経緯

1980年 田沢湖畔白浜に美術館建立用地3000坪購入する。
1985年9月5日 李方子妃により「田沢湖祈りの美術館」の命名揮毫を賜る。
人間国宝呉玉鎮篆刻「田沢湖祈りの美術館」懸板制作する。
1987年 世界的著名な設計家伊丹潤に「田沢湖祈りの美術館」の設計を依頼する。
田沢湖町議会に「田沢湖祈りの美術館」構想を説明する。
敷地と建物、そして美術品の寄贈を表明。以降当局と数回折衝交渉し、美術館運営の市場調査する。
1992年 田沢湖町より美術館計画破棄の通告受ける。
1993年 畏友の直木賞作家・西木正明氏が秋田県に是非残して置きたいと秋田市及び秋田県に打診交渉したが、1995年実現性が無いとの結論。
1993年7月21日 韓国光州広域市の要請で河正雄コレクションを光州市立美術館に寄贈する。
1995年9月 わらび座が受け入れを表明するが1998年3月31日に破棄の通告受ける。

新聞記事

朝日新聞(1996年5月23日)

(1991年 第2次田沢湖町総合発展計画より)

(1998年 美術館建設計画中止の通知)

「流れのままに」李方子 悲運の王妃

光州市立美術館名誉館長 河正雄

ソウル景福宮内の国立古宮博物館にて「純宗皇帝の西北巡幸と英親王 王妃の人生・河正雄寄贈展」(会期2011年11月22日~2012年1月31日)が開かれている。
 2008年、私が駐日韓国大使館韓国文化院に寄贈した李方子王妃の遺品685点が、韓国文化財庁の所管となり3年の調査研究の成果を一部公開したものである。「朝鮮末期の悲運の歴史が手のひらに捕らえられている様だ。」との評で今、韓国で話題となっている。
 寄贈品は韓日併合(1910年)前後の埋もれていた日韓の近代史を埋める記憶遺産であり、その時代を証言する貴重な歴史文化遺産である。この寄贈展が開かれるまでの王妃との御縁を語ろう。

―出会い―

初めて祖国を訪問したのは1974年の春で、今は亡き李方子元王妃(1901~1989)を訪ねたことがあった。李王朝最後の皇太子、英親王李垠殿下が急逝された後、私財を投げ打ってソウルで恵まれない子供達の身体障害者施設明暉園を運営されていた。福祉活動でご苦労していることを知り、楽善斉に慰問に伺ったのである。

日本の皇族であった梨本宮方子妃は、激動の李王朝末期第28代李垠英親王の王妃となられた。皇太子(裕仁昭和天皇)の妃候補に挙がった方子妃は、日鮮融和という日本帝国の政治的陰謀により人質になった、大韓民国の李堤王世子と政略結婚をさせられたと言われる。生涯韓日友好のために尽くされ、韓国の土となった悲運の王妃である。

朴正熙大統領が韓国に王妃を迎えられ、社会福祉活動をしていらした王妃を私は景福宮楽善斉に訪問し初めてお会いした。

その日、運良く、私は七宝や陶磁器のバザーを開催していた方子妃に謁見出来た。私は王妃様という事で気後れしてしまい、近づく事が出来ないでいた。温かく迎えて下さった優しさに心洗われると同時に、大衆の中で献身されている姿に尊敬の念を抱いた。この縁が元になり、1982年の秋に方子妃が、日本橋三越でチャリティー作品展を開催した際、王妃の慈善事業をコーディネイトしていらした山口卓治氏からの依頼で私は通訳、接待のお手伝いをする光栄を頂き、身近くお人柄に接する事が出来た。

作品展会場に皇室から明仁皇太子(平成天皇)と美智子妃殿下、三笠宮、秩父宮両妃殿下、高円宮様がお越し下さった。そして福田赴夫首相も激励に見えられた。美智子妃殿下が方子妃の書画、申相浩氏の壷、郭桂晶氏の工芸作品をそれぞれお買い求められた。その時、私が写した多くのスナップ写真が記憶を鮮明に残している。

