青春を踏みにじられ、心に大きな傷を負った一生を過ごしている。日本政府がその方々に補償も謝罪もしないのは、余りにも無慈悲であるとは思わないですか」と訴えた。

両国間には「心の痛み」に対する戦後処理問題が未解決であり、そのことが重く心に残った。

帰路、宋女史が熱っぽく語った言葉が、胸から離れない。
「あなたが僑胞だからいうのですが、どんな困難があろうと私達がしっかりと日本人妻を守るのは、在日同胞70万人の基本的人権を守ることと直接かかわりがあるのです。

日本政府に在日同胞の権益を守ってもらうためにも、私達は最後の1人まで何不自由のないように、日本人妻を守らなければならないのです」。

私は宋女史の魂に触れ我が姿勢を正し、また慈悲にあふれた神に仕える人の包容力に、畏敬の念を深くした。

宋女史はまたこうも言った。「お金や物質的な援助が問題ではないのです。一番嬉しいのは修学旅行の学生さんの慰問です。明るく歌って帰りますが、この現実を知ってもらってこそ、両国の親善友好があるのです。この子らがまた訪れることに希望を持つのです」。

日韓両国は有史以来、長く友好・親善関係を続けてきた。しかし両国間に不幸な一時期があったのも事実である。その不幸を精算するためにも、新時代の若人達に未来への希望を託したい。そして多くの人々に光明を与えたまえと祈る。

上坂冬子著「慶州ナザレ園忘れられた日本人妻たち」が中央公論社より発刊されたことにより、世論を喚起させることとなった。

私もその本によって、慶州ナザレの実態を詳しく知るようになった。多くの人々もまた、関心を持つようになったのだ。

私は読みながら、自然に流れ出る涙をおさえることができなかった。心を打つ真摯な人間ドラマに共感を抱き、苦節の境涯を思い涙した。いまその現実がこの目の前にあり、この世の出来事であることに胸を抉られ、切なくやるせなかった。しばし放心状態となったほどだ。

「人間はごはんだけで生きられますか。自尊心が傷つけられたんじゃ、生きている甲斐がないじゃないですか」。

「考えてみれば、よくも今日まで生きてきたものだと思います。でも私達がこうして生きてこられたのは日本政府のおかげでも、韓国政府のおかげでもなく、私たちと同じように苦しい目にあいながら親切にしてくれたこの国の人たちのおかげですよ」と語るくだりに、私の共感は増幅され、温かな人間の輝きに目を見晴らされるのである。

「“朝鮮人”といわれた韓国人の夫とともにこの国に渡って来てくれた妻たちは、我々と同じ別を経験した人たちです。 じっとしていれば優位にあったものを、親から勘当され世間からは白い眼でみられながらも、はるばる海を越えて被差別側にまわってきてくれた人たちです。

この“愛の勝利者”をどうして私たちがないがしろにできましょう。あの時代に一等国といわれた国から、被差別側に身を寄せてきた妻たちを、いまここでいい加減に扱うようなことがあれば、我々の体面がすたります。私としては、せめてこの妻たち一代だけでも責任をもって、手厚くもてなすべきだと考えているのです。

人が人を差別するのは勿論のこと、国が国を差別するということがどれほど酷いものか、知りつくしているからこそ、私たちは孤老の日本人妻たちに安らぎの場を与えたいのです」という金龍成理事長の言葉が胸を突く。

だが前途は洋々たるものではないようだ。扶助の基盤は献金に頼ってきたが、十数年を経て曲り角にきている。善意に恵まれながらも、運営基盤は弱体で見通しは明るくないのだ。

福祉こそ文化国家、先進国家の鏡というが、その実態は、気の遠くなるようなありさまである。

支えるのは国家なのか国民なのか、 人類の互恵平等・相互扶助の精神が問われているようだ。