河正雄さんが寄贈したレリーフとプレート 木曽町の「陳昌鉱ヴァイオリン研究所」跡地に顕彰ブロンズレリーフとプレートが設置され21日、関係者にお披露目された。陳さんと親交の深かった在日同胞2世、河正雄さんが寄贈した。作者は韓国在住の大学教授、朴柄照氏。プレートには陳さんの友人で木曽福島で耐乏生活を送っていた当時をよく知る俳人、丸山荘水氏の寄せた「冬たんぽぽ/ 小さな家に/小さな灯」 という1句を刻んだ。貧しさに耐えながら、幸せな新婚生活を送った時代をほうふつさせる。李南伊夫人によれば、住まいは正式な建築許可を取っていなかったため、水道が引かれていなかった。飲料水は近くの瀬澱用水の水を使ったという。

追悼

慎んで陳昌鉱先生の御霊に追悼の言葉を述べます。

2012年5月6日の事、木曽町で陳先生の顕彰碑を建立する企画があるので、相談に乗って欲しいと奥様の李南伊さんから言われ、お見舞い方々訪問しました。

陳先生は「自分のしたい事は全てした。思い残す事は無い。幸せで感動的な人生であった。感謝している。」と振り絞る様に、繰り返し笑顔で述べられました。足跡に大輪の花を咲かせ、豊かな人生を送られた先人の境地を見た気がしました。

「顕彰碑建立を年末までとは言わずに、7月末日までには完成させましょう。除幕式には先生をお迎えしたいです。それまで心安らかにいらして下さい。」先生は領かれ、とても喜んで下さいました。陳先生は、それから数日後に旅立たれてしまわれ、余りの儚さに無念という言葉でしか言い表せません。

1978年、在日韓国人文化芸術協会設立の為の、実行委員会の席で陳先生と初めてお目にかかりました。会合終了後、引き合う様に二人が喫茶店に 入りました。時間を忘れて、在日について語り合い、井の中の蛙が大海を知るかの様に視野が広がり深まりました。

その時「ストラディヴァリウスを追い越す、ヴァイオリンを作りたい。」と芽生え、目指した大望の言葉一つーつに、深遠なる意味を込めた夢を語りました。青年の魂を持った情熱、私の理解を超える発想の豊かさに魅了されました。

出会いの日からお別れの日まで、熱が冷める事無く、修練と探求を積み重ねた人生と時代を生きる事が出来た事の幸運を、天に向かって感謝します。「在日というマイノリティーの環境にいたこと。マイノリティーであることをハンディとするのではなく、逆に弾みにして不可能を可能にする力に変えて生きる道を捜す。試練というハードルを乗り越えようと努力し続ければ、天は力を貸してくれる。「貧すれば鈍するという生き方は、私の哲学に反する。在日だからこそ、日本や韓国にない、独自の研ぎ澄まされた感性がある。真似の出来ないものが、認められていくことで、差別という壁を打ち崩していくことが、出来るのではないだろうか。在日をマイナスの遺産と見るのは、余りに一面的すぎる。

我々が変わらなければ、日本も韓国も変わらない。在日を取り巻く諸条件こそ、逆に在日の強みであり源泉である。日本で韓国、朝鮮人として生きるのにも意味があり、日本や韓国を豊かにする、無限の可能性を持っていると思う。

私は日本に来たからこそ、平坦ではなかったが、好きな道を歩くことが出来た。運命が厳しかったからこそ、生きるために執念を燃やし、後ろ向きにならず真剣に生きてきた。在日で生きるには、自分が日本社会に必要な人間であると、思われるようにならなければならない。それには裏付けが必要であり、日本人、韓国人の何倍も努力して、それ以上の資質を備えねばならない。在日の存在を知らせ、見直してもらった事は、幸せである。」

陳先生の人生には「在日だから」という訳でなく、個人的な響きを持って私の心の奥底に突き刺さる前向きの在日感でありました。そこに志と夢を貫き通した在日一世の艱難辛苦の人生から学ぶべき人間性「人間の価値」があります。