同展終了後、私は旧宅であった赤坂プリンスホテルに招待され、方子妃よりねぎらいの言葉をいただいた。そして、そのホテルの敷地内にある日本でのお住まいに案内された。グランドプリンスホテル赤坂の旧館で英国風の洋館であった。そのお住まいは現在、文化財、歴史的建造物として東京都史跡になっている。

方子妃は西欧、アジア各国の王室から李堤殿下との結婚のお祝いでいただいたという絨毯やシャンデリア、寝室の家具やダイニングルームの食器棚にある食器など、新婚時代の懐かしい思い出話を交えながら、頬を紅潮させてインテリアを一点一点、説明して下さった。そして浴室にも案内されて貼られていたタイルまで見せて下さった。

それらの美しさは一級の芸術品であり、それまで私が目にした事のない美の世界であった。方子妃が過ごされた青春の日々が、幸せだった思い出がそこには定着し息づいていた。付き人が私生活の内部まで、この様にお話なさるのは稀であると話され、恐縮した。

幸せだった頃の懐かしい思い出話を聞かせていただき、温もりある人柄に触れた事により、私は王妃に対して母の様な親近感を抱いた。

 「河さんは今、何をされていますか。」と王妃が尋ねられた。「在日韓国、朝鮮人の絵をコレクションしております。終戦末期に徴用で犠牲になられた同胞を慰霊する為に、美術館を秋田県田沢湖畔に建てようと準備しております。」と答えた。この日の事は一生忘れる事が出来ない。

―東江の祈り―

私には夢とロマンがあった。秋田県仙北市田沢湖町は私の少年、青春期の夢を育んでくれた。戦前、戦後の苦難の時代、縁あって暮らした秋田の自然、人々との触れ合いは、私の人生にかけがえのない滋養を与えてくれた有り難い故郷である。

食うか食わずの時、生保内中学校時代の恩師の故田口資生先生は「自然と人々の生活を素直に見つめ、感動を描け。」と絵の指導をしてくれた。その教えが、美術の世界への開花となり、いつしか私のライフワークとなって、故郷の田沢湖畔に美術館を建てようという夢に膨れ上がった。私はその夢を方子妃に熱く語った

第二次世界大戦が勃発し、朝鮮人に対する徴用が法制化、創氏改名令が施行された1939年、日中戦争の戦時下、私は布施(現東大阪市)で生を受けた。

振り返ると民族的な恨(ハン)、そして不条理な戦争への恐れが、この当時にインプットされた事で、平和と幸福を希求する人生観と哲学が形成されたといえる。日本と朝鮮半島との歴史が在日二世の運命に大きく影響したのも必然であろう。

私の祈りは私の雅号「東江」に表れている。秋田工業高校を卒業する時、級友達と別れの寄せ書きをした。その時、河の流れの様に滔々と人生を生きるのだと「大河の如く」と記した。社会に出るにあたっての青春の決意であり、宣言であった。

父母のルーツである祖国韓国の泉からの流れは小川から川、そして大河となって流れていく。そしてその流れは江となり東海に注ぐ。人生の到着点を私は太洋への流れとし、自己の存在を一衣帯水とイメージしたのだ。

東洋の日の本に生を受けた在日韓国人二世としての宿命を身に感じた人生の出発点が秋田である。韓国と日本、二つの祖国の故郷を愛し、そして信頼し合える兄弟にならねばならない、そして韓国と日本の架け橋になろうと私は祈念した。「東江」には宇宙の摂理に従い、自然に逆らわない生き方をしようという人生観と初心が使命として刻まれている。

―新しい芸術(Art)―

河正雄コレクションはコレクター自身の、在日の生き様から日韓の歴史的な背景と境涯から生まれたものである。世界には有数の美術コレクションが存在するが、それらとは根本的に性格と質、内容が異なるのはコレクションを始め

た動機とコンセプトが違うからである。

世界には数億のデアスポーラ(民族)が、諸々の事情や問題をかかえて故郷や祖国を離れ生きている。多国籍民族の人権と望郷への想いが、普遍的な念願「祈り」と「平和」への祈念を、象徴的に芸術(Art)として表現されている。

よって河正雄のコレクションは類例がない。文は人なりという格言は芸術も人なり、とも言えるのである。河正雄コレクションは平和や愛、相互理解が実現すると河正雄が創造した新しい芸術(Art)の表現なのである。

