李方子妃揮毫・田沢湖祈りの美術館

経緯

1980年 田沢湖畔白浜に美術館建立用地3000坪購入する。
1985年9月5日 李方子妃により「田沢湖祈りの美術館」の命名揮毫を賜る。
人間国宝呉玉鎮篆刻「田沢湖祈りの美術館」懸板制作する。
1987年 世界的著名な設計家伊丹潤に「田沢湖祈りの美術館」の設計を依頼する。
田沢湖町議会に「田沢湖祈りの美術館」構想を説明する。
敷地と建物、そして美術品の寄贈を表明。以降当局と数回折衝交渉し、美術館運営の市場調査する。
1992年 田沢湖町より美術館計画破棄の通告受ける。
1993年 畏友の直木賞作家・西木正明氏が秋田県に是非残して置きたいと秋田市及び秋田県に打診交渉したが、1995年実現性が無いとの結論。
1993年7月21日 韓国光州広域市の要請で河正雄コレクションを光州市立美術館に寄贈する。
1995年9月 わらび座が受け入れを表明するが1998年3月31日に破棄の通告受ける。

田沢湖祈りの美術館計画

(1991年 第2次田沢湖町総合発展計画より)

「田沢湖祈りの美術館」1989年設計:伊丹潤

(1998年 美術館建設計画中止の通知)

望郷の祈り

全和凰作「弥勤菩薩」1976作

秋田県田沢湖畔に美術館を建てようとの夢を抱いたのは、もうかれこれ60年前の事になる。私の二十代の時のことである。夢多い年代であった。

50年前の事である。新宿の伊勢丹に買い物に出掛け、何気なく画廊を覗いた。そこには全和凰の「弥勤菩薩」の絵が掛かっていた。私はその絵に出会った時、金縛りにあった様にその場で買い求めた。そして京都の全和凰先生のアトリエを訪ねた。

全画伯の九条山のアトリエは、山科街道に沿って、険しい傾斜地に葺え建っていた。その外観の偉容は風格があって、壁面には蔦が絡まり、西洋の古い館のように見えた。

玄関に吊された、木板の挨拶文が日を引きつけた。

「『宿とられ、今宵いづこぞこおろぎの良き宿さがせ畑の草取り』。二畳の間借り生活をしていた頃、家内の手づくりの菜園の草を取りながら作ったこの歌は、そのまま我が人生行路といえましょう。私が作ったささやかな美術館は、その当時のつつましやかな気持で、皆様とともに魂のしばしの憩いの場となればと念じ、十年の歳月を日曜大工で建てたものです」。しみじみとした先生の人柄が偲ばれる文である。

私は、この美術館を、ほんとうに十年の歳月を費して、日曜大工で一人で建てたとは、にわかに信じる事が出来なかった。もしほんとうなら驚異であり、何故に血の惨むような苦労までして建てねばならなかったのかと、不思議に思いながら館内に入った。

館内は薄暗く、肌に湿気を感じて、力ビくさい異様なにおいが鼻につき、外観から受けるイメージとは異なって陰気なムードで、意外であった。歪んだ不調和な建具が雑然とならべられ、風雨が天井や壁を通して流れこみ、床の織松まで雨水がしみて薄汚れ、痛々しい限りである。

昨日来の大雨との格闘が目にみえて、私が想像した近代的な美術館とは似ても似つかない、貧しく切ないほどに寂しさと哀しみが漂う雰囲気で、このまま、放置しておいてよいのだろうかと、複雑な思いに駆られた。

私は先生の案内で、館内に飾られた作品の一点一点を鑑賞している内に、その絵の世界の深さ故に、外観や館内のことをすっかり忘れ去ってしまった。なつかしい「我が生家」「民家」等の作品には、切ないまでの望郷の情念が惨みでており「避難民」「再会」「力ンナニの埋葬」などの作品には、憎んでも憎み切れない戦争と圧政への憤りが、抗議となって叩きつけるように描かれていた。

また、社会の平和と心の平安を願って、その祈りの心境を描いた「弥靭菩薩」「百済観音」「阿修羅」等の作品には、まるで写経の如く秘めたる庶民の心が写されているようで、敬慶な心境になり、自然に合掌する私であった。「牡丹」や「太陽と花」等の作品には、豊かで温かく、光り輝く明日への希望が満ち満ちて、華麗な花々から救いを求める祈りの声が聞えて来るようであった。

それらすべての作品は、全先生の生きた証であり、心身をすりへらしてたどってきた長い苦悩の道程の中の、祈りと叫びが生々しく描き出され、みるものの共感となって胸を刺す。