私は1993年より今年に至るまで、5次に渡り光州市立美術館に在日同胞作家などの美術作品を寄贈し、メセナ精神で、美術館の育成支援を続けて来ました。

そのニュースを知った陳先生は「在日の快挙だ、誇りである。」と祝意を表してくれました。私は寄贈に当たり光州市に対し、何の条件も付けていなかったのです。そこで市側から、何か条件、要望はないかと問い合わせがありました。

「それならば、無名ではあるが将来有望なる青年作家を育てる青年作家招待展の事業を行ってはどうか。」と提案しましたところ、光州市立美術館の主要行事として、開催する事になりました。

私は陳先生に、その経緯を伝えた所、「私は在日2世としての河正雄の勇志と、祖国に対する奉仕精神に共感する。私もあなたと同じ夢と希望を持って、前途ある青年作家達を育ててみたい。私は慶尚北道出身であるが、木曽福島が第2の故郷なら光州は私の第3の故郷となる。在日のイメージとして光州に永遠に残るでしょう。私のヴァイオリン作品を、河正雄コレクションに寄贈しましょう。」と申し出されました。コレクションの内容と質の向上という意味で、非常にありがたいエール、サポートでありました。

2001年より河正雄青年作家招待展は陳先生寄贈楽器演奏で開幕される

2001年第1回河正雄青年作家招待展は、寄贈された東洋のストラディヴァリウスの名器が奏でる、サラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」の演奏で開幕しました。陳先生は、在日もある意味では自己の存在を捜す、ジプシーの血を持つ彷徨い人。エネルギーが湧くと、この曲を選んだのです。

陳先生は翌2002年にもヴァイオリン、ビオラ、セロの計3点を追加寄贈して下いました。第1ヴァイオリン光州号、第2ヴァイオリン大邸号、ビオラ漢拏号、セロ白頭号と命名されました。寄贈された楽器による、光州市立交響楽団の四重奏(力ルテット)の演奏から始まる、河正雄青年作家招待展の開幕式は、「芸術は国を創り人を創る。国家は芸術に奉仕せよ」とのアンドレ・マルローの言葉、精神で、今年は第12回を迎えます。

「今植える苗木大きく育つ、昔植えた苗木後の大木、名木」光州市立美術館では毎年、青年作家の光ある前途を祝して歴史を刻み歩んでおります。

木曽町の皆様、申珏秀駐日大韓民国大使を迎え、陳先生縁りの貴賓の皆様方と共に、生前の約東を守り顕彰碑除幕式を終え、偲ぶ会を開催出来ました事は、何よりの供養となりました。

図らずも、この木曽福島会館は、2005年陳先生の木曽福島町名誉町民章授章を祝う、祝辞を述べました式場で感慨深いものがあります。

「河正雄さんの言葉の中には良く秋田の事が出ますが、私も同じく頭の中に木曽谷が居座っております。木曽は私の若かりし日の夢と惨めさ、そして悦びと感動が交錯する忘れ得ぬ土地で
す。

それでも、この土地を故郷と呼びたい。喜びよりも、その惨めさが壊かしく今ある原動力の様な気がします。そして、その想い出を大事にしています。」と生前、陳先生は語りました。

そして開物成務(かいぶつせいむ)、「物を開き務めを成す」と書いてくれました。中国の易経にある言葉だそうです。「自分が与えられた運命を恨んではいけない。運命は自分から開くもの。それが自分の務めなのです、夢を持って運命を開きなさい。最善を尽くして夢を実現しなさい。」と道を示されました。

「この世には無駄な物はない。あるものは全て必要な物ばかり。試練も困難も無駄ではない。」陳先生が到達した頂きには、悟りがありました。「生まれし故郷を愛する事の出来る人は、幸せな人である。故郷を離れ、住みし土地を愛する事が出来る人は、良く出来た人だ。世界を全て自分の故郷であると、愛する事の出来る人は、新しい故郷を創世した人である。」という故郷論があります。また「血につながる、人につながる、ことばにつながるふるさとがある」木曽を賛辞する島崎藤村の言葉は陳先生の感懐そのもの、私にも共感、共有する世界であります。