河正雄の芸術(Art)には韓国と日本・二つの祖国と故郷があり、母校と恩師、学友達との友情で塗り込められ、青春の華で彩られた人生の途中が描かれている。艱難を潜り抜けて幸福をいただいた感謝の心で収集した作品(河正雄コレクション)を見てもらいたい。

―田沢湖祈りの美術館―

1985年、方子妃がご病気と聞き、楽善斉にお見舞いに伺った。やつれた方子妃ではあったが、私に「美術館の方はどうなっていますか」と尋ねられた。

よく御記憶なさっていると思いつつも、「まだ正夢になっていません」と答えたところ、「叶うように私が名前をつけてあげましょう」とおっしゃって下さった。

そして私に「田沢湖祈りの美術館 李方子」と揮毫して下さった。全身の力を絞って書かれた、愛情溢れる作品であった。

その時、「私の祖国は二つあります。一つは生まれ育った国、そしてもう一つは私が骨を埋める国です。私の悩みは朝鮮人に対する差別と偏見でした。息子の玖が『世界は一つです。韓国人とか日本人とかに拘らず世界の中の一人の人間と考え、全力を尽くして下さい。』と励ましてくれた。」と語られた。在日である私へのエールを込められている共感の言葉であり胸が熱くなった。

戦前、田沢湖をダムとみなし周辺の山々に導水路を作り四箇所に水力発電所を作った。富国強兵の旗の元に国策工事で行われた。その工事に携わったのが徴用で動員された我が同胞である。山深い寒冷の雪国、寒さと飢餓の中での重労働、事故や病死などで犠牲者が出た。田沢湖周辺の東源寺や田沢寺などに無縁の墓がある事を突き止めた。

そこで私は25歳の時から在日の画家達の絵を収集し始めた。その動機は犠牲者の魂を慰霊する為であり、その作品を集めた美術館を田沢湖畔に建立する計画を建てた。土地を購入し、設計を依頼し、地元田沢湖町の内諾を受けて計画を推進した。

ところが、韓日条約戦後処理問題の不備が韓日の外交問題となり、両国の国民感情が険悪となってしまった。この問題が直接の原因となり田沢湖での計画は頓挫となり、夢は砕かれてしまった。田沢湖町は財政上の事情であるというが、それも理由ではあろう。

―霊岩郡立河美術館―

2006年になって私の故郷、全羅南道霊岩郡で美術館の計画が起こった。そして群守より河正雄コレクションの寄贈要請があった。

父母は生まれし故郷霊岩を十代の時に離れ、植民地時代に大阪で私は誕生した。父母は霊岩に橋を架けた事も道を作った事も無く、故郷の為に寄与した事は何も無かった。故に私は父母の故郷で生まれる事も、生活する事も無かったのではあるが、霊岩が私の美術コレクションを迎え美術館を作るなどという事は、在日として生きた私にとっては奇跡の様な出来事である。

私は美術館設計のコンセプトを作成、設計原案を掲示した。霊岩郡は着工し、2012年春、王仁文化祭の時期に開館する運びとなった。日本文化の開祖王仁博士、儒教文化の先達、道読国師生誕の地、日本文化との交流史に於いて歴史的由緒のある霊岩郡郡西面鳩林里に「霊岩郡立河美術館」が誕生する。

韓日の歴史に翻弄されてきた在日二世河正雄の望郷の想いを象徴したともいえる方子姫の揮毫を、霊岩郡立河美術館に飾り安着させたいと念じている。方子妃の祈りと河正雄の祈りが響き合う事を念じている。

―別れの言葉―

1987年、東京でのライオンズクラブ国際協会330A地区年次大会に於いて方子妃が子息の李玖氏と臨席された。その時ご挨拶に立たれた方子妃は一回りも体が小さくなられ、力無く弱々しく見えた。

「長年皆さんには慈行会や明暉園の事では大変お世話になりました。息子の李玖の事では皆さんに大変ご心配をお掛けしました。これからは韓国で李垠殿下の意志を継いで、余生を韓国の福祉事業に身を捧げます。今日は皆さんに、感謝を述べ、親としての不明を詫びるために参りました。」