雑草の如く退しく生きた在日同胞である老芸術家の、平和を希求してやまなかった良心にふれて、いつしか私は、深い共感と尊敬と愛情を感じ、心まで洗われてゆくのであった。

血と汗と涙の凝縮されているこの美術館とその作品群から、私が強い啓示を受けたのはいうまでもない。その芸術の世界は、まさしく祖国と日本と在日同胞との深いかかわりあいの貴重な記録であり、歴史であり、文化遺産ではないかと思うようになった。

その「祈り」に満ちた作品のすべてから、偉大な芸術の意義をみいだしたとき、私は深い感動と感激を味わい、その芸術に誇りと尊厳と栄光を抱いた。先生や我が父母、同胞が求めてやまなかった社会は、一体何であったろうか。何を願い祈った一生であったろうか。人々は誤りに満ちた過去や現在の悲劇や、無意味な争いが何をもたらすかを、その芸術から見出し、共感と共鳴を受けると確信した。

私はその確信ゆえに、全和凰「その祈りの芸術」を誇らしく日の当たる場所に出して広く世に紹介し、公開し、保存せねばならぬという義務と使命を痛切に感じ、それを守り育ててゆかねばならぬと、心に誓った。

画集を出版して回顧展を開き、保存の為の美術館を設立しようと、その時私は決心した。私のこの決意が夢や空想でなく、実現された暁には、平和と、人類愛に満ちた、真の友情と親善が豊かに共存出来る場となるであろうと信じたのだ。

弥勤菩薩は、釈迦入滅後五十六億七千万年の後に兜率天から下り、この世に現れて、釈迦の説法を受けなかった全ての人々を救うといわれる。この「弥勤菩薩」の絵との出会いが縁となって、全和凰を知るきっかけとなり、コレクションを始める御縁となった。

その時から私は、全和凰芸術とともに生き、我が人生の全てを賭けたと言っても過言ではない。全和凰の画業を永遠に残さねばならぬと、自然に思うようになったことは、これすなわち弥勤菩薩の啓示である。また、私は画家になりたかったが、意志に反して事業の道を歩む事になった。

夢見た画家にはなれなかったものの、事業の道を歩みつつ好きな絵を集め、いつかは美術館を建ててみたいという野望を持つようになった。私はいつしか、青春時代の故郷である思い出の地、田沢湖畔に美術館を建設する夢を膨らませ、育んでいったのである。一大ロマンである。

1982年には、「全和凰画業50年展」を企画し、東京・京都・ソウル・大邸・光州と巡回した。その時「全和凰画集」も、7年の歳月をかけて発刊した。この展覧会の成功から、私は「田沢湖祈りの美術館」の設計を伊丹潤先生に依頼した。最初は、全和凰の画業を記念するプライベートな美術館を考えたが、韓日の歴史を記憶し証言する意味からも、パブリックなものでなければならないと考えが変わっていったのは、李禹煥先生や周囲の識者からのアドバイスによる。

田沢湖への観光客は、年間200万人を越え、最近は海外からも、この地の風光とひなびた魅力に惹かれて訪れる客が多い。私の念願に共感された伊丹先生は私と共に美術館建設の事を、観光立町をとなえる町当局と4年に渡り交渉し、設計を重ね進めた。

だが好意と歓迎の意志表示をしながら、日本各地の地方美術館を視察した結果、学芸員を置き維持管理運営する財政がないという理由で、町当局から断りが入り計画は宙に浮いてしまったのである。

伊丹潤先生と田沢湖サンライズホテルにて

数年に渡る田沢湖での労苦が水の泡となった。その時の伊丹先生の無念は耐えがたいものであり生涯、悔やまれると次の様に語られた。

「今更、何を言っても遅過ぎますが、グラフィック・コンピューターを敢えて使用せず(どうしても、いんちきの映像に仕上がる)、手の痕跡を大切にしたドローイングで仕上げ愛情一点張りをさせていただきました。

敢えて前衛的とか現代造形を避け、その地域のコンテスト(文脈)と伝統的な思想と美術館という機能を第一に考え田沢湖のプロジェクトの原形を少しでも生かしたくデザインを押さえた味深い、飽きの来ない建築を進めて参りました。

今となって言える事は、これで田沢湖祈りの美術館の事が心静かに吹っ切れました。その点に関しては挑戦と望郷と祈りであったと感謝しています。」

その後に私のコレクションは光州市立美術館に寄贈する事となり、韓国の国公立美術館にも広がり収蔵されていった。

今、私の手元には、その時設計した図面と写真一枚だけが思い出の品として残っている。夢を語り描いた、その品には青春が記録され「弥靭菩薩」の啓示が生きている。

李方子妃殿下関連:宮内庁楽部雅楽と大韓民国国立国楽院国楽の交流演奏会
         李方子妃殿下・国立古宮博物館