「東洋のストラディヴァリウス」が生まれたルーツが、木曽福島の町にあったこと、陳先生の青春を育んだ自然の偉大さ、そこで営まれた人生の波欄と志向を追及する気高い精神は、天と地がそして人知る厳粛なる、必然のご縁が成せたものであると思います。

日同胞の全てにも繋がる激励があり、ふるさとのありがたさと温かみを感じ優しい気持ちになります。木曽町の皆様に敬意を表し、注いで下さいました愛情に感謝致します。

真剣に、ひたすらに、ひたむきに、ストラディヴァリウスを超えるヴァイオリン製作に命を懸け、コツコツと無心に、雑念、妄念を払い、一途一心に己の務めに打ち込まれた陳先生は、天上に昇られても新たな弦の音色を作り出すべく、安寧に日々を送られている事と思います。心から御冥福をお祈りします。(2012年7月21日木曽福島会館にての名誉町民陳昌鉱先生顕彰碑除幕式及び追悼式典友人代表挨拶文)

陳先先生 木曽福島本町親水公園の顕彰碑序幕 2012.7.21

顕彰碑建立の経緯

2012年5月13日、陳昌鉱先生は亡くなられた。車椅子に座りニコニコと微笑まれながら、私の訪問を喜んで下さった1週間後の事である。陳先生と面談2日後の5月8日、顕彰碑建立の為に田中勝巳木曽町長と会った。「医者は今年いっぱいの余命と話されたといいます。私の目では、この夏 を越せるかどうかでしょう。町当局が企画された顕彰碑建立の話を急ぎましょう。」と促した。

「町には名誉町民が3人いるが、未だ誰も顕彰碑を建立した経緯が無い。これから議会に提案し、費用の事もあるので寄金を町民から募らなければならない。急ぎ企画を進めても来年以降の事になるでしょう。」と田中町長は答えられた。

「町の顕彰碑建立企画を陳先生はとても喜んでおられた。出来れば生前に叶えてあげられれば最高の喜びでしょう。費用の件や町当局が話を進めるに当たって障害になる件は、私が根回しや費用の負担など、一切の責任を持ちますから7月までには建立、陳先生を迎えて除幕式を致しましょう。」と進言した。

私は田中町長の即断を受け、町の石材店に飛んで行った。その石材店には、私のイメージする基礎の自然石が無かったので探して貰う事になった。

数日後、石を見つけたので見て欲しいと連絡があった。それは絶妙な姿のイメージに合う自然石であった。

次は設置場所である。田中町長と三ケ所ほど候補地を廻り、最終的に長福寺山門前と決めた。しかし、後日に本町親水公園に決めましょうと連絡が入ったので了承した。

申珏秀駐日韓国大使と面談し、建立名を大使名で記したい、建立式には参席、除幕をして頂きたいと要請した所、快諾を受けた。

加えて、陳先生が住まわれた居宅の場所に肖像レリーフを設置したいと李南伊さんから要請があったので、急ぎ韓国大田の韓南大学の彫刻家・朴炳煕教授にブロンズ制作をお願いした。

そして友人のヴァイオリニスト・丁讃宇氏に追悼の演奏を依頼して、全てがまとまっていった。その間、町当局とは数々の折衝と打ち合わせを重ねた。これが顕彰碑除幕式と追悼式が7月21日、木曽町で行われた事の経緯である。

私は生前、約東した事を実現出来た事の報告を陳先生にする事が出来、肩の荷を下ろした。

碑には「陳昌鉱ヴァイオリン製作立志の地・壊かしき木曽福島我が青春の夢のあと朝なタなに仰ぎし木曽駒八沢川のせせらぎに夢を見る玉石の輝く日々」と友人・丸山芒水の書で陳昌鉱先生の詩が刻まれた。

陳先生の木曽福島居宅跡に顕彰された肖像レリーフ