歴史の悲運の中にあった方子妃の、何とも寂しく、辛い、今生の別れの挨拶であった。その時の方子妃の心情を思うと今も涙が潤んでくる。

お目にかかったのは、これが最後となり1989年、王妃は逝去された。韓国の新聞は「自らの不幸な人生を社会活動への献身で美しい人生に変えた」と論評した。今は王妃はユネスコ世界遺産朝鮮王陵洪陵裕陵の英園に英親王と合葬され、眠られている。

―遺品寄贈―

方子妃が福祉施設を作り維持していく為に日本と韓国を往復して寄附を集めた。日本側の付き人、そしてプロデューサーとして面倒を見られた方が山口卓治氏である。

2008年、「歳も歳なのでプロダクションの会社も止めた。今身辺にあるものを片付けて身を軽くしている。方子妃の和歌や書、七宝の絵などの作品があるが見て貰えないだろうか。」と山口氏から電話があった。急ぎ訪ね作品の全てをコレクションした。

その荷を積んでいたところ「河さん、この様な遺品もあるので見てみるかい?」と言われ、押入れにしまってあった段ボール箱を取り出された。その品は湿っぽくカビ臭かった。

中には古いアルバム、ガラス写真の原版、手紙、葉書類、そして方子姫の日記、英親王の手帳などが入っていた。私は方子妃の遺品で緊張し、震えた。山口さんは「河さんの仕事に役立ててもらいたい。これらの品を託したい。」と言われた。

これらの品は方子妃が私の事務所に持参された物で、60年代後半から70年代中頃に十数回に渡って赤坂プリンスホテル旧宅でも「これは散逸させずに記録としてまとめて欲しい」といわれ預けられた物だ。自分は今まで持っていただけで何も出来なかった。方子姫には今でも申し訳なかったと思っている。」と山口氏は述べた。

「これは韓日の歴史的な資料であり、また韓日の王家と皇族の家族史でもあると思う。研究してみたい。」と言って寄贈を受けた。

さて家に持ち帰ったものの、どう扱うべきなのか迷いに迷った。御縁ある方子妃の遺品という事で責任を感じ、恐ろしくもなり眠れぬ夜が続いた。三ヶ月間、資料を繰り返し整理している内に、2010年は韓日併合100年の年であるから、この資料は韓日の李王家縁りの古宮博物館に寄贈し、国で研究保存して貰う事が一番良い事だと結論を出した。2008年末、駐日韓国大使館韓国文化院姜基洪院長に寄贈の打診をした。

遺品は韓日近現代史に抜けている部分を埋める重要な記録、資料であり歴史的価値が認められた事で寄贈する事となった。

―寄贈にあたり―

韓日併合(1910年)の前後、日本と朝鮮半島との関係は人の交流や文化面に於いて研究が手薄で近現代史の空白部分となっている。両国民が過去の歴史を正視し、未来的志向で平和友好関係を築く為にも韓日で共同研究し、歴史観の新視点を共有、省察して欲しい。

両国の現代語訳による翻訳や図録の出版、展示による公開、シンポジウムなどを開催して共同研究の成果を韓日両国民に広報、未来的志向の歴史観の共有に繋げて欲しい。特に日記については優れた日記文学として高く評価出来るものであるから出版して欲しい。報道については国内報道関係のみならず、駐韓の日本特派員合同で記者会見し公開、情報を共有して欲しいと寄贈にあたり要請した。

―日記について―

日記は李垠殿下との結婚予定だった1919年の136日分。期待と不安で新年を迎えた事、結婚予定日4日前の1月21日、李堤殿下の父君高宗が重体となり死去との報告を知り悲嘆に暮れる心情、結婚が延期になる中、殿下への愛を育み人間としての信頼を深め人生を共にする覚悟、併合で国を失い人質の様な境遇となった殿下を思いやる気持ちなど、18歳で学習院女子中等科在学中に殿下と婚約し、喜びとどん底の悲しみの気持ちの中、韓日の狭間の中で両国の懸け橋となる覚悟が綴られていた。人を愛する心は国や歴史をも越える事を再確認させてくれる日記であった。

王妃は14歳の時、自分も知らない所で英親王との結婚候補者になった。結婚が決まったが1919年英親王の父君・高宗の死去や三・一独立運動が重なり、結婚が1年延期となった。王妃はこの時、18歳で喜びとどん底の気分を味あわれたが、英親王への愛情を育み、人間としての信頼を深め人生を共にして苦難に立ち向かう覚悟を醸成した。激動の1919年に書かれた日記は遺品の中でも優れた日記文学として認められる。
 英親王は10歳の時、伊藤博文に留学と称し日本に連れて来られた。王妃は日韓の歴史に翻弄された御方との結婚を決意、日韓の狭間で生き抜く精神的な骨格を固めた核心のメッセージが記録されており、この時点で全人格が形成されていた。人を愛する事は国や歴史をも超える人生の意味と、幸せの意味を教えている。

―和歌と色紙の絵―

歴史を紐解く遺品の中で私の心を離さない一品を紹介したい。1919年4月7日の方子姫の日記の中に挿入されていた和歌の短冊、色紙の絵(スケッチ風の鉛筆画)である。

和歌についてはわらび座民族芸術研究所所長を歴任された茶谷十六先生の解説と考察の文を引用し紹介する。

〔李方子姫和歌一首〕

こゝろより なつかしかりき 君のゐます

ふしのかなたを とほくみやれは 方子

心より 懐かしかりき 君の居ます

富士の彼方を 遠く見やれば 方子

貴方様のおいでになる富士山の彼方の空を遠く眺めておりますと、心から懐かしい気持ちがこみ上げてまいります。英親王李垠殿下との婚約中の一首。

〔解説〕

1918(大正7)年12月8日、李垠殿下と梨本宮方子姫との「納采の儀」が執り行われ、婚約が成立した。挙式は翌1919(大正8)年1月25日と定められたが、1月21日に李太王(高宗)が急死された。李垠殿下は急遽帰国し、婚儀は延期された。

李太王の葬儀が行なわれる3月3日の2日前の3月1日、日本の植民地支配に反対し朝鮮の独立を求める全国一斉蜂起が行なわれた。「3・1独立運動」である。李太王の国葬の後、李堤殿下が東京へ帰られたのは3月末であった。

そして、お二人の結婚の儀が執り行われたのは、それから1年後の1920(大正9)年4月28日のことであった。

婚約中、李垠殿下は日曜日ごとに梨本宮邸を訪問され、お二人は結婚後の将来について語り合われたといわれるが、この歌が詠まれた1919(大正8)年4月7日の前後の状況を考えると、込められた想いの深さが察せられる。

【参考】

李方子『過ぎた歳月』より「この方と運命を共にしよう」

(前略)

ただならぬ母国の情勢の渦中にあって、どのようなご心境の日々をおすごしかと、ご案じ申しあげていた殿下は、三月末、東京へお帰りになりました。

さっそく母とご挨拶にうかがって、お悔やみ申し上げたものの、それ以上はことばもありません。

でも、殿下はこ帰鮮の前と少しもお変わりもないおだやかな微笑で、衝撃を受けているにちがいない私を、かえっておいたわりくださっているのでした。

そのあたたかいお心を感じたとき、ここ三ヵ月近い日々のうつうつした思いがはれて、この方とならば、激動するどのような運命にも耐えていこう…という勇気が、心に満ちてくるのをおぼえました。

殿下にも、私にも、試練の時期がすぎると、また日曜日ごとにお会いできるのを楽しみに待つ婚約者たちの生活と、幸せが、静かに、少しずつもどってきました。

ほんの一度か二度でしたが、和歌を書いて、そっとお手渡ししたことも…いつも、お馬車が遠く松林の横をめぐって坂道へ去っていくのを、

「このつぎの日曜日は、お目にかかれるかしら…」

と、胸をしめつけられるような寂しさで、お見送りしたものでした。夏のころ、富士の裾野の野営演習があって、東京から東海道を、藤沢、大磯、小田原と行軍されるのを、折から滞在中の大磯の別荘でおむかえした思い出もあります。小休止の三十分を、庭先でしばしお休みになってから、また隊と共にご出発、箱根を越えて、御殿場の営舎へと行軍をおつづけになりました。

はからざりき波うちよする磯の家に

たちより給うきみを見むとは

あすはまた箱根の山をこえまさむ

降るなむらさめ照るな夏の日

思いもかけぬお立ち寄りだっただけに、お別れしたあとも、まだときめきが胸にのこって、箱根の方をなつかしくながめやったことも、ついきのうのことのような気がします。

考えてみれば、ここまで愛情が成長し、理解しあったのちに結婚できたことは(李太王さま不慮のこ最期という禍を福と転じて)、なにぶん国際結婚などまれな時代で、しかも国家的な背景と特別な意味をもった結婚であっただけに、非常に幸運だと、つくづく思わずに入られません。

もとよりそこにたどりつくまでには、世の中のあらゆる面にうとく、感情の面でも未熟な年齢でしたから、私なりには苦しい山坂も越えたつもりですけれど。

(後略)

【考察】

方子妃が大磯の別荘に滞在中、李垠殿下が富士の裾野での野営演習に向かう藤沢・大磯・小田原という行軍の途上に立ち寄られ、その後、箱根を越えて御殿場の営舎まで行軍を続けられたという。この歌は、大磯滞在中の方子妃が、御殿場で野営中の殿下に思いを寄せて読んだものと考えられないだろうか。

〔色紙の絵〕

和歌からは英親王に恋する乙女の清らかな感情と心情が伝わって来る。色紙の絵には英親王の象像と美しい花器にチューリップを活けて描いている。

遠く離れていらっしゃる英親王をお慕いしている情感がほのぼのとして美しい。国や民族を超えた愛とロマンが、この絵には描かれていると私は評する。

―祖国は二つ―

 「私の祖国は二つあります。一つは生まれ育った国。もう一つは私が骨を埋める国です。」
 「私は朝鮮人に対する悪口を聞く事が一番辛かった。関東大震災の時は地獄を味わいました。」「お母様、世界は一つです。韓国人とか日本人という考えは捨てて、世界の中の一人の人間として全力を尽くして生きて下さいと玖が私を励ましてくれました。」と王妃は生前、私に語って下さった。デアスポーラである在日の我々が王妃の言葉の重みに共感するのは時代を共に生きた自尊心と誇りがあるからだ。

―文化交流―

韓国国立中央博物館に日本の近代美術品約460余点が朝鮮戦争の戦火を免れて秘蔵されていて事が話題となった。日本が朝鮮半島を支配していた時代、旧朝鮮王朝「李王家」が蒐集、或いは寄贈を受けた横山大観、川合玉堂、前田青邨、土田麦偲、鏑木清方等の日本画の大家を含むコレクションであった。

98年度から日本の文化開放がなされ、その政策の一つとして広く日本文化を韓国国民に触れてもらう目的でW杯成功を祈念した国民交流年の2002年秋、韓国国立中央博物館で半世紀を超えて日本近代美術品を公開した。

それまでタブーであった日本近代美術に触れた韓国国民は日本に関心と新たな認識をしたと思う。過去は過去、芸術は芸術として再評価し合う両国の文化交流が相互理解を深めた。2003年春には東京、京都と日本にも巡回され私は東京芸大の美術館でその作品展を見た。これらの逸品を見て改めて李方子王妃との出会いを懐かしみ、感謝の念で一杯であった。

そして田沢湖祈りの美術館の夢は叶わなかったが、河正雄コレクションが光州市立美術館を含む韓国内の七美術館と日本の美術館(秋田県仙北市立角館町平福記念美術館)で、その夢を叶えている事をご報告し追憶した。方子妃は私の夢が韓国と日本の二つの祖国で花開いたことを喜んでくれているのではないかと思う。

私は今、子々孫々と続く在日の生活を考える。基本的人権を認め、差別と偏見のない社会。決して欺かず争わず、誠意を持って交際できる社会。20世紀韓日の不幸な歴史の狭間で歴史の流れるままに生きた李方子元王妃を追慕する中、そんな社会を具現させる為の努力を行っていきたい。それが私が在日として生きていく意味であると思っている。

2012年、私の父母の故郷である王仁博士生誕の地、全羅南道霊岩に河正雄コレクション「霊岩郡立河美術館」が建立された。王妃が揮毫された「田沢湖祈りの美術館」の看板を玄関に並べ掛け、オープンする。 英親王・李方子王妃の人生を追憶、省察、内省し過去の歴史認識を共有する寄贈展となる様に祈念する。

望郷の祈り

全和凰作「弥勤菩薩」1976作

秋田県田沢湖畔に美術館を建てようとの夢を抱いたのは、もうかれこれ60年前の事になる。私の二十代の時のことである。夢多い年代であった。

50年前の事である。新宿の伊勢丹に買い物に出掛け、何気なく画廊を覗いた。そこには全和凰の「弥勤菩薩」の絵が掛かっていた。私はその絵に出会った時、金縛りにあった様にその場で買い求めた。そして京都の全和凰先生のアトリエを訪ねた。

全画伯の九条山のアトリエは、山科街道に沿って、険しい傾斜地に葺え建っていた。その外観の偉容は風格があって、壁面には蔦が絡まり、西洋の古い館のように見えた。

玄関に吊された、木板の挨拶文が日を引きつけた。

「『宿とられ、今宵いづこぞこおろぎの良き宿さがせ畑の草取り』。二畳の間借り生活をしていた頃、家内の手づくりの菜園の草を取りながら作ったこの歌は、そのまま我が人生行路といえましょう。私が作ったささやかな美術館は、その当時のつつましやかな気持で、皆様とともに魂のしばしの憩いの場となればと念じ、十年の歳月を日曜大工で建てたものです」。しみじみとした先生の人柄が偲ばれる文である。

私は、この美術館を、ほんとうに十年の歳月を費して、日曜大工で一人で建てたとは、にわかに信じる事が出来なかった。もしほんとうなら驚異であり、何故に血の惨むような苦労までして建てねばならなかったのかと、不思議に思いながら館内に入った。

館内は薄暗く、肌に湿気を感じて、力ビくさい異様なにおいが鼻につき、外観から受けるイメージとは異なって陰気なムードで、意外であった。歪んだ不調和な建具が雑然とならべられ、風雨が天井や壁を通して流れこみ、床の織松まで雨水がしみて薄汚れ、痛々しい限りである。

昨日来の大雨との格闘が目にみえて、私が想像した近代的な美術館とは似ても似つかない、貧しく切ないほどに寂しさと哀しみが漂う雰囲気で、このまま、放置しておいてよいのだろうかと、複雑な思いに駆られた。

私は先生の案内で、館内に飾られた作品の一点一点を鑑賞している内に、その絵の世界の深さ故に、外観や館内のことをすっかり忘れ去ってしまった。なつかしい「我が生家」「民家」等の作品には、切ないまでの望郷の情念が惨みでており「避難民」「再会」「力ンナニの埋葬」などの作品には、憎んでも憎み切れない戦争と圧政への憤りが、抗議となって叩きつけるように描かれていた。

また、社会の平和と心の平安を願って、その祈りの心境を描いた「弥靭菩薩」「百済観音」「阿修羅」等の作品には、まるで写経の如く秘めたる庶民の心が写されているようで、敬慶な心境になり、自然に合掌する私であった。「牡丹」や「太陽と花」等の作品には、豊かで温かく、光り輝く明日への希望が満ち満ちて、華麗な花々から救いを求める祈りの声が聞えて来るようであった。

それらすべての作品は、全先生の生きた証であり、心身をすりへらしてたどってきた長い苦悩の道程の中の、祈りと叫びが生々しく描き出され、みるものの共感となって胸を刺す。

雑草の如く退しく生きた在日同胞である老芸術家の、平和を希求してやまなかった良心にふれて、いつしか私は、深い共感と尊敬と愛情を感じ、心まで洗われてゆくのであった。

血と汗と涙の凝縮されているこの美術館とその作品群から、私が強い啓示を受けたのはいうまでもない。その芸術の世界は、まさしく祖国と日本と在日同胞との深いかかわりあいの貴重な記録であり、歴史であり、文化遺産ではないかと思うようになった。

その「祈り」に満ちた作品のすべてから、偉大な芸術の意義をみいだしたとき、私は深い感動と感激を味わい、その芸術に誇りと尊厳と栄光を抱いた。先生や我が父母、同胞が求めてやまなかった社会は、一体何であったろうか。何を願い祈った一生であったろうか。人々は誤りに満ちた過去や現在の悲劇や、無意味な争いが何をもたらすかを、その芸術から見出し、共感と共鳴を受けると確信した。

私はその確信ゆえに、全和凰「その祈りの芸術」を誇らしく日の当たる場所に出して広く世に紹介し、公開し、保存せねばならぬという義務と使命を痛切に感じ、それを守り育ててゆかねばならぬと、心に誓った。

画集を出版して回顧展を開き、保存の為の美術館を設立しようと、その時私は決心した。私のこの決意が夢や空想でなく、実現された暁には、平和と、人類愛に満ちた、真の友情と親善が豊かに共存出来る場となるであろうと信じたのだ。

弥勤菩薩は、釈迦入滅後五十六億七千万年の後に兜率天から下り、この世に現れて、釈迦の説法を受けなかった全ての人々を救うといわれる。この「弥勤菩薩」の絵との出会いが縁となって、全和凰を知るきっかけとなり、コレクションを始める御縁となった。

その時から私は、全和凰芸術とともに生き、我が人生の全てを賭けたと言っても過言ではない。全和凰の画業を永遠に残さねばならぬと、自然に思うようになったことは、これすなわち弥勤菩薩の啓示である。また、私は画家になりたかったが、意志に反して事業の道を歩む事になった。

夢見た画家にはなれなかったものの、事業の道を歩みつつ好きな絵を集め、いつかは美術館を建ててみたいという野望を持つようになった。私はいつしか、青春時代の故郷である思い出の地、田沢湖畔に美術館を建設する夢を膨らませ、育んでいったのである。一大ロマンである。

1982年には、「全和凰画業50年展」を企画し、東京・京都・ソウル・大邸・光州と巡回した。その時「全和凰画集」も、7年の歳月をかけて発刊した。この展覧会の成功から、私は「田沢湖祈りの美術館」の設計を伊丹潤先生に依頼した。最初は、全和凰の画業を記念するプライベートな美術館を考えたが、韓日の歴史を記憶し証言する意味からも、パブリックなものでなければならないと考えが変わっていったのは、李禹煥先生や周囲の識者からのアドバイスによる。

田沢湖への観光客は、年間200万人を越え、最近は海外からも、この地の風光とひなびた魅力に惹かれて訪れる客が多い。私の念願に共感された伊丹先生は私と共に美術館建設の事を、観光立町をとなえる町当局と4年に渡り交渉し、設計を重ね進めた。

だが好意と歓迎の意志表示をしながら、日本各地の地方美術館を視察した結果、学芸員を置き維持管理運営する財政がないという理由で、町当局から断りが入り計画は宙に浮いてしまったのである。

伊丹潤先生と田沢湖サンライズホテルにて

数年に渡る田沢湖での労苦が水の泡となった。その時の伊丹先生の無念は耐えがたいものであり生涯、悔やまれると次の様に語られた。

「今更、何を言っても遅過ぎますが、グラフィック・コンピューターを敢えて使用せず(どうしても、いんちきの映像に仕上がる)、手の痕跡を大切にしたドローイングで仕上げ愛情一点張りをさせていただきました。

敢えて前衛的とか現代造形を避け、その地域のコンテスト(文脈)と伝統的な思想と美術館という機能を第一に考え田沢湖のプロジェクトの原形を少しでも生かしたくデザインを押さえた味深い、飽きの来ない建築を進めて参りました。

今となって言える事は、これで田沢湖祈りの美術館の事が心静かに吹っ切れました。その点に関しては挑戦と望郷と祈りであったと感謝しています。」

その後に私のコレクションは光州市立美術館に寄贈する事となり、韓国の国公立美術館にも広がり収蔵されていった。

今、私の手元には、その時設計した図面と写真一枚だけが思い出の品として残っている。夢を語り描いた、その品には青春が記録され「弥靭菩薩」の啓示が生きている。